今はただこの楽園の朝を見せて エレベーターを降り、甲板の床を靴底が叩けば一斉に視界を翼が埋め尽くし飛び上がっていった。騒々しい羽音の中にくすくすと悪戯好きな笑い声が潜む。羽ばたきが落ち着きかつん、カン、と甲高い音を立てて爪が柵やアンテナなど金属にしがみつくのがしばらく続いた後、ようやく目当ての人の姿――ドクターの姿が照らし出される。
「あけましておめでとう、リー」
「アケマシテ……あぁ、極東の新年の挨拶ですか。おめでとうございます」
ドクターとしての白衣も裾の長い上着も、フェイスシールドすら取り払った姿。ドクターではないにんげんの輪郭。
ドクターの背後の柵、頭上のアンテナ。あらゆる場所から向けられる視線にやや居心地は悪いものの、彼らが邪険に扱われることをドクターは酷く嫌うため、リーは誰に向けたかも曖昧な軽い会釈をしてドクターの隣に並ぼうと歩み寄る。しかしその歩みは先ほどまでとは異なる羽ばたきの音に止められた。
「そこ。危ないからもう少し待って」
規則正しいプロペラと僅かなモーターの駆動音。一度だけ翼持つ群衆の瞳が音源に集中するが、すぐに興味を失いその首ごと逸らされる。夜明けの冷たい空気を風にしてリーの頬を撫でたそれがゆっくりと着陸し、羽と肺の音を止める。
「そういえば、リーにはまだ紹介していなかったね」
ドクターが着陸した一機のドローンを足元のトランクケースに仕舞いながら笑う。空白のその隣にはもう一機のドローンが片割れを待つように眠っている。たった今仕舞われた方のドローンの機体には確かに銃弾が掠めたような線が走っており、大して眠ったままのドローンは美しい漆黒の機体だった。役目を終えたドローンが慣れた手つきでトランクケースの奥に閉じ込められ、外からでしか解けない鍵をかけられ暗闇に隠される。ドクターが端末を何度かタップし、見て、とリーを手招きした。ようやく招かれた隣に立ち小さな画面を覗きこめば、大地を赤く照らし荒野にそびえる源石を染める夜明けの景色が映し出されていた。
「年明けの朝日は特別だと聞いたから、初めてこの子たちをプライベートに使って撮ってみたんだ」
「ちーとブレてませんか?」
「仕方ないだろう。動画と静止画じゃ勝手が違うんだ、うわっ!」
小言を言い合っているうちに機嫌を損ねたのか気が変わったのか、羽獣たちが一斉にバサバサと音を立てて飛び上がり、体を竦めた二人に少しばかりの距離を生み出す。上空へ飛び上がり、旋回し、一匹の巨大がいきもののように群れをなして滑空する姿の影を、朝日が甲板に映し出した。無数の羽ばたきの音、翼の影が甲板に溢れ、数歩先のドクターの姿を暗闇の中に誘う。木漏れ日のように時折照らす粒のような光はしかしすぐさま黒に呑まれる。使い古された言葉たちのどれよりも現実的な光景。桜の花弁に攫われるよりも、夏の陽炎にかき消えてしまうよりも、秋に染まった落葉に埋もれてしまうよりも、冬の雪景色に翳んで溶けてしまうよりも。ずっと在り来たりな日常の中のなんでもない事象がドクターを世界から最も遠い場所に隠してしまうような気がして、リーは伸ばした手でドクターの腕を掴んで手繰り寄せる。胸に飛び込む形で落ち着いた体温はぬるく、ほんの少しだけ早まった鼓動がリーの表皮を伝った。
鳥たちが昇った朝日に向けて飛んでいき、鳴りやんだ羽ばたきが残した静寂の中でドクターがようやく顔を上げた。
「どうしかした?」
「いいえ、なーんも」
彼らの残した羽が舞うのを見下ろして、端末に映し出していた景色をもう一度眺め、ドクターはあーあと残念そうな声で伸びをする。やや欠伸混じりの声音はドクターが徹夜明けであることをリーに知らせた。
「今からでも少しくらいは寝れるでしょう?さっさと部屋に戻りますよ」
されるがままにひょいと抱き上げられてしまったドクターの手がこら、とリーの背中を小突く。折角の新しい年の始まりの朝日だぞと叱るドクターの声がリーの耳元で鈴のように鳴る。もう見飽きるほど眺めてきた朝日とそれが照らしだす大地を尊ぶドクターの温もりを抱えて、赤く染まっていく世界に背を向けた。
「もうちょっと。このまま」
続けて、甲板に吹く風で消え入りそうなほど小さく囁かれた言葉に、リーは仕方がないですねえとため息をついてドクターを降ろすついでに風邪をひかれたら困るとその小さな体を上着の中に仕舞いこんでしまうことにした。
「リー」
「はい?」
「今年もよろしくね。具体的には仕事をサボらずに」
「はは、よろしくお願いします。お手柔らかにね」