お前なしでは 黒猫にしてはやや大きすぎる男を前に、サッチは目元を緩ませる。
晴れた朝。陽光が差し込む自室のベッドには、半年程前に此処白ひげ海賊団の家族となった兄弟が、生まれたままの姿で眠っている。
——兄弟。と、言うにもなかなか複雑だ。
ブランケットから覗く、長く引き締まった両脚。その付け根辺りの肌には、自身が付けた鬱血痕がまるで所有の証だと誇示するかのように浮かび上がっている。
ベッドに腰を下ろし、シーツに散らばった柔い黒髪を撫でながら、サッチは自嘲するように笑う。世話係という役目で、いつの間にか情事を重ねるようになった。この至極曖昧な言い分に、納得する隊員は果たしているのだろうか。
涎を垂らした無防備な寝顔に、初めて会った時の凶暴さを思い浮かべる。あの頃とは、もう違う。路頭に迷う野良猫は、今や船上で大活躍の隊員だ。けれども何故か、こうして今でも受け入れて、手元に引き寄せてしまう。
それが独占欲であることは、随分前から気付いていた。分かっていながら、サッチは未だ「世話」係という立場を言い訳に、この黒猫を手放せないでいる。
「……悪ィ大人だよな」
呟きに、青年はすうすうと寝息で応える。
サッチは、早朝のキッチンから引っ掴んできた軽食をベッドテーブルに置いて、一緒に持ってきた苦いコーヒーを啜った。裸のままの上半身に、あたたかな陽の光を受けながら、青年の寝顔を眺める。
「ん……」
むずがる声。滑らかな額に、ぴくりと皺が寄る。
パンが入ったバスケットに向け身じろいだ青年の、嗅覚の良さは流石と言ったところ。サッチは思わず笑い、その唇を眼下の耳元に寄せた。
「エース」
ぴく、と耳縁が動き、ぼさぼさの頭がシーツに擦れる。黒髪の隙間から、重たそうに目蓋を持ち上げる様が見えた。
「……サッチ」
半分ほど開いた朧気な黒目が、ゆっくりと眼差しを向ける。火拳のエースという名に似つかわしくない、ぽわんと緩んだ、なんともあどけない面差しが晒された。
「おはようさん。良い夢見れたか?」
「ん、んん……みた。パン食う夢……」
そのまま、くぁ、と欠伸をひとつ。
まるきり猫のような仕草を目の当たりにして、サッチはなんだか愛おしい気持ちになる。ぎゅっと抱き締めてやりたいような、可愛いなオイ!と叫びたいような、少し駄目な感じの思い。
「それはたぶん、いやきっと、こいつのせいだな」
感情を押し留めながら、微睡むエースの目の前にバスケットを掲げてやる。
ふわっと漂う香ばしい匂い。エースの瞳に、光が入った。
「パンだ!」
勢いよく起き上がった体は、飛び付くようにバスケットの中を覗き込む。
「おいおい寝起きでこの食い気かよ」
「しょうがねェだろ、寝れば胃袋リセットされんだ。腹減って当然……ん、」
掠れた声に、エースはむっと眉根を寄せる。息を詰めた途端、咽せ返るような乾いた咳が溢れ、サッチは驚いてベッド脇の水差しを掴んだ。
「あーあーほら、まず水を飲みなさいよ」
言いながら、コップ一杯水を注いで渡してやる。
げほげほと咳込むエースの姿に、思い浮かんだのは昨晩の情事。散々喘いで泣かしてやった喉は、どうやら潤いが欲しくて限界だったらしい。
ほんの少しの罪悪感を胸に、こくこくと音を立てて飲み下すエースを見守る。その時間、約5秒。あっという間に空になったコップを手に、青年は大きく息を吐いた。
「はぁ……っ、生き返った……。ありがとな、サッチ」
笑った顔の眩しいこと。頭の中に浮かんだ、昨晩の青年のいやらしい緩み顔をなんとか掻き消して、その黒髪をわしゃりと撫でる。
「気にすんな。ほら、パン食えよ。なんてったってコイツぁスペシャル……おれのオリジナルの」
「いただきまーす」
「って聞けよ、おい!」
ツッコミすらも無視され、エースはバスケットから取り出したパンに齧り付く。
料理長の貴重なお言葉を気にも留めないなど、舐められたものである。しょうがない奴だ、と半ば呆れた思い。
けれどもその青年の目が、きらきらと輝きを生んでいく様子を見ると、胸の中の感情がすべて喜びに変わってしまう。
