Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    sbjk_d1sk

    @sbjk_d1sk

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 25

    sbjk_d1sk

    ☆quiet follow

    星の光に君の声を探すサーバー:テラ
    #0
    ロドス・ニューラルコネクタに接続中
    ……20%
    ……50%
    サーバーとの同期に失敗しました
    エラーコード:××××××
    ……65%
    ……77%
    サーバーとの接続が不安定です。しばらくしてからお試しください

    サーバー:テラ
    #O
    ロドス・ニューラルコネクタに接続中
    ……30%
    ……70%
    ……100%
    おかえりなさい、ドクター






     自身の手足、指先と言っても過言ではなくなった熱持つ機械。小さな端末に映る叡智。知識と記憶の倉庫。ロドス本艦にあるPRTSを介し、この小さな端末からロドスの中枢にアクセスするという行為は幾度となく繰り返されてきた。暗闇から引き上げられる感覚、眩しくなる視界、騒々しい日常の生活音。顔を上げた先では立ち並ぶビルの額縁の中で遠く高い青空が澄み渡っている。深く息を吸い、排気ガスに少しだけ咽せた。ようやく自分がフェイスシールドをしていないことに気づき、思わず頬に指先を這わせる。はて、いつ取ったのかどこに置いたのか、ドクターは靄がかかったように曖昧な直前の記憶を辿ろうとしたが、すぐ横の大通りを車が激しく行き来する音と威圧感に思考を中断しそっとその身を歩道の内へと滑り込ませた。
     立ち並ぶ高いビル、夜になれば星さえ隠す眩いネオン、眠らない街、喧騒と繁栄の都市。龍門。ドクターは辺りを軽く見渡した後、見慣れながらも目新しい建設途中のビルなどから街の名を引き摺り出した。何故自分は龍門に来ていたのか。龍門に駐在している事務所に用があったのだろうか。否。ドクターには護衛の姿が見当たらない。自惚れではないが、自身に護衛無しで公務に当たることはほとんどない。ならば現在は私用で外出しているということだ。まだ耄碌するような歳では、そもそも記憶喪失という稀な現象を経験しているが、などと腕を組んでうんうん唸った挙句、やることも思い出せずに折角ならば恋人の元へ顔でも出そうという結論に至る。存外、外部からのショックを与えてやればこの脳は些細なことならば思い出すかもしれない。目的地を定めいざ足を進める。
     が、予報到着時間十分と見積もっていたはずが目的地である探偵事務所に辿り着いたのはおよそ三十分後だった。
    「こんなに建物変わってたっけ…!?」
     ドクターは未だ繁栄が続く大都市の恐ろしさを知った。競争の果てに淘汰され、需要があれば首の皮一枚、なければ記憶のゴミ箱へ。目まぐるしく変わる都市の風景をドクターはまざまざと感じたのだ。龍門出身のオペレーターが「気になると思った店はそう思った時に行け」と言っていたのは、なるほどそういうわけだ。次にその店の前に通りかかったとしても、その店舗があるとは限らないほどに龍門の商売とは戦いなのだろう。
     蛇行気味に疲労でふらつく足を叱責しながら探偵事務所の扉の前に立ち、軽く砂埃を払うなど身だしなみを整え、慣れた手つきで軽快なノックを鳴らす。扉の向こうから足音。蝶番が鈍く音を鳴らした。
     見上げる背丈と見慣れた夜のような色の衣服。その姿を目で確認して、ようやくドクターは龍門へ訪れた理由を思い出す。忘れるなんて馬鹿な話だが、自分はこの男に会いにきたんじゃないか!霧がかった白い脳内がサッと晴れ、清々しくドクターは目の前の龍の男、リーに笑いかける。
    「やぁ、リー。来るのが遅れてしまった。それにしても急に街の風景が変わったね?道に迷いそうだったんだけど……んぶ!」
