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    sbjk_d1sk

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    sbjk_d1sk

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    記憶を失って転生したリー先生と、連続する魂を持つドクターの鯉博。一部過去作から抜粋。

    オーニソガラムの亡骸 星の予言、星の花。星の光を探して、星屑と閃きを眺めて。



    「いらっしゃい、リー家の子」
     他人のテリトリーに足を踏み入れるのはいつだって、適度な緊張感と警戒心を必要とする。リーは詰めていた息を白色にしてそっと吐き、吐いた分の吸い込んだ空気が纏う花の香りにまたため息をついた。両親と比べ未発達な細く頼りない尾が揺れ、薄く柔らかな鰭が風にあそばれる。
     かつては龍しかいなかったという閉鎖的な集落はすっかり姿を変容させ、龍の数こそ多いものの昔に比べれば様々な種族が住み着くようになった。それにより貿易は一層栄え、利便性は改善し、知見や見解が広がったことで価値観も開放的な方向へと進んでいった。少年が足を踏み入れた家は、しかしそうなる以前――もう百年以上も前だ――に建てられた、異種族にまだ偏見や差別の考えがあった頃にその嫌う異種族に説き伏せられて建てられた家らしい。家屋自体は然程大きくはないが手入れが行き届いた庭は非常に美しく、季節の花や草木が目に鮮やかで、門扉を潜った直後だというのに足を止めて眺めてしまうほどだ。そのせいだろう。前を歩く冬空のようなその人が振り返り首を傾げた。
    「どうかしたかい?」
     リーから見た横顔は長い前髪と眼帯によって窺い難かったが、それでもその人が深い探り込みでもなくただ目の前で呆けている自分を心配しているということは、口角の上がった唇で把握できる。髪から肌の色、瞳の色まで余すことなく薄い色彩のその人には角も尾もなく、テラにおける種族的ヒエラルキーの弱さと肉体的脆弱さがうかがえる。しかしそれらを跳ね除けてしまうほどの叡智を孕んだ瞳の光が鋭く光った。
     おいで、と手招きする声がリーの心臓を優しく撫で、するりと引き寄せる。精神干渉のアーツでも使われているのかと錯覚するほど強力で抗い難い心地よさを覚える声は、掌を差し出して変わらず冬の雪のような美しい微笑みをリーに向ける。アプローチの脇を飾る白い花が手招きするその人を真似るように揺れた。
    「私は君のお父上と一定の信頼を築いているけど、君がそれに気を遣うことはないからね」
     リーの家は代々集落の中で最も大きく力ある商いの家だった。そのため度々両親が集落を遠く離れた地に新たな縁を結び合わせようと出かけてしまい、幼い少年はそのたびに使用人と共に家で留守を過ごしていた。しかし今回は使用人が病で臥せってしまったため、少年の父によって親交の深い集落の賢人と呼ばれる人の元へと預けられることになったのが、今朝のこと。身体が弱いと聞いたその人は今でこそ敷地から外に出る機会が少ないらしいが、かつては集落で里長に次ぐ地位に座り、そもそもこの龍の郷に住み着く前は世界的にも智者が集う会議で意見を求められていただの、後世に名を遺す戦争で指揮官をしていただの、噂話は尽きない。
    「数日の間お世話になります、賢人様」
     差し出された手を厚意と受け取り、その意味に応えるように握り返せば、最低限にして確かな人の温もりにようやく賢人が生物だと信じることができた。
     ただ、賢人様とリーが呼んだその一瞬。冬の星のような美しいその顔が歪んだことだけが気がかりだ。
    「こちらこそ。よろしく、坊や」



    ****

     これ、本当に撮れているのかな?……よしよし、大丈夫そう。
     ケルシー。これを見ている頃、私はもう死んでいるのだろう。
     しかし君が知る私が、実はとっくに死んでいると言ったら?いいや、これは言い方が悪かった。すまない。最初の私はとっくに死んでいる、という意味だ。
     ……過去を思い出したか?いや、それは未だだね。怖い夢を見たか?私が最も恐れるものは現実にしか存在しないさ。
     これは私が示すことができる君への最大級の信頼の証で、私の種族以外は知らない生態らしい。
     ケルシー、君には酷いことを任せてしまう。すまない。それでもこのテラがまた私を必要とした時は、今から伝えることを参考にして私を探し出してくれ。
     記憶を失うよりもずっと前。最初の私。今の私からはその記憶すら失われているけど、私というにんげんは、ずっと昔から存在するんだよ。

