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    oshi_suko1

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    oshi_suko1

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    ユリスバ。昔書いたやつを手直ししたやつが出てきたので供養

    英雄は呪いをかけた「            」
     最期に、聴いた言葉だった。


    1


     約半日、飛行機で空を泳いだ。着いた先で時差ボケに苦しめられる身体を無視して、スバルは突き抜けた青い空を感慨深げに見上げた。
     見渡した街の中に見慣れた文字はない。建物や看板を彩る色も日本のものよりビビットで目に痛い。濃い空と眩しい太陽も相まって目がチカチカした。
     肌を撫でる空気がまだ自分の中にある空気と馴染まない。自分の存在だけが明らかに浮いている感覚は、突然異世界に放り込まれた時と同じだった。
    「この間まで引きこもりだったのが、家どころか国を出てるなんてすげぇ話だよな」
     思わず呟きながら、背負っていたリュックのポケットから地図を取り出す。
    「とりあえず寝泊まりするところだよなぁ。あんま金に余裕もねぇし安いところ……あとは働き口か。どっか住み込みで働かせてくれる都合のいいところねーかな」
     とは言ってみるものの、見知らぬ土地で自分の人生がイージーモードではないことぐらい異世界で証明済みである。とりあえずこちらではいきなり腹を掻っ捌かれたり、魔獣に全身を噛みつかれたりということはないと信じてみればいくらかマシといったところか。それでも生まれの島国を出た先に平和主義などという言葉はない。空港の近くということもあって治安はそこまで悪くないが安心はできないだろうと、一通り自分の命の心配が終わった後で思考を元に戻す。
    「とりあえず俺の封印されし英語力と、異世界で多少なりとも磨かれたコミュ力を応用して何とか生き延びるか……」
     ここ数ヶ月の勉強の成果もあり、スバルの英語力は格段に上がった。かつて英語とは完全に縁を切ったつもりでいたスバルであったが、生活に必要となれば話は別だ。元々覚えは悪くないのに加え、英語を関係のない国で使われる言語ではなく、生きていく為の一つの道具として捉えられたのが大きかったのだろう。我ながら凄まじい勢いで習得していった。今では簡単な日常会話程度なら、発音の悪さを考えなければできると言っていいだろう。
     ――毒を吐きながらも、なんだかんだで根気よく自分に文字を教えてくれた彼女は、今のスバルを見てなんと言ってくれるだろう。やっぱり、鼻で笑うだけだろうか。
    「……と、その前に腹ごしらえだな。腹減った」
     胸をよぎった寂しさを誤魔化すように、努めて明るい声を出した。空腹を感じていたのは本当で、腹をさすれば思い出したかのように大きな音を立てた。
     適当にぶらぶらと街を歩きながら目についたファーストフード店に立ち寄る。いつものノリでハンバーガー三つとLサイズのサイドメニューやドリンクを頼んでしまったが、日本のものより一回りも二回りも大きいそれらがトレーでずっしりと構えているのを見て顔が引き攣った。食べられないこともないがとりあえず腹に溜まるドリンクとポテトは後回しにした方がいいなと、食べる順番を決めつつも一つ目のハンバーガーにかぶりついた。
     潰れたパンに、水分が抜けきった薄っぺらのハンバーグ、それから溶けたチーズ。日本で食べるそれよりやや乱雑に重ねられたそれからは、いかにもジャンクフードといった味がした。なぜか癖になる味。ここにマヨネーズの一つや二つあれば更にその味はスバル好みになっていたであろう。
     口内の水分が急速に奪われていくのを感じながら、機械のようにひたすら咀嚼と嚥下を繰り返す。
     季節は秋。照りつける太陽の日差しは午後一時ということもあってきついが、気温自体はそこまで高くない。風も心地よく吹いていた為、スバルはテラスで食事をとっていた。
     昼時に六人がけの席を一人で占領することに多少の罪悪感はあったものの、客足はピークを過ぎていたので問題ないだろう。座り心地の悪い白い椅子に深く座り直す。
     街をせわしなく歩く人々を何ともなしに眺めていたスバルは完全に無防備であった。時差ボケの影響も未だ強く、空腹を満たしながら睡眠を欲するという状態だ。だが、それらを差し引いても動揺せざるを得ない状況が、突然スバルを襲う。
    「相席してもよいだろうか」
     声がかかった。
     無防備な状態であったからこそ、聞こえてきた言葉が流暢な日本語であったことに対して疑問を覚えなかった。それどころか、やはり一人でテーブル一つ占領するのは申し訳なかったかな、などと焦る始末だ。
    「どーぞどーぞ! すいません一人でこんな占領しちゃって……」
     直前まで口いっぱいに頬張っていたハンバーガーを急いで飲み込み、慌てて謝罪を口にしながら正面に立った人間の顔を見る。
     長身の男だった。細身だが決して筋肉がついていないわけではなく、むしろ無駄なく鍛えられたしなやかな身体という印象を受ける。白いワイシャツにジーパンというシンプルな格好ではあったが、それこそモデル並に着こなしていた。
     スバルの許可を聞いてか、男はその骨ばったしなやかな指をテーブルにつくと、もう片方の手で椅子を引いて腰をおろした。必然的にスバルは男を追うようにして目線を下げた。
     琥珀色がスバルを貫いた。整った相貌を縁取る青紫の髪が揺れる。
     それは、かつてナツキ・スバルが恋をした男の顔と瓜二つだった。


    ◇   ◇   ◇


     知らない天井だ。呟きかけて、スバルはそれが誤りであることを瞬間的に悟った。知らないはずなどない。むしろ、最も見慣れた天井と言ってもいい。
     勢いよく身体を起こし、周囲を見渡した。薄手の毛布が肩からずり落ちた。見下ろした手足には傷一つない。
     潰れたせんべい布団の周りには皺になった服が散らばっていた。枕元にはガラケーが充電ケーブルにしっかりと刺さって、サブディスプレイにメールの受信を知らせるメッセージを表示させている。南に大きく開けた窓を左手にした壁際には少し大きめの机があり、机上には愛用のデスクトップパソコンと、その周りには食べかけのスナック菓子やまだ中身の残るペットボトルが死骸のように寝転んでいた。キャスター付きの椅子は三年前から使っているもので、長時間座っていても疲れないのでお気に入りだった。
     机の隣には大きめの本棚があり、漫画やラノベが空白をびっしりと埋め尽くしていた。それでも入り切らなかった本を入れる為の小さな本棚が近くにあり、そちらはまだ空白がある分入れ方が乱雑であった。本棚に戻すのを面倒に思ったのか、いくつかの本は床に積み上げられ、隣には中身とジャケットが異なるCDや断線したイヤホンが落ちていた。
     混乱に混乱を重ねたスバルは、これは夢だと、そう結論づけて二度寝を決め込む為、或いは夢から醒める為に再び布団に潜り込んだ。といっても頭をもたげる不安と、それが引き連れる嫌な心臓の音からは逃げることができず、結局スバルはもう一度身体を起こすことになる。
     充電ケーブルに刺さったままの携帯電話を片手で開いて、画面に表示された時刻を確認する。七時半。その時嫌でも目に入った曜日から、今日が平日であることも理解した。
     学校には間に合うな、なんて。おかしなことを考えてしまった自分を笑った。いや、おかしいわけではない。むしろ正常だ。スバルは受験を控えた高校生なのだから。高校生だったのだから。それでもこの状況下でそんな考えが浮かんでしまう自分がおかしくて、もう一度乾いた笑いをこぼした。
     全身の力が抜けて、布団に倒れ込む。仰向けになりながら、スバルは自身の頬を思いっきりつねった。古典的かつ定番な方法だが、混乱した脳が送り込むことができた体への命令は現状これだけだったのだ。
     鈍い痛みがあった。
     こんな行為は夢かどうかを確かめる手段には成り得ない。数々の痛みと死を経験したスバルは、たとえ夢であってもその痛みが鮮烈に感じられるのだから。
     夢の中でそれが夢だと気づく時と気づかない時がある。今回は気づいたパターンということだろうか。そう上辺だけで思考を回してみても、スバルにはこれが夢ではないことが何となく分かっていた。運命によってもたらされた、権能の及ばない絶対的な流れに魂がさらわれていく。
     力なく横たわりながら、緊張でカラカラに乾いた喉から絞り出した。それは縋る為だ。
    「俺は、死に戻りをしてる」
     あれだけ言いたくても言えなかった言葉がすんなりと何の抵抗もなく出ていってしまった。魔女の腕さえ届かない場所に来てしまったのだと、呑気に鼓動を繰り返す心臓の上を押さえた。
     突然の出来事に対処するのはスバルの十八番だ。異世界に落とされた時、死に直面した時、死に戻りをした時、いずれにもそれは求められた。けれどスバルは、しばらくの間起き上がることができなかった。
     ようやく起き上がろうと思えた頃には既に太陽も随分と高い位置にあった。
     極限状態でも何とか自分を支え続けていた芯のようなものが抜け落ちた柔らかな身体を引きずって、階下へ向かう。味噌汁の匂いがした。
    「あら昴おはよう。今日は早いのね」
    「早いっていうか遅いと思うけど。もう昼だし……」
    「あ、そうだったのね。今朝はお父さんがいないから寝坊しちゃってた」
     不機嫌そうな目をしながら、菜穂子は味噌汁の入った小さな鍋の中をかき回していた。実際不機嫌なわけではなく、目つきの悪さがそう見せるだけの話だった。めでたく遺伝したそれは、紛れもなくスバルたちが親子である証だ。
    「昴、テーブルにお母さんのマヨネーズと、あとここにある皿持っていって」
     言われるままに皿をテーブルに持っていく。マヨネーズを持っていく際には忘れずに自分用のマヨネーズも。
     自分のやることは終わってしまったスバルは椅子に座りつつも落ち着かない様子で菜穂子が支度を終えるのを待つ。
     ほどなくして菜穂子がスバルの向かい側に座ると、どちらともなく手を合わせていただきますを言い、味噌汁をすすった。
    「いつも思うんだけど、なんでこんな和洋折衷?」
    「お母さん、味噌汁の具はわかめ、パンに塗るのは蜂蜜が好き」
     何だそれ、と笑おうとして、ここで耐えきれずにスバルは言葉を詰まらせる。代わりに喉からは嗚咽を、目から涙をぽたぽたと零した。

