夜の柔らかく温かな布団の中は安心する。
狩猟中は里の英雄『猛き炎』も帰宅後は一人の男の妻。今日も狩猟と家仕事を終え、小さな鏡台の前に並んだ小瓶の中身を顔に塗ってから、浴衣一枚で布団に潜る。
灯りも消えて月明かりに満たされた畳の間。先に隣の布団に入っていた夫であるウツシが待ちわびたように微笑んだ。
「遅かったじゃないかあぁ。…ごめんね、何か手伝えることあったんじゃない?」
「家事じゃないですよ、お肌のお手入れです」
幸せそうに微笑んで答えた娘が隣の布団の中にいるウツシの方に体の向きを変え、片手で自分の頬をもちっと軽く揉んで見せた。
「最近カゲロウさんの雑貨屋さんで買った化粧品、私の肌に合って良い感じで。うるうるのもちもちになれるんです」
「そうだったんだ?へえ、少し触ってもいい?」
「ええっ?全くもう。いいですよ、どうぞ」
「フフ、やったぁ。ありがとう」
嬉しそうにウツシが微笑み、娘の頬に片手を伸ばす。親指で優しく柔らかな頬を撫でながら、彼は何か思いついたように不意に呟いた。
「…ねえ、愛弟子。明日は夫婦水入らずで一緒に家でゆっくりしない?」
「良いですね!私は大丈夫ですし、嬉しいですけど教官の方のお仕事は?」
「大丈夫、急ぎの任務もないし。じゃあ、決まり」
娘の頬を撫でていたウツシの手が、彼女の頭に滑る。さらりと頭を撫で、髪を愛で、月明かりの部屋でも目立つ金色の目を穏やかに細める。
「おやすみ、ゆっくり休んでね。明日は久しぶりに一緒に過ごそう」
「楽しみです。ふふ、おやすみなさい」
温かなウツシの手に撫でられながら、心地良さそうに娘が目を閉じる。二人はほぼ同時に睡魔に意識を委ねて眠りについた。
次の日、いつもよりゆっくりの時間に先に起きたのはウツシ。彼と共に娘も起床し、二人は互いに笑顔で「おはよう」「おはようございます」といつも通りに挨拶を交わした。平凡で平穏な朝。
布団をあげて炊事場に夫婦で並んで朝食を作る、時間に追われていない特別感に満ちたいつも通りの朝。娘がふと壁掛けの暦を見れば、十一月の二十二日。卵焼きを焼いた後、おにぎりを握る手がふと止まった。
「もう年末近いんですね、早いなぁ」
「今年もお互い無事で感謝しないとね。…よし、お味噌汁できたよー」
「ありがとうございます、こちらもできました。おにぎりの具は鮭が良いんですよね?」
「うん!今日は鮭気分でね!あ、向こうの用意しとくね!」
「はい、よろしくお願いします」
寝る間別所に置いてあった卓袱台をウツシが慣れた様子で畳の間に運び入れる。
その上に娘が朝食たちを並べていった。海苔つき三角おにぎりが三つ乗った皿と豆腐の味噌汁に湯気立つ椀、鮮やかな卵焼きをそれぞれ二人分。
時間差で夫婦が普段の定位置に座った。寄り添い過ぎない互いの顔がよく見える位置。いつものようにウツシが卓上を見て目を輝かせる。
「今日も朝からご馳走、嬉しいなぁ!それじゃ、いただきまーす!」
「はい、いただきます」
共に手を合わせ、食卓を囲む平凡な幸せ。
美味しそうに口いっぱいにおにぎりを頬張って味噌汁をすするウツシを、愛しい夫を見つめる娘の眼差しは陽射しのように穏やかだった。
今日は時間の縛りはない。夫婦で共にゆっくり過ごすことができる。
食事を進めながら重なる会話は他愛のないもので、下らないことで笑い合える。皿や椀が空になっても、その時間はゆったりと続く。
「それでミノトさんの描いてくれた絵が最高でさ!でも、ハハハ、褒めたのに凄く怒られちゃって」
「ふふ、照れ隠しですよ。ミノトさんらしいかも。…あ、そろそろお茶淹れましょうか」
「ありがとう!じゃあ俺はお皿を片付けるよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