     肺いっぱいにリーの好む煙草の香りが落ちてくる。受け身なんてまともに取れないまま、されるがままにドクターはリーの腕の中に絡め取られ抱きしめられた。リーにしては珍しく、加減なしにぎゅうぎゅうと腕の中に閉じ込められ強い煙草の匂いに包み込まれる。
    「ちょ、っとリー!苦しい!苦しいって……さては煙草吸う数増やしたな!?臭いよ!」
     押しても引いてもぴったりとドクターを抱きしめて離さないリーの顔は当然窺えない。しかしその様子は迷い子が親を探すような、そんな頼りなさと心細さを孕んでいるように見えた。リーがそうなるのは、とても珍しい。何かあったのか、とドクターは虚しい抵抗を止めてみる。
     なんとか少々緩んだ腕の中で身動いし、ふぅと一息つきながら顔を上げる。やや呼吸困難な状況下だったため赤くなっているだろう顔をリーの目に焼き付けてやろうときんいろの瞳を探すと、ポタリと頬にあたたかな雨が溢れてきた。
     月が涙を溢したら、こんな風に見えるのだろうか。ドクターはふとそんなことが頭に浮かんだ。
    「り、」
    「ドクター」
     依存性の高い紫煙を焚きしめた黒衣に包まれて、黄金の蜜を甘く煮詰めた瞳に見つめられ、連れをなくした獣のような声でなく龍の顔を、ドクターは初めて見た。その声色は以前訪れた辺境の地で聞いてしまった、つがいを亡くしたリーベリのなき声によく似ている。二度と叶わない比翼、唯一と魂が遠く離れきってしまった声の色だった。
    「いい歳して迷子だなんて、やめてください。ずうっと待っていたんですよ」
     漠然とした意識と目的のままに訪れる前、果たして自分は彼に何と言ったか、もしくは何をしたのか。ドクターは叡智の箱である頭の中身を思いつく限りひっくり返してリーが悲しむ原因を探そうとした。しかしそれすらも、リーにとっては小さく狭い背中を何度も何度も撫でられる心地よさに思考がままならず、違和感がゆっくりと溶けていく。
    「ようやく、かえってきた」
     自身を抱えて全く離す様子のないリーは、そのままドクターをひょいと軽々抱き上げ、リビングのソファに腰かけてしまった。ちらりとドクターが横目で窺った先にはトランクケースが置かれている。
    「……もしかして、今から出かけるところだった?」
    「いいえ。あれはもういいんです」
     膝の上に大人しく乗っかっているしかないドクターは、しかし恥ずかしさとは異なる気まずさに居心地は大変悪い。肩に乗る顎、絡みつく腕と巻き付く尾に苦戦しつつ何度か姿勢を正すように身じろいし、とうとう耐えきれずにリーの体を軽く叩いてみる。溶け切らなかった違和感を失わないよう理性を掴みながら、ドクターは試すようにリーに強請った。
    「リー、コーヒーが飲みたい」
     僅かにドクターを抱く腕が強張り、金の瞳が陰る。二度ほど背中を大きな手が往復し、壊れ物を扱うように酷く優しくドクターをソファに下ろした。柔らかな座り心地に詰めていた息が自然と綻び、深いため息となる。名残惜しそうに髪を撫で、リーがゆっくりとキッチンへ向かっていく背中を見届けた後、ドクターはポケットから沈黙を保つPRTS端末を取り出した。ものまねもお世辞も語るPRTSならば、ドクターが求める答えを知っているはずだ。しかしドクターの指紋認証で解除される中枢へのアクセス権限は、何故かロックされてしまっていた。電源のボタンを押してみたり、意味などないが端末を振ってみたり。一度落としてやろうかと振りかぶったところで、ポンと軽快な、聞き捨てならない音が響く。
    [認証システムの起動に失敗しました エラーコード:0]
     真っ黒な液晶に、白く短い言葉が綴られた。
     振り出しに戻ってしまい項垂れる。
     リーがあれほど取り乱すような迷子に自分はなっていただろうか。そもそも自分の思考がどうしてこうもまとまらない。違和感が拭えない。自分はここに来る前、なにをしていたか。なにも思い出せないし、なにも思いつかない。ただ漠然とし混乱する頭の中にひとつだけ、はっきりと居座る言葉がある。
    「……ここじゃない」
     口に出してしまえば、それは更に大きく膨らんでいき、より一層思考を奪おうと理性を支配していく。強く頭を横に振りその支配を免れようとしていると、目の前のローテーブルにマグカップが置かれた。続けてミルクピッチャーとシュガーポット。
