臓腑に沁み入るその甘み「KKは明日はオフだから。仕事しちゃダメだからね!」
「わかったわかった」
今月に入って繰り返される台詞がまた絵梨佳から飛んでくる。
それに生返事を返し少ない荷物の帰り支度をする。
明日は前々から決まっていたオフだ。別にオレが希望したものではないが、コイツらときたら『こんな日くらい』とか言って勝手に休みに決めやがった。今更、特別なモンでも無いだろうに。
「夕方くらいにアジトに来てね。晩御飯は準備しとくからそのつもりで」
せっかく休みだというなら、昼間から酒でもかっくらってやろうかと思ったら何か察知したらしい暁人に釘を刺された。別に本気じゃねぇんだから、そんなしょうがないみたいな顔で見るんじゃねぇよ。
「へぇへぇ」
休みなんじゃねぇのかよと思いはするが、さすがにここで口答えするほど空気が読めないわけじゃないし、ガキでもない。素直に従うとする。
そんなやり取りに送られてアジトを後にしたのが、昨日の夕方の事。
日頃の疲れからか昼過ぎまで寝倒す、なんてことはなくそこそこ健康的な時間帯に目を覚ました。起きているのに布団に寝転んでいるのもなんとなく居心地が悪いので、一服ついでに身を起こす。
1本吸い終える頃には目を覚ました体が空腹を訴えてくる。
世話焼きたちに、体が資本なのだからもっと健康的な生活をと口うるさいほどに言われ、危うく煙草を没収されそうになった。意地でも煙草を死守した結果、食生活は少しでも気を付けることを言いつけられて渋々ながらできる限りきちんと3食摂る生活を続けているせいで規則的に腹が減る。
冷蔵庫を開けると、いつぞや買った納豆が隅にぽつりといた。それを取り出し、パックの白米を電子レンジで温めてテーブルに並べた。暁人のような若さゆえの食欲も、几帳面さもあるわけではないので、これで十分な朝飯だ。
後片付けを終えてもまだ午前中。夕方までにはまだまだ時間はたっぷりある。
さほど迷うこともなく、読みかけになっていた本でも読もうと手に取った。
せっかくの休日を無為に過ごすのはもったいないが、夕方からは元気溢れる若者たちにもまれることになる。それを考えれば体力は温存しておくが吉だろう。
何に邪魔されることもなく、本の世界に浸る事のできる時間はとても有意義だ。しかし、ずっと同じ体制でいる体の痛みや、細かい文字を追う目の疲労がそれを妨げてくる。まったく忌々しいことだ。
キリの良いところまで読み切って、凝り固まった体を伸ばしながら時計を見れば時刻は昼時を少し過ぎたくらいだ。
集中していた時にはあまり感じなかった空腹を感じる。朝もだいぶ手軽に済ませたのもあって、意識すると腹がくぅと音をたてた。
昼飯をと思っても、冷蔵庫の中にあるのはビールくらいで碌なものが入っちゃいない。
こんな有様を見られたらまた「健康的に!」と口うるさく言われるから買い出しにはまた後日出かけるとして、今日のところは外で済まそう。
軽く身支度を整えて出かける。
何を食べようかとぶらぶらと歩いていると、煌びやかな赤と白に彩られた若者に人気のコーヒーチェーンの看板が目に入る。そういえば絵梨佳が新作が出るから飲みに行きたいと言っていたと思い出した。半月前までは黒とオレンジや紫の装飾であふれていたというのに季節商売は大変だ。
言うまでもなく、そんなこじゃれた店で昼食を摂るつもりは無いので若者でごった返した店内を横目に見ながら通り過ぎる。
腹の具合と相談しながらなんとなく歩いていたつもりだったが、自然と足は馴染みの店にたどり着いていた。429近くの若い頃から通っている中華屋。
あの夜も話題に出したこの店は今では暁人も馴染みになりつつある。最初に連れてきてやった時には、最近のしゃれた飲食店とはかけ離れた小汚く雑然とした雰囲気におっかなびっくりとした様子だったが、味はすっかり気に入ったようでどうも最近では一人でも訪れているようだ。アイツの順応性には本当に恐れ入る。
すっかり顔なじみのおやじに無愛想に迎え入れられカウンターに着き、“いつもの”になりつつあるオーダーで料理を待つ。
ポケットからスマホを取り出して確認するが、特に連絡などは無い。以前はアジトのメンバーから何かあれば時を選ばず着信が入って食事もゆっくり摂れなかった。その頃はみんなあの男を追い詰め倒す事しか頭になかったから、不満を口にしながらもそれを是としていた。
それが今となっては変わったもんだ。
物思いに耽っていると目の前にドンと料理が運ばれてきた。湯気が上がっていて見るからに美味そうなそれに、箸を取り手を合わせた。
手ごろな値段の代わりに回転で稼いでいるタイプの店に食い終わった後も長居するのも悪いので、早々に店を後にする。
一先ず食後の一服でもと喫煙所へ向かう。煙草を吸える場所はどんどん限られて肩身が狭くなってくるが、この近辺は頻繁に訪れるから喫煙所の場所は熟知している。
煙草に火を点けて深く吸い込みながら、今夜のアジトに思いをはせる。料理の担当は暁人だろう。暁人は、本人が食に楽しみを見出しているタイプであるし、妹と二人暮らしをしていく中で身に着けた栄養バランスを考えた食事を作れる調理スキルがある。アイツがバイトとしてアジトの仲間に加わってからまともな食事を摂る回数は間違いなく増えた。
