今日は何の日(2023年7月)7月1日 銀行の日 高専は休日出勤・深夜残業が当たり前、労働基準法をこれでもかというくらい破りまくっている。だから十八歳になるまでは手渡しでしか給料を支払えないのだという。今更法律なんて気にするのかと担任に問うたら、一度でも怪しまれて銀行のブラックリストに入ってしまったら大層面倒だからだと返された。封筒は予想以上に分厚く、初めての給料にテンションが上がる反面、これを寮の自室で管理するのは面倒だという現実的な問題が浮上した。だから三人でゴールデンウィークに遊びに行く予定を立てながら、ATMで振込をしたいと口にしたのだ。コンビニでもいいのだが、手数料を取られるのが少々癪だと。
「俺、口座持ってない」
そんな時、思いも寄らぬ言葉をかけられて、硝子と顔を見合わせた。そうは言っても初めてみんなでコンビニへ行った時、悟は迷わずブラックカードを出したはずだ。
「あれは家の口座から引き落とされるんだよ」
「それにしたって、悟は入学前から幾つも任務をこなしてただろう。その報酬を受け取るための口座があるんじゃないか」
「んなもん、全部家のモンになってるよ。報酬がいくらだったかなんて俺は知らない」
彼の実力を思えば、任務の単価はゼロが六個付いていたって不思議ではない。自他共に認める箱入り息子の悟だが、「家」からの扱いは愛情に満ちているとは到底言い難い。それを至極当たり前と受け入れるさまを見ていると、少々胸が痛む。傑が言葉に詰まっていると、硝子は淡々と告げた。
「なら作ればいいじゃん。高専からもらった分は全部そっちに入れておけば?」
「そんな簡単に作れるもん?」
「住民票と印鑑があれば作れるよ」
「ふうん。じゃ、作っておこうかな」
「決まり。次の休みは五条悟・初めての口座開設ツアーな」
ニヤリと笑う硝子につられて笑みを零す。後日開催された五条悟・初めてのATM入金セレモニーにて、初任給の半分も預け入れられないという珍事が発生したのはまた別の話だ。
7月2日 うどんの日──このメッセージを受け取ったアナタ限定!不定期オープンの名店にご招待♡
そんなふざけたメッセージが届いたのは、十八時を過ぎた頃だった。もうこんな時期か、と時の経過の速さを痛感する。ストレスなんて皆無、いつでも能天気に見える五条だが、呪術界の旧い慣習や上層部の無理難題の矢面に立っているせいでそれなりに鬱憤を溜め込んでいる。普段なら生徒たちと交流したり、好きなものを食べたりすることで解消しているのだが、繁忙期ばかりはそうもいかない。春から夏にかけての繁忙期のうち、六割ほど経過したかという頃、唐突にうどんを打ち始めるのが毎年恒例だ。生地の上で足踏みをする時の力の入れ方が、術式で辺りをふっ飛ばす時の呪力の込め方に似ているらしい。ちなみに呪霊や呪詛師を甚振るだけでは、到底収まらないのだそうだ。周囲への被害を考えて、力加減をしなければならないから。最強というのも楽ではない。
うどんを打つと決めた時、五条は必ず硝子に声をかける。余れば翌日以降に学長や七海、伊地知あたりに配ることもあるが、家に呼んで一緒にうどんをすするのは硝子だけだ。理由はたった一つ、鬱憤が最大限まで溜まった五条はありとあらゆる愚痴を口にするからだ。腐ったミカンへの呪詛めいた文句を聞かされても伊地知は恐縮するし、歴代彼女やセフレ達がメンヘラ化した話などしようものなら七海はさっさと出ていってしまうし、一人で何もかもを抱え込んだ親友への後悔を口にすれば夜蛾を困らせてしまう。必然的に、話し相手になり得るのは硝子ただ一人だった。
五条は本当にストレス解消のためだけにうどんを打つので、奴に任せていると素うどんしか出てこない。良い素材を使うし、打ちたてほやほやのうどんは美味しいが、繁忙期で馬車馬のように働いた後の身体に素うどんでは少々味気ない。今日は暑かったから、さっぱりしたメニューが良い。自分の家の冷蔵庫の中身を思い返して、「すだちうどんを所望する」とメッセージを送った。夏も近いというのに、長い夜になりそうだ。
7月3日 涙の日※「硝子って泣くことあるの?」
「あるよ」
「本当に?」
「こんなことで嘘付いたって仕方ないだろ」
硝子は呆れているけれど、僕にとっては大問題だ。だってそれなりに長い時間一緒にいるというのに、彼女が涙を流しているところを見たのなんて、目にゴミが入った時くらいしかない。一緒に映画を観る時だって、それが感動的なドキュメンタリーだろうが、バッドエンドのロマンスだろうが、憐れな人々の群像劇だろうが、硝子は真顔で眺めている。一応断っておくが、冷淡な人間という訳ではない。出来の良い物語であればちゃんと心を動かされている。ただその感動を、涙という形で表そうとしないだけだ。
「でも僕、硝子が泣いてるの見たことないよ」
「そりゃ私だって大人だし。人前ではそうそう泣かない」
「僕の前でくらい、我慢しなくても良くない?」
「だけど君、すぐ泣く女とかメンドクセーって言うタイプだろ」
「そうだけど、そういう話をしてるんじゃなくて……。どんな理由でも、泣くとストレス解消になるって言うじゃん。だからさ、今日は一緒に映画観ようよ。それで思いっ切り泣こう。僕の前でなら、泣いたって恥ずかしくないでしょ」
そう言うと、硝子は目を伏せて黙った。これでも結構心配しているのだ。歌姫が顔に一生消えない傷を負った時も、灰原が物言わぬ躯になって帰って来た時も、傑と訣別した時も、硝子は一切涙を流さなかった。案外格好つけなので、後輩達は勿論のこと、歌姫やヤガセンの前でだって泣いてはいないだろう。後方支援とはいえ、誰よりも人の死に触れる機会の多い立場にあって、苦痛を覚えない筈がない。せめて僕の前でくらい感情の赴くままに泣いたっていいだろうと思うのだ。たとえば今日のように、彼女が親しくしていた術師の遺体と向き合った時は。
「……別に、泣きたくないから泣かないわけじゃない。君の前で格好つけようとしてるわけでもない。ただ、感情に起因する涙を流せないっていう、それだけ」
淡々と口にする硝子の頭を、そっと胸元に抱き寄せる。旋毛に口付けても、彼女はゆっくりと一度瞬きをするだけだった。分かっている。これは人一倍不器用な硝子の、精一杯の甘えだ。強がりな彼女は、僕以外の人間の前で弱っているところなんて欠片も見せやしない。
「ならせめて、僕が硝子を目一杯甘やかしちゃおうかな。専属シェフにでも、バーテンにも、セラピストにでもなるよ。このグッドルッキングガイを顎で使えるのなんて、硝子だけだからね?」
できるだけ軽いノリに聞こえるように、敢えて場違いな明るい声を出した。硝子が少しだけ眦を下げたのを見て、密かに安堵する。もぞもぞと身体を動かしたかと思えば、そろりとシャツの背を摑まれてどきりと心臓が跳ねた。首元に埋められた彼女の顔は見えないけれど、先程まで冷え切っていた身体は少しだけ温度を取り戻したようだ。
「……じゃあ、今日はいっぱいして。私がイヤって言っても、何度も何度も、息ができなくなるまで、して」
泣いているのを見たことがないなんて、とんだ勘違いだった。ある時はシーツの隙間で、ある時は月明かりの下で、僕は幾度となく硝子の涙を見ている。頬を伝い、顎から首筋にまで流れる涙の跡をそっとなぞる。涙を拭う権利を与えられたことがどうしようもなく嬉しくて、そんな自分の賤しさに落胆した。
7月4日 ファッションお直しの日 寝室に入ると、ベッドの上に大量の服が並べられていた。スーツ、ジャケット、シャツ、チノパンにジーンズ、どれも五条がそれなりに長く着ているものばかりだ。生地がヘタったわけでも無さそうだが、衣替えにしては時期が中途半端だ。
「断捨離?」
「いや? 直しに出そうと思って。ちょっとキツくなっちゃったんだよね」
言われてみれば、先日の健康診断の時、五条は三キロほど体重が増えていた。背が伸びたわけでもなく、腹囲も変わっていないので、筋肉が増えたと考えるのが自然だ。思い返せば硝子が五条の背中に腕を回す時、以前は自分の手首を掴めていたはずだが、数日前は指先が触れるかどうかというところだった。