    「どうかしましたか?」
     顔を上げれば心配そうに眉尻を下げるリーがおり、耳には尾鰭が地を這う音が絶え間なく聞こえる。ざりざりと床を擦るその挙動は、不安や焦燥に駆られている時の癖だ。
    「なんでもない。ありがとう」
     差し出されたコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり落とし、よく溶かし込もうとマグカップにあらかじめ挿し込まれていたスプーンに指をかけたところで、ドクターの脳に違和感がちくりとした痛みとなって走る。それを悟られないよう努めて普通に、左に傾いたスプーンを指先で摘み、くるくるとミルクの渦を眺めた。
    「ところで、君はどうしてあんなに取り乱したんだ?まぁ多少は道に迷ってしまったことは認めるけど」
     マグカップを反転されて掴み、口に運ぶ。十分なカフェインと糖分を補給しふわふわと浮足立っているような脳を叩き起こす。
    「その多少でどれほど待ち合わせに遅刻したとお思いで?」
    「え?……二十分くらい?」
     壁にかけられた時計を見やり、なんとなくで答えれば聞いたことのない深く大きなため息がリーの口から零れた。ついには頭まで抱えられてしまい、そんなにも酷い遅刻をしてしまったのかと実感した。こつ、こつ、と規則正しい音が部屋に響く。リーの指先がテーブルを叩く音だった。酷くご立腹らしい。
    「開発が進みましたから、ちーと街の景色も変わってはいますがねぇ。一本でも道を間違えればヤクザとマフィアと闇取引が蔓延ってんですよ、龍門は」
    「仰る通りで」
    「不安を少しでも感じた時にすぐ連絡寄越してくださいって前も言いましたよね?」
    「そうだね」
    「ですが結局、迷子になりかけたじゃないですか」
    「返す言葉もない……」
     流石に申し訳なくなりリーへと頭を下げたドクターの頭が撫でられる。慈しみに溢れたそれに子ども扱いするな、とはなかなか言えない。だから代わりにそっぽを向いてやって、ドクターはふんといじけた子どものするように鼻息をわざとらしく鳴らして意地を張った。
    「でも街並みが変わっていることはわかったんだ!次は――」
     部屋中の空気を揺らすほどの鋭く大きい音に、ドクターが肩を揺らし口を噤んだ。目の前には、ローテーブルに両手を置いて腰を浮かせたリーの姿。手袋越しだというのに恐怖を煽る音を鳴らしたリーの、きんいろの瞳が、髪と帽子に隠れながらもちらちらと輝くのをドクターは見た。
     薄く開いた口からぞろりと牙が覗く。
    「次なんて必要ない」
     腑の底をくまなく這うような、低くおどろおどろしい声が満ちる。
    「リー、何を……何を言っているんだ?」
    「もう苦しむことはない。ここにいればいい。何も見なくていい」
     冷めきったマグカップ、静寂の満ちた部屋、住人のいない水槽、遠くなる街の喧騒。夕日の赤色が窓から眩しく部屋を染め上げていく。
    「おれがあなたを何からも守ります。だから」
     真っ赤な光に満たされた世界で、銀杏色が眼前に迫る。求める手でも、誘う手でもない。奪い取り、攫うものの手の形をしている。ソレに捕まってはいけないと本能が警笛を脳裏で鳴らしている。強大な脅威を前にした時のような恐怖と焦燥と、しかしぴったりとピースがそろったパズルの全貌を目にした時のような確信がドクターの腕を持ち上げさせた。
    「ここにいる、と言ってください」
     違和感がはっきりと形を得る。違う、という答えがドクターの手を振るった。
     バチンと乾いた音を鳴らし、銀杏色の手袋が遠ざかった。
    「……君は誰だ?」
     リーがドクターの瞳をとらえる。きんいろが嫌に輝いて、ドクターの一挙一動を逃さないように凝視してくる。話させては駄目だ、目の前の龍の男がこの盤面を掌握する前に何もかもを終わらせなければならない。きっとおどけて軽口を叩こうとする口を、言葉で塞いでしまわなければならない。
