普通に乾杯「幽玄坂まで」
乗り込んだタクシーの運転手にそう告げて、僕はほうと息を吐きながらシートに体を預けた。
長かった仕事がようやく終わった。本当はもっと早く片付けるつもりだったのに長引いてしまったからか、少し疲れが溜まっているようだ。
惜しんでくれる人もいたし、馴染めていたとも思う。もしかしたら、こんな未来もあったのかもしれない。普通の会社に入って、普通に朝起きて通勤ラッシュの電車に揺られ、普通に書類に追われ、普通に夜は家に帰って眠るような、普通の生活。この経験は僕にとっての「普通」とは全然違っていた。
同僚も上司もみんな良い人たちだったけど、今はしばらく顔を合わせていなかった面々が恋しい。
目的地までそう時間がかかるわけではなかったが、どうしたって慣れない通勤ラッシュの電車は疲れるし、任務完了の報告への返事で許可ももらっているのでありがたくタクシーを使わせてもらった。
「お客さん、出張帰りですか?それとも単身赴任?」
ぼうっと窓の外を眺めていると運転手から声がかかった。
「ええ、そんなところです」
特に何を話した訳でもないのに何故わかったのだろう。さらに言えば、それほど大荷物でもないし、大きなターミナル駅から乗車したわけでもない。
「どうしてって、思ったでしょう?」
顔に出ていたのか、人の良さそうな運転手が楽し気に笑った。
「この仕事も長いもんでね、なんとなくわかるんですよ。大きな仕事を終わらせたような疲れと達成感があるけどそれだけじゃなくて、早く目的地に着かないかなって顔をしてる。でも、とっとと風呂に入って寝たいって感じじゃなくて、わくわくしてるというか嬉しそうだ。きっと、家族とか親しい人と約束でもしてるのかなと思ってね」
ほぼ誤りなく言い当てられて、思わず苦笑する。人が良さそうと思ったが、なかなか侮れない人物であるようだ。伊達にたくさんの人を乗せてはいないのだろう。
「少し手間取っていた仕事が片付いて、久しぶりに…」
そこまで言って言い淀む。彼らとの関係は何と言ったら良いだろう。最も適切なのは「仕事仲間」だと思うが、仕事を終えてから会いに行く相手を仕事仲間というのも変な感じだし、それにただの「仕事」と区切るにはあそこはあまりにも自分にとって「帰る場所」になり過ぎた。
「お客さん?」
不自然に途切れた言葉に運転手が不思議そうな気配を見せる。
「いえ、久しぶりに友人たちに会うんです」
とっさに当たり障りない言葉を選んだが、どことなくチープに感じられた。じゃあ、何と言えば良いかというとピンと思い当たるものは無かったが。
「そりゃ良い。大人になると気の置けない友達同士で飲みに行ったりなんて、忙しさに流されてだんだんとできなくなっていくもんですからね」
「ええ」
適当な相槌を返したところで、手元のスマホが短く震えた。見るとタクシーに乗り込む直前に送ったメッセージに返事が届いていた。
『了解。気を付けて戻ってね。』
シンプルだがこちらを気遣ったメッセージは面倒見の良い彼女から。
それに続いて届いたかわいらしい猫のOKのスタンプは年下の先輩から。
あとの既読のつかないメンバーは何事かで手が離せないのだろう。と、思っている間にもう1件既読が付いた。そして間が空いてぽこりとメッセージが届く。
『オレももうすぐ戻る』
それを見て運転手に告げた。
「すみません。やっぱり…」
渋谷の町を歩きたくて、少し離れたタクシー乗り場で降りた。
幽玄坂方面に向かって辺りを埋め尽くす人波の中を歩く。今回の仕事の為に身に着けているスーツも相俟って傍から見れば休日出勤帰りのサラリーマンに見えているだろう。あったかもしれない未来、あったかもしれない普通がまた頭によぎった。
でも僕の目には普通には似つかわしくない黒が映る。それに沿って歩けばスクランブル交差点にたどり着いた。
僕の「普通」が始まった運命の場所。
信号は赤。たくさんの人々が思い思いに青を待っている中で、僕は黒だけを見つめている。
信号が変わって人波が一気に流れだす。迷うことも、流されることもなく真っ直ぐに僕は進む。まるで磁石が引き合うように。
「待ちくたびれたぜ」
「悪かったね。これでも頑張ったんだから、褒めてくれてもいいんじゃない?」
「冗談だよ。ご苦労さん」
お互い別々の現場に出向くことも増えてきた。僕も一人前として認められているのは嬉しい事なんだけど、何となく物足りないと感じてしまうのもまた本心で。特に今回のように顔を合わせる暇も無いと、無事とわかっていても自分の一部が欠けてしまっているような感覚を覚える。
どちらからともなく、目的地の幽玄坂に向かって歩き出す。
「ずいぶんと手間取ったみたいだな。間に合わないかと思って今日に依頼入れちまったじゃねえか」
「姿を隠すのが上手い奴だったんだよ。当たりはついてたんだけど、祓うのに時間がかかっちゃった。そっちは余裕だったみたいだね」
「オマエも精進するんだな」
「はいはい。わかりましたよ、お師匠様」
冗談交じりの報告ももう何度目か。大したことないそれを口にしながらゆるゆると歩く。
「会社員生活はどうだったよ?」
問いかけにここしばらくの日々を思い返してみるが、実に普通だ。
「うん。こんなもんなんだなって、感じ」
「なんだそりゃ。味気ない感想だな」
自身も元の職業は一般的な会社員ではなかったから何か期待する部分があったのか、肩透かしをくらったようにがっくりとして見せる。
「だって普段が刺激的すぎるからさ、目新しさはあってもそれに慣れちゃったら味気なく感じるよ」
「…暁人、オマエもすっかりこっち側だな」
そう言ってKKはニヤリと笑った。
出会った頃のKKだったら「今からでも、そういう道もあるぞ」とでも言ったかもしれない。でも今は一緒に笑い合える。これは僕の粘り勝ち。
ぐだぐだとしゃべりながら歩いていると、2人のスマホが同時に鳴った。確認すると「まだ?」と首を傾げた猫のスタンプが届いている。
「主役がいないんじゃ始まらねえな。ほら、急げ」
KKが僕の背中をポンと叩く。
「去年の反省を活かしたつもりなんだけど」
僕は今年も今日この日に仕事でもないのに職場に向かっている。今日を祝ってもらう為に。
今日は9月8日、僕の誕生日!
End
Happy Birthday to AKITO
2024.09.08