とりしし ゾンビパロぼんやりとした意識の中で、ゆっくりとした動きでナイフとフォークをそれぞれ持ち上げる。眼前に並べられた一つ一つの皿には、芳しい香りを漂わせた料理が丁寧にセッティングされている。
「……郎、お……!」
白いテーブルクロスに覆われたテーブルが、ずうっと向こうまで続いている。終わりの見えないくらいに。
これは、何という料理なんだろう。手元に視線を戻し、ナイフとフォークで料理を口に運んだ。
家族や友人と行ったレストランではついぞ食べたことのない味だった。口いっぱいに旨みが広がって、舌の上で食材がとろけた。喉の奥に落ちていくその一片に至るまで、愛おしくなるほどだった。
ーー俺、結構いろんな料理を小さい時から食べてきた自覚があるのに。
この料理の名前を知らない。
「……、おい、長太郎!」
名前を呼ばれていたことに気がついて、ハッと顔を上げた。
「あれ、宍戸さん、どうかしたんですか」
「それはこっちの台詞だ。俺が何回呼んでも、ちっとも返事をしねえから」
「そうだったんですか、……すみませんでした。この料理、冷めちゃう前に食べましょうよ」
「……ああ、そうだな」
宍戸さんとこうして美味しい料理がお腹いっぱい食べられることなんて、以前は想像すらしていなかった。これ以上ない幸福だ、と鳳は思う。
「このお肉、とっても美味しいですね」
二人は会話を交えつつ、舌鼓を打つ。
「次は何を食べましょうか」
宍戸本人も、嬉しそうに肉を頬張っている。少し咀嚼してから、「そうだなあ」と顔を綻ばせる。
これ以上ないくらい、幸せだ。
これ以上ないくらい。
◇◇
『もしゾンビになったらどうされたいか、ここに記入してください。直ちに、です』
この文言がCMで何度も繰り返し流される。数週間前からもう何回も聞いていた。
役所から配られた保険証の裏には、自らの意識がなくなった場合に、臓器提供に関する意思表明のできる欄が設けられている。ある日、ある時、急きょ、政府が配布した個人識別カードには、その記述の下にでかでかと「ゾンビに関する事項」が追加されていた。
「……んだよこれ」
宍戸は家族の分も含めて役所から送られてきた封筒を照明に透かした。
「早く書いておきなさいよ。このご時世、いつ誰がゾンビになるか、分かったもんじゃないんだから」
夕食の席で、母親に急かされて、言葉を発せずただ唾を飲み込み、生返事をした。
「明日、学校にいる奴らに聞いてみるか」
自室で一人になった宍戸は、独り言を漏らした。
今、世界で大流行している病ーー病と呼んでいいものかどうか、宍戸には判断すらつかないがーー通称『ゾンビウイルス』は、聞いたこともないような遠い島国で最初に発見された。調査に向かった調査機関の人間も、次々とゾンビになる者が続出し、中には本土に戻ってから発症する者も現れ、瞬く間に世界中へと広がってしまった。
ゾンビになった人間の体は腐り、肉がどんどん削げていくらしい。それを補うためなのか、ゾンビたちは生きている正常な人間を探し求めてゆっくりと動き、獲物を狩る、と言われている。
日本にはまだゾンビウイルスは広がっていないとされているが、海外からの旅行客の降り立つ空港や貿易などで使われる港から、いつ、どのように国内に広まるか分からない、秒読みの状態が続いているとニュースで聞いた。
テレビでは流せない、ゾンビが人を襲う生々しくグロテスクな動画がネットでは日々拡散されている。まるでゾンビを撃ち殺すゲームのようなそれが、今では中高生の恰好の話題となっている。宍戸のクラスでも例外ではない。
「おい、聞いたかよ。実はもう日本にゾンビが来ちゃってるって噂」
「聞いた聞いた。◯◯県の外れでゾンビを見た人がいるって」