    「冗談はよしてくださいよ、ドクター」
     ほら、やっぱり。思った通りに進んでしまい、彼の言動を先読みしてしまえるほど彼を知り尽くしたドクターは戦場に輝く剣の一閃より早く、鋭く。ドクターは言葉という刃をリーの心臓に突き刺した。
    「私のよく知るリーは、私から人間としての尊厳を奪うようなことはしない。私の思考も、歩みも、見るものも。私のものだ。君が決めるものじゃない」
     それに、とドクターは続ける。右手に持ったままだったマグカップをテーブルに静かに置いたつもりでも、ことりと底が音を鳴らした。
    「私は右利きだ」
     たったそれだけ。だがそれで十分だ。小さなナイフは確かにリーの心臓に届いたらしく、美しい瞳が動揺に酷く翳り、はくりとその口が戦慄いた。
    「コーヒーを出してくれた時、君はマグカップの置き方もスプーンの挿し方も、左利きに取りやすい向きで差し出した」
     習慣とは恐ろしいもので、同じ条件下で繰り返される行動が機械のように自動化されていく。学生の通学路、店員のレジ打ち、料理人の大匙小匙。ルーティーン。そして、心を許した相手に差し出すドリンクの渡し方。リーにとってのドクターがどのような人物だったかを明白とした。彼にとってのドクターを導き出す。
    「いや、君は確かにリーなんだろうね。違うのは私かな?龍門の街の中で目が覚めたような感覚なんだ。ずっと朧げで、曖昧で、あるいは今この瞬間が夢なのかもしれない」
    「あなたはドクターで、ここに存在している。夢なんかじゃない、幻覚でもない」
    「そうだ。私はドクターだ。でも私は、君の知るドクターではない」
     腰を上げ、リーの目の前に対峙する。月光の瞳に星明りの視線を向け、あくまで対等な存在として龍の願望とエゴイズムの前に立ちはだかる。
    「君は、つがいを別の人物にすり替えるような不義を働くのか?」
     いつの間にか太陽は地平線に沈み、とっぷりと空を飲みこんだ黒が星を散りばめる。窓から差し込む僅かな街の灯りだけが、部屋の内を照らす光だった。足元すら碌に見えない明かりを反射したきんいろの輝きが暗闇に灯る。
    「……つがい、つがいだって?」
     幽鬼のような、魂に欠落を帯びた、比翼を失ったリーベリのような声がドクターの鼓膜を揺らす。
    「おかしなことを言いますね。ドクター、■■」
     親しい役割と、知らない名前が、ドクターの目の前の龍の頬を濡らす。ごとりと大きな物音が空気を刺すように揺らし、きんいろの輝きがドクターの視界から潰えた。龍が懺悔するように崩れ落ちてしまったと瞬時に気づくことはできなかった。それほどまでに、大きな背丈の男が小さくなれることをドクターは知らなかった。
     低く掠れて、喉が鳴く。
    「つがいになることすら許さなかったのは、あなたの方だ」
     悲鳴だった、哀哭だった。それは龍の慟哭だった。
    「あなたを止めることができなかった。共に行くことも叶わなかった。おれは、あなたを、たったひとりで行かせてしまった!」
     向き合う先、部屋の奥から滲む黒は巣窟を思わせる。暗闇の向こう側で、咆哮がかなしげにわらい声を上げた。
    「リー、君の私は……」
    「あなたのつがいが羨ましい。だってそいつは、あなたと共にある」
     乾いた笑い声に混じって、湿った声で苦しげに言葉を紡ぐ。
    「おれみたいに、希望に縋ることもなく、確かな死の予感に絶望できるんだろうな」
     もうすっかり輪郭すらなぞることができなくなった暗がりから、臓腑を直接その手で撫でつけるように呟かれた言葉には溺れるほどの後悔と渇望がある。喉を引き裂きそうな声音で壊れてしまいそうに笑う龍の男に手を伸ばそうとして、ドクターは一歩を踏み出した。
     冷たい暗闇の中、ポケットの内側で沈黙を保っていたPRTS端末が熱を帯びる。
    『緊急メンテナンスが終了しました。再起動を開始します』
     抑揚のない音声が、龍の男を置いてドクターを眼前に広がる重たい暗闇から引き戻した。