     スバルは高校を中退した。
     周囲はそれを半ば当然のことのように受け止めただろう。クラスで孤立していた生徒が、徐々に不登校になり、そのまま自主退学に至るなど、全国でいくらでもある話だ。
     だがスバルの退学は、クラスで自分の居場所がないことを嘆いた故の決断ではなかった。それはもっと、スバルの根本に関わる問題であったのだ。
     運命の理不尽な暴虐に振り回され、何十と死に戻りを経験しながら、実質三年、体感ではそれ以上の時をスバルは全く違う世界で過ごした。文化も考え方も違う異国の地で、その異国民さえも味わったことのない苦しみに喘いだ。人格を否定され、愛した者を守れず、狂い、狂ったことさえ忘れて正常な振りをしたこともあった。それでも何も取りこぼすまいと前を向き、がむしゃらに運命に抗った。
     そんなスバルの物語は、スバルが愛した少女、エミリアが王になることで一つの区切りを迎えた。
     エミリアが、レムが、ベアトリスが、スバルの愛した全てが幸せになる為に、全ての悪意を跳ね除けて、ようやく掴んだ一つの結末。それでも問題は山積みだった。実際これからどのように国を動かしていくのか、先の大戦による被害状況を整理し、国の復興もしなければならない。新しい法を整え、街を作っていかなければならなかった。だというのに、世間に未だ蔓延るハーフエルフに対する差別の目と、半魔という蔑称は容赦なくエミリアを傷つけた。無論、それだけで心が折れるような少女ではなくなっていたが、それでもスバルは傍にいて、支えて、力になりたいと思っていた。
     疲れたように息を吐くエミリアの横顔が、自分を見てからぱっと笑顔に変わる様が思い出される。それに胸が締め付けられた。
     何一つ問題が解決しない状況で、それでもスバルはエミリアに言った。明日、デートしよう。エミリアはあたたかな笑みを浮かべて、首を縦に振ってくれた。
     ――街を見て回ろう。果物を買って、行儀悪くそれを食べながら街を歩こう。最近ようやく本格的におしゃれに目覚めたエミリアの為に、服屋や装飾屋に行こうと思っていた。女性の買い物には時間がかかるというが、エミリアが自分を飾る為の悩みならどれだけ長くても構わないと思えた。自身も王に仕える一の騎士として、色々こだわってみるのもいいかもしれない。
     夕方には街で評判の食堂に行こう。そして、二人でお酒を飲もう。きっと酔ったエミリアは、桜に色づいた頬を更に赤くして可愛らしくなるに違いない。さすがにそのまま怪しげな宿屋に、などという道を辿るつもりはないが、彼女の魅力は常にスバルの全身を刺激するのでもしかしたらそんなことにもなってしまうかもしれない。もちろん、保護者である小さな灰猫に頭からがぶりと喰われかねない状況だが。
     夜通し遊び回って、星を見ながら眠くなった瞼をこすって、笑いながら未来の話をするのだ。朝日に目を細めながら、ここから始めようと。
     そんな日は永遠にこない。
     元の世界に戻ったことでスバルは死のない絶望を味わった。エミリアとデートの約束をした自分が今やこんなにも遠い。もう繰り返すことも、あの世界に立つことすら許されないのだ。
     異世界で過ごした三年の時と、全く時が経過していなかったスバルの世界。もう戻れないだろうと、確信すらあったのに、嘲笑うように、むしろ憐れむようにスバルは元の世界に返された。少し伸びていたはずの背も、ついていた筋肉も、より鋭くなっていた目も、全てが十七歳のあの時に戻っていた。鏡に映ったスバルは、知らない誰かを見るような目でこちらを見ていた。
     使命も苦痛も幸福も願いも約束も、三年という時間も何もかも置き去りにして、スバルは元の世界に帰ってきてしまった。
     それから一週間、スバルは文字通り引きこもりだった。学校はもちろんコンビニに行くことすらせず、ひたすらに現状と、どうしようもない絶望と戦っていた。
     達した結論は、それでも決してあの世界での日々が夢や妄想の類いではなかった、というものだった。
     戻れないのならば、なかったことにしてしまえ。そんな弱い思考を持てなくなる程度にはスバルはあの世界で強くなった。そしてその考え方こそが、異世界での日々の証明でもあった。
     認めざるを得なかった。確かにスバルはこことは違う別な世界で命を懸けて戦い、命さえも投げ出して運命に挑み、それを勝ち取ったのだと。そして、その幸せの余韻も、幸せの為の未来も全て奪われたのだと。
     認めた上で、スバルは立ち止まることをやめた。
     絶望に腐りきることができなかったのは、ここが元の世界だったからだ。期待に応えようと足掻いて失敗して、情けない過去を積み上げただけの世界だったとしても、それでもここは、スバルが未練を残し、愛した両親のいる世界なのだから。
     そこからは早かった。スバルの思考は意外にも冷静に、これからどうやって生きていくのかという点にしぼられた。そうして出された答えが、高校の中退であった。
     そして、第二の決断として、日本を出るということだった。
     理由は様々だった。だが、一番はこの平和な世界が受け入れられなかったということだろう。一度は別れを告げたはずの世界に無理矢理戻されて、素直に現状を受け止めることなどできなかった。
     それは逃げだった。それでもスバルにとっては必要な逃げだった。
     死に戻りを経て、スバルの精神は常人とは異なるいびつさを抱えている。壊れたものがもう元には戻らないように、スバルは確かに狂ったままだ。
     身体と心のズレを調整し、荒んで歪んだ心を少しでもこの世界に合った形に戻すには、少なくともこの場所では駄目なのだと。異世界に置き去りにしてきた心を取り戻して、この世界にちゃんと足をつけて歩く為には、この場所では駄目なのだと。スバルは本能で判断した。
     生まれて初めてのバイトを三つ掛け持ちして、朝も昼も夜も働き続けた。
     旅に出たいと言ったスバルを、両親は責めなかった。学校を中退するのも、突然バイトをすると言い出したのも、スバルの両親は何一つ反対しなかった。元々本人の意見を尊重する考え方の持ち主達ではあったが、スバル本人の目が本気であることを理解していたのだろう。
     半年間働くことで得られた収入だけでは、向こう数日で行き倒れることは目に見えていた。それでもスバルはなけなしの金と、必要最低限のものだけを手に家を出た。
     両親への罪悪感はもちろんスバルの心を苦しめた。それでもスバルは、この世界で生きている。本当なら、もう親孝行などできないはずだったのに、スバルは今もこの世界で息をしている。
     スバルの選んだ道は逃げであった。しかしそれは本当に人生から逃げない為に、向き合う為に選んだ道だ。


    2


     どうしてこうなった。
     現実逃避代わりにここに至るまでの経緯を振り返りながら、スバルは半ば死の門をくぐり抜けるような心持ちでそのドアの向こうへ足を踏み出した。
     トイレとシャワールーム、キッチンとクローゼットと一部屋あるだけのアパートの一室。簡易ベッドと本棚しか目立ったものがない寂しい部屋だった。他にあるものといえば小さなテーブルとそれを挟んで二つの椅子が置いてある程度だ。そのうちの一つに座るよう促されて、大人しくスバルは腰掛けた。
     珈琲で構わないだろうか。そう問われた言葉に半ば呆然と、いえお構いなくと返したスバルだったが、男はそんなスバルの答えは特に気にしていなかったのか、スバルを残してキッチンへ向かった。向かったといってもこの部屋の隅にキッチンが備え付けてある状態なので一緒の空間にいる感は否めない。当然気を抜くこともできなかったが、向こうがスバルに背を向ける格好になっていたのをいいことにもう一度部屋の中を見渡した。
     改めて見ても無駄なものがない殺風景な部屋という印象は拭えない。唯一充実していたのは本棚の中身だったが、なんだか難しそうな本がずらりと並んでいて眺めるのを諦めた。テレビや固定電話はないようだった。数ヶ月前に解約したガラケーの代わりに購入したスマートフォンを無意味にいじりながら、これがあればテレビも固定電話もいらないのかもしれないなと、最新の技術に感服する。もちろん、これも現実逃避である。
    「すまない、ミルクや砂糖は置いていないんだ」
     スバルの前に、黒い液体が注がれたマグカップが置かれる。液体の表面に映る自分の顔が飲む前から苦虫を噛み潰したような顔をしている。
     目の前に腰掛けた男はブラックコーヒーを優雅に飲んでいた。子供舌のスバルにとっては信じられない光景だが、飲まないのもなんだか負けた気がするので勢いよく口をつける。
    「あつっ!? ってか苦っ!」
     普通に舌を火傷したスバルはその熱さに思わず声をあげ、続いて味の感想まで口にしてしまった。
    「豆の味だ……」
     カップの中身を見ながらしみじみとそう呟いたスバルの耳に、笑い声が響いた。
     馬鹿にされたのだと、むっとして顔をあげて男を睨みつけようとして、その気が失せた。
     男が、あんまりにも優しい目をして笑っていたからだ。