「いいんだよ。ねえ愛弟子、今日は夫婦水入らずで…何かすごく、いいね」
「ふふ、ですね。……すごく、嬉しいです」
「うん…俺も」
微笑み合ってからそれぞれの目的をもって卓袱台に手をつき立ち上がった夫婦が、炊事場に向かう。ウツシが片付け、娘は急須に茶葉と湯を。どちらも慣れた様子の日常動作。
茶葉は「賞味期限が危ないから助けてほしい」とヨモギから分けてもらった茶屋の特注品。湯呑みはウツシが碧色、娘が桜色で、シンプルなぼかしの色味に金色の小さな桜の花びらが散りばめられたデザインで、結婚祝いにもらった品だ。夫婦ですっかり愛用している。
先に卓袱台に戻ったウツシが、炊事場で茶を淹れる娘の背に「あっ」と声をかける。
「そういえば俺、昨日の帰りに羊羹買ったんだ。オテマエさんの新作。そこの炊事場の棚に置いちゃった」
「え、ありがとうございます。…良いですね、お茶と一緒に頂きましょうか」
上機嫌に棚から羊羹を取り出して切り分ける始めた娘は「あっ」と声をあげながら、そわそわした様子で先にウツシ用の羊羹を持って卓袱台に小走りで戻ってくる。その妻の姿もウツシの目には愛おしい。
「ウツシ教官!見て下さいこの羊羹!」
「え?」
「綺麗なんです、見て!ほら、桜!」
皿の上には、鮮やかな桜の花と花びらを象った、まるで芸術品のように美しい断面の羊羹。「わあ!」とウツシも驚きながら微笑んだ。
「凄いね!綺麗だ、こんな風になってるなんて知らずに買ってたよ!」
「食べるの勿体なくなっちゃいますね…!あ、今お茶お持ちします!」
再び炊事場から、娘がウツシの湯呑みを、そして自分の分の羊羹と湯呑みも順に持って戻ってくる。
「はーい、お茶です。お待たせしました」
「ありがとう、俺の可愛い妻よ」
「! …うぅ…全くもう」
改めて言われて意識しないはずもなく。愛する夫の言葉に娘が微かに頬を赤くして苦笑しながら卓袱台の定位置に戻り座る。自分はこの人の妻なのだと意識するだけで心は何にも代え難い至福で温かく満たされた。
二人はまた「いただきます!」と手を合わせた。ウツシが木製の菓子楊枝を手に、羊羹の断面をしげしげと眺めながら、ちらりと娘の方を見た。彼女は珍しい羊羹にきらきらと瞳を輝かせていて、その様子に買って良かったと心がじわりと温かくなる。
「凄いよね。キレイな羊羹だよね、愛弟子」
「さすがオテマエさんです、美味しそうですし」
「最近、観光客向けのお土産の試作品を作ってるみたいでね。闘技場の受付がヒマだと色々味見をさせてもらえることがあるんだ」
「えー、そんな良いことあるんですか?今度から集会所の茶屋で休憩しようかなぁ」
「ハハハ、キミはまだエルガドに行くこともあるだろう?機会を見てまたちゃんと買ってくるよ」
「約束ですよ?ふふ、じゃあ安心してこの羊羹食べますね」
美しい桜の羊羹を勿体なさそうに見ていた娘だが、程なくして菓子楊枝で分けぱくんと一口。思わず「んー!」と幸せの声が出た。
満面の笑顔を浮かべる妻を見られただけで「買って良かった」とウツシの心が満ちる。
穏やかな様子のウツシの眼差しを心地良く感じながら、娘も羊羹と共に優しい甘さの平穏を噛み締める。
いつも忙しなくあっという間に流れる時間なのに、こんなにゆったり流れることもあるのかと妙に新鮮な心地だった。
「…ね、ウツシきょうか……。……あなた」
「んぐふッ!?」
思いも寄らぬ不意打ち。口に入れていた羊羹を吹き飛ばしそうな勢いでウツシが不自然にむせた。茶どころか羊羹を噴きそうになる不覚を恥じつつ、彼は流れるように湯呑みを掴んで中身を傾け「ふーっ…」と息を吐いた。
「な、な、何だい?ど、どうしたの急に」
「…初めてじゃないですよね?あなた、って呼ぶの」
「そ、そそ、そうだけど…突然はずるいよ…!」