    ****



    「先生」
     初めて賢人の家に預けられたあの日、なんと呼べばいいですか?そう言ったリーにしばし考え込み、その人は答えた。先生がいいな。
     以来、リーは賢人を先生と呼び改めた。
    「何が好きかな?わからないから、なんでも好きなものを選んでおくれ」
     そう言って先生がまず見せたものはキッチンだった。まず冷蔵庫を開けてみれば飲み物は果汁ジュースからラムネなどの炭酸さらには水出しのお茶が入ったボトル、お菓子はケーキやシュークリームに果物数種。戸棚には羊羹や饅頭がいくらも。ご丁寧に冷凍室を開ければぎっしりとアイスまで詰まっている。
    「あの、何度も言いますけど先生もおれに気を遣わなくていいですから」
    「私がそうしたいだけさ。浮かれてアイスは桁を間違えて買ってしまったが」
     冬にアイスを桁から間違えて買うポンコツが現実に存在するとは、と内心リーが呆れているのをわかっているのか、先生は至極真面目な顔をしてリーの瞳を真正面から見つめる。美しい銀の瞳は冷たい鉄の色かと思っていたが、そうして見つめられてリーはその瞳の奥に花緑色を見た。不思議な瞳をした人間だった。
    「坊や、君は知らないのか」
     ――暖房を効かせた密室で食べるアイスは、美味い。
     あんまりにも真剣な顔で言われてしまい、リーはぶっと吹き出す様に笑った。堪らず顔を反らしたが、先生は今度は疑いの眼差しでリーを見ただろう。幼いながらにリーですら視線でそれがわかる。
    「信じていないな?やってみればわかる。真夏の二本目、背徳のアイスに匹敵するぞ」
    「わか、っひひ、わかりましたから」
    「いいやわかっていない。さぁ好きなものを選びなさい、既に暖房を効かせた客間を用意してある」
     あはあはと肩を震わせながらリーはもうまともにバリエーションも見れないままアイスを選んだ。どれを選んでも高いアイスに変わりはないので、気を遣うこともできない。美しい銀のスプーンを手渡され、こっちだと踵を返す先生の後ろをリーも歩く。家の中はややヴィクトリアの色が強い建築様式で、歩きながら先生は「炎国や極東に不慣れなんだ」と説明した。そして「ここでは少し浮いているだろう?」と笑う。確かにこの龍窟こと龍の起源たる里はほとんど古い炎国の建築様式の建物が多い。
     龍でもなく、しかし龍を従えることができ、もしかしたら里を統べる者にだってなれるかもしれない。現在の里長の信頼すらも勝ち得た人間。
     前を歩いていた先生が扉を開けると、目の前の部屋から暖かな空気が漏れ出てリーの頬を撫でた。
    「それと。前から言いたかったんだ、私には普通の話し方でいいよ。子どもはそれくらいの方が可愛いんだ」
    「可愛くなるつもりはないです」
     ぶすっと不機嫌な顔になったリーの頭を片手で撫でつけながら、先生はふむ、と一度頷くように声を漏らす。
    「もちろん、今の敬語を話す君も大人たちに負けないよう背伸びをしているふうに見えてとっても可愛らしいけど」
    「もう二度と先生には敬語を使わない」
     はい、よろしく。そう言いながら微笑むその人に、策士というよりは悪戯好きなだけなのではないかとリーは訝しんだ。そんな視線を知ってか知らずかさっさとあたたかで明るい部屋に暖を取りに行ってしまった先生は、横に長いソファに座り隣の座面を叩いている。寒い廊下で無意識に足に絡みつき暖を取る尾にため息をつきながら、リーは後ろ手にあたたかな部屋の扉を閉めた。
     客間と呼ばれたその部屋を見渡してみると非常に混沌としており、極東、ヴィクトリア、ラテラーノ、カジミエーシュにシエスタ、イェラグなどなど。東西南北あらゆる地からの土産であろう小物が並んでいる。中には有名な社長や騎士のサインが入ったものまである。当時のリーは知りもしないが、その道ではこれ以上ないと言うほどの研究者や学者の貴重な絶版書籍まで並んでいたらしい。
    「テラ中に知り合いがいたりする?」
    「そうだよ。いろんなところに友達がいるんだ」
     冷凍庫に仕舞い込まれていたアイスは固く、スプーンを刺せるようになるまでは時間がかかりそうだった。掌の熱でじんわりと溶かしながら、壁にかけられた写真の数々を眺める。余程物珍しそうに映ったのか、先生は隣でくすりと笑った。
    「こう見えても昔はテラ中を旅していたんだよ」
    「なんで止めたの。歳?」
     ほっそりとした手足、薄い体、色白の肌、太陽の光を忘れたような髪と瞳の色。とてもこの過酷なテラという大地を旅してきたとは思えない。病気や怪我、あるいは種族的には高齢になるのか、そういった理由で体を壊してしまったというのならこの貧相な見た目にも納得がいく。しかしその人はいよいよ声をあげて笑い「失礼だな」とリーの額を指先で小突いた。
    「人を待っているんだ。ここなら見つけやすいだろうから」
    「どうして?」
    「……龍の故郷に、いつからいるかわからないような種族不明のにんげんがいる。そんなものが尾鰭なり背鰭なりついて噂にならないはずがないだろう?」
     リーはとても驚いた。人探しのために、異種族の集う地に土足で入り込み腰を落ち着けてしまう度胸や無謀さを何と言えばいいのか。異種族の信頼を集めてしまう才能をそんなことに遺憾なく発揮し居場所をつくりだしてしまうのか。幼いリーには言葉が見つからなかったが思いつく限りで先生を表現するとしたら、こうだろう。
    「意地が悪いって言われない?」
     きっと旅をしていたという頃の先生は、誰もが予想もしないことを言い出してはあらゆる人を振り回して可憐に笑う人だったのだろう。たった今目の前で手を組み、うっとりと微笑むその人の笑顔はきっとかつてと何も変わらないと疑わない。
    「意地が悪くないと、旅なんてできないさ」
     