    サーバー:テラ
    #0
    ロドス・ニューラルコネクタに接続中……






     ひやりと冷たい風が背中を撫でる鬱陶しさに目を覚ます。肌寒さに身震いすると、優しくブランケットの中に閉じ込められてしまった。
    「ドクター」
     愛しい声が鼓膜を擽る。心地よい低さを、祝いの席であろうと危機的状況であろうと変わらず一定の声音を保つその声を、ドクターはよく知っている。
     未だ夢の中に居座ろうと重くなる目蓋を無理矢理上げて、声のした方向を見上げる。天井の照明が目を焼くように刺した。痛い。目を細めると大きな黒が視界を覆い、白い光からドクターを優しく隠す。嗅ぎ慣れた煙草の匂いを漂わせるその男を呼ぶ。
    「リー」
    「すみません、戻るのが遅くなりました」
     のらりくらりと秘書の業務を躱しては悪びれる様子もない普段の姿は鳴りを潜め、きちんと誠意の篭った謝罪の声にドクターは首を横に振った。
    「いいよ。勝手に待っていたのは私だから……」
     のそりとソファから身を起こして覚醒しない頭をゆらゆらと揺らす。龍門の裏社会の均衡というものは全く安定せず、分単位で情勢が変化する。探偵事務所が後ろ盾や属する勢力がないにも関わらず、その喧騒に巻き込まれないのは彼の手腕だろう。もちろんそれは彼らが無関係を貫こうとした場合のみだが。今回の喧騒はリーが動く必要、また価値があると判断し闘争の中に滑り込んだらしい。ドクターがそれを知ったのは丁度リーの元を訪ねた瞬間であり、ドクターをロドスに送り届ける時間もなかったリーに、ドクターは事務所にひとまず身を置かせてくれと提案した。彼が探偵として龍門で培ってきたものから、事務所を考え無しに襲うような輩はまずいない。いってらっしゃい、と右手を軽く振って見送ったのは昼頃だったはずだ。ドクターが眠け眼のままポケットの中を漁っていると、およ、とリーが声を上げて屈んだ。
     丸まって、ソファのすぐ足元にある何かを取ろうと小さくなった背中を見つめる。ソファに座っているドクターからは、しゃがんだリーの滅多にお目にかかれない旋毛が見える。
     小さく、眼下に屈むリーの姿が、たった今まで見ていたような夢に重なった気がした。夢の中身はとっくに霧散してしまって、内容なんてもうこれっぽっちも覚えていない。そんな泡のような幻覚の残り香に、ドクターは龍の孤独の果てを見た気がした。
    「君もいつか後悔するんだろうか」
     無意識のうちに口から零れ落ちた小さな囁きを、しかし聡明な龍の男は聞き逃さなかったらしい。丸めていた背を伸ばしながら、拾い上げたそれの表面の埃を軽く手で払う。そうしてドクターに差し出された端末の液晶は無事で、傷ひとつ入っていない。ありがとう、と礼を述べてそれを受け取ろうとしたが、端末はビクともしない。
    「ドクター。おれの運命の人、■■■」
    意図が読めないままドクターがリーの顔を見上げると、逆光の中の暗がりにやわらかく輝くきんいろが見えた。
    「どんな夢を見たのか知りませんが、おれは後悔なんてしませんよ」
     視線が絡み合うのを待っていたのか、端末からリーの手が離れる。その手がそのままドクターの頭の上に乗り、髪を混ぜるように撫でた。
    「後悔しないためにも、その瞬間を愛して、心に忠実な決断を下すんです」
     頭を撫でるぬくもりに甘えながら、逆説的に後悔した時は嘘に塗れた不実の決断を下した時なのかと問いたくなる気持ちを飲み込む。できればそんな日が彼に訪れないことを願いながら、ドクターは目を伏せた。
    「……そうだね」
     たった今この瞬間の幸福を享受する。
     手の中に戻ってきた熱持つ機械にはただ[Welcome back. Doctor]の文字が白く浮かび上がっていた。
