    ◇   ◇   ◇


     テラスで向かいに座った男を見て、スバルは二の句が継げなかった。餌を求める金魚のように口をぱくぱくさせて、必死に状況を整理しようとした。
     そんなスバルの動揺などお構いなしに、男は優雅に顔の前で手を組み、そこに顎を乗せて微笑んだ。
    「調子はどうだろうか。最後に会った時より少し痩せているようだが……」
     男は久しぶりに会った知人とでも話すかのような口ぶりで話し出す。スバルは目の前の男を、異世界の男と同一視しかけた。それほどまでに、似ていた。他人の空似、と片付けるのも躊躇われるほど。
     目の前の男と瓜二つの人物のことを一旦頭から消し去り、人違いの可能性を考えてスバルは辺りを見渡した。
     空いている席は他にもあった。現にこちらを見ていた二人の男も食事を終えたようでテラスを後にしていた。わざわざスバルと相席を申し出たということはスバル自身に用があったか、前述した通り人違いの可能性が挙げられるだろう。
     それにしてもと、改めて男の顔を見てみるとその整った造形に目眩がするようだった。世界には同じ顔をした人間が三人いるとは聞くが、二つの世界にこの顔が存在しているということは合計で六人はこの奇跡の造形を持ち合わせていることになる。そんなことあってたまるかチクショウ。
    「あの、多分人違いなんじゃ……」
    「行ったか」
     言いかけたスバルの言葉を遮るようにして、男は呟いた。男の視線の先を追ってみるが、人混みがあるだけで一体誰を見ていたのかまでは分からない。ただその剣呑な目つきからは冷たい警戒の色が感じられた。
     男はスバルに向き直るとその端正な顔に嫌味な表情を浮かべ、セットされた髪を撫で付けた。
    「君は警戒心がなさすぎる。もう少し周囲をよく観察したまえ」
     少し厳しめな視線を受け、スバルはたじろいだ。だがそれもほんの一瞬で、なぜ初対面の人間に突然小言を言われているのだろうかと僅かな苛立ちを感じる。他の人間ならこうも苛立たなかっただろうが、スバルにとってかなり因縁のある顔なのだ。
     それに、警戒心云々といっても伊達に異世界で命を散らし続けたわけではない。殺意や命を脅かす危険性はある程度感じ取ることができるし、チンピラぐらいなら撃退できると自覚していた。
    「ご丁寧にどーも。けど……」
    「この辺りで観光客を狙った盗難は日常茶飯事だ」
     盗難、スバルは口の中で呟いた。盗難?
     視線を隣の椅子に置いていた荷物に向ける。盗難。
    「確かに、これだと盗んでくれって言ってるようなもんか……」
     荷物を膝下に引き寄せ、完全に失念していたと頭が痛くなる。自分の命に気を配りすぎるあまりその他がおろそかになっていた。殺意に慣れすぎて命に関わらない悪意は見逃していたのだ。
     よくよく思い出してみると、エミリアも慣れない王都で絶対に盗まれてはいけないものを盗まれて散々な目に合っていた。人のことは言えないようだ。
     素直に男に対して礼を言うのも癪だったスバルの口からこぼれたのは言い訳のようなものだった。
    「俺、今日こっちに来たばっかで……」
    「構わないさ。観光かい?」
    「いや、観光っつーか……家出?」
     家出ではないのだが、うまく言葉が見つからずにスバルはその一言で済ませることにした。案の定男は目を見開くと眉を寄せた。
    「家出にしては遠出すぎないか。見たところ出身は日本のようだけれど」
    「せーかい。まぁ色々事情があんの。そっちこそ、随分日本語が上手なんだな」
    「まぁ、こちらにも色々と事情があってな」
     互いに踏み込んでほしくない話題に触れてしまったらしく、それを避けるとふと沈黙が落ちた。スバルとしてはそのまま流れでこの男と別れたかったところだが、目の前にまだ二つ残るハンバーガーがそれを許してくれなかった。
     仕方なく二つ目のハンバーガーにかぶりつく。向こうが早く席を立ってくれることを願って。
    「……なんだよ」
     しかしその願いが届くことはなく、男は変わらずスバルを見つめてくる。スバルも思わず男を見返すが、視線に耐えきれず先に声を上げたのはスバルだ。
    「行く宛はあるのか?」
    「まだ決めてねぇ。とりあえず安いホテルにでも泊まろうと思ってるけど」
    「料理はできるか?」
    「はぁ? まぁ人並みには」
    「掃除は」
    「できっけど! だからなんだよ」
     料理も掃除も洗濯も、異世界に放り込まれてすぐにロズワール邸で仕込まれた。それから向こうで暮らす分には基本自分のことは自分でやるのが普通だったので、それらのスキルも上がったものだ。だが、なぜいきなりそんな質問をしてくるのか、男の意図が分からずスバルは声を荒らげかけた。
    「うちに来ないか」
     突拍子もない提案をした大層顔の整った男は、ユリウス・ユークリウスと、そう名乗った。

     回想を終えたスバルはげんなりとため息をついた。色々とおかしい点を主張したもののスバルの話は全くといっていいほど取り合われず、あれよあれよと話は展開していった。結局流れに身を任せてここに来てしまったというわけだ。惚れた(男の顔の)弱みというか何というか。やだ、俺チョロすぎ……?
     男、改めユリウス曰くどうも働きながらでは家事にまで手が回らないとか何とかでヘルパーを雇おうと考えていたらしいが、そこまで金に余裕があったわけでもないので渋っていたのだという。
     そんなところに家出をしてきたはいいが住む場所も働き口も未定という、中々に難儀な人間が現れたのだ。そこで、住む場所を無償で提供する代わりにそれらの家事を請けもってほしいということだった。ユリウスは互いのメリットをよく回る口で説明したが、どう考えても問題だらけだ。むしろ問題しかない。
     部屋もわざわざヘルパーを雇ってまで掃除をしなければならない程汚れているようには見えなかった。なぜ好き好んでニートの男などを連れ込む気になったのか、皆目見当もつかない。ただ、許可を取って冷蔵庫を確認してみると中にはマヨネーズとビールしか入っていなかった。なんでマヨネーズ。
     そもそも二人はつい一時間程前に顔を合わせたばかりで、互いに知っているのは名前だけだ。スバルは先程警戒心が足りないと言われそれを自覚したばかりであったというのにこんな所にのこのこ着いてきてよかったのだろうかと今更疑問に思う。実はこのまま拘束されて人身売買だとかそういった問題に巻き込まれはしないだろうか、などと一瞬考えてはみたが、スバル自身がその考えを否定したがっていた。
     彼の見た目で、そんなことをする様がどうしても想像できなかったのだ。
     外見も、しぐさや嫌味ったらしい話し方も、髪を撫でる癖も、会話と会話の間の呼吸の挟み方まで、彼はスバルの知るユリウスと同じであった。加えて、同姓同名だ。
     ひとまずスバルの中で目の前のユリウスは、異世界のユリウスとは記憶を共有していないものの根源的には同じ存在であると仮定している。その心根も、同じであると考えれば、彼がそんなことをするはずもない。
     心の中にある無条件の信頼が、スバルの警戒心を弱めていた。更に、この異国の地でどうやって生きていくかほぼほぼノープランだったスバルにとっては、ユリウスから出された提案に対して飛びつく勢いで承諾したい気持ちもあった。
    「んで、俺は料理洗濯掃除をすればいいってことでオーケー?」
    「食事は朝と昼だけで構わない。仕事の都合上夜は基本遅くなるから、先に寝ていたまえ」
    「え、俺やることあんまなくね? ちょっとイージーモードすぎない?」
    「食費も君に渡しておくから、好きに使ってくれ」
     ここでスバルは家賃も食費払わずに家に住まわせてもらってもいいのだろうかと不安になる。その為に出された条件があまりにも緩すぎるのだ。
     掃除といっても部屋はそう広くない。今まで無駄に部屋の多い邸を少ない人手の中掃除していた身からすれば文字通り朝飯前だろう。洗濯に関してもそもそも服自体あまり持っていないようだしそう毎日する必要もなさそうだ。それに加え、食事は朝と昼だけでいいと言われてしまえば、それが家賃に釣り合うのかと疑問に思ってしまう。
     もちろん働き口が見つかればすぐにでも働くつもりではあるし、世話になった分はきちんとお金で返す予定だ。だが、その考えをスバルはまだユリウスに伝えていないし、伝えたとしてそれが実現するかも分からない状況でここまでの待遇を受ける意味が分からない。
     スバルの中に浮かんだ可能性は二つ。一つ目は何か裏がある、ということ。だがこれは前述した通りスバルにとってはあまり考えられない、考えたくないことであった。
     二つ目はユリウスお坊ちゃま説だ。
     向こうの世界でも多少複雑ではあったもののいい家の生まれだったらしいユリウスは、世間知らずというわけではなかったがたまに一般人とずれているところがあった。
     そもそも、ユリウスがこんな小さなアパートに住んでいること自体疑問だったのだ。あまりにもイメージに合わない。いや、偏見かもしれないが。
     おそらくこの世界のユリウスもそこそこいい家の生まれで、家出中か何かなのかもしれない。そう考えると全ての辻褄が合う気がした。根無し草の男を捕まえてヘルパー代わりに使うなど、金持ちが考えそうなことだ。
    「じゃあさっそく買い物行くか。この家なんもねーし。お前仕事何時から?」
    「今日は休みだ。私も行こう」
     スバルはすっかり冷めてしまった珈琲を流し込むと財布とスマホだけを手にした。
    「スバル」
     名を呼ばれて、心臓が跳ねた。それを誤魔化しながら声の主を見ると、手には鍵があった。
    「合鍵だ。渡しておく」
    「……チョロすぎとか自分のこと心配してたけどお前も大概じゃねーか。普通会ったばっかりの人間に合鍵渡すかぁ?」
     おずおずと差し出された鍵を受け取って、居心地悪そうにそれを少し手の中で弄ると尻ポケットに突っ込んだ。
    「君にそんな度胸があるようにも見えないからね」
    「ヘタレって言ってるならぶっ飛ばすぞ」
     先程開けたばかりのドアを開けて再び外に出る。日は少し傾いたがまだまだ明るい。殺風景さからきていたのだろう、何となく部屋の雰囲気がどんよりとした印象があった為か、余計に外が明るく感じられた。
    「とりあえずお前がいつも行ってるスーパー連れてけよ」
     そう難しいことを要求したつもりではないのだが、スバルのその言葉に対してユリウスは考えるように黙り込んでしまった。おい、と声をかければあぁ、と適当に返事をされた。
    「普段はコンビニで済ませてしまうんだ。スーパーは、数える程度しか行ったことがない」
    「ちょっと待て。お前の食生活どうなってんの?」
     冷蔵庫の惨状を思い出してみれば尋ねる必要もないことだったが、一応だ。
    「朝はパンを食べることが多いな。後は珈琲と、休日には少々酒を」
     調味料すら置いていなかったキッチンを思い出してスバルは呆れたように額を抑える。どう見てもトースターの影すらなかったところから判断するに、そのパンを温めるという考えはないらしい。
    「もういいから適当に近くのスーパーに案内してくれ」
     最優という言葉から大分遠い食生活に思いを馳せながら、スバルの中のお節介な性格が疼いた。これはなんとしてでも健康的な食事をとらせなければという一種の使命感のようなものがふつふつと湧く。
     スーパーはアパートから歩いて十分程度の所に一軒あった。少し小さいがコンビニよりはずっとマシだ。
    「とりあえず卵と牛乳と、俺用のマヨネーズと、パンだろ。あとは……」
     カートを押しながら買わなければならないものを頭の中でリストアップしていく。
     必要そうなものを次々カートに放り込んでいくスバルの少し後ろを、ユリウスが無言でついてくる。
     なんだかその様子がおかしくて、というか柄にもなく、いや、惚れた欲目というか、なんだか可愛いなんて思ってしまってから、その考えを振りほどくように野菜の選別に入る。
    「何か食べたいもんあるか? 好物とか」
    「……………………オムライス?」
     散々悩んだ結果がそれかよと、思わず吹き出した。非難の目が注がれるが、お構いなしだ。
    「フランス料理フルコースでとか言われたらってちょっと身構えちまった」
     とりあえずは作れそうな料理名が出たことにホッとしつつも、玉ねぎをカートに放り込む。
     なんだかんだでカートの中はあの乾ききった冷蔵庫を満たすかのごとく満杯になっていた。男二人ということで荷物を運びきれるかという心配はしていないが、袋をケチって詰め込むと底が破れる可能性は大だ。
     会計時、全部払おうとするユリウスを制してスバルはなけなしの持ち金をはたいた。調味料や二人分の食料、更には歯ブラシやタオルなどスバルにとっての生活必需品まで買い込んだというのに、ユリウスにだけ払わせるのはさすがにスバルも罪悪感で押しつぶされる。そもそも、金が勿体無いという理由でヘルパーを雇うことを渋っていたのに全部払おうとするとは一体どういう了見なのかとスバルは強い語調で問いただす。
     気づけばレジ前で延々と嫌味合戦が始まってしまい、日本語での会話だったのでレジのお姉さんに内容までは伝わらなかったようだが、とにかく面倒だからさっさと金払って帰れと顔に書いてあった。
     何とか互いに出掛かった皮肉を喉に押し込めると、会計を済ませスーパーを後にした。
     かなり長い時間買い物をしていたのか、日は大分傾きかけていた。二人は両手に大量の食料を抱えながら帰路につく。歩く度に袋同士がぶつかった。――音がする。
     夕焼けの眩しさに目を細める。スバルは隣を歩くユリウスを盗み見た。
     普段は青みがかった紫の髪が、夕日に照らされて不思議な色を滲み出していた。琥珀の目も、とろけたオレンジの果実のようだ、と思ってからこれはあまりにも詩的すぎたかな、とスバルは自身を笑う。
     その笑いに気づいたのか、ユリウスもスバルに目を向けた。
     ――絶対にあるはずがないと、決めつけていた可能性を振り返る。
     スバルの隣を歩くユリウスという人物は、あまりにも彼が異世界で知り合ったユリウスと似通っていた。それは何も外見だけの話ではない。生真面目な性格、気障ったらしいしぐさ、話し方、その全てがかの世界でスバルが恋したユリウスそのものだったのだ。魂が同じで、それでも違う存在などと仮定はしてみたが、本当にそうだろうか。
    「なぁ、お前さぁ」
     なんと問いかければいいか分からず、スバルは言葉に詰まった。隣を歩いていたユリウスは、急かすこともなく無言で言葉の続きを待っていた。
     けれどスバルはやっぱり続ける言葉を見つけられなくて、言い出しを変えた。
    「そいつはその、騎士って役職に就いてて、あと精霊術士で、だから合わせて精霊騎士で」
     出てきたのはそんな突拍子もない言葉だ。これだけ訊けば完全に頭が可哀想な人間の発言に違いない。けれど、これだけ言えば分かるだろう。察してくれないだろうか。ユリウスを見ても、彼はまだスバルの言葉の続きを待っていた。
    「そう、すっげー嫌味で気障ったらしくてムカつくんだ。俺は未だにあいつがエミリアたんの手にキスしたこと根に持ってるし、そう、とにかくムカつく」
     自分でも何を言っているのか分からなかった。そもそも何が言いたいのかも分かっていないのだ。ただ、疑問の答えが知りたい。期待、していた。
    「でもまぁ強さ的に言っちまえば俺なんかよりずっと強くて、頭だって良いし、悔しいけど本当にすげー奴で」
     目の前のユリウスが、あの世界のユリウスだとすれば全て納得がいく。わざわざ自分に声をかけたことも、家に招いてくれたことも。合鍵を渡してくれたことも。確かに信じがたい話かもしれないが、そもそもその信じられない話をスバルは身をもって体験しているのだ。もしかしたらユリウスも何らかの理由でこの異世界に召喚され、そしてそのことを他言できないようにされているのかもしれない。
    「そいつ、お前と同姓同名で、見た目も超そっくりなんだけど」
     お前がそうなんじゃないのか。お前が、俺と共に時間を過ごしたユリウスなんじゃないのかとは、訊けなかった。
     風が吹く。秋の風は、やはり少し冷たかった。夕日の柔らかな熱など、簡単に奪い去ってしまう。
     こちらに顔を向けたユリウスは、その真剣な表情を少し崩すと、何を言っているのか分からないとでも言うように、困った顔をして、笑った。