    ***
     
     自家交配という言葉がある。
     種の遺伝子情報がほとんど変化することなく連続性を保った子孫を遺すことを可能にする技術だ。主に植物に見られる。しかしその連続性故の多様性の低下により種としての適応度が低下していき、テラに蔓延る地の病、海の脅威、空の未知、眠る古の夢という環境に淘汰されてしまう。そうなればその種は緩やかだが確実にその数を減らしていく。そこに追い打ちをかけるように、生まれてくる命は総じて体が弱く、確実であった子孫を残せるまでに成長できないまま死んでいく者たちが増えていくんだ。近交弱勢という言葉があるだろう?あれに近いね。
     私はね、花なんだよ。寸分違わぬ私というものが過去から連続しているんだ。
     この私はとっくに死体なんだ。
     
    ***



    「寂しくなる。彼はこの里で最後の古い龍だった。良き知古だったのに」
     龍の集落でも最も古い龍、里長が死んだ。葬儀には多くの人が参列したが、そのほとんどが彼の顔くらいしか知らないだろう。古い龍は死に、古の伝承は廃れ、神秘の生態は化学に種明かしをされ、本能を必要としない生物となっていく。龍は今でも多少の希少性はあるものの絶滅に怯えるような種族ではなくなり、炎国や極東と故郷としない者も随分増えた。
    「坊やはかつての龍の生態と本能についてどこまで信じている?」
     小雨もこの人の細く青白い体には十分毒となりえるだろうと差し出した傘に共に入りながら、リーは先生からの問いに笑い飛ばしはしないもののため息をついた。
    「あんな御伽噺を信じる奴なんかいないだろ」
    「あれは御伽噺ではないよ。彼がそれを証明する最後の龍だった」
     少年を揶揄う甘い声は鳴りを潜め、いつになく抑揚もなく平坦なのに熱を帯びた声音が細い喉から鳴る。リーが先生の横顔を窺えば、色素の薄いその人は暗い世界に隠れてしまいそうなほど憂いに満ちた表情が見れた。
     目に見えない龍の本能や生態というものを、先生はとても慈しんでいた。そしてそれをよく知っていた。まるで自身も龍であるかのように里長と語り合う姿を、リーも幼少からよく目にしている。そして最近の龍たちが神秘を必要としなくなったことを喜びもしたし、憂いもしていた。熱の心地よさと眩しさの中の温もりを知らない若い龍が里を飛び出して行く姿をずっと見送ってきたのだろう。
    「彼はつがいの生まれ変わりを待っていた。運命の焔の熱も、再会の稲光の眩さも、時代を経た今の龍たちは忘れてしまったけれど。ずっと待っていたんだ」
     張本人の龍たちよりも、龍の運命を信じている。縋ってもいるように見える姿勢は、いつか先生が話していた待ち人が龍であるという答えをぼんやりと照らしだしていた。
     曇天の下、空の色をそのまま切り抜いたような鈍色の瞳がくすんでいる。雫となってこぼれ落ちることはなかったが、その視界は水面のように揺れているのだろう。しばらくそうして人の列を眺めているうちに、里長の息子のひとりが二人のもとに歩み寄ってくる。先生に用があるらしく互いに軽く会釈を躱すと、若い龍が銀杏色の包みを懐から取り出した。
    「賢人様。本当にこちらを処分してしまってよろしいのですか?」
     差し出された包みを先生の青ざめた指先が優しく撫で、惜しむように爪先で僅かになぞり、その手を再び体の横に戻す。
    「あぁ、里長が生前に持って逝くと言ってくれたんだ。龍を燃やす火でなら、それに絡みつく縁も燃えるだろうと」
     若い龍は何度か口を開けては閉じて何か言いよどむようなそぶりを見せ、やめた。彼もリーと同じように幼少から先生を知る龍だ。過ごした時間は自分の方が圧倒的に長いが、里の若い者に先生はよく慕われている。心底残念そうにため息をつき、もう一度会釈をして踵を返していった。それを見送る先生の拳が真っ白になるまで握り込まれ、柔らかな掌の皮膚に赤い爪の後を残しているだろうことを予感した。
    「あれは?」
    「私がつくりだした呪いさ」
     呪い。歌うように紡がれた言葉を反芻する。
    「昔の私が生み出したまじない。縁が深いのろいとなって絡みついてしまったんだ」
     欲なんてものとは無縁そうな人が、なんのためにそんなものを。リーが聞けば神聖化しすぎだと呆れたように笑われた。
     死が生を価値あるものとして、死に意味を齎す様に。夜が昼を眩く美しいものとして、夜に静かな煌きを見出す様に。終わりや反対のものたちは互いに強く結びつき互いを装飾する役割を持つ。
    「君が見ている私というのは、あくまで物事の側面でしかない。私に善性を見ているのならば、それはいつか私の裏にある残酷さをより彩るだけだ」



