シュレ猫、デザート。「姉君はアーサーの本当の能力を知っているので、さすがに病気で臥せっているという言葉では納得してもらえず」
救護棟の個室で騎士団長の小脇に抱えられているアーサーを見る。ピンと立った尻尾はゆらゆらと左右に揺れ、俺の顔を見て、騎士団長の顔を見て、また俺を見た。
「今、この状態のアーサーを、ですか?」
「はい。今は人払いをして、室内にはカラム隊長とハリソン副隊長だけです。あの二人がいれば万が一という事もないでしょう」
騎士団長が顔を顰める気持ちはよく分かる。人間としての自覚が残っているか怪しい息子を、この国の第一王女に面会させろというのだから。
「実は大怪我をしたのに、騎士団総出で隠されているのではないかと……それはもう大層落ち込んでいるもので」
近衛騎士の四人はよく耐えてくれたと思う。第一王女からの質問に対し「諸事情があり」と貫き通してくれたのだから。だが休憩時間に顔を出した俺もその「諸事情」を知っているのだと発覚した途端、それはもう誰が見ても分かる程に肩を落とした。「そうよね、きっと私が知ってはいけない事もあるのよね、アーサーにも……」と、プライドの思考が不穏な方向へと傾き始め焦ったのは俺だけじゃない。アラン隊長もエリック副隊長も、カラム隊長もハリソン副隊長も、アーサーを可愛がっているという点に関しては共通だ。そのアーサーにあらぬ疑いがかかっているともなれば、これ以上隠し続けている方がアーサーの名誉に関わる。そう判断し、近衛騎士を交代したアラン隊長に先触れとなってもらいこうして騎士団長の元へアーサーの貸し出しを願いに来たのだ。
「ですが……」
騎士団長の眉間の皺がさらに深くなる。
騎士としての職務は全うできず、さらにはどんな行動に出るかも予測できない。聖騎士としてプライドの隣に立つ事が許されているといっても、それはアーサーが自分を律する事ができる状態での話だ。
「幸いアーサーは“多少の不敬”が許される立場ですし」
騎士団長が知らぬはずはない。アーサーが婚約者候補として選ばれている事を。そして俺もそれを知った上で打診しに来ているのだと暗に伝えれば、おそらくカラム隊長の事も知っている騎士団長は観念したように腕の力を緩めた。
「くれぐれも……私が騎士団長の座を退かねばならぬような事態は防ぐよう……カラムとハリソンにお伝え願えますでしょうか……」
アーサーは自分の拘束を解いた騎士団長の顔を下から覗き込み、もう動いてもいいのだと確認してから俺へと走り寄ってくる。勢い余って抱き着いて来たが、これはまあ猫だからという事で騎士団長も大目に見てくれるだろう。いや、額に手を当て見ないようにしているな。
「ステイル様にこのような事を申し上げるのは心苦しいのですが、いざとなったらアーサーの事はここへと飛ばしてください」
「分かりました。では少々お借りしますね」
移動した途端にプライドへと飛びつく可能性を考慮し、アーサーの腰にしっかりと腕を回して瞬間移動をする。だが突然切り替わった視界にアーサーは俺へと抱き着く力を強くし、尻尾を太くして周囲を見回すだけだ。まあそれはそうだろう。
「アーサー……?」
俺と似たような事を考えていたであろうカラム隊長とハリソン副隊長が壁となっていたが、その隙間からプライドが顔を出した。そして見開かれた目が次第に歓喜の表情へと変わっていく。
「可愛い!」
大丈夫……想定範囲内だ。
「ステイルずるいわ!」
そうきたか。
場所が突然変わった事に警戒していたアーサーだったが、カラム隊長とハリソン副隊長を見てすぐに安全を確信したらしい。俺に抱き着いた姿勢はそのままだったが、尻尾はゆらりゆらりと興味深そうに揺れている。
そんな光景を見て「ずるい」とは。
「わっ、私も……」
まだプライドは壁の向こう側だが、アーサーはやはりというか何というか、興味津々だ。もちろんプライドに。近衛騎士達に対する懐きようと、俺への反応。騎士団長に甘え切っていた事を考えれば、プライド相手に今のアーサーが大人しくしているはずがない。
そして、そんなアーサーの反応を見て大人しくしていてくれるプライドでもない。
「アーサー」
バッと広げられた両手と満面の笑顔。
いや、それは駄目だろう。
「やめてください姉君! アーサーが死にます!」
完全に歓迎状態のプライドを見て飛び出そうとするアーサーにしがみ付き、なんとか「聖騎士が第一王女を押し倒す」という最悪の状況は免れた。いつアーサーが飛び込んできてもプライドに辿り着く前に抱き留められるようにと、身構えているカラム隊長とハリソン副隊長はまだその警戒を解いていない。
「死ぬだなんて……猫ちゃんの体に良くない香水は今日使ってないし、チョコも玉ねぎも持ってないのに!」
「落ち着いてください姉君、これは猫じゃなくてアーサーです」
チョコと玉ねぎってなんだ? それで猫が殺せるのか?
「そ、そうよね。ごめんなさい。…………頭を撫でるのもダメ?」
「っ……」
ティアラが教えたという必殺上目遣いでプライドが訴えてくる。誰だプライドにこんな恐ろしい技を教えたのは! ティアラか! なんて事をしてくれたんだあの妹は!
「っ……頭……だけですよ」
ぱぁっとプライドの顔が華やぐ。その手前でカラム隊長の目が「折れるのが早すぎます」と言っているように見えた。仕方がないだろう。カラム隊長はプライドのあのおねだり顔を直接向けられていないからそう思えるんだからな?
