ジョニディエ/フライドチキンを君と。 ぬるり。
いやに指先に残る感触が、脳味噌の最奥で危険信号を鳴らしている。吐き出す息が荒い。どくどく脈打つ心拍はフルマラソンを走りきった直後に酷似しており、口から心の臓が飛び出してそのままアスファルトの上を跳ねていくかのようだった。
目の前に転がる、既に体温を失った女の死体を見下ろしながら、ぼく──ジョニィ・ジョースターは、溢れ出る涙を只管に拭う。
ひとをころしてしまった。
濁流のように荒れ狂う思考回路の中、目の前に形として存在するそれだけが唯一の“事実”だった。
*****
「────それで?君、オレが来るまでによく逃げなかったな。ジョースターくんのことだ、このDioに罪をなすり付けて脱兎のごとく場を去るものだと思っていたが」
既に冷たく固まった女を、無機質に眺めながらディエゴ・ブランドーは呟いた。彼がこの場にやってきた頃には陽はとっぷりと沈み、辺りは夜の闇に包まれていた。
女の死体を見下ろしながら、ディエゴはぶつぶつと何かを呟いている。ぼくに話しかけるような口振りのくせ、返答は求めていない。そういう男なのだ、こいつは。そんな所が嫌いだった。
数刻前、何故狼狽しながらコールボタンを押したのが犬猿の仲たるディエゴであったのか、ぼくは自分のことながら理解が及ばなかった。
ただ、ジャイロではダメだったのだ。親友に助けを求めるのは間違っているような気がした。今この場にはディエゴでなくてはいけない。きっと。
「……迫られたんだよ」
「……だから?」
「このぼくが3度だ。今まで3度断った女だぜ?しつこいって強めに拒否したのが昨日で、そうしたら今日急に背後から……、それで……つい。振り払おうとしただけだった。だって、女の子がそんな強硬手段に出るなんて思っていなかったし。ぼくだってまさか、…………」
「おい待て。オレは今、君の弁明を聞かされているのか?やめてくれ、オレは裁判官じゃあないぜ。勘違いしてくれるなよ、ジョニィ・ジョースター?」
冷え冷えとした視線が、死体からぼくへと移動した。研ぎ澄まされたエメラルドに見詰められると、包丁の鋒を首筋に添えられているかのような錯覚に陥る。無論、ぼくが殺害に利用した凶器は包丁ではなく、地面に転がる無骨なコンクリートの破片であったが。
寧ろ今現在において視線に殺されそうなのはぼくの方である。
何か言葉を発したいのに、はくはくと口からは陸に打ち上げられた金魚みたいに無様な息の音しか出ない。ぼくは言い訳がしたいのか?目の前の男を罵ってやりたいのか?それすらわからなかった。
コンマ数秒の空白を打ち破ったのはディエゴの溜息だった。物言えぬぼくに嫌気が差したのか、抛棄の意図を孕んだ、白々しい呼吸が静寂に木霊する。
「はぁ、……───オレが乗ってきた車のトランクに、シャベルが積んである」
「………は?」
「車に“そいつ”を積み込む必要があるが、隣町までいけば管理者のいない山があったはずだ。少々近場なのが不安要素だが、まあ、………いつかの夢よりはマシだろう」
彼の言葉に、嘗ての喧騒がフラッシュバックする。
列車。波打ち際。泡沫の如く消えゆく生命の灯火。ゴール間際の歓声と彼だけの世界。そうして終わったあの日々と、そして訪れた穏やかな日常。銀杏並木に燻る悲愴。ぼくとディエゴだけが共有し、隠し通している遠い昔の夢の話である。
これはジャイロも、ホット・パンツも知らない2人だけの秘密だった。
確かに、夢の中でぼく達は幾度となく他者を手にかけてきた。それに較べれば彼の言葉通り、こんな女ひとりどうってことない。ディエゴはそう言いたいのだろう。
つまり。
「………マジに言ってんの?お前、」
「うん?…………ああ、オレでは不相応かな?ならばジャイロ・ツェペリに連絡をいれてやるよ、臆病者のジョースターくんの代わりにね」
「はぁ!?馬鹿言えよッ!この状況でふざけるな!ジャイロにだけは駄目だッ!」
「事を起こしたのは君だっていうのに、……相も変わらず美しい友情だな、感心するぜ。……だが君だってオレを呼んだってことはさ、元より“そのつもり”だったんだろう?」
なア、共犯者になってやるよ。
餌を前にし品定めをする恐竜のように、きろりとディエゴの捕食者たる双眸が僕を睨み付けた。
冷徹な美しさは彼の美点であるが、これは過去の夢ではない。あの頃とは訳が違うのだ。そんな簡単な話じゃあない。
数度首を横に振ってから、べたつく手汗をフーディーの裾で拭った。お気に入りのこれが血液で汚れなくてよかったなんて場違いな事を思う。