    **

     美しい一瞬を切り取られ、望まれる感性に彩られ、どこまでも人為的に保たれた人格の果て、はたしてかつてのその人は在ると言えるだろうか?
     もうどれほど生きたのか、何回生まれて死んだのか、記憶を失う前の私なら知っていただろうね。そして死ぬ瞬間の苦痛も。
     ウィスパーレインを……イメージし難いとしたら確かに彼女に類似しているか。でもそれはいけない。彼女に失礼だ。彼女たちは正しく生まれ変わっているんだよ。これも私の主観だけれど、君はその人をその人たらしめる定義を何とする?感性、思考、記憶?彼女たちはそれらを全て対価としてこの世に誕生する。だとしたらそれはもう別人さ。
     でも私は違う。今の肉体が機能を停止しても、魂と呼ばれるものは受け継がれ、新たな肉体にそのまま宿る。何もかもそのままなんだ。
     記憶を喪失している私には積み重ねてきた過去の魂は無いが。幸いなのは、何度も死ぬまでの苦しみや痛みの記憶まで忘れることができたということだ。君が見ているように、今の私はおそらく昔の私ほど強くない。その恐怖を思い出してしまっては、指揮など振るえないほどに壊れてしまうだろうな。
     亡霊。まさしく私は、そういった類のものだ。