「布を足してもらうの?」
「うん。昔から頼んでるところがあってさ、時間かかるけど綺麗に仕上げてくれるんだよ」
「前からやってたんだ。全然気付かなかった」
「だろ? 量産品じゃなくても、全く同じ生地を探して来てくれるの」
「それなら結構お金かかりそうだけど。新しいのに買い替えようとは思わないんだ」
「服なんてちょっと筋肉つくとすぐ合わなくなるし、そのたびに買い替えてたらキリないでしょ? そもそも僕に合うサイズってあんまり無いから、毎回探すのも面倒だし」
言いながらホイホイと段ボールに服を詰める五条の姿を眺める。服なんて伊地知や五条家の使用人に調達させているものとばかり思っていたから、彼なりに愛着を持っているらしいことに少々驚いた。あ、これとかさ。言いながら掲げられたスーツを見やる。薄くストライプ柄が入ったブルーのそれは、硝子も何度か見たことがあるものだ。
「硝子、お気に入りでしょ。なのにちょっと合わなくなったからって捨てちゃうのは惜しいじゃん」
「君は大体どれでも似合うと思うけど」
「でも、これを着た時はいつもよりも硝子とよく目が合う気がするんだよねー。なんかこう、視線がギラギラしてるというか」
「気のせいだろ」
あしらったものの、それが彼の持つ服のうち上位三位に入るくらいに良いと思っているのは事実だった。男のスーツ姿は三割増しと言うし、見慣れない姿だからこそいつもよりも魅力的に見えるものだし。そんな言い訳すらも見抜かれているようで居心地が悪く、「コーヒーを入れてくる」と言ってキッチンへ退散することにした。
7月5日 ビキニスタイルの日 ――硝子にリボンは無謀じゃね? 全然似合わねぇwww
失礼極まりない文面に苛立ち、大きく舌を鳴らした。歌姫先輩と海に行くと言ったら写真を送れと散々騒いだくせに、こうも貶してくるあたり五条悟という男は筋金入りのクズだ。先輩が隣にいる時にメールを開かなくて良かったと心底思う。もしもこれを彼女に見られていたら、今頃先輩は呪詛師と成り果てていたかもしれない。大袈裟だが、彼女の中での五条はそれくらい地位が低い。
硝子とて、似合わないことはわかっている。ただ大好きな先輩と、お揃いを着たかっただけなのだ。五条さえ絡まなければ穏やかで柔らかい空気を纏う彼女には、胸元に大きなリボンをあしらった真っ赤なビキニがよく似合う。ボトムがフリルのスカートになっているのもまた、先輩のイメージにぴったりだった。硝子自身はせめてと黒を選んだけれど、可愛らしさとは程遠い自分に、女の子らしさ全開の水着はかなりハードルが高かったようだ。分かっていても、他人から指摘されるのは腹立たしい。
「クズ」の一言だけを送ろうとした時、ヴヴ、ともう一通メールが届いた。差出人の名を見て、新着メールの一番上を開く。クズはクズでも、夏油は女心が分かるタイプのクズだ。これ以上不愉快にさせられることはあるまい。
──二人ともとても似合ってるね、可愛いよ。ところで悟が今すぐ迎えに行くって騒いでいるんだ。煩いから硝子からも何とか言ってくれ。
息をするように並べられた褒め言葉と、垣間見える自己中ぶりについ吹き出す。無駄に大声で喚く五条と、面倒くさそうに窘める夏油の姿が脳裏に浮かんだ。五条の言動はまるで好きな子いじめをする小学校低学年男児だ。もうちょっと大人になれよと言いたいところだが、人間一年生にはハードルが高すぎるのだろう。
──お前の趣味じゃないってだけだろ。さっきから何度もナンパされてる。
送信完了の文字が表示されてから一分と立たぬ間に、けたたましく着信音が鳴り響いた。五コール目に電話を取ると、電話口の向こうで五条が捲し立てている。知らん男に着いて行くな、物珍しくて声をかけられているだけだと言ったのは聞き取れた。呆れたように何かを言って宥めているらしい夏油の声が、途切れ途切れに割り込んでくる。二十メートルほど向こうにかき氷を両手に携えた歌姫先輩の姿が見えて、左手を大きく振った。
「『可愛すぎて心配だから早く帰って来て』って素直に言えるなら、帰ってやるよ」
十秒以内な。とカウントを始めると、五条は急に押し黙った。勘違いしてんじゃねーよバカ、くらい言われると思っていたので、少々拍子抜けした。ギリギリとケータイを睨みつけているであろう男の姿を想像する。プライドの高い五条には、単独で特級呪霊を仕留めるよりも難しいことだろう。三、二、とまで数えたところで、何とか聞き取れるくらいの小さな声が聞こえた。
「……俺と一緒の時以外、それ、着ないで」
精一杯勇気を振り絞ったのであろう言葉に、不覚にも少しだけぐらつく。独占欲らしきものを見せられても、嫌な気分にならない自分に驚いた。硝子が「一回だけしか着ないのは勿体無いから、海かプール行くよ」と言ったのと、歌姫先輩が「お待たせ!」と叫んだのは殆ど同時だった。
7月6日 ピアノの日「本当に何でもできるんだな」
「まーね」
そう言う割に、然程得意気ではなかった。あまり好きではないのかもしれない。残念だな、と少しだけ思う。美しい男が姿勢良く鍵盤に指をのせている姿は、中身がクズだと知っていても魅入ってしまうほどに、清廉で艶っぽかった。
「……ガキの頃、術式が分かるまではさ。一通りの習い事をやらされたんだよ。剣道、華道、茶道みたいな和風のモンは勿論、ピアノとかバイオリンとかバレエとか、その他諸々。ほら、僕って小さい時から見た目が良かったから。最悪術式なしでも、教養さえあれば使い道はいくらでもあるってわけ」
「……六眼があるなら、ある程度は重用されるのかと思ってた」
「まあ、術式が無くてもセンサー役くらいにはなるだろうね。でもやっぱり、非術師で六眼持ちってなるとしんどいと思うよ。日常生活もまともに送れないくらい見えすぎるのに、それを活かす方法が無いんだから。そんなお荷物抱えるよりは、外交の道具に使った方が余程成果が上がると思われたんだろうね」
いつも通り饒舌な五条だが、その瞳には殆ど感情を宿していなかった。旧態依然とした呪術界において家柄や血縁の持つ意味合いは大きく、御三家という確固たる地位にあろうとも、一族の人間は男女問わず政略結婚の駒でしかない。現実逃避を実行に移せるだけ、五条は恵まれている。一泊二日の逃避行すら叶わぬまま一生を終える人間が、数え切れぬほどいるのだ。
アップライトピアノの鍵盤蓋の縁をそっとなぞる。ホテルのラウンジに置かれたそれは、随分と年季が入っている。少しだけ木がささくれていて、指先に刺さった。痛い、と感じる間もなく、小さな傷口は塞がっていた。
「……さっき弾いてた曲、何ていうの」
「愛の夢。ロマンチックでしょ」
硝子に聴かせるためと思えば、習わさせられた意味もあったかな。続けられた言葉に、ぎゅうと胸が締め付けられる。ピアノを弾く君は美しかったよと呟くと、左手を取られて甲に口付けられた。五条曰く「婚前旅行」の始まりにしては、随分と物悲しかった。
7月7日 ゆかたの日「なんで浴衣じゃないの」
口を窄めて問い掛ける。学生寮の玄関に現れた硝子は、白いレースのキャミソールにデニムのショートパンツを身に着けていた。可愛い。むちゃくちゃ可愛い。正直物凄く好みだ。けれど夏祭りに行くのだから、せっかくなら浴衣姿を見たかった。必要以上に膨れ上がっていた期待がしおしおと萎んでゆく。硝子の眉間に皺が寄って、またやってしまったなぁと後悔の念が渦巻いた。ここでかの親友のように「可愛い」と言わないから、彼女からの評価はいつまで経ってもクズからアップデートされないのだろう。
「浴衣なんて持ってないから」
「言ってくれれば買い物付き合ったのに」
「年に一回着るかどうかもわからないのに、わざわざ買わないよ。自分じゃ綺麗に着られないし」
「俺、着付けできるよ。着させてやるから買えよ」
「……デートするって言っても着付けしてくれんの?」
予想外の返しに、ぐぅと言葉に詰まった。浴衣の硝子なんて、絶対可愛いに決まってる。その可愛い硝子をみすみす他の男に引き渡すなんて、死んでもイヤだ。「デート相手が歌姫なら着付けてやる」と言うと、硝子は呆れたように笑った。