     ◇   ◇   ◇


     スバルはその時、分かってしまったのだ。
     長い睫毛がおりて瞬きをする。耳を通り抜ける風とそれに混じる怨嗟の声、頬を撫でる少し長い髪の毛先の感触、口内に唾液が広がる感覚、握りしめた剣の重さ、戦闘の高揚感。それらに混じって、それはあった。
     そんな簡単な言葉で表していいのか分からない。けれどスバルにはそれしかあの思いを表現できる言葉が他に思いつかなかった。
     恋だった。
     一歩間違えば互いの精神が壊れかねない魔法の中で。気を抜けばあの手に命も何もかもむしり取られる戦いの中で。それでもその想いはそこにあった。
     それは目を背けたくなるぐらい鮮やかで、魅入られてしまうぐらい哀しくて、涙が出そうなほどに愛おしい想いだった。誰に抱いた想いだったのか、魔法の中では全てが筒抜けだった。そんなにも、眩しい光を見つめるように見ていたことなんて、知らなかった。
     そして、スバルがその想いに気づいたことに、感覚や感情の共有に、その恋までもが呑まれていたことに、ユリウスも気づいていただろう。
     だが、結局二人はお互いにそのことに関して言及することはなかった。知らないふりをしたのだ。気づかないふりをして、なかったことにしようとした。


    3


     同居生活はいたって順調だった。これが、驚くほどに。気づけば季節が秋から冬に変わるぐらいには。もちろん皮肉の言い合いやいがみ合いはしょっちゅうあったが、同居生活が破綻する程の大喧嘩に至ることはなかった。
     スバルの一日は、朝四時に起床するところから始まる。季節によっては朝と呼ぶことすら憚られるほど真っ暗な世界の中、スバルは身を起こす。顔を洗って歯を磨き、髪を整えるところまでが朝のルーティーン。なぜこんなに早起きなのかという説明は後述しよう。
     夜の間仕事に出ているユリウスは朝方帰宅する。ユリウスは適当にシャワーを浴びるとすぐにベッドに身を横たえて眠ってしまうので、スバルはなるべく音を立てないようにユリウスが起床するまでの自由時間を謳歌する。
     気を張っているわけではないのか、それとも本当に疲れているのか、ユリウスがスバルの立てた僅かな物音に目を覚ましたことはなかった。だがそれもスバルに気づかれないように起きているのだとしたら、スバルでは確認のしようがない。
     別な部屋に移動できればいいのだが、この手狭なアパートにはまともな部屋がここしかない。となると、自然と行き場所はこの部屋か、せいぜいトイレか。本格的に耐えきれなくなった場合は軽く外に出ることもあったが、冷たい空気が張り詰める冬の朝に外出の選択をする日は少なかった。結局はこの小さなアパートでひたすらスマホをいじるか、せいぜい英語の勉強をする程度だ。
     朝日が昇ってしばらくするとユリウスの意識が覚醒に向かう。その頃になってスバルはようやくこの場所にいる意味を果たすことができる。
     タイムリミットはユリウスが朝の身支度を終えるまで。別段ユリウスはスバルを急かしたりすることもなかったのだが、勝手にスバルが自身に時間制限を設けただけの話だ。スバルは気合を入れてキッチンへと向かう。
     片方のコンロではお湯を沸かし、もう一つのコンロの上では油をひいたフライパンを温める。食パンを取り出してトースターに二枚ほど放り込んでから、自分用の食パンにはマヨネーズを塗りたくる。マグカップにインスタント珈琲をぶち込み、もう一つのマグカップには牛乳を注いで電子レンジで温める。珈琲と牛乳がそれぞれどちらのものなのかは、言わずもがなである。
     フライパンが十分に温められたところで冷蔵庫から卵を四個取り出し、落とし入れる。それを放置している間に適当にサラダを作ってしまう。ちなみにサラダにはどちらも問答無用でマヨネーズがかけられる。
     湧いたお湯をマグカップに注ぐと珈琲の香りが広がった。空いたコンロで前日のスープを温め始める頃に第一弾の食パンが焼き終わる音が響いて、今度は自分のマヨトーストを放り込んだ。目玉焼きの裏に軽く焦げ目がついたところで、二つはスバルの皿に盛り付ける。ユリウスはどうやらしっかり白身が固まっている方が好きらしいので、水を入れて蒸し焼きにする。少しの待ち時間を、朝の気配に委ねる。
     用意したものを一通り並べ終わる頃にちょうどユリウスがテーブルについた。声を合わせることもないがどちらともなくいただきますを口にして、朝食の時間が始まる。メニューは食パンと目玉焼きが固定で、スープやサラダは前日の夕食と冷蔵庫の中身と相談して決められる。食べ盛りというわけでもないが二人とも大の男なので、目玉焼きには基本ベーコンやウィンナーといった肉類がお供に付くことがほとんどだが、今日はたまたま切らしていた。
     ここでスバル的にはテレビでも観たいところであったが、この家にそんなものはない。元々電子レンジもトースターもない家だったのだ。それらが揃った今の状況を喜ぶべきだろう。
     さて、テレビも何もないこの部屋は食器の触れ合う音だけが響き合うのかというと、意外とそうでもない。それはユリウスがスバルに話題を振るからであり、そのおかしな気遣いにスバルは舌打ちしたい気持ちになりながらも毎朝付き合うのであった。
     朝食を終えた後はユリウスが自由時間に入り、洗い物を終えたスバルもそれに続いて自由の身だ。スバルとしてはさっさと掃除を済ませてしまいたい気持ちもあったが、仕事の疲労を残しつつも一時の休息に身を委ねている人間を邪魔だと部屋の隅に追いやって掃除機をかけるほど鬼でもない。
     さてこの自由時間、今までならユリウスは本の一冊でも読んでいたものだ。眼鏡をかける姿にスバルは散々心臓がはじけ飛びそうになり、ギャップ萌えって男でも適用すんのなとぼやいたのは秘密である。
     そんなユリウスはどうやら連絡を取る時にしかスマホを使っていなかったらしく、それではあまりにも勿体無いと、ゲームアプリをインストールしてやった結果、これが存外ハマってしまったらしいのである。
     というわけで、最近ではもっぱらスマホゲームでユリウスの自由時間は潰れていくのだった。一瞬悪いことをしたような気持ちにスバルは陥ったが、本人が楽しそうなので良しとしよう。
     朝食が少し遅い為、昼食の時間もずれ込む。ユリウスから頼まれているのは朝食と昼食だけだ。朝食に関しては朝からあまり重いものも食べられないだろうという配慮の元、軽めなものとなっているので、手をかけるのなら必然的に昼食になる。
     ユリウスの最底辺の食事事情を知った日から、スバルは日々ネットを駆使して様々なレシピを調べ、ついには栄養学にまで手を出した。今では栄養士並に知識とメニューのレパートリーがあるスバルは、一時間以上前から下ごしらえに取り掛かる。手伝おうとするユリウスを威嚇して黙らせ、今ではキッチンはスバルのテリトリーである。
     遅めの昼食を食べて一服した後、ユリウスは仕事に出かける支度を始める。それを見て、スバルも掃除を開始する。
     行ってくる、と声をかけられれば無視をするわけにもいかず、かと言って素直にいってらっしゃい、などと言えるわけもなく、スバルは素っ気なく「おう」と二文字を返すのだった。
     掃除が一通り終わると次は洗濯だ。毎日するわけではないが、今日はちょうど洗濯日である。洗濯機にユリウスと自身の洗濯物を放り込む。年頃の娘よろしく「パパと一緒はやだ」と言う程嫌悪はしていないので、特に気にはしない。最初にユリウスのトランクスを手ずから洗濯機に入れた時何も思わなかったわけでもないが、人間慣れるものである。しかもスバルの場合は二回目で慣れた。
     ここでようやくスバルは寝間着から外行きの服に着替える。基本装備の財布とスマホと鍵を手にアパートを出た。向かう先は近所のスーパー、目的は数日分の食料の調達である。
     たっぷりと時間をかけて食材を選び、帰るとすぐさま寝間着兼家着に着替える。買ってきたものを整理しつつも、夕食のメニューを考える。食べるのはスバルだけなので、自然と適当になることが多い。大抵は冷蔵庫の隅の方でしなびかけた野菜を始末する為のメニューを考えることになる。
     夕食の後は趣味に時間を費やし、一段落したらシャワーを浴びる。時間は午後十一時、この辺りでスバルを眠気が襲う。濡れた髪が何とか半乾き程度になるまでタオルで水気を拭き取り、歯を磨くとベッドにもそもそと潜り込む。かつて夜中に液晶とにらめっこして朝日が昇りきったあたりでベッドに潜り込む生活をしていたスバルからすればかなり早い時間の就寝だ。これが、冒頭で述べた早起きの理由にも繋がる。
     スバルが早寝早起きを徹底しているのは、ひとえにベッドが一つしかないこの部屋においてユリウスと就寝時間がかぶることを防ぐ為だ。お世辞にも広いとは言えない部屋にベッドを二つ置くこともできず、ならば少し大きめのベッドを買って二人で一緒に寝ればいいか、などという結論に至るわけもなく、自然と就寝時間をずらすことで落ち着いたのだ。
     こうして、ナツキ・スバルは一日を終える。