    **



    「坊や」
     美しい叡智の瞳に見つめられ、リーは「坊や」と呼ばれたことへの不満をぐっと飲み込んだ。その美しい銀の光にじぃっと覗きこまれてしまうと、少年だったリーはすっかり言葉を失うか押し殺してしまう。門扉に手をかけながら、蜜のようにとろりと笑うその顔には皺のひとつも増えず、あの頃と変わらない思い出のままの景色を再現した。
    「課題は終わったのかい?」
    「終わった」
    「学友と遊んでこなくても?」
    「明日も会うんだ。今日でなくたっていいだろ」
    「お父上と話はした?」
    「今話したって、あの人はおれの言葉なんて聞きやしねぇよ」
    「君がそう言うのなら、そうなのだろうね。いらっしゃい」
     寒空の下、庭に咲く蝋梅の甘い香りが肺に満ちる。度々両親の留守に預けられていたあの頃よりもずっと背が伸びたリーは、もうすっかり先生を見下ろすまでになった。少年と呼ぶにはあまりにも上背が大きいというのに、先生は変わらず「坊や」と龍の少年を可愛がり、揶揄い、不変の愛で慈しむ。
    「あ、おい!まだ飲むなって何度言ったらわかるんだ」
    「んぇ?あぁ、すまない」
     もしかしたら実家よりも呼吸がしやすいと思ってしまう先生の家に入り浸るようになったのは何歳からだったか。両親がいようがいまいが、あの日の少年にとって先生の存在はもう代わりなど務まらないほど大きく深い拠り所だ。淹れたばかりで飲むことが困難な熱い茶をなんでもないように飲んだかと思えば口内を火傷したり、真冬の庭で蝋梅の花を眺めているうちに指先が凍傷間近になったりする。世話を焼こうと思えばキリがない。自分よりよっぽど使用人が必要な鈍感さと無頓着さだった。しかしそんなふわふわぼんやりと綿毛のようにしているのに、盤上の遊戯や助言を乞えば人が変わったように空気まで張りつめさせる。磨き抜かれたナイフ、風を裂くように放たれた矢、冬の刺すような冷気に姿を与えたもの。そんなものたちを漂わせて、王道の正攻法から誰も思いつきもしない一手まで繰り出してみせる。
    「坊やは飲み込みが早い。若さゆえの吸収力だろうか?それともお父上の教え方かな」
    「……あんたの前で披露する技は全部、あんたから盗んだものだろうが」
    「いいね。存分に覚え、我が物にしなさい。枯れるばかりの人間から得るものがあるだけマシだろう」
     チェス、将棋、囲碁、カード。卓上の戦争。知識と機転と饒舌さの勝負。なにもかもリーの目の前に立つ先生から教わったもの。穏やかに笑う人は、リーにその戦いを挑む時だけ賢人の顔となる。今日は何の勝負をしようか。子どものような声音で爛々と輝く眼光はアンバランスで、しかしその奇異な才能と突拍子もない思考はリーが今求めてやまないものだ。
    「家を出たい」
     前置きもなく告げる。しかし少年がそう言った時も、賢人は「そうか」と頷くことも「やめろ」と否定することもなく。ただ「何故?」と問うた。
    「ここにいたら、ただ親父の後ろを追いかけて同じ商人になるだけだ。おれは何も知らないまま、このちっぽけな世界で死んでいくことになる」
     きんいろの瞳が水面に揺れる。熱い茶を目の前の人は事もなげに飲み、そっくり熱い息を吐いて。湯呑を置く。居住まいを正し、銀の瞳の内にあの日のような花緑色の光を孕む。細められた眼光はまさに心臓を貫く凶器のかたちをしていた。
    「信念があるのなら、いいじゃあないか。外に行っておいで」
    「止めないのか?」
    「おや」
     わざとらしいふざけた声を上げて、目を見開く。全貌が露わになった虹彩にたっぷりの光が輝き、その人の顔をより幼く見せる。
    「止めてほしい?坊や」
     揶揄われていることなどリーはすっかりお見通しで、堪らず低く唸ればからからと軽快な笑い声がリーの鼓膜を震わせる。
    「私が止めても君の心はもう外の世界を夢見ている。止まらないだろうね」
     憑き物が落ちたような、晴れやかな顔をしていた。リーではなく賢人――先生の顔が。なんとなく、リーは自分を通して遠くの誰かを見られているのだと悟る。
     だからこれは、リーのささやかなエゴと嫉妬心の表れだろう。先生にいつか差し出された手と同じように、片手の掌を差し出す。
    「先生も一緒にどうだ?」
     先生の目がゆっくりと瞬きをする。じっとリーのきんいろの瞳を覗き込む。皮膚の色もつくりも、骨格も異なる掌を見下ろし、もう一度リーの瞳をみた。そうして静かにかぶりを振る。
    「前にも言っただろう?私は人を待っているんだよ」
     義理堅い人だ、と表すのがきっと正解だ。しかしリーはそれに対して残酷な人だ、ど舌打ちする。
    「そう言って、その相手はどれだけあんたを待たせてるんだ」
     きっとその待ち人のためにかけられた呪いを見送った日の先生の掌を思い出す。拳を開かせれば皮膚を薄く破き、柔らかな爪に僅かに滲んだ鮮明な赤を覚えている。縁とやらにのろわれて、この地に縛られたように生きるこの人の過去を呪わしく思う。
    「何十年?いや、あの龍の爺さんをガキの頃から知ってるなんて、百年でも足りないだろ。先生の種族がなんなのか知らないとしても、そんな長い時間あんたをほったらかしにしてる奴なんて碌でもないに決まってる。そんな、生きてるか死んでるかもわからないような奴を待ってどうするんだ」
    「約束さ。再会を約束した」
    「捨てちまえよ、そんな奴!」
     庭の木の枝から雪が雪崩落ちた音がした気がする。その音すら雪に吸い込まれて消えていった。怒鳴り声に近い声色に、リーは確かに自分の中の嫉妬を知った。自分を通して誰かを見ることがある人、幼い日からリーを可愛がる人。目の前のそんな先生を、意識していないだなんてことは嘘だ。もし自分にもかつての龍の奇跡が備わっていたのなら、この人に運命を見出しただろうという確信がある。自分だけを見てほしい、誰も振り向かないでほしい、あんたを置いてどこかへ行ってしまうような奴を忘れてほしいし、ましてや自分にそんな奴を重ねないでほしい。自分を自分として見てほしい、承認欲求を満たしたい。
     けれどそれすら見通すような叡智の瞳は、やはり困ったように笑うだけだ。
    「縋っている私が愚かなのは知っている。でも、待つことだって慣れている」
     リーの手を空のまま握らせて、もう二度と差し出されないように細い両手で蓋をされてしまう、包み込まれてしまう。残酷で優しい拒絶だった。
     彼が。言いかけて、口を噤む。逡巡の後、私が、と紡ぐ。
    「何者でもなくなった私の名前を呼んで、彼の隣に立たせてくれる日を。いつか、いつまでも、待っている」
     信じている。
    「待っていたいんだ」





     冗談だよ。怒らなくたっていいじゃないか。なんでわかるか?君ならきっと怒るだろうと思っているよ。私は君が思っているよりもずっと、君のことを良く思っている。
     …………。
     ……私はずっと、あの言葉を待っていたのかもしれない。私は生きていると、にんげんだと、この大地に生きる一員だと認めてほしかったのかもしれない。ロドスの人間でもバベルを知る人間でもない、今の私と知り合った人間にそう言ってもらいたかったのかもしれない。
     私をにんげんだと言ってくれた彼を置いて、今のこの私が死ぬは、心残りのひとつだ。
     ……さて、前置きが長くなってしまった。すまない。
     もしドクターの知恵が必要になった時は、以下の座標の土地をレム・ビリトンに協力を仰ぎ採掘してほしい。チェルノボーグと同規模の石棺が収納された小型施設が発掘されるはずだ。そこに次の私が生まれるだろう。
     座標を読み上げる。
     …………。
     ……。