耳まで赤くしたウツシの、初恋の少年の如き初心な様子が愛おしくて、娘が思わず笑みを零す。昔から不変の彼の愛くるしい純粋さ。娘は卓袱台からじっと真っ直ぐウツシを見つめ、その視線を浴びる彼の顔はますます赤くなった。
「ど、どうしたの?お、俺の顔、何か変?」
「……私たち、夫婦なんですよね?」
「う、ん……そうだね」
「……何だか、この時間が夢みたいです。お互い毎日狩場に出たりしてるからですかね」
「…俺も、夢みたいだよ。妻になったキミにお茶なんて淹れてもらって、一緒の食卓で一緒におやつを食べたりできて」
「ただ一緒に居られて、特別なことが何もないってすっごく幸せですね」
「ああ、そうだね。……全く、その通りだ」
愛する人と共に居られる穏やかで平凡な、命の危機から遠く離れたありふれた日。狩猟の日々に身を置く自分たちにはあまりに貴重で愛おしい時間だと、二人は見つめ合って笑みを交わしながら再認識する。
夫婦共に羊羹を食べる手が止まった頃、ふと玄関の空気が動く。
先に気付いたウツシが「ん?」と視線を玄関に向けると、横滑りの戸が静かに開かれている途中だった。
「な、何してるんだいヒノエさん!」
「あらあら、気付かれてしまいましたか。さすがはウツシ教官」
慌てた様子で立ち上がって玄関付近の上がり框に向かうウツシと、まるで自宅のような様子でノックもなく気配を殺して入って来たヒノエに慣れた様子で、娘も続く様に立ち上がる。
「ヒノエさん?あはは、相変わらずですね。こんにちは」
土間に立ったヒノエは並び立った夫婦に向けて、悪びれた様子もなく微笑んだ。
「うふふ、こんにちは。差し入れに来たのですが…お邪魔してしまいましたね」
「え?差し入れ?」
ウツシが呟き、夫婦が顔を見合わせて首を傾げると、ヒノエが両手で小さな風呂敷を差し出す。目を引く黄蘗色に、何やら植物が描かれたものだ。
「こちらはヨモギちゃんの茶屋の本日限定うさ団子です、お二人にぴったりかと思いまして。さあさあ、どうぞ」
「な、なぁんだ、そうだったんだ…わざわざありがとう、ヒノエさん」
笑顔で風呂敷を両手で受け取ったウツシの隣で娘も「ありがとうございます!」とヒノエに笑いかける。
彼女は「いいえ」と不変の陽光の笑みを浮かべながら二人をそれぞれ交互に一瞥し、静かに一歩退いた。
「それでは、私はこれで」
「え、もう?少し上がってお茶くらい飲んで行っても…」
「うふふ、ありがとうございますウツシ教官。お気持ちはありがたく頂戴致します、が、まだお仕事もありますので」
「そうかい?それなら無理は言わないけれど…。本当にありがとう、ヒノエさん」
「いえいえ、とんでもありません。あ、お見送りもこちらまでで」
改めて小さく頭を下げてから、ヒノエが言葉通りさっさと踵を返して玄関の戸に向かう。
去り際に、彼女はとても嬉しそうに瞳を輝かせてウツシと娘の方に振り返った。
「うふふ、お二人の仲がよろしくて…ヒノエは本当に嬉しいです。大きなお世話かもしれませんが、どうかこれからも末永く、素敵なおしどり夫婦で居てくださいね」
「もちろん!これからも仲良くしようね!愛弟子!」
「も、もう、ウツシ教官ッ……」
娘は人前だとどうしても照れが出る。師の溺愛に振り回される愛弟子でいる方が楽になってしまうので素直に夫を愛する妻になることができないのだが、その照れは深い想いの表れ。
全て見透かすような笑顔を浮かべて、ヒノエは「それでは失礼します」と、静かに去って行った。戸が完全に閉まってから、ヒノエからの風呂敷を受け取ったウツシと娘は顔を見合わせ、一旦卓袱台の定位置に戻っていく。
「それ、限定うさ団子ってヒノエさんが言ってましたよね。私と教官にぴったりってどういう意味なんでしょう?」
「見たら分かるかな?早速開けてみようか!」
