たとえばそれは、造花のような【Ⅰ】
最初に出会った時、彼女はもの言わぬ物体だった。
ヤーナムに流れ着いた狩人は、天上を思わせる不可思議な場所で、「彼女」の姿を見た。
庭先に打ち捨てられているように置かれていた人形に歩み寄り、じっと観察する。人形というもの自体は決して珍しいものではなく、記憶が朧げな狩人もまた、それを今までに見たことがあるということは覚えていた。しかしこんなにも精巧な人形を目の当たりにしたのは初めてであり、人形という道具にさして強い思い入れがあるわけではなかった狩人でさえ、目を見張ってその姿に息を呑んだ。
陶器のように白い肌、透き通るようなガラスの瞳。着せてある衣装も上品で、細かな刺繍や精巧なブローチまであしらわれている。 しかし全体としては気取りすぎない雰囲気で、どこかあたたかい、親しみやすさを覚えるような感じもあった。
——ここまで美しい人形は見たことがない。
無意識に手を伸ばしかけていた手を、触れる寸前でぴたりと止める。その人形があまりにも美しいので、何も分からぬ者が勝手に手を触れてよいものなのか判断しかねたからだ。
手を引っ込め、小さくため息をつく。いや、まずはこの不思議な場所について確認しよう。後ろ髪を引かれる思いで人形から離れ、そして唯一の建物の中へと歩みを進める。
そこにいたのは老人が一人。やあ、君が新しい狩人かねと話しかけてくる彼の雰囲気は親しげで、狩人は彼の元へと自然と歩み寄っていった。少なくとも敵ではないらしい。ヤーナムじゅうに蔓延っている獣たちになすすべもなく殺されたばかりの狩人にとっては、会話のできる人間がいるということにひどく安堵した。
「ここに残っているものは全て自由に使うといい」
老人が小さく笑う。そして消え入るような、何かに聞こえないようにするかのような声で、ぼそりとつぶやいた。
「…………君さえ良ければ、あの人形もね」
【Ⅱ】
獣狩りの夜で死ぬのは幾度目か。そんなことを思い浮かべながら、狩人は目覚め直した目の前の景色をぼんやりと眺めた。つい一瞬前の全身の痛みは消え、傷もなければ汚れすら消えている体を確認し、そして大きくため息をつく。
……いつまでこんなことを続けなければならないのか。
死んでも死んでも目覚めてしまう。死とは恐ろしいものだと思っていた狩人だったが、まさかそれが訪れないことに恐怖を感じるようになる時が来るなど思ってもいなかった。
武器の損傷は軽く、輸血液や水銀弾にも余裕はある。しかしいつになれば「夜が明ける」のかは見当がつかなかった。ヤーナムに来て以降、時間の流れが奇妙に思えて仕方ないのだ。
夜とは、こんなに長いものだったろうか。
道中で拾った懐中時計によれば、夜の始まりからそこまで時間が経っていないらしいことがわかる。いっそ壊れて止まっているのではと疑ったが、じっと見ていれば針がきちんと動いているのが確認できた。
先ほど対峙した獣のことを思い返す。あれは他の獣たちとは大きく異なっていた。それに、その獣と対峙した時、急に頭の中がざわつくような感じがして——まるで今まで思いつきもしなかった素晴らしい〝智慧〟を得たような、そんな感覚を得た。
あれは何だったのだろう、そう思ったが、狩人はそれよりも何処か安全な場所に逃げ帰りたいという思いでいっぱいだった。
……ここにいたくない。
そんな考えがふとよぎって。無意識に、目の前の「灯り」に手をかざす。そうすればすぐに目の前は暗転し、そして徐々に明るさを増し——
「!」
狩人は目の前の光景に目を丸くした。
人形が起き上がっていたのだ。
思わず駆け寄って声をかけた。話を聞いてみれば、彼女は狩人の世話をするための存在なのだという。打ち倒したものから得た遺志を、所持者の力へと変えるのだとか。そのように人形は己の役目についての一通りの説明をしたあと、狩人に向けて柔らかな眼差しを向けた。
——美しい。
その瞳に惹きつけられて、瞬きすらも忘れて彼女に見入る。そうして呆けていれば、狩人様? と呼ぶ声が聞こえて、慌てて咳払いをする。彼女がせっかく話してくれたことが頭から抜け落ちてしまいそうだった。
「ええと……、つまり君の元まで『遺志』を持ってくればいいと」
「はい、そうすればそれをあなたのお役に立てることができますから」