男二人で、この冷たい肉塊を?そもそも、ディエゴは一切ぼくと“これ”に関する事情に関わりなんてないのに、それに加担したという事実は彼の経歴に傷をつける。きっと最善策なんかじゃあない。
─────────、それでも。
*****
「それにしたって酷い話だな」
「………なにが」
「君は今日が何日かわかってるのか?」
「わかってる。だから3回断ってるんだよ」
「モテる男は大変だな」
お前が言うのか。
ランチメニューを決めるような気軽さでディエゴは言葉を紡いでいく。
癪に障るテノール。そして静かな路地裏に微かに届く聖歌のBGM。数本道を挟んだ先では、耶蘇の生誕を世間は大手を振って祝っている。無音とはいえ、車内にいても漏れ聞こえるあの音はクリスマスマーケットの類いだろうか。本来であればぼくもあの賑わいの一つであるはずだったのに。
それを思い出すと頭の隅が重くなる。誤魔化すべく車内に備え付けのオーディオチューナーを回して────流行りのクリスマス・ソングが流れ出したので再び音量をゼロに戻した。
ディエゴが乗ってきたという車のトランクには、何故かご丁寧に用意されていた頭陀袋に詰め込まれた“ソレ”が転がっている。
いつも彼が乗り回しているダークブラウンのセダンでは無く、見慣れないワゴンカー。車内に充満する甘ったるい芳香から察するに、彼を囲う女の何れかから借り出してきたのだろう。
何もかも歪で、最悪としか形容出来ない空間であった。
「……なあ、ジョースターくん。今のオレ達、サンタクロースみたいじゃあないか?」
「はぁ?」
「だってあんなに重たい袋を運ぶんだぜ。ピクチャーブックに載ってるのを見た事がないか?赤い服を着て、大きな袋を背負ってトナカイのひくソリに乗るんだよ……まあ、オレの家にサンタクロースなんて来たことが無いし、一体彼がどんなものかは知らないが。だがあながち間違ってないだろう」
しっとりと湿度を孕んだ睫毛を震わせ、ジョーク混じりにディエゴが笑う。無邪気ではあるが、残酷で笑えないユーモアだ。
「バカじゃあないの?サンタクロースっていうのはさァ、もっと夢とか希望とか素敵なものとかを届けてくれるんだよ」
「ふぅん?君はサンタクロースが何たるかを知っているわけだ。それじゃあ、ジョナサン少年は今まで何を貰ってきたんだ?」
「それは、……まあ、いいだろ別に」
クレヨンで手紙を書いた。当時流行していたゲーム機が欲しかったのだ。クラスメイトはみんなそのゲームを持っていて、ぼくが馬術の稽古に励んでいる間、彼らはスクールが終わると誰かの家に集まって遊んでいるようだった。ゲーム機さえあればあの輪の中に入れるのだ、そう羨んだぼくは頼みの綱としてサンタクロースにお願い事の手紙をしたためた。もちろん、赤色のクレヨンでヘタクソに描いた彼の似顔絵を添えて。
当日、枕元の大きな靴下に入っていたのはスカイブルーのヘルメットだった。その次の年はショートブーツで、次の次はハーフチャップス。少なくとも覚えているのはそれくらいで、ぼくが7つになる頃にはサンタクロースは枕元に夢を置いていくことはなくなった。
御伽噺の優しいおじいさんが与えてくれる夢など、初めからなかったのだ。
サンタさんがくれたんだって無邪気に笑うニコラスが抱えるゲーム機を見ながら、ぼくは早々にそれを悟った。ニコラス兄さんはぼくにそれを貸してくれようとしたけれど直ぐに断った。無邪気にゲーム機に触れてしまったが最後、それはぼくの敗北であると幼心に感じていた。その時の父さんの顔は、あまり覚えていない。
ハンドルを握り、あくまで前を見据えながらジョークを零すディエゴに対し、ぼくはその端正な横顔を眺める事しか出来なかった。
お前にとってのクリスマスはどんなものだった?サンタクロースという存在そのものが、お前にとっては夢まぼろしの類だったのか。それともぼくみたいに御伽噺に願いを込めて、落胆を味わったのか?そう言語化しかけたものの、余りにも野暮な質問だったから口を噤んだ。
「あ。……いや、今年は違うな。ふふ、なあ、ジョースターくんもそうじゃあないか?お揃いだな」
「は?何の話?……………、あのさァ、Dio。お前は言葉足らずなところがあるって言われたことない?」
「それを君が言うのかい」
ディエゴとは相変わらず視線が噛み合わない。
「だから、君がオレにSOSを送ってきてくれただろう?オレからすれば、それはとっておきのプレゼントなんだよ」
ジョースターくんって、もしかしてオレのサンタクロースだったのか?