7月8日 ナンパの日 十メートルほど先、ベンチに腰掛ける男の姿を視認して、眉を顰めた。傍らにいる女性から、熱心に話し掛けられている。五条と出掛けるといつもこうだ。連れだからと割り込んで値踏みされるのも、放置して後からグチグチ言われるのも鬱陶しい。
十代の頃の五条は、相手がどんな美人であろうと嫌な顔をして、時には暴言すら吐いて遠ざけるのが常だった。二十代になってから――正確には高専を卒業してからの五条は、機嫌が良い時は多少の雑談くらいなら付き合うようになった。それは決して、彼が大人になった証左ではない。壁に凭れてぼんやりと二人の様子を見ていると、五条が不意に流し目をしてみせた。彼がナンパ相手の戯言に耳を傾けるのは、硝子と出掛けている時だけだ。
ガキだなあ、と小さく呟く。五条が硝子に対して友人の枠に収まりきらない感情を抱いていることも、硝子が「五条」と深い関係になる踏ん切りをつけられないでいることも、互いの間では暗黙の了解となっている。日頃一緒にいて選択を迫られることや詰られることはないけれど、時折こうして試すような真似をされるのだ。奴の思い通りになるのは癪だが、存外潔癖なところのある彼が、自分をそういう目で見る相手に愛想を振りまいているのも気に食わない。五条をじいっと見つめて、視線が合うのを待つ。「はやくきて」と口だけを動かして見せると、彼はすぐにガタリと立ち上がった。たったそれだけで心が凪いでゆく自分自身を、嘲笑った。
7月9日 ジェットコースターの日「人生初・ジェットコースターの感想は?」
「何が楽しいのかさっぱり分からん」
予想通りの反応に苦笑する。術式を使えば空中散歩が出来る悟からしてみれば、ただレールを走るだけのジェットコースターなんて退屈極まりないのだろう。傑だって、呪術界と縁が無い時分に乗った経験がなければ、似たような反応をしていたに違いない。
「二人ともギャアギャア騒いでたけど。傑の呪霊に乗る方がよっぽど速くね?」
「ノリだよノリ。みんなで同じスリルを味わうのが楽しいんだろ」
分かってないな坊っちゃんは、と硝子に煽られて、悟はあからさまにむくれた。これまで周りに友人と呼べる存在がいなかったからなのだろう、彼は仲間はずれを極端に厭う。その様子を見て面白がるあたり、硝子もなかなか良い性格をしている。
「ほら、たとえば男勝りな女の子がいるとするだろ。一緒にジェットコースターに乗って、その子が隣で怖がってたらキュンとしない?」
「うるせ〜なってなるだけじゃね」
「じゃあ、乗り終わった後に硝子が涙ぐんでたら?」
「……なんかこう、イケナイ扉を開くかもしんねぇ」
「だろ?」
「本人の目の前でオカズ扱いすんじゃねーよ」
ウゲェと顰めっ面をした硝子はただの雑談のつもりだろうが、悟の表情は結構ガチだ。表現はアレだが、その中身は純度百パーセントの恋情なのだと傑はよく知っている。隣から向けられる熱い視線に本気で気付いていないらしい硝子を見、親友の恋心の行末を憂いた。
7月10日 名入れギフトの日「あ。それ、かわいい」
「ありがとうございます。気に入ってるんですよ」
露天風呂の脱衣所。下着姿で髪を乾かす硝子を見て、声をかけた。デコルテを囲むように繊細な刺繍が施されたスリップは、一目で質が良いものと分かる。ボルドーというチョイスは少々意外だが、深みのある色合いは彼女の肌の滑らかさを引き立てている。
「すごく似合ってる。もしかしてシルク?」
「はい。肌触りが良くて、気持ちいいんです」
「ちょっと触ってみてもいい?」
「どうぞ」
裾の方を手に取ってみると、液体のようにさらりと流れてゆくものだから、思わずほぅと溜息が漏れた。胸元には、生地と同じボルドーの糸で筆記体のSが縫い付けられている。鏡越しにこちらを見た硝子が、くすりと笑みを溢した。職業柄それなりに稼いでいるが、これは相応に勇気を出さないと買えないものだろうなと直感する。
「良い値段しそうね。いくら位なの?」
「えー……十万、とか?」
「そんなに!?」
硝子の言葉に目を剥いた。予想よりも一つゼロが多いこと、そして彼女が下着にそこまでのお金をかけているということに驚いた。旅行や宅飲みで硝子の下着姿は度々見かけているが、それなりの機能性とデザインを備えていればいいという程度のこだわりだった筈だ。良い男でもできたのだろうか、と考える。だがつい数時間前に、おひとりさまだと聞いたばかりだ。
「……やっぱり、男出来た?」
「いいえ。さっきも言いましたけど、そういうのはさっぱり」
「なら、心境の変化でもあった? 何というか、珍しいなと思って」
「……ああ。これ、貰い物なんですよ」
「えっ」
何でも無いように言ってのけた硝子に、再び目を剥く。恋人でもない相手に十万円の、それも下着をプレゼントするなんて、贈り主が男だろうが女だろうが怪しすぎる。驚きを通り越して、一気に不安でいっぱいになった。歌姫の様子を見て不思議そうに首を傾げる硝子は、微塵も疑念を抱いていないのだろう。
「……その、大丈夫なの? そんな高価な下着贈ってくるだなんて……迫られたりしてない?」
「あ、心配してくれてるんですね。大丈夫ですよ、五条なんで」
「ハァ!?」
先程から落ち着きが無いなと自分でも思うけれど、こればかりは許してほしい。同期同士仲が良いのは十分理解しているつもりだが、ただの異性の友人に十万円の下着を贈るだなんて、どう考えても普通ではない。「誕プレの希望を聞かれて、実用品が良いって言ったらこれをくれたんですよ」と硝子が補足してくれているけれど、正直全然頭に入って来ない。視線を右往左往させていると、再び胸元の刺繍に目が止まる。デコルテ部分の刺繍に紛れて分かりづらいが、Sの右横の文字はIにしては複雑なことに気付いてしまった。
「……気分を悪くしたら申し訳ないんだけど。その、五条とそういうこと、してるの?」
「まさか」
あり得ない、とカラカラと笑う彼女を見て、こめかみを押さえたくなる。ただの友人から贈られた高価な下着を平然と着る硝子、その贈り物にわざわざ自分のイニシャルを刺繍する五条、どちらがより罪深いのだろうか。二秒ほど考えてから、歌姫は思考を放棄した。触らぬ神に祟りなし、である。
7月11日 ラーメンの日 高専から自転車で十五分ほどの場所にラーメン屋がある。関東近郊ではよく見かけるチェーン店だ。学生時代から不定期に通っているが、店員の入れ替わりが激しいせいか、五条ですら顔を覚えられていない。二人分のラーメン鉢がギリギリ乗っかる小さなテーブルに腰掛けて、ズルズルと無心に味噌ラーメンを啜る。五条といても不躾な視線を向けられないのは、ここくらいだ。
「僕らってさ。こんなに味覚が近いのに、どうして好き嫌いは真逆なんだろうね」
ポツリと呟いた五条を一瞥し、「さあな」と返す。バランス良く具材を載せた醤油ラーメン、野菜てんこ盛りの塩ラーメン、チャーシュー以外の具材を排除した豚骨ラーメン。昔から、食べたいものはシンクロすることが多かった。互いの好き嫌い、即ち甘味と酒を除けば、旨い・不味いの感覚もほとんど同じだ。
「まあ、いいんじゃない。別々の人間なのに、全部同じだったらつまらないだろ」
「確かにね。そう考えると、何だか運命的だ」
「安い運命だな」
「いやいや、十分奇跡でしょ」
日本だけで何人の人間が生きてると思ってるの。そのうち同年代が何人で、呪術師が何人で、高専東京校に入学する確率がピヨピヨピヨ。如何に貴重な出会いであったか、熱弁を振るう五条の言葉を聞き流す。わざわざ理由を付けずとも、こうして十年も付き合いを続けられているだけで、十分奇跡の部類に入るだろう。
7月12日 人間ドックの日「やんなきゃダメ?」
「ダメー」
包帯を外して、上目遣いで思いっきり媚びてみたけれど、あっさり却下されてしまった。硝子はチラリともこちらを見てくれない。ちぇっ、とわざとらしく舌打ちをした。
「僕二十代だよ? まだまだ健康だよ?」
「その食生活で健康なわけないだろ。いいからさっさと受けてこい」