こうした事態を重く見た政府は、すぐに国民全員分の個人情報を含めたカードを作成し、意思表示ができるように制度を整備した。それに意味があるかは、まだ分からない。
くだらない、と宍戸は思う。どうやったって、そんなことが役に立たないのは明確だ。
ゾンビになった場合の特効薬は、現状開発されていない。そのため、動きの遅いゾンビの特性を利用して、持ち主の荷物からそのカードを取り出して確認し、どのような対応を取るか周囲の人間が決めても良い、という法律が同時期に整備された。
いつも通り、テニスコートで練習している鳳を見かけた。宍戸たち三年が引退してからというものの、鳳と同い年の日吉が部長として、そしてかつて宍戸とダブルスを組んでいた鳳は副部長として、部を牽引していた。
練習がひと段落したところで鳳がコートのフェンス脇に佇む宍戸に気がついて、駆け寄ってきた。
「来てたんですね、宍戸さん」
「ああ、お前たち後輩の様子が気になってな」
「ありがとうございます。練習は順調ですよ」
「そうみてえだな」
宍戸の中で、鳳とダブルスで培った絆には、様々な感情が入り混じっていた。単なるプレーヤー同士ではない何かを、感じ取ることができた。
「そういえば……見ましたか?今日のニュース」
もしも、ある日大切な人がゾンビになってしまったら……。そう考えて心を痛めている人は少なくない。
宍戸の後輩である鳳も、その一人だった。
「ああ、馬鹿らしいよな」
「俺、自分がゾンビになっちゃったら、って考えたら怖くて」
「んな訳ねえだろ。ある日いきなり自分がゾンビになることなんざ」
「そう、ですよね……」
俯いて苦笑する鳳の表情は硬い。
「今日このあと時間あるか?」
「えっ、はい、あります……!ミーティングが終わったら、そのまま帰る予定です」
宍戸から見て、鳳は本当によく頑張っていると思った。そんな彼を労いたいという心からの気持ちを、すぐに実行に移すべきなのではないかと思えた。ほんの少しでも、肩の荷を下ろしてやることができれば。宍戸は鳳がプレーヤーとして、副部長としても、飛躍できるように、ずっと見守るつもりだった。
「じゃあ、校門で待ち合わせしましょう!またあとで!」
駆け出した鳳の背中を見て、ふたりで試合をした日々を思い出した。心強い相棒。優しい相棒。
適当に校内で時間を潰してから、校門へと向かうことにした宍戸は、教室の時計を見て、そろそほミーティングが終わる時間かと思い、席を立った。下駄箱に向かい、下足に履き替え、真っ直ぐに校門を目指した。
その時、耳障りなサイレンが学園内に響き渡った。
『不審者が侵入しました。校内に残っている生徒は直ちに室内に避難し……』
校門を少し過ぎたあたり、宍戸からおよそ5メートルほど先に、異様な人影が見えた。
片足を引き摺るようにしてこちらに近づいてくる。
緑色に腐敗した皮膚、溶け出したようにでろでろと伸びる指先、虚で濁った瞳。
声にならない叫びを、口であった場所から響かせている。
「あ、あ……」
宍戸の周辺にいたごく僅かな生徒は一斉に校舎内に逃げ込もうと、昇降口を目指した。
そして、一人だけ、腰を抜かして後退りする生徒が目に入った。
「お前、早く逃げねえと……!」
日頃からこうした緊急事態に対応する練習をしているわけではない。腰を抜かしてしまった生徒は、自らの体を震わせて青ざめるばかりだった。
「おい、大丈夫か?!早く!立て!」
側に走り寄り、何とかして生徒を起こそうとした。宍戸は渾身の力を振り絞って、同い年ほどの生徒を後方へと押し出そうとする。ゾンビは、じりじりとこちらに近付いてくる。
「ヴー、、……」