     龍の里を数キロ離れて、少しばかり大きな街までいけば都市行きの列車が通っている。片方の肩に引っ掛けるだけで足りる僅かな荷物を隣の座席に投げるように置いて、窓から見えた故郷を囲うように並ぶ山々を眺めた。雪が降り始める。きっとあと数時間もすれば薄く雪が積もり、あの山も白く染まるだろう。その頃にはもう、この山が見えない場所を走っているだろうが。
     あの人はこれからもひとりで、来ることのない男を待つのだろう。
     どかりと大きく腰掛ける音が正面から空気の振動と共に伝わり、思わずそちらを素早く見た。合わせて腰をいつでもあげられるように浅く座り直す。
    「三色の鱗、銀杏色の角、月の色の瞳をしたまだ青い龍!」
     酷く、くぐもった声だ。小さな傷が無数に刻み込まれた、年期を感じる金属のマスクを被ったガタイのいい男がどっかりと深く座っている。リーも十分恵まれた体躯をしているが、目の前の男は体の中身が、質量が違うという謎の確信があった。
    「失礼、どこかでお会いしましたか?」
    「そう構えるな!俺はあの山の向こうの里長から、遺品をいくつかテラ中に散らばった子や孫に届けてくれと頼まれていたのさ。今日は依頼を終えたことを墓前に報告に来ただけだ」
     色褪せ修繕を繰り返した跡が見られるトランクケースが男の外套の内からぬるりと現れる。一瞬見えた細い蔓のようなもの自分の知らない種族の特徴だろう。リーが眺めている前で饒舌に語りながら、男はトランクケースを開く。
    「そしたらお前さんにもひとつ、渡してほしいという遺品があったじゃあないか。同じ列車に乗り合わせるとは、今日は良き日になりそうだな!」
     無骨な手が小さな何かを掴んだらしく、リーに差し出された品の全貌は見えない。だというのに、リーの心臓がしんと鼓動を止めたかのように静まり返り、すぐさまドッと大きくなる。
     その指の隙間から見えた包みは、呪いを閉じ込めた銀杏色だ。
     里長が死んだあの日、先生が葬った過去の縁だ。
     震える手で受け取ると、包み越しに硬質な感触を知る。
    「いいことを教えてやろう、古き呪いを忘れた龍」
     花のように開いた銀杏色の中心には、たったひとつのメダルが眠っていた。やや光沢に曇りが見られるが、丁寧に磨かれ保管されてきたのか汚れや指紋の跡はひとつもない。知っている。自分はこれが何のメダルなのかを知っている。
    「運命なんて不確かな予感に縋るのか?今代の龍よ」



     オペレーターとしての昇進を祝って、蛍光灯の光を反射して輝くメダルを贈られた。これでサボったり実力を秘匿できるなんて思わないことだと意地悪そうに笑われる。
     返礼として、記憶を持たないドクターには一層馴染みがないだろう玉飾りを贈った。手段ではない信頼だと証明しても、玉飾りをくるくるさせて刻まれた文字を眺めながら、君は胡散臭いからなぁと呆れられる。
     その胡散臭い探偵の飯でようやく健康的に肥えて医療部のお叱りを回避しているのはどこの誰だったかと頭を片手で掴んでやった。あぁそれではお仕事をしましょう、戸棚に隠してある砂虫のスナックを医療部に報告してきますと言えば、ドクターはいやいやと駄々こねる子どものように腰に腕を巻き付けてずるずると引きずられる始末。
     そうして二人きりで笑う時、自分たちは対等だった。ドクターとオペレーターでも、指揮官と探偵でもない。たったふたりの人間だった。
     信頼というまじないにかたちを与えて贈り合った。
     抱えるものも背負うものも違った。選択を迫られた時、自分は切り捨てられるとわかっていた。ドクターは世界を選んだ。自分は優しい選択によって取り残された。片割れの人間を対価にして息をすることを強いられた。
     信頼というのろいが世界というかたちになった。
     リーを生かした。
     生き残ってしまった。