「硝子も人のこと言えないでしょ。アル中のくせに」
「私はちゃんと定期検診を受けてるんだよ。君はサボるからこうなったの、自業自得」
人間ドック受診のお知らせ、という仰々しい封筒が届いたのは三週間ほど前のことだった。やたら丁寧な言葉で「さっさと予約入れろや」と書かれた手紙はすぐにゴミ箱へと放り込んだけれど、その一週間後、再び悟の元に封筒が届いたのだ。 間隔が五日、三日、二日と徐々に縮んでいき、遂に強制的に予約を入れられたことに気付いたのは今朝のことだ。伊地知から渡された来週金曜日のスケジュールに「人間ドック」の文字を見つけて、我が校が誇る美人女医へ抗議するために医務室の扉を叩いたのが十五分前。勿論、伊地知にはデコピンをかましておいた。
「大体さぁ、何で外の病院に行かなきゃいけないの? 定期検診みたくここでやってよ」
「設備的に無理」
「じゃあせめて硝子がやってよ。知らない奴にベタベタ触られるのヤダ〜」
「ベタベタは大袈裟だろ。人聞きの悪い」
相変わらず釣れない硝子の細い肩を後ろからギュウギュウと抱きしめる。ねぇねぇ硝子〜、と後頭部に頬ずりするけれど、彼女は我関せずとキーボードをカタカタ鳴らしている。ゴネたところでどうにもならないと分かっているし、我儘が過ぎるのも自覚している。だが硝子がちっとも反応してくれないのが何だか癪で、白い項にがぶりと噛み付いた。
7月13日 盆迎え火の日 ただいま、と声をかけたが反応がない。室内は真っ暗で、しんと静まり返っている。洗面所を覗き、寝室を覗き、リビングに続く扉を開けて、ようやく同居人の居場所を把握した。ガラス戸の向こう、室外機を置くためだけの狭いベランダに、五条が一人で立っている。目を凝らすと、足元から煙が立ち上っているのがわかった。
ガラリと戸を引く。彼はフェンスに凭れて、夜空を眺めていた。ポケットからライターを取り出し、煙草に火をつける。禁煙に成功して久しいが、今日くらいは吸っても良いだろう。世紀の犯罪者になった男を迎える気概のある人間なんて、きっとこの世で両手に収まるほどしかいない。迎え火の如く、空へと煙が流れるのを見つめる。五条は何も言わなかった。
7月14日 求人広告の日「高専もさ、求人募集出そうよ。『アットホームな職場です!』ってやつ」
「無茶言うな」
元教え子、現部下の提案を一蹴する。そんなキャッチコピーを出したら、優良誤認で訴えられそうだ。高専は殆ど治外法権のような組織だが、進んで危ない橋を渡るメリットなど無い。
「いいじゃん。一般人になった卒業生とか、ひょっこり戻ってきてくれるかもよ? 七海とか、すぐ……いや、アイツはダメだ」
犯罪者だもんなぁ、と呑気な声で悟は言った。その様子を見て、ひっそりと胸を撫で下ろす。夜蛾の前でも軽口のネタにできる程度には、親友を巡る顛末は彼の中で踏ん切りがついているらしい。
「お前を筆頭に任務を詰め込んでいるのは申し訳ないが、一人二人増えたところで忙しさは大して変わらないんだ。繁忙期ももう終わる、もう少し耐えてくれ」
「や、まあ僕はいいんだけどさ。……真面目な話、医療スタッフはもうちょい増やせない? 根詰めててさ、見てらんないんだよ」
昨日もさ、医務室で僕と二人きりになった瞬間にぶっ倒れたの。強がりだから先生には言わないと思うけど、結構限界来てるよ。主語がないまま話を続ける悟の表情は真剣だ。優秀過ぎる若者達に頼らざるを得ない現状を憂いる。すまない、という呟きを、彼は求めていないだろう。
「以前上に要望は出したんだが、忘れられているんだろう。もう一度言っておく」
「ありがとー。増やさなきゃ僕がストライキする、って言ってもいいよ」
ケラケラと笑っているが、悟は本気だろう。そしてどちらかと言えばストライキではなくランデブーだ。あんまり硝子を困らせるなよ、と釘を刺す。もっちろん!と親指を立てた悟を見て、一抹の不安が過ぎった。
7月15日 ネオンサインの日 夜十時の繁華街。ネオンが煌めく中、電柱の側で一人佇む男は、美しい見た目の割に随分と場違いだった。居酒屋もキャバクラも風俗店も、客引きが一様に皆彼の前を通り過ぎるのは、安易に声を掛けてはいけない存在と認識されているのだろう。サングラスをかけた彼の表情は、影になっていてよく分からない。人波に流されるまま、傍らへと近付く。五条、と声をかけるよりも早く、彼は顔と片手を上げた。お疲れ様、と紡いだ声は、昼間に聞くそれよりも低くて穏やかだ。ごく自然に腰を抱かれて、硝子の肩が彼の胸元に触れる。ちらりと見上げると、闇夜でもキラキラと輝く瞳と視線が交わった。どこへ行く?と問いかけるが、答えは返ってこない。硝子を独り占めしたいなぁと囁かれて、腰に添えられた右手の甲をそっとなぞった。
7月16日 夏を色どるネイルの日※「ペディキュアってさ、エッチじゃない?」
「頭沸いてんの?」
何がクズって、異性の部屋に押しかけて、家主の足元をガン見しながらこの台詞を吐くところだ。歌姫先輩と一緒に行ったネイルサロンで、夏らしく海を彷彿とさせるデザインで足元を彩ってもらったのは今日の午後一のこと。職業柄ハンドネイルはできないけれど、時折こうしてペディキュアをするのは結構好きだ。褒め言葉が出るとは露ほども期待していないが、流石にこれは少々不愉快である。足の甲でご自慢の御尊顔の横っ面を張ると、ペチ、と間抜けな音がした。
「こういうのは、自分が楽しいからやるもんなんだよ。何でもかんでも男に結び付けるな」
「あ、いや。それは分かってるんだけどさ。何ていうかこう、室内でペディキュアを見るっていうシチュエーションに、非日常感を覚えるというか。ほら、普通はスリッパとか靴下とかに隠れて見られないでしょ?」
「君は足フェチだったのか。知らなかったよ」
「僕の話聞いてた?」
ムスッと頬を膨らませた五条を一瞥し、手元の雑誌に視線を戻す。言いたいことは分からないでも無いが、そんなことで興奮できるだなんて、随分と燃費が良い男だ。むくみ軽減のために足首をぐるぐると回していると、彼の視線が追いかけてくるのを感じる。二分ほど互いに無言の時間が続いてから、ねえ、と媚びるような声が耳に届いた。嫌な予感が走ったのは、きっと気のせいではないだろう。
「しよ。勃っちゃった」
「ふざけんな」
「だって硝子が誘惑するんだもん。ペディキュアがエッチだって話したばっかりなのに、艶かしく見せ付けてくるからさぁ」
「おめでたい脳味噌だな」
硝子の返答など求めていないというように、ソファへと乗り上げてきた男の股座に向けて蹴りを入れる。むしろ燃費が悪いからこんな言動になるのか、と数分前の思考を訂正した。
7月17日 世界絵文字デー「最近の子って絵文字使わないらしいよ」
「オッサンのテンプレみたいな話の導入だな」
歌姫先輩への返信を打ちながら答える。彼氏さんと一泊二日で避暑地に出かけたのだと送られてきた写真には、満面の笑みでピースをする彼女が写っていて、とても可愛らしかった。歌姫先輩とのメッセージくらいでしか使わない、ハートの絵文字を連打する。硝子ちゃんヒドイ!と泣き真似をする成人男性は、当然無視だ。
「……ねぇ〜、誰にメールしてんの?」
「歌姫先輩」
「カーッ! またかよ! 本当に飽きないよね」
「当然。邪魔しないで」
「それ、お家デートの真っ最中に言うセリフじゃないでしょ!」
「君が勝手に押しかけてきただけだし、そもそも付き合ってないし」
適当に相槌を打ちながら、たぷたぷとキーボードをタップする。この男との関係性はと言えば、スマホ越しに恨めしそうにこちらへ向けられる視線を無視できる程度のものだ。一通り返信を打ち終えて、誤字が無いか確認していると、もぞもぞと五条が膝に頭を載せてきた。思わずうげ、と声が漏れる。漸く黙ったかと思えばこれだ。
「重い。降りて」
「硝子がつれないのが悪いんだもん」
「もん、じゃないよ。気色悪い」
何とかして脚を抜き去ろうとするが、腰をがっしりと抱えられていて身動きが取れない。見た目以上に筋肉が詰まったこの男の身体は重いのだ。このままでは痺れる、と焦りが生まれる。