     人の意思や想いを超えて、人に幸せも不幸も与える力。運命。さだめとも呼ばれるソレは人智を越えたところで既に決められた、世界の予感である。リーは運命をいうものを特別好いても嫌ってもいなかった。たった今この瞬間を生きる龍は、一秒先の未来に幸せも不幸も転がっていようと、その瞬間に行動するだけの勇気も度胸も知恵もあった。
     運命を呪うことなど生涯において一度だってなかった。それなのに、あれこそが己のつがいだと耳元で本能が示す人の苦しみを知ってしまってから、リーは運命を呪うことを覚えてしまった。
     赤黒い糸に絡めとられたリーの惚れた人は、真に製薬会社となった艦の穏やかな世界の中で、たったひとり壊れていった。優しくあたたかになったはずの小さな社会の中で、その人ひとりだけが輪郭を崩し、心は摩耗して、ただただ誕生の始まりに与えられた、今はもう不要となったはずの役割の仮面が顔に癒着し脳を忠実に働かせようとした。必要のない作戦記録を作成し、意味を持たない作戦指揮を組み立て、源石の破裂を確認すれば航路をそちらへと望んだ。ドクターのカウンセリングを行った医療事業リーダーへ、その人はことりと転がり落ちそうに首を傾げてみせたそうだ。
    「戦乱に存在しない指揮官ほど無意味なものはない。ケルシー、次の戦いはいつだ」
     星の輝きを宿した瞳は曇り果て、死にかけの星のように明滅する命の輝きはそのまま命を燃やす熱の色をしている。ひとりの大切な、かわいらしい少女のためにドクターの役を羽織った人はその役の降り方すら誰にも教えてもらっていない。教えられないまま何もかもが終わってしまった時に、不要であると切り捨てられることも仕舞い込まれることも恐れて、不必要な役割を演じようとするその人は、とっくに壊れてしまった。
     あの美しい銀の光が、今も己の存在証明のために争いという暗闇を覗きこんでいる。光り輝いていた人はすっかり曇り、自身の歩むべき道すら照らせずに奈落へ落下している。
     だからリーは、最初の約束を今こそ叶えてしまおうと思った。
     何もかも終わって、あなたがその役を演じる必要がなくなり、舞台の幕が下りたのならば。なにもかもを置いてけぼりにしてあなたを世界から攫ってしまおう。
    「しばらくの間、ロドスを離れることになった」
     闘争を求め、その通りに起きてしまった感染者を巻き込む戦いに身を投げると宣ったドクターに、リーはいよいよ世界から攫う覚悟を決めた。
     思考を奪う毒はいくらでもある、足を奪う方法など単純だ、その視界までも奪えたのならもう何も不安に思うことはない。それでもリーは、情を愛する龍の男は、惚れた人の自由を尊重したい。思考はその人をその人たらしめるものであり、奏でる足音は鈴のようで、自身を見て微笑む星の光をした瞳に息を吹き返してほしいと願った。だから何も奪わず生かそうと思った。籠に押し込みはしても、その羽を切り落とすようなことはしないと誓った。リーはドクターを人形にしたいわけではない。安寧が約束された巣の中で、その人の心が癒されていき、体力がそれ以上に衰えていくのを待つ。惚れた人が心からリーのそばを離れないと誓うのを待ちたかった。龍は辛抱強い。待つのには慣れている。あの辛くも尊い日々のように屈託ない笑顔を、また見せてほしいだけなのだから。
     可憐な人。
     素敵なロビン。
     龍の逆鱗になる人、おれの。
    「駄目だよ、リー先生」
     内緒話をする子どものように、そっと左手の人差し指で口を塞がれる。
    「その先はまだ駄目。この戦いを最後に、私はドクターと決別すると決めたんだ」
     トランクケースの中にはきっと、ドクターの目となるドローンと独特な間食程度しか詰まっていない。これで最後にすると宣言した戦いは、ドクターの指揮さえあれば数日で終わってしまうだろう。もちろん勝利という形で。そしてその数日に、ドクターと呼ばれる■■は全てを投じるつもりだと言った。
     ドクターの名前も、役も、過去も。ひとりのにんげんとして歩むために。
     ドクターが笑う。随分久しぶりに見られた笑顔は穏やかな表情をしていた。指が一層強くリーの口を塞ぐ。何も言わせないという意思を感じた。
     あの時、らしくもなく口を塞がれたままでいなければ。己のエゴイズムを通していれば。後悔に襲われながら日々を生きることはなかっただろうか。
     答えを知っている人の行方は、未だ知れないままだ。
     あの日のドクターの声音と笑顔は、リーの心に鮮明に焼きついたままで、目を瞑ればいつだって瞼の裏に幻覚を見られた。