繰り言に近い狩人の言葉にも優しく応じる彼女を、もう一度見やる。どうして突然彼女が動いたのかは狩人にはわからなかったが、彼女とこうして会話ができるようになったことには強い嬉しさを覚えていた。
導きの言葉を与えてくれる助言者、狩人を慕い手助けしてくれる小さな使者たち、そして人形。ここは何と安らかな地なのだろうか。まさに「夢」と呼ぶに相応しい、そんな場所に思えてきた。
悪夢のような現実に折れそうだった心が僅かに支えられたような気がした。ああ、またきっとここに戻ってこよう。帰ってこよう。そう一人心の中で誓いながら、ただゆったりとそこに在る人形へと手を差し伸べる。
「ああ、ありがとう。……これからよろしく、人形」
【Ⅲ】
あの人形が喜ぶこととは何だろう。狩人は「現実」を彷徨っていた最中に、そんなことをふと思った。狩りをするのにも返り討ちにあって死ぬのにも疲れてきていた。そろそろ心身を休めたいという願望によるものだろうか。
とはいえ灯りは遠く、戻るには歩いて帰るしかない。「徴」を強く思えば帰れるが、血の遺志を捨てるのは癪だしな、とはいえここから灯りまで戻っていたらまた獣に襲われて血の遺志を落とすかもしれないな、などと考えながら、周囲から死角になりそうな場所を見繕ってそこに腰を落とす。
……人形に会いたい。その顔を見て安心したかったし、その声を聞いて癒されたかった。正直なところ、狩人はすっかり人形に入れ込んでいた。終わりの見えない夜の中にある、唯一の安らぎの光であるような、そんなふうに思えて。
先ほど思い浮かんだ素朴な疑問を思い返す。人形が喜ぶこととは何だろう。何かを贈れば喜んでくれるのだろうか。とはいえ、見当もつかない。少なくとも血の遺志、ではない気がする。あれは己を強化するための手段に過ぎない。じゃあ何なら……と考えを巡らせるも、やはりいい考えは浮かばなかった。
ならば本人に聞いてみるのも一つかもしれない。ただ聞くだけだ。君はどんなものが好きなのかと。
そんなことを考えていたらますます「帰りたく」なってきた。座り込んでいた体を起こし、周囲を確認する。そして踵を返し、進んできた道を戻る。
人形。
人形。
あの夢に住まう、美しい人形。
市街の不衛生さも、一帯にむせかえるほどに漂う血と獣の匂いも、あの夢を思えば少しだけ耐えられた。
その安らぎが心に思い浮かぶうちは、きっと夜に狂わずに済むように思えたからだ。
【Ⅳ】
ようやく見つけ出した新たな「灯り」に向け、狩人は手をかざした。
我ながらつまらないことで機嫌を損ねているものだ、とはわかっていた。けれども狩人は、それを鎮めるのにちょうどいい案は持ち合わせていなかった。
……市街で出会った狩人たちの話は興味深いものばかりだった。彼らは理性を失った罹患者たちとは異なり、「人」として狩りを続けてきたらしかった。長く狩りを続けていると、血に酔い狩りに飲まれてしまう者も決して少なくないという。そんな中で彼らは「人」として、「狩人」として、強く在り続けていた。
目に入る生き物は大抵襲いかかってくる中で、彼らの存在は大いに狩人の意志の支えになった。励ましや助言を述べ、親切に幾らかの物資を譲ってくれたりした者もいた。その姿を見て、自分も彼らのように強く在れたら、そんな敬服と憧れの感情を抱いていた……はずなのだが。
「お帰りなさい、狩人様」
夢の中へ帰還した狩人は、そう普段通りに声をかけてくれる人形が言い終わることも待たず、彼女の元へと足早に近づいていった。
「…………」
「……狩人様? どうかなさいましたか」
詰め寄ってきた狩人に、人形がその整った顔をかしげて見せた。しかし狩人は何も口に出せないまま、ただじっと彼女の顔を見つめていた。いや、むしろ睨んでいたと言った方が正しいのかもしれない。しかし彼女がまっすぐに見つめ返してくるものだから、狩人は自分が情けなくなって彼女から視線を逸らした。
「……人形」
「はい」
「君は…………、」
言葉が続かず、そこで詰まる。けれども人形は狩人の言葉の続きを大人しく待っていた。
「……いや。……この夢のことを教えてくれないか。この夢には、『狩人の夢』には、今までどんな狩人が訪れてきたのか。『君を知っている』という狩人に会って、興味が湧いた」