「ねえ、本当に降ろして。脚、痺れそう」
「痺れたら僕がベッドまで運んであげる♡」
「今日、何でそんなにキモいの? 暑さに頭やられた?」
「ちがいますぅ〜。んもう、失礼ね!」
ぷく、と頬を膨らませた五条を睨みつける。数秒間睨み合ってから、ハァ〜とわざとらしく溜息をついた五条が、今度はお腹に顔を埋めてきた。どう考えてもただの友人同士に相応しい距離感ではないのだが、この男に常識を求めても無駄だ。呼吸をするたび、髪が揺れて少しこそばゆい。
「……昔はさ、僕にも絵文字いっぱいのメールくれてたじゃん。最近は句読点すら無い」
「その絵文字いっぱいのメールを、キモいし読み辛いって文句言ったのはどこのどいつだっけ?」
「あんなの、照れ隠しじゃん」
「……んなもん、分かるか」
学生の頃はそれなりに女の子らしさみたいなものもあったので、人並に絵文字も顔文字も使っていた。それを五条に馬鹿にされてから、ヤツ宛のメールは絵文字も顔文字も排除した最低限の文面だけになった。歌姫先輩は勿論、各所の先輩や後輩達、何なら夏油相手にだって普通に絵文字を使っていたが、それを知らないのはこの男だけだ。自業自得だろ、と鼻を鳴らす。
「ねぇ、寂しい。僕にも絵文字つけてよ。ハートマークいっぱい送って」
「そんな義理はない」
「分かった、じゃあ僕達付き合おう。今から僕は硝子の彼氏。それなら送る理由になるでしょ」
「クズも大概にしろよ」
無理矢理膝を立てると、ちょうど五条の鳩尾あたりにヒットしたらしく、うぐ、とくぐもった声が漏れた。腕の力が緩んだ隙に、何とか拘束を逃れた。硝子ォ、と泣きそうな声で縋る男の声が追いかけてくる。この我儘は何日経てば飽きるのだろうかと、内心で溜息をついた。
7月18日 ミールキットの日「硝子ってばさぁ、全然マトモな食事取らないの。栄養補助食品と珈琲と酒くらい。だから一日一食くらいはまともに食べなよって、ミールキットを頼んであげたわけ。勿論、僕のお金でね。だけどさ、結局帰宅したらすぐベッドに倒れ込んじゃって、ミールキットが溜まっていく一方なんだよ。この前行った時なんて、玄関に未開封のまま山積みになってたんだよ? 仕方ないからさ、玄関で倒れてる硝子を着替えさせて、ベッドに運んで、服も鞄もキレイに片付けて、ミールキットも全部作って冷凍しておいてあげたの。なのに目が覚めた硝子の第一声、『不法侵入?』だよ! 酷くない?」
任務終わり、移動車の後部座席でグチグチと文句を垂れる担任を一瞥する。口数の多いこの人の口から、彼女の名が出る頻度は案外低い。仲が良くないとか、話すようなネタが無いとか、そういう話ではなくて、単に彼と彼女のことは二人の間で全て完結しているのだと思う。敢えて他人に共有する理由が無いのだ。だからこうして彼女の愚痴を話す時は大抵、愚痴に見せかけたマウントを取りたいか、自分ではお手上げなので第三者にフォローを入れてもらいたいかの二択。今回は後者だ。流石の彼も、生徒をライバル視するほど大人気ないわけではない。
「……合鍵、勝手に作ったんでしょう。立派な不法侵入ですよ」
「けどさー、そうでもしないとアイツがぶっ倒れてても誰も助けらんないじゃん。高専一過労死に近い女だよ?」
ぶぅと文句を垂れる五条から視線を逸し、窓の外を眺める。任務を終えたばかりだ、会話に付き合う気力は無いが、年中医務室に詰めている彼女の食生活が心配になる気持ちは分かる。帰ったら口添えくらいはしようと考えて、そっと目を閉じた。
7月19日 知育菓子の日 メロンソーダに口を付けながら、テーブルの向かいに座る硝子を見やる。手元に置いたプラスチックケースの中、謎の物体をひたすらこねている。小さなスプーンを右手に持って、背中を小さく丸めて、ひたすらねりねりねりねり。粉と水を混ぜ合わせてから、もう十分は経っている。
彼女は酔っ払っと極稀に、こうして童心に帰ることがある。悟ですら高専在学中に卒業した奇抜な色合いの知育菓子を、唐突に所望してこね始めるのだ。正直、その感覚はよく分からない。分からないけれど、夢中になっている硝子は可愛いので、悟の家には件の菓子が箱でストックしてある。
「五条」
「なあに?」
「あーん」
スプーンで掬われた謎の物体と、それにまぶされた色鮮やかな砂糖の粒。あーん、と口を開けると、そっとスプーンの先を差し込まれた。酔っていても、その手付きは優しい。もぐもぐと咀嚼すると、甘ったるい匂いが口中に広がる。ごきゅ、と悟が嚥下したのを見て、硝子もぱくりとそれを咥えた。途端に眉が顰められる。甘いものが苦手な彼女にとっては、なかなかキツい味わいだろう。
「まずい」
「まずい、じゃなくて甘い、でしょ」
「無理。気持ち悪い」
そのまま硝子は、バタンと机に伏した。五秒と経たずに、すぅすぅと寝息が聞こえ始める。もう少し健康的な睡眠導入の方法は無いものかね、とボヤきながら、ブランケットを取るべく悟は席を立った。
7月20日 夏割りの日「日本酒にアイスの実を入れると美味しいんだって」
「へぇ」
「買ってきたよ」
「やらんよ」
「物は試しって言うでしょ。決めつけは良くないよ」
左手に掲げたコンビニの袋を見て、硝子は露骨に眉を顰めた。最近流行っているらしいこの組合せは、職員室で雑談をした補助監督の女の子から教えてもらったものだ。食器棚からコリンズグラスを二個取り出して、アイスを三つずつ放り込む。味は硝子でも食べられるよう、甘さ控えめの梨味をチョイスした。冷蔵庫から中身が半分ほど減った日本酒の瓶を取り出して、とぷとぷと注ぐ。嫌そうな顔をされたが、元々僕が買ってきたものなので大目に見てほしい。
「はい、どうぞ」
「……」
「いいの? 溶けちゃうよ?」
「……私が飲みきれなかったら君が責任を持って飲めよ」
なんて凄んでみせたが、彼女は僕のアルコール耐性の低さを熟知しているので、何だかんだ飲み干すのだろう。僕を心配して、というよりは、酒の入った僕の面倒くささを嫌厭して、だ。意を決したようにグラスに口を付ける。少しだけ傾けて、アイスの表面をぺろりと舐めた。
「どう?」
「……悪くない」
「でしょ?」
もう一度グラスを傾けた硝子を見ながら、ソーダを注いだグラスを手に取る。たまにこうして僕の趣味に合わせてくれる彼女のことが、たまらなく好きなのだ。
7月21日 神前結婚記念日「硝子はさぁ、神前式と教会式のどっちがいい?」
「挙げる予定が無いから考えたこともなかった」
「そんなこと言わずに。想像してみなよ、このグッド・ルッキング・ガイの隣に立つ姿をさぁ」
「更に遠のいたんだが?」
フリーの結婚情報誌をパラパラと眺めながら、五条がそんなことを言い出した。どうせいつもの戯言だろうと聞き流して、手元のカルテに目を落とす。何故そんなものが医務室にあるのかと言えば、昔から仲の良い、出版社に務める窓に先程貰ったからだ。「読まなくていいから!貰ってくれるだけでいいの!」と頼み込んで来たその迫力に圧されて受け取ってしまった。ポケットティッシュじゃないんだからと思うが、残部が多すぎると廃刊になるので焦っているらしい。夢もへったくれもない。
「やっぱ白無垢は定番だよね。硝子、肌が白いから似合いそう」
「君の隣に並んだらレフ板みたいになるだろうな」
「でもウェディングドレスも夢があるなぁ。バージンロード歩く前に夜蛾セン泣いちゃいそう」
「そもそも夜蛾センは父親じゃないから」
ウンウン言いながら紙面とにらめっこをする五条に呆れる。妄想が尽きない、脳天気な男だ。適当に返事をしながら、カルテをファイルに閉じる。腕時計を見ると、もうすぐ十八時になろうかというところだった。
「ねぇ、そろそろ出てって。着替えたいんだけど」
「何? デート?」
「歌姫先輩とね」
シッシッと追い払うポーズをすると、五条は渋々腰を上げた。手には未だに情報誌を持っている。ドアの取っ手に手をかけながら、そういえばさぁと呟くのが聞こえたので、ちらりとそちらに視線を向けた。
「歌姫は白無垢派らしいよ」
「何で五条がそんなこと知ってるんだ」