    「いや終える、じゃねーよ」
    「君の独り言はいつものことだがもう少し声量を抑えてもらえないだろうか」
     テーブルにスマホを置いて両手の人差し指でひたすら画面上をタップするユリウスが、スバルの独り言に対してそう返した。今ユリウスがやっているのは巷で流行りの音ゲーだ。軽快な音楽が鳴り響く。
    「俺ちょっと適応しすぎっていうか、大丈夫かなって心配になってさ」
    「特に問題はないのだから深く考えることではないと思うよ」
    「その問題がないのが問題なんだよなぁ」
     あまりにも順調すぎる。最近ではお互いのあれだのそれだの指示語の指す内容まで何となく把握できる始末だ。熟年夫婦か。
    「お前もちょっとはこの状況が普通じゃないって危機感持った方がいいぞ」
    「あ! コンボが途切れてしまった」
    「楽しそうでよかったよチクショウ!」
     先程のスバルの独り言よりもよっぽどうるさい上、スバルの言葉を無視した上での独り言だ。スバルは額に青筋を浮かべながら憤慨する。世界中の女が放っておかないような見た目をしておきながら、実態は狭いアパートで男と同居し、自分の時間はスマホゲームに費やしている。とても見せられない姿である。
     今日は仕事が早く終わったのか、スバルがベッドに入る前にユリウスが帰宅した。何の仕事をしているのか聞かされていないのでわざわざ尋ねはしなかったが、休みの具合からみてもかなり不定期の仕事らしい。
     今はお互いに歯磨きもシャワーも済ませ、後は寝るだけといった状態だ。ベッドは一つしかないので、必然的にベッドを勝ち取るのは家主のユリウスになるだろう。
     既に眠気を感じていたスバルであったが、寝る場所がないので仕方がない、そう思っている前でユリウスは立ち上げていたアプリを終了させて、寝るかと声をかけた。
    「おー寝ろ寝ろ。俺はトイレにでも篭もるかぁ」
    「腹の具合でも?」
    「お前さぁ、女の人にもそんなこと訊くのかよ? デリカシーとかそういう問題じゃねぇだろ」
    「大丈夫だ。こんなことを言うのは君に対してだけだ」
    「余計タチわりぃよ!」
     問題が、ないわけではない。
    「……いいからさっさと寝ろよ」
    「君はどこで寝るんだ?」
    「だからうるせぇって。どうだっていいだろ」
    「もし私がいるということを気にしているのなら問題ない。一緒に寝ればいいだろう」
    「はぁ??」
     思わず普段から悪い目つきを更に悪くしてユリウスを睨んでしまった自覚がある。それほどまでにユリウスの言葉は理解できなかった。
    「いやいやいや、なんでお前と寝なきゃいけないんだよ。そもそもあんな狭いベッドで男二人が寝れるわけねーだろ」
    「どうやら君は見た目と普段の行いにしてはそこまで寝相が悪いわけでもなさそうだし、多少詰めれば問題ないだろう」
    「だからその詰めるのが問題なんですけど」
     嫌味をスルーしてしまうぐらいには、スバルは焦っていた。
     何度でも言うが、スバルの目の前にいるユリウスは、あの異世界で共に過ごしたユリウスと、嫌になるぐらい全てが同じなのだ。
     初めて会ったあの日、買い物帰りの夕日の中で、スバルの勇気を振り絞った問いかけに答えが返ってくることはなかった。だが、それが答えだった。彼は、異世界のユリウスとは違う。それが分かっているのに、それでも彼はスバルの異世界に置いてきたはずの恋心をくすぶってやまない。
     その薄い唇も、細められたつり目気味の鋭い目も、琥珀色の瞳も、優雅な指先も。
     口を開けば嫌味ばかりなのに、たまに溢れる妙な子供っぽさや、伏せられた瞳の放つ色気や、スバルのことを思って溢れた優しげな言葉がどれだけスバルの心を乱したか。案外表情豊かな彼が、喉を鳴らして笑う度に、どれだけスバルの恋心が泣いたか。
     なかったことにされたはずの恋心が、化石にしてしまおうとしていた恋心が、目の前の生きた肉体に全てを暴かれる。彼は確かにスバルが恋をしたユリウスだった。たとえ生まれた世界が異なっていて、スバルのことなど何一つ覚えていなかったとしても、それでも同じなのだと、スバルの情けない心が叫んでいた。
     ということで絶賛ユリウスに想いを寄せているスバルである、普通に過ごす分にも問題が見え始めてきたというのに、一緒のベッドで密着して寝るなど不可能――。
    「私のことが好きなのだろう?」
    「え!? は!? 俺声に出してた!?」
    「私も君のことを好いていたからね。見ていれば分かるさ」
    「尺足りなくて最終回で怒涛の展開を迎えるアニメみたいなのやめてくれる?」
     思わずいつものように返してから、その後スバルが沈黙していたのは約五分だ。状況整理に使われたわけだが、その間スバルの脳は死ぬことを回避する為思考を回すレベルで酷使されていた。
     達した一つの結論は、最初にユリウスの言葉を否定するべきだったのでは? という疑念である。
    「いや、別に、お前のことなんて好きじゃねーし」
    「遅くないか?」
     弱々しい否定をしてスバルは俯いた。聞き間違い、ということにしておいた方がいいだろう。
     本格的にユリウスに背を向け部屋を出ようとするスバルに声がかかる。
    「スバル」
     振り向いてはいけない、そう思うのにスバルの身体は言うことを聞かない。声が耳から身体の奥底にまで入り込み、支配権を奪ったかのようだった。
     そして振り返って、やっぱり見るべきではなかったと後悔した。
     そこにあったのは縋るような色だ。かつて世界の全てから忘れられた青年がしていた目。そんな目をした彼を無視することができないぐらいには、スバルは彼のことが好きだった。