ようやく言葉を紡ぎ、それから小さく彼女に笑いかける。ぎこちなく思われないか、などという余計な心配を無視しながら。
「ああ、それでしたら」
彼女の応じる声に僅かに安堵を覚える。ご興味があるのでしたらぜひ、と穏やかに話し始める彼女を見ながら、階段脇の壁にもたれかかる。その口から語られる思い出はあたたかく、つめたく、時折無惨であり、そして彼女はその全てをいとおしんでいた。
人形にとって「狩人」はみな大切な存在、愛すべき存在なのだと、聞いているだけで分かった。
——彼女は自分だけを愛しているわけではない。
愛しているだの愛されているだの、獣狩りの夜に気にすべきことではないだろうに。そう内心で自嘲しながら、狩人は人形の語る思い出にしばらく耳を傾けていたのだった。
【Ⅴ】
その時狩人は油断していた。
夢の中に人はいない。自分が負傷することもない。だからまさか、手入れ中の短銃が暴発するとも思っていなかった。
「わっ——⁉︎」
弾は人形の頬を掠めて壁に当たった。狩人は驚いてすぐさま駆け寄り、大丈夫かと声をかけた。すると人形は涼しげな顔のままでこう答えた。
「はい。何も問題ありません」
しかし弾が掠めた頬はひび割れている。意図してのことではなかったとはいえ、こんなにも美しい人形を傷つけてしまったと思うと狩人は申し訳なさを覚えた。
「いや、掠っているだろう。……すまなかった」
「狩人様がまたここに帰ってこられる時には元通りですので、お気にならさないでください。それに……」
「それに?」
「私を使って武器の試し斬りをおこなう狩人様も少なくありませんから。武器が当たることには慣れています」
その言葉に狩人は自分の顔が一気に青ざめたのを感じた。
……そうだ、彼女は人形で。狩人のために存在している「もの」で。決して人間ではなく、人間を愛し、そして人間に愛されることはない存在。
「……自分はそういうことをするつもりはない」
「ああ……余計なことを申しましたね。ご気分を害してしまい、申し訳ありません」
「……、君が謝る必要もないだろう……」
言いたい言葉が山と浮かんだが、それが狩人の口から出ることはなかった。
この問答を続けても無意味だ。
休んでいたはずなのに急に疲れを感じ、狩人はその場に腰を下ろして頭を抱えた。
【Ⅵ】
「——はい、今回はこれで。もう目を開けていただいても大丈夫です、狩人様」
その人形の言葉に従い、閉じていた瞼を上げる。しゃがみ込んでいた人形が立ち上がって、狩人に穏やかな眼差しを注いだ。
かざしていた手のひらを握り、そして開く。彼女に血の遺志を渡している間は目を閉じており何も見えないものの、彼女に差し出す手にはずっと優しいあたたかさを感じられる。まるでそう、静かな励ましを送られているかのような。
すらりとした佇まいの人形は、狩人よりも上背がある。狩人の背丈はごく普通のもので、特別小柄というわけでもないはずなのだが、彼女とやり取りをする時はどうしても彼女を見上げる形になる。
それが嫌というほどではないものの、どうせ話すならば彼女と目線を合わせられれば……と、小さな願望が胸に湧く。
「人形」
呼んだ彼女が瞬きをする。その関節の目立つ手のひらに触れて、そっと誘導する。そうすると人形は狩人の動きに従って、そのまま石垣に腰掛けた。少し不思議そうに見つめてくる人形はとても愛らしくて、狩人の口から笑みが溢れる。
透き通る眼球、陶器の肌、微風に揺れる灰色の髪。目線が近くなったことで、それらはより一層際立って見えた。人と見紛うほどに精巧に作られていながら、そのあまりにも整い過ぎた容姿は、人間離れしているとすら思え——
「……君はこうして、ここに生きているというのに」
と、ついそんな言葉が口からこぼれ出た。きょとんとする人形の視線に急な気恥ずかしさを感じて、狩人は思わず顔を背けた。
ああ、馬鹿げたことを言ってしまった。人形が生きているなど、当然のことではないか。
するとくすくす、という小さな笑い声が聞こえてきた。気まずさも消えないままに彼女へと向き直れば、人形が楽しそうに笑っている顔が目に映った。
「……君の笑顔をはじめて見た」
ごく素直に、そう呟く。あの端正な顔もこうして笑みをこぼすことがあるのかと、狩人の胸の中に不思議な感慨が湧いた。
「まあ——」