そう言って、漸くディエゴはぼくの方に顔を向けたのだった。
*****
「まさかアメリカ人ってのは手を洗わずにチキンを食べる習慣でもあるのか?」
「まさか!お前ぶっ殺すよ、マジに」
「オレまで埋められるのは困る」
「…………」
ぼくの想像通り、物の少ないワンルームだった。初めて入ったけれど、整然としていて必要最低限の物しか置いていない。ディエゴの几帳面な性格がよく現れていると思う。恐らくソファ替わりに使われているのであろうベッドの手前に置かれたガラステーブルに、彼はこれまた几帳面にフライドチキンを並べている。
何も特別なものでは無い。ランチにもよく使用する、ジャンキーな味わいの某チェーン店のチキンだ。てっきり12月24日は忙しいものだとばかり思っていたが、郊外のそこは例外だったらしい。
重労働のあとには、健康に悪い味わいのカロリーが欲しくなるものだ。だってまだぼくもディエゴもティーンであるのだから。
「ああ、そうだ。ジョースターくん、君ってワインは好きかい?高いものはこの家には無いが、それなりに美味いのが白と赤どちらもある」
「えっ?ああ、シャンメリーかビールで良いんだけどな、ぼくは 」
「我儘言うなよ。オレはこれしかない、と言っているんだぜ?それともお子様にはミネラルウォーターがよかったかな?」
「いちいち一言余計なんだよ、お前は。……じゃあ、赤で」
「OK」
彼が器用にワインボトルとグラス2つを運んでいる間、ぼくはその指先を見つめていた。ぼくにもあいつの爪にも、土は入り込んでいない。先程までシャベルを握っていたというのに、ワークグローブの力は偉大だ。
とくとくと注がれていく葡萄酒の黒みを帯びた赤色を見つめながら、冷えた土の中で眠る女を思う。
彼女はゼミで出逢ったふたつ上の先輩だった。ブロンドヘアーにブルーアイが美しく、見た目だけはとても気に入っていたのだが、割り切りという言葉を知らない女で時々ヒステリックになるのが苦手だった。
「……まあ、もう無くなったものを思い出しても仕方ないか」
「何が?」
「別にィ……。ワイングラスが割れたら新しいのを買うよな、って思ってさ」
「それはそうだが、……ジョースターくんって時々残酷だな」
ちりん。
形だけの乾杯として重なるグラスが涼やかな音を立てる。思えば今日は様々な過去に思い馳せる日だ。
「そう?」
「ああ。もしそのワイングラスたるものがオレだったら、君はまたオレを殺すのかい」
「………なあDio。君って人間か、せいぜい爬虫類でしかない癖に、今から粉々に割れる心配をしてるのか?お前が壊れる時はちゃんと衝動じゃあなくて、あくまで理性的に殺してやるつもりだけど」
「それは光栄だが、次に死ぬのはオレじゃあなくて君の方では?」
「黙れ」
「若者は気が短くて困る」
「何回も言うけどひとつしか違わないからな!」
だが、実際そうだろう。
ディエゴ・ブランドーを殺す権利はぼくだけにある。今も昔もそれは変わらない事実だ。
きっと目の前の美丈夫だってぼくと一寸違わずに同じ事を思っているはずだろう。
「あのさ、ぼくって特別なものを大切にするタイプなんだよ。わかるか?」
「……………、なるほど。今日は随分と素直なんだな」
「なにそれ嫌味?クリスマスに二人きりなんだし、偶には悪くないじゃん」
「いつもその調子だったら気色が悪いがな」
「マジで五月蝿いな。大人しく聞いとけよ」
軽口と共にフライドチキンの軟骨を奥歯で噛み砕きながら、ぼくは車内での会話を思い出していた。鶏とぼくらとじゃ、骨の形が違うんだなというくだらない感想も並行して、ぼんやりと。
ぼくにもディエゴにも、まともなサンタクロースは終ぞ訪れることはなかった。それは事実だろう。大人になってしまった今、ぼく達に夢や希望を届けてくれる魔法のおじいさんなんてものは存在しないのだ。
あるのはきっと、ヒステリックな女だとか、変な笑い方の親友だとか、それから嫌味ばかりの共犯者、だとか。
「……ぼくさあ、今日、自分がDioに助けを求めるなんて思ってもなかった」
「どうした?今日は本当に素直だな?まだ非日常に当てられてパニックの続きをしているのか」
「黙って聞いてろってば。……だからさァ。君だってさっき言ってたろ?サンタクロースになったんだよ、ぼくは」
「……、………それで?」
「今日ぼくは、Dioにとってのサンタクロースだった。特別な夜をお前にくれてやった。そうだろ」
ごり、がりり。ごくん。
軟骨と骨の髄を咀嚼し、嚥下したディエゴは暫くの沈黙を貫いたのち、長い睫毛を伏せて薄く微笑みを浮かべた。その数秒間でぼくの言葉も軟骨と一緒に飲み込まれて消化されてしまえと思った。
「ああ……確かに、君はオレのサンタクロースだった。そしてきっと、ジョースターくんにとってのオレも同じ。違うか?」
金糸に縁取られた目蓋を薄く開いた先に輝くエメラルドには揶揄と、僅かに甘みを帯びた色香が浮かんでいる。もうぼくの脳内からは、ヒステリック女の死体なんて消え失せてしまっていた。
「もしも何もかもバレてしまったら、その時は……そうだな。2人で深海にでも沈もうぜ。なあ、ジョニィ」
「………Dio、それってスゴく名案だよ」
甘言をささめくディエゴの唇は、酷くジャンキーな肉の味がした。
了