     運命を呪うことを覚えた。
     自分ではない人の苦しみを目の当たりにして、己のもののように苦しんだ。
     愛しい人がゆっくりと壊れていく姿を見ていることしかできなかった。
     笑って旅立つその人の背中を見ていることしか叶わなかった。
     帰ってこないその人を待った。
     待ち続けた。
     希望も絶望も目の前で誘い込むばかりで、穴の底に引き込んではくれない。
     おかしくなりそうで、待つことをやめた。
     この足はあの人とは異なって、何のしがらみも呪いもない。あてもなく探しまわることができる。
     探して、探して、探して、探して、探して。
     澄み渡った青い空の下降り積もった銀世界の中生い茂った木々の木漏れ日の隙間木枯らしが葉を攫った枯れ木の後ろ眩い太陽に輝く青い海の向こう暗闇に揺れる黒い波打ち際雪山と信仰に隠れた現実権力と領土の略奪の先観客の歓声と怒号で賑わう競技場の裏懲りずに鉱石を採掘する採掘場の暗闇子どもの笑い声が響き渡る辺境の村の隅建ち並ぶ灰色のビル街の路地の影。探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して!
     探した。
     見つけた
     あの人を殺した鈍色をしたのろいを形見として抱えた。鼓動が石となって朽ちる時まで鈍色をしたまじないを愛してやった。
     ――――嗚呼!自分はようやく、あの人に追いついたのだ!



     日が落ち、寒空の下に好んで身を晒すものはいない。誰もが扉も窓も締め切り家の内側で暖を取る中、足元に咲く白い花を眺めていたのか、雪景色に紛れて隠れてしまいそうなその人の頭の上や肩にはうっすらと雪が被っていた。リーを見るなり慌てて立ち上がって、立ちくらみを起こしたのか少しだけじっと立ち尽くした後、冷たい鉄の門扉を開けてリーのもとに歩み寄ってくる。
    「どうしたんだい、坊や。列車は?忘れ物でもした?」
     冷たい空気でひりつく肺を休めるのもそこそこに、リーは色も体温も忘れたように冷え切ったその手を掴んだ。ぎくりと賢い華奢な体が驚愕に強張ったのは初めて見たもので、リーは溜飲が下るような思いだった。だがそんなことに笑っている暇さえも惜しいとリーは沈黙で守られた平穏の世界に罅を入れる。縁によってリーの元に戻ってきた、あの男から受け取った昇進メダルを目の高さに掲げて晒す。
    「大事な忘れものがあったのを思い出した。先生、いいえ、ドクター■■?」
     は、と。短い息の吐かれる音。そんな。どこでそれを。譫言のように呟かれる言葉が雪に落ちて消えていく。ようやく我に返ったのか、今までの全ての時間を投げ捨てるように叫ぶ。賢人の面影も、先生の仮面も剥がれた、ただのにんげんの本性を見せる。あの日の先生の――ドクターの言う通り、俗世を捨てたような善性ばかり演じてきた人の、残酷なまでに人間じみた姿だった。
    「何故それを。いや、どこまで思い出した!」
     メダルを摘んだ方の手首を、自由な手で掴まれる。大した力も入っていないその手は寒さが齎すものとは異なる冷やかさにがたがたと震えている。浅い呼吸が白色となってドクターの口からとめどなく溢れては消えていく。怒りと、憎しみと、悲しみと後悔に瞳が涙の膜をつくりだした。
    「君のドクターはあの日、約束を果たせずにひとりで死んだ。それでよかった、君はそこで終わりにするべきだったんだ!私はひとりで勝手に待っているだけでよかった!」
     掴まれた手首はすぐに解かれる。リーの腕を引きながら、ドクターは雪の上に膝をついた。
    「それだけで……それだけが、私の、最後の願いだった。なのに君は、ああ、台無しだ!なにもかも思い出したということは、君を死に至らしめた苦しみや痛みも思い出したということだ」
     隻眼になってしまった目を塞ぎ、顔を伏せ、自由な片手で頭を抱える。そんな姿は指揮官としてのドクターでいた頃には終ぞ見られなかった。打つ手を無くし、心の底から絶望し、許しを乞うような姿など。
    「あの寒さと孤独を、恐怖を。そんなものを忘れられず、覚えているのは私のようなものだけでよかったのに。あんなものまで思い出すなんて、惨いことがあってたまるか!」
     血を吐くように叫ぶドクターの言葉に、リーは顔を顰めた。
     今、この人は何と言った?
    「だからおれに忘れたままでいてほしかったって?そんな、たかがそんなもののために、あなたのことを忘れて生きろと?」
     掴んだままの腕を引いてドクターを無理矢理立たせる。肩から嫌な音が聞こえた気がするが、脱臼していないことを祈るしかない。治してやる時間も惜しい。人形のようにされるがまま動かされ、ふらりと重心の定まらないドクターの体はそのままリーの胸に飛び込む形となる。指揮官であった頃よりも小さくなったように感じる体を腕の中に閉じ込めてしまえば、ドクターはようやく呼吸を落ち着けて黙りこくった。
    「今のおれにはもう、運命の熱さも再会の眩しさも、本能の導きだってない。でも苦しみや痛みがその代わりになるって言うなら、喜んで受け入れてやる」
     そんなもの。リーにとっては、たかがそんなものだ。それなのにドクターは先生としてリーの気持ちなんてこれっぽっちも理解せずに、リーを坊やと可愛がって少年のままにした、縁の絡みついた昇進メダルだって世界から消失させようとした。あらゆる手がかり、繋がるもの、可能性を秘めたものを排除しようとした。あの日、出立の日、リーの口を塞ぎ言葉を封じた瞬間から、ドクターの優しさは深い傷跡となってを心臓を痛めつけ、瞼の裏に焼き付いたドクターの幻覚は後悔となって理性を蝕んだというのに。
     一重に、ドクターはリーをひとりで生きやすいようにしようとしたのだろう。実らない想い、叶わない願いとわかっているものをもしもの言葉にすることさえ許さなかった。言葉に力ある魂を与えないために。
     その優しさこそがリーの首を絞め続けていたことを、きっとドクターだけが知らない。
    「それとも、おれの隣に縛り付けていいっていうのも忘れていた方がよかったですか?」
     ぼろりと零れる涙が流星のように尾を引いて流れ落ちる。あの美しい星の光の色をした瞳はたったひとつになってしまった。片割れだけになってしまった瞳から足りない分を補うようにとめどなく涙が溢れていく。
    「嫌だよ」
     嗚咽交じりの声にリーが手を離してやれば、背中に細い腕が回される。きっともう熱いも寒いも感じなくなってしまった指が掻き抱くようにリーの背に縋りつく。
    「君に会いたかった。私だと気づいてほしかった。君をずっと待っていた。再会の約束を忘れたくなかった。果たせなかったことを謝りたかった。でも、何も知らない新しい君にそれを強要して、自分が死んでいく記憶なんてものまで思い出させてしまったら……君を壊してしまう気がして、怖かった」
     涙声としゃっくりを隠すように、短く鼻をすする音がした。
    「あんなことを言っておきながら、もう離してあげられる気がしない。君の言葉を、ずっと、ずっと……聞きたかったんだ」
     欲さえ与えてしまえば。
     純粋で無垢な御身をこの世に引き留め、この地に縫い付けることができるだろうか。輝く輪を曇らせるように、羽ばたく翼を奪うように。俯瞰する心を俗世に繋ぎ止めてしまうには。
     欲を植え付ければいい。
     誰にも譲れない、心から欲するような、飢えて死んでしまうほどの欲求を芽吹かせることができれば。ドクターをやめた■■はこの腕の中に抱かれることを望み、己の腕の内を帰る場所に定めるだろう。
    「おれだけの、おれのための人間になってください」
     何もかも終わって、指揮官を演じる必要がなくなり、舞台の幕が下りたのならば。
    「もちろん、喜んで」
     作り物のように穏やかで美しい精巧な笑みではなく、大輪の花や無垢な少女のように屈託のない笑顔をずっと待ち望んでいた。
     龍の運命がようやく手中に戻ってきた。
     柄にもなく舞い上がって、ちいさな体を抱き上げて、足早にドクターの屋敷に向かう。ああ、忙しくなる。善は急げだ。明日の朝一番の列車に間に合わせなければ。若さのいいところは、多少の無茶も無謀もなんとかなるさで犯してしまえる勢いが有り余っていることだろう。
     遠い過去に求めて、渇望して、叶わなかった最初の約束をようやく果たすことができる。
    「それじゃあ、まずは」
     ――なにもかもを置いてけぼりにしてあなたを世界から攫ってしまおう!
     