急に、頭から足の先までの力が抜けた。血の気が引いた、というのは、こういうことを言うのかもしれない。宍戸の体は硬直し、ゾンビが目と鼻の先に迫った。
「くそっ、来るな!」
必死に腕を振って、ゾンビを追い払おうと躍起になる。
ーーこんな時に、ラケットがあれば……。
今日に限って、ラケットは家に置いたままだった。
腐臭を放つ相貌が、宍戸に迫る。がぱりと開けられた口は、点々と歯が抜け落ち、ぬらぬらと舌が鈍く光った。
皮膚が突き破られたと感じた。噛まれた。噛まれてしまった。ゾンビの顎の力は想像以上に強く、振り解こうとしてもびくともしない。
「放せ、放せよ……ッ!」
ゾンビの歯が骨に届くかどうか、まるで杭を打ち込まれたようだった。噛まれた場所が赤黒く変色しているのが見える。
「宍戸さん!」
後ろから耳慣れた声が聞こえて、振り返ると鳳の姿があった。
「宍戸さんを放せ!」
鋭い音と共に、渾身の一撃が繰り出された。
テニスボールがゾンビに直撃し、呻き声を立てながらその場に崩れ落ちた。
はあはあと、二人の荒い息遣いがその場に響く。
「長太郎、お前、なんで逃げてねえんだよ。放送、聞いてなかったのかよ」
「校門付近でって約束してたから、もしかしてって思ったんです……。それより宍戸さん、その傷……」
「噛まれちまった……いつもなら、こんなヘマしねえのに……、な」
傷口が熱を持ち、ジンジンと痛む。
「とにかく傷を洗いましょう、こちらへ……」
「ダメだ」
「宍戸さん、早く」
「ダメだって言ってんだろ!」
二人の間の空気が重くなる。
「俺はゾンビに噛まれた。ニュースで見たんだよ、噛まれた人間は、保って半日で、ゾンビ化するってな。そんなあぶねえやつがこんなところにいていい訳がねえんだよ」
「でも俺は嫌です。こんなことで宍戸さんと離れたくない」
そう言って、鳳はユニフォームのポケットからハンカチを取り出した。宍戸の傷口に充てて、きつく結んだ。
「これできっと、傷は目に付かないでしょう」
こんなの、気休めにしかならない。そう言いたい気持ちを宍戸はぐっと堪えた。
「……ッ」
全身が重だるく、鈍く頭が痛んだ。毒が回るように、ウイルスに当てられたのかもしれない。脂汗がどっと額に浮かぶ。
ふらふらと視界が揺れる。
「宍戸さん?!」
鳳が肩を持つが、手足に力が入らなかった。
「少しだけ、頑張ってください。部室まで、あとちょっとですから」
「やめろ。俺に、触んじゃ、ねぇ……」
鳳の手を払いのけることもできず、少しずつ意識が遠のいていく。
「あ……、ちょう、たろ……」
こんな時になって、あの時ああすればよかったとか、こうすればよかったみたいなことが、脳裏に浮かんでは消えていく。
「おれ、ちょうたろ、の、ことが……」
言えなかったなあと、ふと思う。なんて不幸なんだ。あんなに一緒の時間を過ごしたというのに。やれなかったことが、どんどん増えて。
あ、俺、死ぬのか。
ふとそんな考えが浮かんで、ぷつりと宍戸の意識が途切れた。
◇◇
鳳は必死に宍戸の手を握り、肩を貸しながら部室を目指した。恐らく、ミーティングが終わった直後で、人はいないだろうと直感した。そして、何より、宍戸を人の目に触れさせずに済む。
つい先ほど、宍戸は意識を失ったようだった。脱力した全身が時折震えるのが伝わってくる。白かったハンカチが、どす黒い血で滲んでいく。
部室にたどり着き、ロッカーのあるソファスペースに、宍戸を横たえた。浅い呼吸が聞こえてくるので、息はまだあった。ほっと安心して、肩から少しだけ力が抜けた。
「宍戸さん……」
長太郎はこれからどうしようかと必死に考えた。家族には……もう会えないかもしれない。
部員のみんなにも……。
でも、それ以上に宍戸さんをどうにかして元に戻してやりたいという気持ちが強かった。