     ――音がする。


    4


     エミリアを王に据えることで王戦は一つの結末を迎えた。
     国民の総意とは言い難い状況下で王に就任したエミリアに対する不満は各所でそう小さくない声で囁かれていたが、それでも暴動といった類いの騒動が起きないのはひとえにエミリアが今まで成し遂げてきた功績があったからである。王戦終結のほんの二ヶ月前までは国どころか世界存亡の危機だったのだ。それらを解決する為に命さえも投げ出す覚悟で、それでも民一人として見捨てようとせずに奔走し、戦い抜いたエミリアに対する態度には差別を超えたものが生まれ始めていた。
     王になって終わりではない。むしろ肝心なのはこれからだ。エミリアの傍で、一の騎士としてエミリアを支えるのがスバルのこれまでの、そしてこれからの使命で願いだ。
     そんなスバルは現在王都の大通りを、リンガの入った袋を片手に歩いていたところである。理由は単純、スバルの仕えるエミリアが突然、リンガが食べたいなぁと可愛らしい銀鈴の音色で奏でたのだ。
     ただ、王になった彼女の願いはそれだけで多くの人間を動かすことになる。以前それを知らずにその小さな願いを口にした結果、リンガ農家がそれぞれのリンガを大量に献上するに至り、あわや国全体が動くところであった。
     だから今回の願いはスバルにだけ打ち明けられたものだった。そしてその願いさえも、様々な仕事に追われ、ろくに外に出ることもできなかったスバルを気遣ってのものであったことを、スバルは知っていた。不器用でどうしようもなく優しい、スバルの大事な人。
     ともあれスバルとて王の一の騎士となればそれなりの有名人である。ただでさえそれ以外の肩書きも独り歩きしている状態だ、出歩く際には認識阻害のローブは手放せない。
    「スバル」
     僅かに潜められた声で呼ばれた。振り返ると、気障ったらしい顔があった。
    「うげ……認識阻害とは」
    「その反応は感心しないね。いくら私に対して劣等感を抱いているからといって、王の騎士として許された立ち振る舞いとは言えない」
    「なんだこいつうるせぇ」
     丁寧にセットされた青紫の髪を撫で付けてスバルにそう話しかけるのはユリウスだ。その身を包むのがいつもの団服ではないことから、今日は非番なのだろうと予想を立てる。
     自然にスバルの隣を歩き始めたユリウスが、スバルのローブの下の服装を見て僅かに眉根を寄せた。
    「振る舞いもそうだが格好にももう少し気を配ったらどうだ?」
    「これが楽なんだよ。それに、何の為のローブだと思ってやがる」
     ローブの中に着込んだいつものジャージの襟を直しながら、その実あまり役に立たなかったことを思い出す。
     スバルが騒ぎに巻き込まれるのか、スバルの周りで騒ぎが起きるのかは不明だが、なぜか騒ぎの渦中にはスバルがいるのだ。そしてそれを解決する過程でローブが取れて正体がバレるといった流れがなかったわけでもない。まぁ顔が知られている分それだけで問題が解決することもあるのだが。
    「まぁ俺も馬鹿じゃねぇ、二重に対策はしてある」
     ローブの端を摘んで僅かにそれを上げ、スバルはユリウスを見上げた。
     スバルが指したのは自身の前髪だった。いつもはオールバックにしている髪が、今は全ておりている。エミリアをして一瞬誰だか分からなかったと言わしめた過去がある為、一応の保険である。
    「随分と印象が変わるものだ」
    「これなら万一ローブが取れてもパッと見なら俺と分かんねぇだろ。自分の天才さが怖い」
     ローブを深くかぶり直して、スバルは王城への道を歩く。その途中、スバルは突然立ち止まった。
     胡乱げに名を呼ぶユリウスに、スバルは歯切れ悪く言葉を紡いだ。
    「明日、エミリアたんとデートに行く予定なんだけど」
    「でえと?」
    「デート。二人きりで出かけることなんだけど、そのエスコートっつうの、女の子を退屈させない、かつ楽しませる会話方法とか出かける場所をだな……」
     小首を傾げて最優らしからぬ辿々しい発音でスバルの言葉をなぞったユリウスにもう一度言葉を繰り返しながら、もぞもぞと続ける。
     それで察したのだろう。得心がいったという顔をした後優雅な笑みを浮かべた。
    「なるほど了解した。他ならぬ君からの願いだ、全力を尽くそう」
     離れ難かった、もっと一緒にいたかった、そんなスバルの思いまで察していたのかは分からない。
     ユリウス行きつけのレストランやら酒屋やら、他にも女性に人気の雑貨屋、更には星が綺麗に見える丘とそこまでのルートまで教えてもらってしまった。再び王城への道を歩く頃にはすっかり日は落ちていた。
     今度こそ王城へ帰る道を歩きながら、半日近くリンガを抱えっぱなしだったせいで疲れのたまった腕のだるさを少しでも抜くようにリンガを抱え直す。
     持とうかと、ユリウスはスバルに声をかけた。だがスバルはそれを断る。これはエミリアが自分に頼んだもので、誰にも渡せない。ユリウスが腰に下げた剣を誰にも渡すことができないように。このリンガは、そういうものだ。
     近道という名の裏道に入る。ようやく王都の地理にも詳しくなってきた為、こういったショートカットもできるのだ。
     太陽の差す昼間でも薄暗い路地裏は、夜となるとほとんど暗闇だ。表通りの外灯はその道を照らすだけで、こんな小さな裏通りにまで光を届けてくれない。もちろん、人通りもなかった。
     そこでようやくスバルは被っていたローブを外す。半日布を被っているというのは思ったよりも気が滅入る。ちくちくと刺さる前髪も原因の一つかもしれない。
     邪魔ったらしい前髪をいつものように掻き上げるが、整髪剤のない状況では半分ほど前におりてきてしまう。それでも先程よりはずっとマシだ。
     僅かに息が乱れる音を聞いた。本当に小さな音だが、聞き取れたのは世界が静寂に包まれていたからだろう。そして、そこまで思考が回る前に、リンガを持っていない方の手首が掴まれた。珍しく私服で、素手だったので、彼の熱が直接スバルに伝わった。
     ユリウスの目がよく見えたのは、夜の闇に目が慣れていたというだけではない。目の前にある瞳が、あまりにも鮮やかだったから。光っているのではないかと思うぐらい、焦がれるように、獰猛で。
     そのまま距離を近づけ、ゼロにしようとするユリウスの端正な顔を見ながら、一体どこでスイッチが入ったのだろうかと、少し疑問に思った。
    「拒まないのか」
     すんでのところで止めて、ユリウスはそう問いかけた。しかしスバルはそれに対して挑発的に笑う。
    「こんな時に口開くたぁ優雅じゃねぇな」
    「違いない」
     今度こそ二人の唇が重なる。角度を変えて何度か、触れるだけのキスだ。やわらけーなと、スバルは最後にその唇の表面を食みながら思った。
     スバルはユリウスの気持ちを知っていた。あの気持ちが、あの戦いの中で生まれたわけではなく、もう少し前に生まれていたことも。だから、多分ユリウスが自分の介錯をした時には既にその気持ちがあったのだろうなという思いと、ひどいことを頼んでしまったなという罪悪感があった。けれど拒めなかったのはそれだけではない。
     スバルもまた同じ想いを抱いてしまったから。だから、拒めなかった。
    「はっ、お前でもこんな衝動的に事運ぼーとすんだな」
    「女性に対してはしないさ。君にだけだ」
    「そーしとけ」
     ユリウスは普段自分の髪を撫で付ける時よりもずっと優しい手つきでスバルのおりた前髪を掻き上げた。そのまま額、瞼、鼻とキスを落とし、最後にもう一度唇を合わせた。
     スバルは罪の果実を腕に抱きながら、その感触に酔いしれる。こちらの世界でも、アダムとイブに似た話はあるのだろうかとぼんやり思った。
     スバルが元の世界に強制送還される、前日のことであった。


    ×   ×   ×


    「いずれ、罰を受けるだろう」


    5


     その日は朝から雨が降っていた。冬の雨は鋭く冷たい。エアコンで暖められた部屋の中から、降り注ぐ雨を眺めた。時間の感覚がおかしくなるぐらい暗い世界の中で、それでも電気はつけなかった。生ぬるい暗闇が、外の冷たい雨の空気を吸って纏わりつく。
     スバルはベッドに寝転びながらスマホをいじる。ベッドの空いたスペースにはユリウスが腰掛け、同じくスマホを手にしていた。
     味気ない、というより怒涛のような告白を経て互いに抱いた思いがあることを認識してから一ヶ月、二人が同居を始めてからは三ヶ月の時が過ぎた。
     相変わらずスバルたちの間に明確な関係性を当てはめることはできなかったが、変わったのは少しだけ触れ合いが増えたこと、就寝時は時間が合えば同じベッドで寝るという点だ。それに伴ってスバルの起床時間も遅くなった。
     異世界に比べてしまえば平和すぎる世界で、ユリウスの隣に死の危険はなかった。それは生ぬるく、認めがたい幸福の一つの形だ。だからだろう、音がする。
     雨の悲鳴を聞きながら、視界の向こうに霞んで見えていたユリウスにピントを合わせる。こちらに背を向けて座るユリウス。戦いとなると、彼はいつでもスバルを守るように数歩前に出る。だからスバルは、ユリウスの背を見慣れていた。
     音がする。
     雨の音ではない。これは、歪んだ心の軋む音。緩やかな幸福によって、歪んで傷ついていた心が、動き出していた。この世界での安息と、ぬくもりに、恐る恐る手を伸ばそうとする。音がする。痛みを伴いながら、軋むのだ。今さら元の形に戻れるとでも思っているのだろうか。あの世界を忘れられず、それでもこの世界で生きていかなければならないから、そんな悲鳴を上げる羽目になる。
     ――本当は隣に立ちたかったなんて、お前は知らなかったんだろうな。
    「何もかも捨てて、俺を選んでくれたりしねーの」
     静かな部屋に、しかしそれは雨の音よりずっと大きく響いた。思っていたよりも真剣な響きを帯びてしまった、冗談になりきれない言葉の余韻が染み渡っていく。
     何も本気で言ったわけではない。それでも口から出てしまったということは、そういう願いもあったのかもしれないなと、スバルは他人事のように思った。それは、陰鬱な雨と残酷な夢の残り香が引き出した弱音だった。それは、異世界で生きていく為に形を変えた心が足掻くように吐き出した狂言だった。
     国一つを背負ったあの子には絶対叶えられない願い。愛したあの子にも、拒まれてしまった願い。実際全部捨てて手を取ってくれた女の子もいたのに。けれどその誰とも、スバルはもう同じ世界に立てない。あの世界は本来スバルがいるべき場所ではなかったのに、いつの間にかあそこがスバルの全てになっていた。その全てを奪われた喪失感が、雨と一緒に溢れ出す。
    「いいだろう」
    「ですよね~~…………んん?」
     ベッドから起き上がったスバルは首を傾げた。
    「お前今なんつった?」
    「君の願いを受け入れたつもりだが?」
    「はああぁぁ??」
     問うた自身の声色が、雨のせいで何故か真剣味を帯びてしまったのが問題だったのだろうか。それでも、こんな冗談を返すような人間だっただろうか、この男は。もしかしたら言葉の意味が分かっていなかったのだろうか。頭の中を無数の疑問が駆け巡る。
    「さすがに悪い冗談だって。俺の知ってるユリウスっていういけ好かねー野郎は、どんなことがあっても絶対、自分の背負わなきゃならねーもんを手放す奴じゃねぇ。冗談でもそんなこと言わねーよ」
     自分で言っておきながら、受け入れられたことが信じられずに噛みつく。結局、自身が騎士になっても尚理解することができなかった、わけの分からない古臭い騎士道に縛られていた男。その網目をくぐり抜けて、ユーリと名乗った、朝焼けに照らされたむかつくぐらい整った顔を覚えている。名も立場も偽らなければ空が広いことも分からないままだった騎士。それでもその全てを抱えて生きていくと決めていた人。絶対に、自分を選んで、ましてや一番に据えることなどしないはずの、スバルが恋した人。
    「私という人間の認識については、概ねそれで正解と言えるだろう」
    「はぁ? 意味分かんねーな。冗談もほどほどに……」
    「本気だとも。私は、私の全てを捨てて君と歩むことを約束しよう」
     約束。遮られて紡がれたずしりと重い言葉がスバルにのしかかった。向こうで、何度も破ったものだ。愛した少女は約束が何より大切なのだと言った。彼女と同じ精霊術士であったユリウスにとってもそれは同じだっただろう。目の前にいるユリウスと、あの世界のユリウスは違うが、それでも、彼が口にする約束という言葉には言葉以上の重みがあった。
    「なんで、そこまで」
    「私はずっと、罰を与えられるのを待っていた。それが、他ならぬ君からのものだというのなら、私は喜んでそれに従おう」
    「……罰って表現すんのやめてくんない? さすがに傷つくよ俺も」
     スバルは目を伏せた。罰とは、あながち間違ってはいないのだろう。彼にとっては罰にしかならないようなことを言った自覚もある。ならば断ればいいのに。
     チクリと胸を刺した痛みを無視して、スバルは手をヒラヒラさせながらからかうようにユリウスを覗き込んだ。
    「ってか罰を待ってたって何? お前Mなの?」
     ユリウスは顔を上げると、スバルに向かい合うように体勢を変えた。その雰囲気に気圧されて、スバルは身体を僅かに引く。その瞬間、スバルの中の空気と、この部屋の空気が馴染んだ。スバルの中から出ていくことを拒み続けていた、異世界に染まった空気が、ユリウスが纏ったものと同調する。
     ユリウスは琥珀に静かな色を湛えて言う。雨よりも大きな音で。雨よりも静かな声で。雨よりも冷たい響きで。

