あなたにキス「あ、」
ドンシクさんの色素の薄い目からつるりと涙が落ちた。涙をこぼしているのに当の本人はどうしたの、といった顔。そこに悲しみも苦しみも見当たらなかった。僕の声と視線にようやく自分の顔になにかあるらしいと気づいた彼は指を目元にあてておかしそうに笑った。
「なんで泣いてんの俺」
今日も食事は穏やかに終わり、泊っていくからと酒を飲んでいた。いつものソファでいつも通り。特に変わったところはなかったはずだ。僕の仕事の話やドンシクさんの穏やかな日常の話。彼がジュウォナ、ちょっと疲れてるんじゃないのと顔をのぞき込んだりじゃれるように身を寄せ合ったりして、持ちこんだ酒のあてはなかなか好評で。近所の猫の話をしていて、不意に沈黙が落ちたと思ったら涙が落ちたのだ。あふれたのでもこぼれたのでもなく、つと落ちた。
彼が指で拭っても涙は止まる気配がない。
「どこか痛いんですか?」
「ううん、ほんと、なんでだろ」
最初の一滴を皮切りに、ドンシクさんの目からは次々と涙があふれてきた。さすがに焦る。痛くも苦しくも、悲しくもないんですよという彼の言葉を信じるけれど、それでも大切な人が泣く姿は心臓に悪い。酒のせいでなく鼓動が妙なリズムを叩き始めた。
好きな人の泣く姿を酒の肴にできるような性分でもないので、グラスを置いて彼の頬に手を当てる。それは過去の僕が知らなかった仕草。目の前の人にされて教わったものだ。
「あなたの泣き虫がうつったかな」
「……泣き虫じゃありません」
泣いていても憎まれ口は健在だ。否定したものの彼の言葉はあながち間違ってもいなかった。ハン・ジュウォンは泣いたことなど数えるほどしかなかったはずなのに、気づけばドンシクさんの前では子どものように泣いている。頻度で言えばけっこうな数で、だから口だけの否定だった。
僕が泣くとドンシクさんは泣かないで、と言う。その声があんまり優しいから余計に泣いてしまうことがある。泣きたいわけじゃないのにあふれるのだ。あふれる感情が涙になって零れ落ちてしまう。それはこの人と一緒にいて幸せだという想いだったり、愛おしいという感情だったりした。
彼の涙が僕の手を濡らす。ドンシクさんは頬にあてられた手に懐くように少しだけ首をかしげて瞬いた。赤く染まった目のふち、水分を湛えた色素の薄い目、今は鋭さのない視線。そのどれもに悲しさは見当たらない。それこそが痛々しくもあった。
年上の男性が泣くところなんてめったに見ることはない。ドンシクさんの泣くところを見たことがないわけじゃない。でもこんな風に、まるで僕のように泣くのを見るのは初めてだった。
もし泣きたくて泣いているなら存分に泣いてほしい。我慢なんてしなくていい。本人がわからなくても心が泣きたがっているならそのままでいい。
この優しくて強い人は、これまでにいつ他人の前で涙を流すことができただろうか。
どうして泣くのか僕にはわからないけどあなたの涙を受け止めることはできる。受け止めきれなかったらその感情に二人で足を浸して抱きしめあったっていい。どんな理由で泣いてもいい。ただ僕は、泣いているあなたを一人にはしない。
僕の手は大きくて、ドンシクさんの顔は少し小さいからすっぽり包めそうだ。
祈るみたいにキスをした。酒の味が残っていてちょっと荒れている、僕の好きな唇。少しだけついばんで、また重ねた。やっぱりドンシクさんの涙は止まらない。
僕はこの人を愛するたびに、人を愛することの難しさを知るのだ。彼の悲しみは彼のもので、誰にもわからない。僕はこうしてあなたが泣いているのに、あなたがしてくれるのを真似するようにキスをすることしかできない。
「ふ、なんでキスするの」
泣いているときにあなたにキスされると安心するから。あなたがそばにいるとわかって僕はそのまま泣いてしまうけど。あなたはどうだろう。
愛は都合のいい魔法じゃないからすべてを解決したりはしない。恋が成就しても僕たちにはその先がある。おとぎ話の住人じゃないから、永遠に幸せに暮らしましたは訪れない。
でもどうしようもなくこの人が。この人だけが。
「あなたがいとおしいから」
僕の言葉を聞いたドンシクさんは涙でぬれた美しい瞳をぱちんとまたたかせて、器用なことに泣きながら笑った。
「じゃあ、もっとキスして」
「うん」
涙の混ざるキスは、少しだけ苦い気がした。