    「帰ってきたら、何者でもない私をその言葉で君の隣に縛りつけてくれ」
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💗💗💗💗💗💗💗💗💗💗💗👏👏👏❤❤❤❤❤
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    sbjk_d1sk

    DOODLEAisおめでとうございます圧倒的敗者俺!!!!!!!!!どうなってンだよ勤務スケジュール!!!!!!!!


    と言う思いを込めて書いていたかつての駄文。こっちにも載せておきたい勿体無い精神。
    無題 空腹を訴える腹を無視して、胃薬と共に鎮痛剤を流し込んだ。少しすれば薬という神が頭から悪魔を追い払うだろう。神を遣わした偉大なる医療部に感謝を捧げるべく、ドクターはデスクに向き直った。詰み上がったファイルと、散らばった作戦記録と、思いついたことを片っ端から書き殴ったノートが広がっている基礎むき出しな無秩序の箱庭だった。デスクの引き出しから手探りでビスケットタイプの完全栄養食を取り出し、バリッと両手で封を開ける。流し込むように袋から直接口に入れ、噛むのもそこそこに常温に戻ったペットボトルの水で腹に流し込んだ。一息ついてパッケージを見てみれば、ココア味と書かれていた。味も確認せず、味わうこともせず噛み砕いて流し込んだクッキーを、今度は一枚一枚摘んで食べてみる。唾液を吸いみるみる膨らむクッキーは、味はたいしてココアといった感じはしない。カカオの強いビターチョコレートのように少しの苦みと酸味がする。これは若者の口には合わないかもしれないなと一息に水を呷り無理矢理クッキーを胃へと押し流した。
    1979