それを聞いた人形は少し驚いたような顔をした。彼女は考えるように少しだけ沈黙し、それから再び笑顔を向けてきた。
「……そうなのですね。喜んでいただけて嬉しいです、狩人様」
【Ⅶ】
痛い。
痛い。
痛い。
全身が狂いそうなほどに痛い。いや、それはいつものことなのだ。だがおぞましい悪夢に等しい「現実」において、狩人はあまりにも殺されすぎた。
ああ、けれどこれも「夢」にさえ帰れば無かったことになる。そうだ、帰ればいい。逃げ込んでしまえばいい。あの誰も自分を傷つけることのない、安らかな夢の中に。
ごぽ、と喉の奥で音が鳴るのが聞こえた。込み上げてきた血を吐瀉し、歩くに適さない形になった足を引きずって、武器を握る力の失われた腕を「灯り」に伸ばす。
視界が暗転し、血と獣の匂いが消え去った。ぼやけた視界は徐々に明るさを取り戻し、
ああ、
ほら、
いつも通りに、
そこには人形がいるではないか————
「——ヴアアアァアアアアァアアアッ‼︎」
がしゃん、という激しい音が鳴る。慟哭とも威嚇とも、或いは怨嗟ともつかぬ絶叫を上げながら、狩人だったものの全身が見目麗しい被造物を地面に叩きつけた。狩人様、と呼ぶ声に、けれど狩人だったものは己を取り返すこともない。
動くもの全てが敵に、獣に、狩人に見える。声を、音を発するものはつまり敵なのだ。
ああそうだ、殺さなくては、壊さなければ、ねじ伏せなければ、「狩らなければ」。自分は狩人なのだから。狩人なのだから。狩人で、獣を狩らなくてはならなくて、だからそう、動くものは、言葉を話すものは、自分に笑いかけてくれるものは、きっとみんな獣なのだ。
「狩人様」
そう音を発する目の前の物体は、地面に叩きつけられた衝撃によってか顔の表面にひびが見えた。上等な装束を引き裂かんばかりに尖った爪が、それの肩に食い込んでゆく。武器などもう持たなくとも済むらしくて、狩人だったものはなるほどこれは便利だと嬉しく思った。狩武器は所詮人を斬るためのものだ。あのような人殺しの道具など、おぞましいばかりだ。ならばちょうど良いではないか。もう少しばかり力を込めればきっと、この目の前のものはきっと、
「——狩人様」
その時、その呼び声が急にはっきり聞こえた気がした。狩人だった何かの動きが僅かに静止して、その体に白く華奢な腕が触れられる。体温のないその腕は、しかし慈しむかのように中に包んだものを撫でた。何かの口からグルルル、と唸り声が漏れて、少しずつ興奮が冷めてゆく。
揺れた視界が眼前のひび割れた陶器の隙間を捉える。瞬く機能を失ったガラスの眼球が虚の中に落下した。白い陶器のひび割れの中に広がる虚は、暗く、昏く、何もない全き闇で、いや違う、まるで星の満つ夜空のように————
◆◆◆
「……また『保たなかった』か。……まあ、仕方のないことかもしれんな」
工房の階段付近の散らかりようを眺めながら、老狩人は無念そうにため息をついた。首と胴が離れた獣を抱擁するようにして巻かれている腕の持ち主は、しかし腕以外の部分が砕けてしまっている。隻脚の老狩人は一歩ずつ階段から降りてそこに近づくと、慎重にしゃがみ込んで白い陶器の破片になったものに手を触れた。
「……起きたまえ」
するとまもなく、砕けていたものが姿を取り戻した。元の通りになった人形は体を起こすと、目の前の老狩人に向けて恭しく頭を垂れた。
「今度の『夜』はここまでだ。……片付けておいてくれるか」
そう命ずる老狩人に、人形は再び頭を垂れて獣の傍へとしゃがみ込んだ。次の夜はこうでなければよいのだがね、と独りごちる老人をよそに、人形は死骸を抱えて再び立ち上がった。
夢の庭の隅に立ち、人形は空を見上げた。まばらに漂う雲の色はまだ淡く、夜はまだ半ばであろうことを示していた。
つまり、夜明けには程遠い。
人形は抱えていた死骸をゆっくりと地に降ろし、しばしそれをじっと見つめた。
愛しかったもの。愛しい者、だったもの。
「さようなら、狩人様」
手を前に組み、そして目を閉じる。小さきものたちに、古き意志に、そして夢の月に祈るために。
それはもう二度と動くことはない。きっと「夢」の外でも。
けれど唯一の幸いは、もう二度と酔わずに済むことだ。
「……あなたにとってのこの夢が、有意なものでありましたように」
血にも、狩りにも、このおぞましい「悪夢」にも。