ウツシが風呂敷を開く立派な菩提樹の絵柄が姿を見せ、そこには団子を包んでいる竹皮の袋。それを見て彼は何か察したように口角を上げて竹皮も開いた。直後、きらきらと輝く娘の瞳。
「わあぁあ、かわいいー!」
竹皮の中には、白と桜色を基調にした一串と、白と薄緑を基調した一串が寄り添うように並んでいた。色合いとゴマを用いた目の付け方から察しても対になっているようだ。大きさは通常のうさ団子よりも大きい。
「美味しそうだし綺麗な色!夫婦箸ならぬ夫婦串みたいです!早速いただきましょうよ、教官!」
「そうだね、今食べるのが一番美味しいだろうし」
「冷めちゃいましたし、お茶を淹れ直して来ますね」
「ありがとう、さすが俺の妻だなあ。本当に気が利くね」
「んぐー!も、もう!突然はずるい!」
先程のウツシと同じことを言いながら娘は照れたように苦笑し、ウツシと自分、二つの湯呑みを持って炊事場に戻っていく。
その間、ふとウツシは壁掛けの暦を見やってから卓袱台の上の菩提樹柄の風呂敷に視線を移し、柔らかに微笑んだ。
「…ねえ愛弟子。ちなみにさ、キミは今日が何の日か知ってる?」
「え?十一月の二十二日、ですか?」
「うんうん、そう。知ってる?」
「うーん………」
湯気立つ湯呑みを二つ並んだ盆を両手で持ち、炊事場から娘が唸りながら戻ってくる。
定位置に座り、ウツシの前に湯呑みを置きながら「あっ!」と彼女は笑顔を灯す。
「今日って季節の変わり目ですよ、小雪!」
当たりでしょう、と言わんばかりの娘の笑顔に、ウツシは声を上げて笑いたい衝動を抑えながら、愛おしそうに妻を見る目を細めた。
「そうだね、季節の変わり目だ。…本格的に寒くなってくるから体に気を付けるんだよ?俺の可愛い妻よ」
「うぅっ……き、教官も、ですよ?あんまり無理しちゃ、嫌ですからね…?」
「ああ、分かってる。キミを悲しませることは、しないよ」
瞳に凛と光を宿し、ウツシがふと姿勢を直して娘の方に手を伸ばした。
これだけ夫婦という言葉に囲まれていても分からない愛しい妻の頭を軽く撫でると、彼女も幸せそうに目を細める。
「……ね、ね、いただきません?うさ団子」
「ああ、そうだね。夫婦串なら、緑がきっと俺の分だよね?」
「きっとそうです。あ、緑のところの一口ください、私の桜色のをあげますから」
「ハハハ、いいよ。じゃあ、どんな味か言わないでおこうっと」
「私も言わないでおきます!予想しておこうっと、抹茶とかかなあ…」
「どうかな?ずんだかもしれないよ?」
「あー、それもありますね。どっちかな…考えておきます!」
悪戯っぽく微笑みながら、まるで杯を交わすように娘がウツシの持つうさ団子に自分のうさ団子を軽く触れ合わせた。
夫婦が共に「いただきます!」とまた律儀に声をあげ、同時に幸せそうに団子にかぶりつく。最上部はどちらの串も白団子。たちまち二人は視線を交わして笑顔になった。
「おいしーい!お上品!最高ですね!」
「うん、美味しいね!家で食べるうさ団子、何だか落ち着くなぁ」
「羊羹も最高ですよ。交互にゆっくり食べようっと!」
「俺も。こんなに豪華なキミと一緒のおやつ時間はゆっくり楽しまないとね! 」
「はい!そうです、一緒ですものね!」
卓袱台の定位置に座った夫婦が同時に視線を交わし合い、またのんびりと他愛のない会話と笑顔を交わし始める。
平凡な日。何気ない日。何もない幸運日。
羊羹にうさ団子、甘い和菓子に囲まれた十一月の二十二日。
ふと、団子を堪能するウツシの視線が卓袱台上の風呂敷に向けられる。
夫の視線の動きに気付き、もぐもぐと口を動かしながら、ふと娘も風呂敷の図柄を一瞥した。
菩提樹の絵柄は確かな存在感を放ち、おおらかに夫婦の時間を見守っている。そんな中でウツシと娘が同時に、団子の二口目にかぶりつく。
夫婦の口いっぱいにほんのりと、いつまでも続いて欲しい優しい甘さが広がった。