    「君に死ねと言われたら、死ぬつもりだった」

     瞳がひび割れた。スバルは呆然と、今言われた言葉の意味を理解しようと脳内で繰り返した。けれどユリウスは、そんなスバルの動揺など意にも介さず言葉を続ける。
    「殺されてくれないかと問われたら迷わず頷くつもりだった」
    「な、にを」
    「一緒に死んでくれないかと請われれば死ぬつもりだった」
    「おい、ふざけんなって」
    「殺してくれと言われたら、殺すつもりだった」
     語られるのは仄暗く、痛切な想いと覚悟だ。なぜお前が、そんなことを言う。
    「絶対と、君は先程言ったね。そうだとも。全てを捨てて君と歩むなど絶対にできないことだ」
    「ならなんで……」
    「だが同時に、もう一つ私には絶対にできないことがあった」
     うまく言葉を紡げない。いつもはうるさいぐらいに回る自分の口が、まったく言うことを聞いてくれない。
    「君を、手にかけることだ」
     口は言うことを聞かなくても、思考は徐々に回り始める。まさかと、嫌な予感が胸をよぎる。そんなことはあってはならないのに。
    「私はそれを成してしまった。力無く転がった君の死体を見て、君や友にあんな判断をさせる前に、もっと早くに、こうしなければならなかったのだと、己の罪を自覚したよ」
     幾百の、死の記憶が蘇る。ユリウスに殺された死の記憶など、一つしかない。
     ――忘れてくれるな。自分がこうまで苦しんだことを忘れてもらっては、それこそ浮かばれないのだから。そんなことを、死にかけの身体で思った。けれど、それは本心であって本心ではない。スバルはユリウスに、罪の意識を持ってほしくてそんなことを思ったのではない。
     ただ、好きな人に、ちっぽけな自分を覚えていてほしかっただけなのに。
    「そんな、俺は、いや、違う。今はそんなことじゃない、お前、覚えて」
    「君を殺した瞬間に私の中の絶対は脆くも崩れ去った。私の思いが、信念が、存在が君を手にかけたことで矛盾したんだ。今更、抱えなければならないものなどないよ。たとえ、私が変わらず騎士という立場を背負っていたとしても、私はそれを捨てるだろう」
    「違う、違うユリウス。俺は、お前に、そんな風に思ってほしかったわけじゃ」
    「契約を、約束を、己に課した『絶対』という名の誓いを破ったとして、そこにもう精霊騎士なんて存在は残らないさ」
     幾多の世界で、スバルが選択を誤ることで人が狂う様を見てきた。愛しい双子の妹を失った姉が、怒りに泣き叫んだ姿を知っている。獣の本能に呑まれて、愛した人さえ手にかけた姿を知っている。世界に耐えきれず、笑顔を浮かべて自分を好きだと言ってきた少女の姿を知っている。ここにいるユリウスもまた、スバルの誤った選択の果てに取り残された存在なのではないか。だとすれば。
    「ごめん、ごめん。ごめんな」
     いつもよりずっと小さく見えるその細い身体を正面から膝立ちになって抱きしめた。これが、スバルの罪であった。世界を投げ捨ててきたツケだ。