「うめェな、これ」
「そりゃ良かった」
「むぐ、なァ、なに入ってんだ、これ」
口一杯に頬張りながら、エースはそんなことを聞いてくる。本当に、しょうがなくて可愛い奴だ。
サッチは行儀悪くベッドの上に隣り合って、一緒に食いながら教えてやった。
「これはな、いつもの胡桃パンにベリーとチーズを入れてみたんだよ。あと蜂蜜な」
「へ〜はちみつ。甘さが丁度いいな」
「だろ〜?分かってんなァ、エース。あ、お前用にブートジョロキアパンも焼いた」
「っ!それ早く言えよ!この赤いヤツか」
「それそれ。いやぁ、皮入れるとおれも味見できねェからね。汁しか混ぜ込んでねえが……」
「むぐ、ん、んん!うめェ……っ!」
幸せそうに平らげていくエースを横目に、サッチもまた笑みを深める。
窓から見える、快晴の空。横には愛しい青年が、きらきらと陽の光を浴びながら、自身の料理を笑顔で頬張っている。
こんなにも、幸せでいいのだろうか。
「おれ、サッチがいねェと生きていけなくなっちまった」
朝食を食べ終え、瓶入りの牛乳を飲みながら、エースはそんなことを無邪気に言った。ベッドからゆらゆらと、しなやかな足が揺れている。
「お前ね、そういうこと簡単に人に言っちゃ駄目だって、お兄さんこの前も言っただろ」
若い青年のツヤのある頬を、戒めのようにむにっと摘む。途端に浮かんだ、不可解そうな表情。言われたことの意味が全く分かっていないようだ。
「だって本当のことだろ。サッチが作るメシがないと、おれは生きていけねェ」
「なんだおい、メシの方かよ。まぁ、料理人としちゃ光栄な言葉だがなぁ……。勘違いしちまうだろ」
摘んだ頬を、そのままムニムニと揶揄うように揉んでやる。痛ェよとわざとらしく顰めた顔は、すぐに擽ったそうな笑みに変わった。この青年は、こうして触れられることが1番嬉しいのだ。
「なぁ、サッチ」
緩んだまなこに見つめられ、サッチはふと動きを止める。
じっと向けられた視線。それが何だか、情事に見せるあの熱の籠った眼差しによく似ていて、思わず息を詰めた。
「これからもずっとさ、オレにメシ作ってくれよ。好きなんだ、サッチが。サッチのメシが!」
はにかんだ笑顔が、少しだけ恥ずかしそうに赤く染まる。シーツの上でそろりと指先が触れて、サッチは胸奥がきゅうっと狭まるのを感じた。
そんな台詞を、そんな顔で言うもんじゃない。ましてや、お前を手放せずに悩んでる男に向かって言うなど——無防備にも程がある。
「ぅあ」
「お前なァ……」
抱き寄せた体はぴくりと跳ねて、同じ強さで抱き返してくる。
このまま、閉じ込められたらどうするんだ。脳内で突っ込んだ思いは、胸が熱くて声にならない。まるで心臓を鷲掴みにされたみたいに、鼓動がどくどくと鳴り響いている。
「すげェ音だ」
胸の中の男が、ふははと耐え切れぬように笑い出した。肌に当たる息がこそばゆい。お前のせいでこーなってんだよ、バカ。と、半ばやけくそ気味に言ってやれば、無邪気に首を傾げてくる。
「おいおい分からねェってか……ずりィガキだなあ」
見上げてくる黒い瞳に視線を合わせ、サッチは仕方なさそうに笑った。この子どもはまだ、言葉にしなきゃ愛が分からないのだ。
「エース」
「ん?」
「……愛してるぜ!」
言い聞かせるように強く叫んで、ぎゅうと力強く抱き締める。一瞬の間。ぽかんと情けなく見上げてきた顔は、すぐに燃えるような炎の色に変わった。
「な、ななな、なに言ってんだ……!」
眉根を寄せ、慌てふためくツラが面白くて、サッチは声を上げて笑った。こんなどうしようもなく可愛い猫の世話係を、どうして手放そうと思えるのだろうか。
そろそろと、エースの腕が背中に回ってくる。言葉なくとも伝わる熱量に、溢れんばかりの幸せが込み上がった。
——おれだってもう、お前なしじゃあまるきり駄目なんだ。
心の内に抱いた海賊らしからぬ思慕に、サッチは笑いながら、その体を更に強く抱き締めてやった。