「アーサー、大人しくしてろよ」
理解できているか分からないが、一応忠告だけはしておく。
そろりと近付いてくるプライドはすでに触りたくてうずうずとしている様子が窺えるし、釣られるようにアーサーも俺の腕から抜け出そうとし始めた。アーサーに本気を出されると俺だけで止められる自信はない。その事を理解してか、カラム隊長とハリソン副隊長もプライドの両隣を固めて一緒に近付いて来た。
結果、目の前にプライド、左右にカラム隊長とハリソン副隊長、そして背後に俺というがっちり囲い込みのような状態になってしまう。だというのにアーサーは、好きな人達に囲まれて嬉しいとばかりに満面の笑みだ。
この反応は、猫というか……犬、では?
「わぁっ」
プライドの手がアーサーの頭を撫でる。プライドは「本当に生えているのね」と誰もが一度は思った事を言いながら猫の方の耳元を撫で、気持ちよさそうに目を閉じるアーサーの様子に笑顔をほころばせた。
プライドの両隣で、ハリソン副隊長はまだ無表情を崩さないが、カラム隊長は今にも胃を吐き出しそうな顔をしている。
「あら? どうしたの、アーサー?」
気持ちよさそうに撫でられていたアーサーが、ふと頭を引いた。そして、中途半端に浮いたプライドの手に鼻を寄せ……。
「アーサー!!」
「プライド様!!」
俺の手はアーサーの口を塞ぎ、ハリソン副隊長がアーサーとプライドの間に自分の手を差し込み、驚くプライドの手を取ったカラム隊長がついでに背中を支える。
あのハリソン副隊長すら焦りの色を滲ませていたが、それを珍しがる余裕もない。
「何か……ダメだった、かしら?」
三人の完璧な連携プレイとも呼べる行動に、プライドだけが戸惑っている。それから少し考えるような仕草をしてから、ああ、と納得した顔を見せた。
「猫ちゃんはね、初めて会う相手には鼻を寄せるの。挨拶みたいなものよ」
「姉君! 何度も言うようですが、これは猫じゃなくてアーサーです!」
のほほんと猫の解説をするプライドに、そうじゃないと全員が心の中でツッコミを入れる。
「ステイル様、その……」
冷や汗をたらしながら、カラム隊長が助けを求めるような目で俺の名を呼んだ。アーサーを連れて帰ってくれ、という言葉は呑み込んだが気持ちはしっかりと伝わっている。
「姉君、これ以上は。一目見るだけ、という約束でしたよね?」
「ええ……そうね」
もごもごと不満げに体を捩るアーサーが、暴れて俺の腕から抜け出すのも時間の問題だ。二人の行動の何が問題だったかについての説明はカラム隊長に任せ、それではと一言残してプライドの部屋を後にする。
だが、向かう先は騎士団長の待つ救護棟じゃない。
「アーサーの浮気者」
ベッドの上を着地点と定めていたので、ぼすんと二人分の体が沈んだ。プライドの部屋と同様、しっかりと人払いを済ませた俺の部屋でアーサーの拘束を解く。再び視界の切り替わった状況に警戒するかと思ったが、アーサーはきょろきょろと室内を見回すだけだ。プライドたちを探して駆け回る事も可能性として考えていたので、これには俺も思わず安堵の息を吐いた。
『挨拶みたいなものよ』
プライドの声が蘇り、アーサーの顔の前に手を差し出してみる。
「挨拶、か」
救護棟で出会いがしらに飛びつかれたのも挨拶の一環だったのかと思えば、一人で焦ったのも馬鹿らしく思えてきた。
アーサーは一歩引くことが多い。人前ではもちろん、二人きりの時でもだ。互いの立場を思っての事だと理解はしているが、それでももどかしいと思う事は止められない。だから、朝のように人目も憚らずに飛びついて来たのには混乱したし、正直頭が真っ白になった。
「ん? アーサー?」
そんな事をつらつらと考えていると、アーサーは首を傾げて俺の手を凝視している。なんだ、俺にはもう「挨拶」はしてくれないのか。ならせめて頭を撫でるだけでも……そう思い手を動かした途端にアーサーの手がそれを拒んだ。
ぺちんとベッドに押し付けられた自分の手を見る。
さすがにこれは……傷つくぞ?
騎士団長から引き離したのも、プライドたちから引き離したのも確かに俺だ。そのせいでアーサーの機嫌が悪くなっていてもおかしくはない。
「悪かった……騎士団長のところに戻っ……!?」
ずい、と近付いてきたアーサーの顔。また鼻を付けるのかと思い身構える俺の頬に、ぺろりとアーサーの舌が触れた。触れた、というか舐めている。
これも挨拶なのか?
どう反応したらいいのか分からず固まっていると、アーサーは無理矢理俺の腕の中に体をねじ込み押し倒してきた。頬を舐め、あごを舐め、首まで舐められてようやく停止していた思考が戻って来る。
「アーサー、こら!」
顔面を押し返し無理矢理引き剥がそうとしてもびくともしない。それどころか、密着した体全身を使ってすり寄ってくる始末だ。猫的にこれがどういった感情なのかは分からないが、嫌われてはいないし挨拶の範疇を超えているのも分かる。
「アーサー?」
抱き締めたような姿勢になったのはアーサーが入り込んで来たからだったが、今度は俺の方からも背中に回した手に力を込めた。とんとん、とあやすように背中を叩けば、視界の端でゆらゆらと尻尾が揺れる。
普段もこれくらい、自分の感情に正直でいてくれれば。
そんな事を思いながらアーサーの背中を撫で続け、猫の耳が俺の顔や首に擦り付けられるのを今はじっくりと楽しむ事にした。
「騎士団長のところに戻るのは、もう少し後でもいいか?」
そう問いかければ、アーサーは質問の意味が分かっているのか分かっていないのか、少し首を傾げ、それから一声「んなぁ」と鳴いた。