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    Replies from the creator

    sbjk_d1sk

    DOODLEAisおめでとうございます圧倒的敗者俺!!!!!!!!!どうなってンだよ勤務スケジュール!!!!!!!!


    と言う思いを込めて書いていたかつての駄文。こっちにも載せておきたい勿体無い精神。
    無題 空腹を訴える腹を無視して、胃薬と共に鎮痛剤を流し込んだ。少しすれば薬という神が頭から悪魔を追い払うだろう。神を遣わした偉大なる医療部に感謝を捧げるべく、ドクターはデスクに向き直った。詰み上がったファイルと、散らばった作戦記録と、思いついたことを片っ端から書き殴ったノートが広がっている基礎むき出しな無秩序の箱庭だった。デスクの引き出しから手探りでビスケットタイプの完全栄養食を取り出し、バリッと両手で封を開ける。流し込むように袋から直接口に入れ、噛むのもそこそこに常温に戻ったペットボトルの水で腹に流し込んだ。一息ついてパッケージを見てみれば、ココア味と書かれていた。味も確認せず、味わうこともせず噛み砕いて流し込んだクッキーを、今度は一枚一枚摘んで食べてみる。唾液を吸いみるみる膨らむクッキーは、味はたいしてココアといった感じはしない。カカオの強いビターチョコレートのように少しの苦みと酸味がする。これは若者の口には合わないかもしれないなと一息に水を呷り無理矢理クッキーを胃へと押し流した。
    1979