「この前の飲み会で酔っ払いながら言ってた。硝子の白無垢姿見るまでは死んでも死にきれないって泣いてたよ」
「そこまで言われちゃあ、白無垢着るしかないな」
「だよねー。じゃ、予約しとくから」
「……ハァ!?」
言った瞬間にはもう、五条の姿は消えていた。慌てて廊下に飛び出すが、人影一つ見当たらない。長い付き合いなのでよく分かるが、こういう言質の取り方をする時の五条は本気だ。硝子、大丈夫?と怪訝な顔をした歌姫先輩に話しかけられるまで、呆然とその場に突っ立っていた。
7月22日 ディスコの日「ディスコって行ったことある?」
「ありません」
「ダっせ」
「貴方はあるんですか」
「無いに決まってるじゃん」
「じゃあ貴方もダサいですね」
七海のくせに生意気だと言われたが無視をした。この人の戯言をまともに取り合っていたらキリがない。彼の視線の先には、ゴテゴテと電飾で照らされたディスコの看板が見えている。
「行こうよ」
「嫌ですよ」
「何でだよ! 酒もあるだろ!」
「私は酒じゃ釣られませんよ。家入さんと一緒にしないでください」
「付き合い悪いなぁ。じゃあ伊地知連れてくか」
「可哀想なことしないであげてくださいよ」
「ならお前が来いよ」
「行きません」
全身黒ずくめのアラサー男はブーブーと頬を膨らませているが、一ミリたりとも譲歩する気はなかった。二人きりにされてからもう十分近く経っているが、伊地知が戻ってくる気配はない。休みの日だから、駐車場がいっぱいなのかもしれない。
「はぁー。いつからそんなに可愛げが無くなっちゃったのか」
「五条さんに可愛いと思われても得しませんので」
「本当生意気だな。しゃーない、硝子連れてくか」
言いながらスマホを取り出した五条を、特段引き止めはしなかった。彼女は案外ノリがいいので、二、三度押せば着いて行くと言うだろう。そしてナンパされまくる彼女を見て、懲りればいいのだ。ペットボトルに口を付けた時、遠くから伊地知が走ってくるのが見えた。
7月23日 日本最高気温の日 自販機前を通りがかったとき、旧友の名前が耳に入ってつい足を止めた。女子学生が少ないからだろう、真希と野薔薇はとても仲が良い。恋愛ドラマ、ファッション誌、インスタ映えするカフェのメニューから恋話まで、二人の話題は多岐にわたる。今のトピックは、医務室の主についてだった。
「さっき硝子さんに会ったんですけど、今日の服装めちゃめちゃ可愛くて! ネイビーのハイネック、ノースリーブのニットに、白いロングのマーメイドスカートだったんですよ! スタイルいいからバッチリ決まってて、もう超カッコいい〜〜〜♡」
「へえ、珍しいな。硝子さん、いつもパンツスタイルなのに。ノースリーブも着てるの見たことないような」
「前に聞いたんですけど、白衣を羽織る時にノースリーブだと肌が擦れて気になるんですって。余計に暑く感じるから、半袖か長袖のブラウスを捲るくらいがちょうどいいとか」
「なるほどな。今日暑いし、流石に耐えられなかったのかもな」
「それだけですかね? デートとかあるのかも、ですよ!」
そうかぁ? と怪訝な顔をされても、そうに決まってます!と野薔薇はウキウキ熱弁を振るっている。残念ながら、彼女の予想は外れだ。今夜、硝子の予定を押さえているのは他ならぬ悟である。勿論お洒落なお店を予約している訳でもなく、業後にいつもの居酒屋へ立ち寄るだけの、ただの同期会。
今日の予想最高気温は三十七度、今年初の酷暑だ。朝のニュースでも熱中症に気を付けろと散々注意喚起がされていた。だから彼女も、少しでも涼しい服を選んだのだろう。日頃不摂生でも、医者が熱中症など笑えないと考える程度に、硝子は自分の仕事にプライドを持っている。未だ楽しそうに妄想を繰り広げる野薔薇の言葉を聞き流しながら、二人に気付かれぬようにそっと踵を返した。
「珍しいね」
「何が?」
「ノースリーブ着てるの」
「暑いからね。流石に耐えられなくて」
軟骨の唐揚げを口に運びながら、硝子はそんな風に答えた。ざわついた店内は居心地が良いが、ムードなんてものとはまるで無縁だ。普段の仕事着とはかけ離れた服装の彼女は、確かにとても可愛い。斜め後ろに座ったサラリーマンの二人組が、時折チラチラと此方を見ているのが酷く癪に触る。ギリと睨みつけてから、悟はフライドポテトに手を伸ばした。
「野薔薇がさ、可愛いって褒めちぎってたよ」
「直接言われたよ。アイツも女の子だな」
「ね、キャピキャピのJKって感じ。恋話に興味津々なところとか。硝子の服装も、きっとデートだからだってはしゃいでた」
「まあ、デートだしな」
あ、これ旨い。牛すじ煮込みを口に運んだ硝子の言葉は、耳をすり抜けていった。デート。デートってなんだっけ。男女が二人きりで会うこと。恋愛面での進展を期待する逢瀬。僕と硝子がデート? じゃあ僕のために可愛い格好をしてくれたってこと? あれ、期待していいの? 硝子も期待してくれてるの?
はてなマークを幾つも浮かべたまま、ぽかんと硝子を見つめる。無下限のおかげで暑さなど感じる筈が無いのに、脳がぐつぐつと煮えたぎっている。これ食べてみなよ、と小鉢を差し出した彼女は、たった今悟の心臓を掴んだことなど微塵も気付いてないらしかった。
7月24日 卒業アルバムの日「先生も高専出身なんでしょ? 卒アルとか無いの?」
言った途端、物凄い勢いで伏黒に小突かれた。運転席で所在無さげに視線を彷徨わせた伊地知さんを見て、どうやら失言をしてしまったらしいと察する。先生の目元はいつも通り真っ黒な布で覆われていて、どんな表情をしているのか分からなかった。
「……あの」
「高専はねぇ、卒アルは無いんだ。人数が少ないでしょ? 在学中に死んじゃうケースも多いし、あんまり作ろうって空気にならないんだよ」
「そう、なんだ」
「まあでも、マメな奴がいると自主的に作ったりはするかな。僕達はアルバムって形にはしなかったけど、写真は結構残してあるよ」
ほら、と差し出されたスマホを恐る恐る受け取る。写っていたのは、教室で口いっぱいに焼きそばパンを頬張りながらピースをする、若かりし頃の先生と家入さんだった。机の上にはコンビニパンやおにぎりが乱雑に並んでいる。
この写真を撮った人は、二人とどんな日々を過ごしていたのだろうか。きっともう、この世にいないのであろう人について思いを巡らせる。教室には机も椅子も三つずつしかない。何てことない、こんな日常の風景を写真に収めるくらいだ。相応に仲が良かったのだろう。取り残された二人は、どんな思いで乗り越えたのだろうか。
ありがと、と言ってスマホを手渡す。写真の中の二人は伏黒と釘崎で、撮影者は悠仁なのだ。現実を突き付けられたようで、僅かに手が震える。高専に着くまで、伏黒の方を見られなかった。
7月25日 体外受精の日※ 自らがストレス発生源のような五条だが、本人もそれなりに鬱憤を抱えている。大抵は上層部や実家を含む呪術界の古いしきたりに絡んだものなので、解消は望めない。だから時々、奴の愚痴大会に付き合うようにしている。どれだけ好意的に見積もっても人徳があるとは言い難い男なので、何の見返りもなく愚痴に付き合ってくれる人間なんて硝子を含めても片手で収まるほどだろう。
「あいつらさ、二言目には結婚だのお世継ぎだのうるせえの。そうやって子どものことを『跡継ぎ』っていう記号でしか見られない人間に囲まれたって、子どもが幸せになれる訳がないじゃん。あいつらが急かせば急かすほど僕は子ども欲しいなんて思えなくなるのにさ、そういう人間の感情の機微みたいなものを全然理解できてないんだよね」
黙ってビアジョッキに口をつける。君に感情の機微を説かれるなんてな、と反射的にツッコミかけたが、既のところで飲み込んだ。今回に限らず、奴の愚痴は大抵的を射ている。ただのチャランポランではないのだが、理解を得られないのは日頃の行いのせいだろう。損な男だと思う。自業自得なので、憐れみこそしないが。
「大体、子どもが生まれるってことはヤることヤらないといけないわけじゃん。僕の人生に一ミリくらいしか関わりないような奴とヤるのとか、気持ち悪すぎて無理なんだけど」