    ◇   ◇   ◇


    「まぁさすがの俺もあんまり長いシリアスモードは疲れるからいつもの調子に戻すとさぁ」
    「いつも唐突だな君は」
     部屋が暗いと心まで暗くなる! と半ば憤慨しながらスバルは部屋の明かりをつけた。珈琲を淹れ、ユリウスに手渡す。
     伊達に異世界で数え切れない死に戻りを経験してきたわけではないのだ。予想外の事態に対応を迫られるのは悲しいことに慣れてしまっていた。今でもユリウスの言葉の全てを理解できたわけでも納得したわけでもない。動揺だってあって、その証拠に珈琲を淹れる手だってみっともなく震えた。それでも腐ることなどない。打開不可能とも思える運命の壁を打ち破って、いよいよ本当に打開できなくなった強制送還の元でもこんな海を超えた土地に足を伸ばしてそれなりに暮らしてきたスバルに、後悔だけを抱いて立ち止まる選択肢などないのだ。
    「お前は、その、まぁ俺を殺したこととか殺すまでの過程とかに色々思うところがあるんだよな?」
    「まぁまとめて言ってしまえばそうなるな」
     まとめ方が雑だな、という視線を無視してスバルは続ける。
    「んで、俺はぶっちゃけあの時お前に頼むしかなかったことに対してとか、今こうしてお前が散々苦しんでたこととかを知って、やっぱり思うところがあるわけですよ」
    「ふむ」
    「だからさ、帳消しにしようぜ」
     腰に手を当て、もう片方の手で人差し指を立て、さも当然といった風にスバルは笑った。しかしそれに対するユリウスの表情は最初、驚きに満ちてはいたもののすぐに浮かない顔になる。
    「そんなことは」
    「できねーとは言わせねぇ。俺が言うなら一緒に死んでくれるし俺を殺してもくれるんだろ? だから帳消しにしろって罰ぐらい簡単なはずだ」
    「…………」
    「お互い色々あってマイナスまで落ちこんでるからさ。一旦ゼロに戻そうぜ」
    「だが……」
     普段は余裕綽々といった顔が常の男の、あんまりにも落ちこんだ様子と、そんな顔をさせているのは自分なのだという罪悪感からかなり優しく接してはいたがそれも限界だった。納得がいかないという顔で言い募ろうとするユリウスに叫ぶ。
    「だぁーーーーっ! グチグチグチグチうるせーな! 世界の不幸全部しょいこんでますみたいな顔されてもムカつくだけなんですけど!? 言っておくが不幸自慢なら負けねーからな! 俺がどれだけ艱難辛苦を乗り越えてきたかお前は知らねぇだろうから全部話してやるよ! そうだなまずは最初に腹を掻っ捌かれた時の話にするか!? いや駄目だめちゃくちゃ時間かかる……。とにかく! お前の存在のせいで図らずしも俺が死に戻りしてきた分の平行世界の存在が発覚して信じらんねぇぐらい今落ち込んでるし罪悪感に押しつぶされそうだよ!」
     勢いのままいつだったか想いを寄せた少女にも散々本音をぶちまけた覚えがある。面倒な女云々。目の前の男も十分面倒な男だ。精霊術士という奴は皆面倒な性格なのでは? やべブーメラン。
    「平行世界とは、君が死に戻りをする際に一つの世界の時を戻しているのではなく、別の世界のある地点に戻っていたとする考え方のことかな」
    「なんでお前いきなり冷静なの!? さっきまでのしおらしい態度どこにいったの!? ってかなんで死に戻りのこと知ってんの!?」
     自分しか使うはずのない単語が当然のようにするりと出てきたことに対してスバルは目を剥く。極限状態で叫べば同じように叫んでくれたエミリアとは違い、妙なところで冷静なユリウスは人がみっともなく叫んでいる姿を見て落ち着いたのか、飄々と言ってのけた。
    「死に戻りとやらに関しては先日君が間違って私の酒を飲んだ時に酔って話していたよ」
    「えっ……俺口軽すぎない……?ペナルティのこと考えなかったのか……?」
     衝撃の事実に怒りと興奮で真っ赤になっていた顔が青ざめる。死に戻りの暴露によるペナルティが消失したのは確認済みだったが、さすがに気が緩みすぎではないだろうか。
     そんなスバルをよそにユリウスは自身の見解を述べ始める。
    「平行世界そのものの存在は否定できないが、私自身は一つの世界を繰り返して生きていたよ」
    「なるべく言葉を尽くして分かりやすく説明お願いします!!」
    「まず、君が繰り返した分の失われていた記憶が戻ったのは私がこちらの世界に来てからだ。……」
     理解が追いつかず何度も聞き返すスバルに対して、ユリウスが懇切丁寧に説明を繰り返し、全ての説明が終わった頃には大分時間が経っていた。そしてそれらの説明をスバルが理解しきるまでには更に時間を要した。
     痛み始めた頭を押さえながら、スバルは何とか今までの説明をまとめる。
    「つまりお前はこっちの世界に来た時に、俺が繰り返す度に失われてたはずの記憶も全部受け継いだってことか?」
    「そういうことになるね」
     澄ました顔でしれっと肯定するユリウスに、スバルは長くため息を吐いた。そして、思い出されるのはなけなしの勇気を振り絞ってユリウスに真偽を問うたあの夕日に照らされた時間である。
    「お前記憶あるなら言えよ!」
    「そこは何となく察するかと……」
    「察せるか! マジで何言ってんのお前引くんですけどみたいな顔で見てきやがったくせに!」
    「それは君の被害妄想だ。そもそも、普通初対面の人間と一緒に住もうなどとふざけたことを言うわけがないだろう」
    「うっ」
     まさしくその通りなので返す言葉が見つからず押し黙ったスバルであったが、気を取り直して口を開く。
    「言ってくれればよかったじゃねぇか。俺がどんだけ勇気出して……」
    「ようやく」
     平然としておいて、全てを手に入れているような顔をしておいて、何にも心を乱されないような顔をしておいて、一体どこにそんな暗くて寂しいものを隠し持っていたのだろう。ユリウスの静かな目がスバルを見据えた。
    「諦めようと思えていたところだったんだ」
     そう寂しげに微笑みながらこぼれた言葉に、思わずスバルは息を呑んだ。それは最優らしからぬ、弱々しい言葉だ。
     諦めるのが、どれだけ簡単ではないかは、スバルがよく知っている。それでも諦めきれなくて、諦める姿が似合わないと叱咤されて、ようやく命を繋げた。
    「三年だ。私がこちらの世界に来て、もう三年も経った」
     悩んで、苦しんで、足掻いて、諦めるには十分すぎる時間だ。スバルがあの世界で過ごした時間もまた、三年だったのだから。
     言葉も文字も何も通じない異世界で、彼はたった一人苦しんだのだ。契約の名の元に結ばれた精霊の姿はなく、マナやゲートといった概念すら存在しない世界で、魔法も剣も意味を無くして。ただひたすらユリウスは抱え込んだ膨大な記憶と、彼の中の『絶対』を破ってスバルを殺した苦しみに耐えていた。これが狂わずにいられるだろうか。スバルには無理だっただろう。
     異世界に送り込まれた時点で、スバルには何もなかった。失うものがなかったから、平気でいられた。手を差し伸べてくれた女の子がいてくれたから、生きようと思えた。英雄だと、自分を信じてくれる女の子がいてくれたから、抗うと決められた。
     何もない孤独な世界で、三年という時間はあまりにも長過ぎる。その長い時間、地獄のような苦しみの中で、ユリウスはずっと罪の在り処を考えてきたのだ。
    「俺は……」
     言わなければならないことがある。うまくまとめられるかは分からない。だが、言葉にしなければ始まらない。自分達は、かの異世界で好きだと気持ちを伝えることすらできなかったのだから。
    「俺はお前が大嫌いだよ」
    「……あぁ、知っているとも」
    「俺の大事なエミリアたんの手べろべろ舐めるし、人の手足はボキボキ折るし、口を開けば嫌味ばっかりでいっつも俺のこと馬鹿にしてくるし」
    「手足のくだり以外は誇張が過ぎるようだが」
    「まぁお前の全部ひっくるめて嫌いなわけだけど、人間の感情の難しいところってのは嫌いだからって好きって感情が同居しないわけじゃないってことだよ」
     頭をがしがしと掻きながらスバルは口を尖らせた。ユリウスが何かを言おうと口を開きかけるが、スバルはその鋭い目つきで睨むとすぐに畳み掛けた。
    「死ぬだの殺すだの物騒なこと言ってるお前が、どんだけこの世界で苦しんだかなんて知らねーし分かってやれねぇ。簡単に知ってるなんて言えることじゃないのも分かってる。けど、苦しみの一端を俺が担ってるっていうんなら話は別だ。……好きな奴が、苦しんでるっていうんなら、話は別なんだよ」
    「…………」
    「好きな奴には幸せになってほしい。笑って生きてほしい。お前が、俺が繰り返した分の記憶も背負わなきゃなんなくなったのなら、俺はお前を幸せにする為に全力を尽くす義務がある。罪だの罰だのこじらせちまったお前に笑ってもらうために、全力を尽くしたいと思う俺がいる。だから俺は、お前に言わなきゃならねーことがある」
     ベッドに腰掛けたユリウスは、その正面に立ったスバルを見上げる形だ。そんなユリウスに向かって、スバルは人差し指を突きつけている。
     スバルの愛した者達が、スバルのことを想って必死に形づくった言葉がある。その言葉がスバルを癒やし、支えてきた。それは今もスバルの中にある。たとえもうあの世界に帰れなくても、その言葉をくれた者達ともう言葉を交わすことができなくても。それでもずっと、それはスバルの胸で輝き続けて、スバルが間違えそうになった時、そっと手を引いてくれるのだ。
     ならば次はスバルの番だった。もらった優しさや想いを、誰かに分けてあげられる、そんな人間に。あの時もらった、大切なものを分け合って、辛さを分け合って、溢れそうになる幸せも分け合って。だってここにはもうスバルとユリウスしかいない。
     拳をといて、手の平をユリウスの頬に当てた。涙一つ零さない目尻を、親指で優しく撫でてやる。きっと心は、信じられないぐらい傷ついて、泣いてしまっているだろうから。それが少しでも楽になるように。そんな願いを込めて、スバルはユリウスに触れる。
     自分がなんとかしなければと。自分だけで、なんとかしなければと思っていた時がある。今から言うのは、そんな愚かだった自分を救い出してくれた言葉。擦り切れて、どうしようもないほど疲れ切ってしまった時に、かけてもらった言葉。心を癒やす言葉。
    「がんばったな」
     ユリウスの喉が、ひくりと動いたのを見た。手の平からも、その動きが伝わる。
     今までの無意味にも思えていた足掻きが、無条件で肯定されて、それで救われる心があることをスバルは知っている。
    「がんばった。もう十分自分を責めたはずだ。もう、いいだろ」
     見開いたまま動かない琥珀の瞳に、精一杯の想いを込めて微笑む。それから抱きしめて、頭を撫でて、あやすように背中を叩いてやる。
    「私は、わたしは」
    「うん、分かってる。……分かってる」
     分からないことばっかりだ。本当はスバルにだって受け入れがたい現実があって、今すぐ泣いてしまいたいぐらいで。けれど生きていればいくらでも辛さや困難を分け合うことができる。前を向いて生きてさえいれば、どんなことだって何とかなるものだ。スバルはそれを知っている。
    「私は、自ら死を選んだ君を、止めることもできず……」
     あぁ、その世界の記憶もあるのかと、スバルは己の罪をひしひしと感じる。一層抱きしめる腕に力を込める。嫌な記憶さえ抱き潰す、そんな気持ちで。
    「お前が悪かったことなんて一つもねぇよ」
    「だが……」
     言いかけたユリウスを無視して身体を離すと、正面から見据えた。弱々しく揺れる瞳に、下がった眉。
    「自分を責め続けるのは簡単だ。そうやって心が傷つけば、もうこんだけ責めたしいいだろって自分を許すきっかけにもなる」
     記憶の蓋をそっと開く。キラキラと輝く、スバルを支える言葉のうちの一つ。今から言うのは、全てを諦めて逃げ出そうとしていた時にかけてもらった言葉。理不尽な世界で生き抜く為に必要だったもの。心を奮い立たせる言葉。心を燃やす言葉。
    「けど、そんなのユリウスには似合わねぇ」
    「――……」
    「お前は自分に対して過剰に自信があるぐらいがちょうどいいんだ」
     言葉の余韻が消えてから、スバルは俯いて、ごめん。と小さく呟いた。何に対しての謝罪だったのか分からなかったユリウスは、困惑したように眉根を寄せた。
    「本気で言ったわけじゃなかった。ありえないもしもの話だった。でも、全部捨ててなんて言って、ごめん」
     たった一人で、悩んで苦しんで、思考が深みにはまってしまう感覚に、スバルは異世界で何度も苦しめられた。そしてそれは、この世界に戻ってきてからもだ。
     食事などどうでもよくなる程に、ユリウスは生きることに希望を見出だせなくなっていた。現れたスバルに、真実を告げて向き合うことが怖くなってしまうぐらいに、ユリウスは追い詰められていた。そして追い詰められていたのはスバルも同じだ。あの温かな家にいることもできなくて、事実を認めたくなくて。あの世界に帰りたいと願いながら、それでもあの地獄のようだった日々から解放された喜びがあったことは事実だ。ユリウスとのゆりかごのような生活を拒むことなく享受し続けた。今まで言えなかった弱音を、不安を、酔った勢いとはいえ知らず口に出してしまった。絶対に叶うはずもない願いを、本人にぶつけてしまった。
     あれだけ心を砕いて、苦しめられて、それでも幸せを感じていたはずの世界から突然はじき出された。そんな中で出会ったユリウスに、依存し、縋ろうとする気持ちがスバルにはあったのかもしれない。全て捨てて俺を選べなんて言葉、そうでなければ出てこない。スバルとて、心に余裕などなかったのだ。あれば、こんなに遠くまで来てはいなかっただろう。
     だがそれも終わりにしよう。終わりにしなければならない。自分も彼も、こんなところで不幸に浸って諦めるのは似合わないのだから。
    「何も、捨てさせねぇよ。全部拾え。俺はずっとあの世界でそうやって生きてきた」
     フッと目尻を下げて、微笑んだ。
    「お前は頭もよくて、強いんだからさ、俺よりずっと要領良くやれるよ。家のこととか騎士道とか全部抱えたままで、俺のことも抱いたままでいろ」
     この縛り付けるような言葉も、それがユリウスの生きる力になるのならスバルは何度だって紡ごう。
    「お前は、最優の騎士だろ」
     この呪いを。
     見開かれていた琥珀の瞳が、水面のように揺らめいた。それが更なる波を生み出す前に、長い睫毛が帳のようにおりて、瞼の下に隠れていった。
     長い沈黙が降りた。沈黙を破ったのは、ユリウスの吐く長い息だ。
    「分かった。……帳消し、しよう」
    「随分あっさりだな」
     正直これでも立ち直れなかったらぶん殴るしかないかなと考えていたスバルである。そして殴り合いになった場合、軍配が上がるのはほぼほぼ百パーセントの確率でユリウスだ。
    「君と話していると悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきてね」
     苦笑するユリウスの表情は、まだ思うところがあるらしいがそれでもさっきよりはずっとすっきりとした顔をしていた。喜ばしいことなのだがその皮肉に何か自分も言葉を返さなければならないだろうとざっと十は皮肉をたっぷり含んだ返しを考えたところで、声が届いた。
    「君に出逢えてよかった」
    「お?」
    「君と友になれてよかった」
    「お、おう」
     突然の告白に、スバルがたじろいでユリウスから一歩身を引く。しかし、それを逃すまいと、手首が掴まれる。
     スバルは自分を見つめる琥珀の瞳に、呪いが巡るのを見た。
    「君を、好きになってよかったよ」
     そう言って、今度はユリウスがスバルを抱き込んだ。
    「……ケッ、言ってろ」
     悪態をつくスバルの頬は、それこそリンガのように真っ赤だった。


    「ところで君には既にエミリア様という心に決めた人がいて、更にはレム嬢ともいずれ婚姻関係を結ぶと聞いていたのだが?」
    「そうだけど……なんか文句あんのかよ?」
     普通の人間からしたら文句しか出ないだろう。それが分かっている為、返すスバルの声にはいつものキレがない。
    「いや、私の方は特に問題ないのだが……エミリア様や、特にレム嬢にはなんと説明するつもりなんだ?」
    「問題ないのかよ。言っとくけどお前の順位相当下だからな? エミリア、レム、ベア子と埋まって父さんとかお母さんとか入れて他にもペトラとかがきて、それでようやくお前の番が回ってくる程度だからな? 自惚れんなよ? あと説明はお前がしてくれ頼む最優の騎士」
    「その頼み方で私が了承すると思っている方が驚きだ」
     大袈裟にため息を吐いて前髪を掻き上げるユリウスに、その気障ったらしい仕草にイライラしつつも、正直レムへの説明は自分だけでは荷が重すぎるので何とか援軍をゲットしようと、ご機嫌取りにフォローを入れる。
    「まぁ男の恋人の中では暫定一位だから安心しろよ」
    「君は他にも男性の恋人を作る気なのか?」
    「ねぇけど正直俺の惚れっぽさは尋常じゃないから気づいたらできてる可能性も否定できなくなってきた」
     自分のチョロさを振り返りつつげんなりする。正直ラインハルトレベルのイケメンにレムレベルで精神的な支えになられたら落ちる自信がある。やばい。
    「でもそうなると俺なんでこいつのこと好きなんだ……?」
    「顔か?」
    「うん……。悔しいけど顔は結構好き……」
     イケメンには勝てなかったよ……と泣き真似をするスバルに、ユリウスはそのスバル好みの顔に極上の笑みを浮かべて言う。
    「まぁ、その暫定一位の座を揺るがぬものにできるよう、努力するよ」
    「これ以上努力しなくていいです」
     狭いベッドの中で男二人。くだらない話をしながら夜は更けていく。冬の雨は、気づけば止んでいたようだった。
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