ずっと側で自分を見守ってくれていた存在。心から尊敬している先輩。いつでも自分を奮い立たせてくれた、特別な人。
大粒の汗が浮かぶ額に、そっと手を添えた。宍戸の顔色が、今にも消えてしまいそうなほどに青白い。
「俺がいますから、どんな風になったって、俺は宍戸さんを……」
その言葉に反応したのか、微かに宍戸の睫毛が震えた。
「宍戸さん?!」
顔を覗き込むと、宍戸の瞼がゆっくり開き、眼球がぎょろりと左右に揺れる。濁った瞳には、何も映らない。
「、……」
「良かった、目が覚めたんですね、……何か欲しいものはないですか?」
薄く開いた唇の端から、ぽたりと涎が垂れて床へと落ちる。
「俺、ずっと考えてたんですよ。自分がゾンビになったらどうしようって」
まだ宍戸は瞼を開いては閉じて、を繰り返している。
「そうしたら、大切な人に殺されたいって思ったんです。宍戸さんがどんな風に考えてるかは、分からないですけど」
目の前のかつてのダブルスパートナーは、錆びてしまった工具のように、ぎこちなく長太郎の頬に手を添えた。
「ちょ、たろう……?」
鳳は力一杯宍戸を抱きしめた。
「宍戸さん、もう、俺、あなたが死んじゃうんじゃないかって思ったんですよ!」
「おれ、たぶん、もう、だめだ」
途切れ途切れに発される言葉が、長太郎の耳に届いた。
「ぞんびに、なって、おまえを、たべたく、なって……ぎっ」
ぐるりと白目を剥いて、宍戸の体が痙攣する。体の中でウイルスが悪さをしているのかもしれない。
「俺、死ぬなら宍戸さんに食べられて死にたいです」
ぶるぶると震える手が、自らの首にかけられるのを見た。在らん限りの力を使って、宍戸は自決しようとしている。
その手を握り、鳳は硬く引き寄せた。
「大好きな宍戸さんに、食べられたいんです」
ぴたりと宍戸の震えが止まった。
「……?」
濁った瞳が鳳の姿を捉えた。
「これ、ぜんぶ……、いいのか……?」
肯定の意を示そうと、鳳は再び宍戸を抱きしめた。その鼓動は既に、止まっていた。
抱きしめられた宍戸の顔は、満面の笑みを浮かべて、大きく口を開いて、鳳の首筋に歯を立てる。
◇◇
宍戸の意識は徐々に浮上した。気がつくと、目の前には白いテーブルクロスに覆われた食卓に、様々な料理が所狭しと並べられている。
「何だこれ……」
初めて目にする料理ばかりだった。名前も分からないようなものばかり。周囲を見渡しても、誰の姿もない。その時、ぐう、と腹の虫が鳴った。そうだ、今日は昼から何も食べていない。
そう思って手元を見やると、ナイフとフォークが整然と置かれていた。
「これ、全部、食べていいのか……?」
誰もいない食卓に、自分の言葉が虚しくこだまする。
「いいですよ、全部食べても」
頭上から、耳慣れた声が聞こえた。見上げると、長太郎の姿が目に入る。
「な、おまえ、何でここに」
ずきんと頭が痛んだ。こんなところに長太郎がいていいはずがない、と直感が告げる。
「俺、宍戸さんが食べてるところを見るのが好きなんです」
だから食べて、と促された。
「そうか、じゃあ……」
テーブルマナーは学校で習ったから、悩まずにできる。すっとナイフが刺さり、肉塊が二つに裂かれた。
口に運ぶと、鼻を抜ける芳しい香り。「何だこれ、美味いな」
そう言って、長太郎の方を向くと、彼は下を向いて黙っている。
「おい、長太郎、どうしたんだよ」
何度か呼びかけても返事がなかった。宍戸は再び料理に手をつける。どれだけ食べてもその手が止まることはない。カチャリと向かいで音がして、長太郎も料理を食べていることがわかった。
二人で料理を食べることがこんなに幸福なことだったなんて、知らなかった。
宍戸はそう思い、次のメニューに手を伸ばした。