「『一ミリくらいしか関わりない』かどうかは君の心持ち次第だろ。たとえお見合い結婚だろうが、相手を大切に想えるようになれば気にならなくなるんじゃないか」
「それが無理って話。ポッと出の奴がお前とか七海とか伊地知や夜蛾センに勝てる訳ないじゃん」
「そこを比較対象にするなら君、夏油以外とはヤれないって話になるぞ」
「気色悪いこと言わないでよ……」
ドン引きしています、とさも自分が被害者かのような表情を作った五条だが、先に言い出したのは其方なのだから言い掛かりである。それに妙な潔癖ぶりと矛盾して、奴は一夜の関係であれば基本的に来るものを拒まない。過去に何度も痴情の縺れに巻き込まれた身としては、お見合いでも何でもさっさと身を固めてもらいたいところだ。もう一度ジョッキに口を付ける。喉元が上下に動くのを、五条が見つめているのが分かった。
「……そんなにヤるのが嫌なら、体外受精って手もある。勿論、相手が同意すれば、だけど」
「それならもう相手が誰でもよくない? いいじゃん、未婚のままでも。卵子バンクとかあるんでしょ」
「君の基準がよく分からないけど。まあ確かに、嫁入り争いからは開放されるだろうな」
「そこのメリットはデカいな。どいつもこいつもピーチクパーチク煩いんだもん」
周りが納得するかどうかは微妙だけどな、と心の中で付け加えた。胸糞の悪い話だが、五条の子どもができれば何でもいいというわけではなく、より良い遺伝子を持った子どもを求められているのだ。五条家は加茂家ほどの血統主義ではないとはいえ、母親の顔も分からない子どもを歓迎するだけの度量があるとは到底思えない。彼も当然そのことは理解している筈なので、きっとこれはただの雑談で終わる。
「てかそれならさ、硝子の卵子ちょうだいよ。どうせなら硝子の子がいい」
「は?」
不意にかけられた言葉に、じゃがバターへと伸ばしかけていたフォークを思わず止める。五条は揶揄うでもなければ緊張するでもなく、至って普段通りにリラックスした表情をしていた。結婚ってなると柵が多いけど、卵子もらうだけならハードル低くない? そう続けられたが、奴の台詞は脳内を素通りしていく。
「……全然ハードル低くないけど。五条の子どもの母親になるんだろ? 嫁入りも同然」
「そう? なら結婚する? あ、でもそれならわざわざ体外受精しなくていいや。硝子となら余裕でヤれるし」
最早何がしたいのかよく分からない五条に溜息をつく。こういうことを平気で言えるあたりがクズなのだが、本人に自覚はないのだろう。返事をする代わりに、大皿に載ったソーセージに思い切りフォークを突き立てた。
7月26日 幽霊の日「昨日、傑の幽霊を見たんだけどさ」
五条の取っ拍子もない言動には慣れているが、これは流石に耳を疑った。コンビニに行ったんだけど、と言うのと同じくらいのテンションの五条は、己を二度見してきた硝子に向けてぱちぱちと両眼を瞬いた。
「そんなに驚く?」
「驚くだろ。真っ先に君の正気を疑わなかっただけ褒めてほしい」
「呪霊がいるんだから幽霊がいたって不思議じゃないでしょ」
「そういうことじゃない」
うーん? と小首を傾げた彼は、一秒だけ逡巡して「ま、いいや」と気持ちを切り替えたようだ。此方はまだ何の整理もついていないというのに。医師としての自分が過度のストレスを疑うが、五条の様子は至って普通のようだし、症状が発現するにしてもあまりにもタイミングが中途半端だと、己の考えを否定した。
──五条が幽霊を見た。よりによって数ヶ月前に自ら手を掛けたばかりの、親友の幽霊を。知るところに知られれば憐れまれるか、或いは嘲笑されるかするような話だ。五条もそれを理解しているから、わざわざ医務室を訪れたのかもしれない。今日の彼は、授業と任務とで一日中奔走していた筈だ。
「六眼で見ても分からなかったから、最初は夢か幻覚あたりだと思ったんだけど、あまりにはっきり見えるからさ。ちょっと話しかけてみたら、アイツ呑気に『幽霊だよ』とか言うの」
「幽霊は自分のこと幽霊とは言わないだろ」
「僕もそう思ったんだけどさ、傑が頑として譲らないから。何してるんだって聞いたら、娘達が元気にやってるか見に来たんだって。で、ついでに僕のところにも来たと」
「相変わらずのお節介だな」
「本当にね」
五条は包帯を解きながら、くるくると指先に巻き付けている。夏油が女子高生を二人連れていたと聞いた時はロリコンに目覚めたのかと思ったが、どうやらちゃんと「家族」だったらしい。だとしたらこの男の立場はどうなるんだろうな、と考える。これは硝子の私見だが、例え夏油が道を違えることが無かったとしても、五条は夏油の家族になり得なかっただろうと思う。夏油にとっての五条は、庇護対象ではなかったからだ。
「あとさ、硝子と仲良くやってるみたいでよかったって言われた」
「アイツが言うと嫌味っぽいな」
「そういう意味じゃなくて、この前デートしてるの見たって。ほら、スカイツリー行った時」
「そんなのも知ってるの。ストーカーかよ」
その時はキスどころか手を繋ぐことすらせず、二人とも翌朝が早いからとさっさと解散した筈だが、恋人らしい振舞いを目の当たりにしなくても五条と硝子の間に流れる独特な空気を感じ取ったらしい。そんな観察眼があるならもっと親友を気にかけてやればという気もするが、妙なところで頑固な男なので、そこは彼の矜持が許さないということなのだろう。これからの逢瀬は呪術師や生徒達だけでなく、死人の視線も掻い潜らなければならないと考えると、少々気が重くなった。
7月27日 スイカの日 ドゴン、と昼下がりの校舎には似つかわしくない音が響く。音の発生源を確かめる前に小走りになったのは、最早反射と言ってよいだろう。喚き立てる男の声、歳の割に落ち着いているが平素よりも上擦った男の声、アハハと笑う若干低めの女の声。三種類の声を認識し、またかと胃がキリキリと痛む。三者三様に群を抜いて優秀である彼らも、夜蛾にとってはとびっきりの問題児トリオだ。
ガラリと教室の戸を引くと、此方に視線を向けた硝子が「先生、」と言った。同じく此方を振り返った傑と彼女のちょうど中間地点には、包帯のような布で目元をぐるぐる巻きにした悟が木の枝を持って突っ立っている。教室の前方に寄せられた三組の机と椅子、そして悟から一m半ほど離れたところに置かれたスイカを見れば何となく状況は察せられたが、敢えて尋ねることにした。
「何をしている」
「スイカ割りです」
「何故」
「少しでも海気分を味わおうかと。……あの、責めているわけじゃないですよ」
僅かに表情を曇らせた夜蛾を見て、傑は慌ててそう付け足した。本来であれば今日は三人共休みだったのだ。一ヶ月も前から海に行く計画を立てて張り切っていたのは重々承知していたが、間の悪いことに一級案件が複数入ってしまい、彼らに割り振らざるを得なくなったのは昨晩のこと。諦めたように「分かりました」と言った傑と肩を竦めた硝子の傍らで、つい数分前までいそいそと荷造りをしていた悟は、麦わら帽子を被ったまま呆然と立ち尽くしていた。その様子に、胸が痛んだのは仕方がないことだろう。悟にとっては、初めて友人と海に行く記念すべき日となる筈だったのだ。任務自体は午前中に終わる見込みとはいえ、移動時間を考えると海水浴は諦めなければならなかった。
「五条がスイカ割りを知らないって言うんで。庶民の遊びを教えてます」
「でも目隠ししても六眼でスイカの場所が分かってしまうらしいので、硝子と私で撹乱しようかと」
「それで悟の周りを回っていたのか」
「はい。で、見事攪乱に成功した結果、五条が夏油の脛を叩きました」
「……さっきの音はそれか」
あれほどの音がしたのだ、遊びと言うにはいくら何でもアグレッシブ過ぎる。だが三人ともケロリとしているので、彼らにとっては些細な戯れ合いに過ぎないのかもしれない。数秒間逡巡した夜蛾は「ビニールシートは敷けよ」とだけ言うことにした。
7月28日 何やろう?自由研究の日 また何かバカやってるな、とスルーするつもりだったが、大いに自分に関係があると知ってしまえば無視するわけにはいかなかった。職員室の片隅にある五条のデスク、教科書や報告書のファイルと共に本立てに並べられた一冊のノート。存外几帳面な彼にしては珍しく、ファイルの隙間からはみ出していたのは、きっと授業か任務かで急いで席を立った時に戻し損ねたからだろう。硝子は彼に頼まれていた報告書を鍵付の引出しに仕舞い、丁寧な筆跡で「家入硝子は何故禁煙できないのか」と書かれたそのノートを手に取った。狭い世界だ、同期であることはとうに知られている。その行為を咎める者はいなかった。
一日に消費した煙草の本数、銘柄別のストック数、勤務時間、睡眠時間、急患の人数、業後の予定、食事のメニュー、飲酒量、バイオリズム、生理の期間、天気、最高気温、服装、エトセトラ。およそ三十日間に渡って事細かに記録された情報は、硝子本人ですら到底覚えていないものばかりだ。年中忙しい筈の男と最近やたらと顔を合わせる機会が多いと思っていたが、まさかこれのための情報収集だったとは。呆れや気色悪さを通り越して最早感嘆する勢いだ。思い返せば昔から研究熱心な男だった。
仮説一、仕事のストレス解消。仮説二、手元にあればあるだけ吸っている。仮説三、天候の影響を受けている。仮説四、食事や飲酒量に反比例している。彼の立てた仮説はどれも正しいように見えるが、有意な関係があると言えるほどの結果は得られていないようだった。
硝子は三十日のうち、極端に本数の少ない二つの日付を眺めて、ある可能性に思い至った。五条はデータに囚われて、単純な事実を見落としているのだ。白衣の胸ポケットから四色ボールペンを取り出して、二つの日付のページに赤いハートマークを書き付けた。因果関係に気付けば五条は確実に調子に乗るだろうが、この惜しみない努力を評価してやってもいい。パタンとノートを閉じて、先程と同じ鍵付の引き出しに放り込む。いくら硝子とて、羞恥心というものは人並に持ち合わせているのだ。
7月30日 七福神の日「お前って大黒天目指してんの?」
そう言って五条が自他ともに認める親友の怒りを買ったのは、昨日のことだ。寝て起きた今になっても口を聞いてもらえずにいるらしい。きっと夏油も虫の居所が悪かったのだろう。普段の奴なら、ちょっとお灸を据えて終わりにするはずだ。硝子のベッドを占拠してしくしくとすすり泣く190cm強の男は少し、いやかなり鬱陶しい。ちらりと一瞥して、本人に聞こえるように溜息をついた。
「いい加減にしろ。さっさと謝って来いよ」
「謝った。でも許してくれなかった」
「夏油は、なんて」
「『何が悪いのか分かってないだろ』って」
「それは事実じゃん」
夏油の指摘は正しい。自分の身体的特徴と愛用品をそんな風に揶揄されて、良い気持ちのする人などいないだろう。だが問題は五条自身に全く以て悪意が無いことだ。彼にとって「大黒天」は悪口ではないし、装飾品を文字通り「装飾」のためだけに使うという選択肢を持ち合わせていない。
「いつまでもメソメソされても面倒だから、今回限りは教えてやる。いいか、五条。まず普通の人間は『大黒天』なんて言われても喜ばない」
「何でだよ! 縁起良いのに!」
「見た目の問題。少なくとも現代の基準では、見目麗しいとは言えないだろ。あと夏油がピアスをしてるのはお洒落であって、福耳にしたいからではない」
「お洒落? あれが?」
「本人はお洒落のつもりだから、貶されたと思えば腹が立つんだよ」
納得できないらしくブツブツと文句を言っているが、何となく状況は理解できたようだ。もう一回謝ってくる、と出て行った背中を見送ってから、パカリとケータイを開く。本文に「一応説明した」とだけ打ち込んで、メールを送信した。双方クズとはいえ三人きりの同期、仲が良いに越したことはないのだ。十五分程経ってから受信したメールに「ありがとう」の一言が書かれているのを確認して、目の前の医学書に意識を集中させた。
7月30日 夏の土用の丑の日──重? 焼き? まぶし?
単語を三つ並べたメッセージに「焼き」と返してアプリを閉じた。土用の丑の日に、五条行きつけの鰻屋で鰻を食べる。高専に入学してからというもの、かれこれ十年は続いている習慣だ。
彼と食事に行く時は、その奢りたがりな性分と、旧友という立ち位置に甘えて財布を出さないことが多いが、この日は毎年必ず割り勘だ。私達がまだ学生で、二人ではなく三人だった頃は割り勘が当たり前だったから。とはいえ三人で行ったのは最初の二年間だけ。三年目のこの日は急遽奴の都合が付かなくなって、五条と私の二人だけで食卓を囲んだ。あの年、何とかして奴と予定を合わせようと努力していたら、今頃三人で件の店の暖簾をくぐっていたかもしれない。そんな単純な話ではないと理解しているけれど、私も、そして多分彼も、その可能性は捨てきれずにいる。
右ポケットから響く小さな振動音に気付き、半分だけスマートフォンを引き出した。指紋でロックを解除して、メッセージ通知の一番上をタップする。予約完了画面のスクリーンショットはトリミングされておらず、硝子のスマホの表示から七時間ほど前の時刻が表示されていた。そういえば海外行脚の真っ最中だったな、と思い出す。「予約した」の一言もスタンプの一つも送ってこないあたり、相当キているのだろう。実質的に高専が自由に扱える唯一の特級術師である五条に、繁忙期の最中、人権は与えられていない。
労いの意を込めて、たまには奢ろうかとも考えるのだが、そう提案したところで彼の無駄に高いプライドが許してはくれないだろう。数秒間逡巡して、結局いつもと同じように「欲しいものある?」と一言送った。間髪入れずに既読が付き、返ってきた漢字二文字を見て溜息をつく。医者としては少しでも長く休んでほしいところだが、五条が素直に聞き入れてくれたことはない。翌日の午前休を申請するために、パソコンのスリープ画面を解除した。
7月31日 ビーチの日 ねぇ、こんなところで一人で何してるの。見慣れない制服だけど、学校サボってるの。なら俺達とイイことしようよ。声を掛けて来た男達の方など見る気もしなかったが、その口調からさぞ醜い笑顔を浮かべているのだろうと察せられた。質問には答えず、右足を持ち上げる。とぷりと音がして、剥き出しの足の甲から水が流れ落ちていった。真夏の昼下がりとあっては、海水も生ぬるくて心地良さとは程遠い。やはり慣れないことはすべきでなかったのだ。今朝方、二人きりの教室で「悪いことしよう」という洒落にならない発言と共に差し伸べられた同期の手を取ってしまったことを、少しだけ後悔した。
ちょっと、無視しないでよ。一人じゃ寂しいでしょ、遊んであげるって言ってんの。怖いことしないからさ、おいでよ。白々しい台詞を聞き流しながら、人間は醜いなぁなんて考えた。はしたない欲望に塗れた人間が数多存在するから、いくら祓い続けても次から次へと呪霊が湧くのだ。だからさ、別に非術師だけのせいじゃないと思うんだよね。そう言い聞かせたい相手と次に会うことがあるとすれば、彼はきっと冷たい解剖台の上に横たわっているだろう。
じゃり、と砂が鳴る方へと顔を向ける。名も知らない男の日に焼けた体躯の向こうに、ピンと背筋を伸ばした同期の姿が見えた。首元まできっちりと留められたシャツの下の、無駄なく鍛えられた筋肉の美しさを硝子はよく知っている。「時間切れ」という一言と共に男達の隙間から差し出された掌を握った。そのまま引き寄せられて胸元に収まるまで、硝子の皮膚に不遜な男達の指先が届くことはなかった。
何だテメェ、邪魔するな等と言われようと、彼は無言で硝子の頬を撫でるだけだ。そっと目を閉じると、温かい唇が降ってきた。一瞬だけ優しく触れたそれは、塩の味がする。更にがなり立てる男達の声を無視して、五条に手を引かれて元来た道を戻ってゆく。あんた達がそうやって呑気に女の尻を追っかけていられるのはさ、コイツが、私の大事な人達が、文字通り命を賭しているからなんだよ。そう叫んでしまいたい気持ちを押し込めて、繋がれた手をぎゅうと握り締めた。