閑話休題。
とにかく、食事は暁人に期待していいだろう。
ケーキはおそらく絵梨佳だ。あの年頃の娘らしく甘いものには目がない。先日、凛子に近頃人気だというケーキ屋の記事を見せていたからきっと足を頼んで向かうのだろう。凛子の奴の過保護は多少改善したが、未だに絵梨佳に甘い。
絵梨佳に甘いのは凛子だけじゃない。絵梨佳がねだればなんだかんだとエドやデイルも乗り気になる。お国柄というか、文化の違いというべきか揶揄う意図もなくホームパーティーでも催しそうなところがある。
とにかく賑やかな夜になりそうだ。とはいえ、時間はまだまだある。
腹ごなしに散歩でもと、また特に目的地も決めず歩き出した。
この町のことは知り尽くしているようにも思えるが、実際そんなことは無い。この町は物で、人で、人知を超えたものであふれ日々変わりゆく生きた町だ。あの夜のように人が消え、営みが途絶え死んでいた町とは違う。それでも、知っていることは思い出は山ほどある。警察官時代に交番勤務をしたこともあったし、刑事になってからも世の中の清濁が混じり合ったこの町を訪れたことは数知れない。そして、今の稼業になってからも般若面の男を追っていた頃もあの夜を越えてからも、町の裏も表も走り回った。
そんな思い出をなぞるというほどでもないが、そういえばこんなこともあったあんな厄介ごとがあったと思いながら歩くのもなかなか悪くない。
まだ少し早い気もするが、一応は夕方と呼べる時間になったと判断してアジトに向かう。絵梨佳辺りはやいやい言うかもしれないが、さほど気にすることもないだろう。
見慣れたアパートの2階に上る。バタバタ準備をしている頃だろう。
鍵は開いているだろうと踏んでそのままドアノブに手をかけて回すが予想に反してそれは阻まれた。
予想外の事に目を瞬かせ首を傾げながら持っている予備のカギを探す。
もしやドアを開けた途端にクラッカーでも鳴らされる展開かと警戒しながら解錠しそっと開いたドアの隙間から様子を伺う。しかし、破裂音がすることも紙吹雪が舞うこともない。それどころか、玄関には誰の靴もない。これはいよいよ何かおかしい。
「おい、誰もいないのか?」
少し声を張って投げかけてみた声にも返事は無い。靴を脱いで隅に寄せ、そのままあがって薄暗い廊下を進む。
リビングに顔を出してみるもやはりそこには誰の姿もない。台所も覗いてみるが当然誰もいない。
胸騒ぎを覚えながら、部屋の中を見回すとローテーブルの上にいつものボイスレコーダーがあるのが目についた。近づいて手に取り、若干の緊張感を覚えながら再生ボタンを押す。
『やぁ、KK。予想以上に早く来たみたいだね。お察しの事と思うが、今日は君の誕生パーティーの予定だ。順調とは言えないが準備は着々と進んでいるから安心してほしい』
そこまで聞いてオレは一時停止ボタンを押した。エドの口ぶりからして、何かヤバいことが起こったわけではないらしいことは察せられた。
そしてどうにもたまらない気持ちになり、空いている方の手で顔を覆いながら天井を仰いだ。オレは無意識のうちに自分の誕生日を祝ってもらうと当たり前に思っていたし、なんなら楽しみにしたらしい。それを自覚させられて、誰に見られているわけでもないが熱くなった気がする目元を隠した。
そのままボイスレコーダーの続きを再生する。
『順調でない原因というのも、暁人が馴染みの猫又に泣き落とし同然に連れていかれたようでね。彼らの事だから、恩のある暁人に害をなすような真似はしないと思って送り出したんだが、どうにも妖怪同士の縄張り争いの仲裁役を頼まれたようで、危険はないが手間取っているらしい。それで料理の準備が間に合わないかもしれないということで、僕とデイルが買い出しに出ている。最初はデイル一人に任せようかと思ったんだけど、やたらと張り切っているみたいだから一応ストッパーはいた方が良いと判断した。凛子と絵梨佳はケーキを買いに行っているけど、多少混みあっているみたいでね。凛子のバイクで向かったが、ケーキを抱えているんじゃ彼女のライディングテクニックを披露するわけにもいかないからね』
自然と喉の奥から笑いが漏れた。オレも随分と甘っちょろくなったもんだ。あまつさえ、その甘さが悪くないと思えてしまうから困る。目元から、意志によらず口角が上がりそうになる口元へと手をずらす。
『このように、僕らも頑張って準備を進めているわけだ。君がとるべき行動は、わかってくれるよね?』
エドの奴め、空気を読めってか?
オレはボイスレコーダーを少ない手荷物に突っ込むとリビングを抜け出した。サプライズなんかじゃないにせよ、祝われる側が準備を覗くなんて無粋な真似はするもんじゃないだろう。
どこか時間がつぶせるようなカフェにでも入ろうかとも思ったが、デイルが料理の確保に向かったのならきっと典型的なパーティーディナーが用意されることだろう。この半端な時間に何か腹に入れるのはきつい。オレはそのまま階段を上がって屋上まで行くと、そのふちに腰かけた。
秋は日が落ちるのが早いからもうそろそろ黄昏時だ。先週あたりから気温がぐっと下がったから、この時間帯の屋上は決して快適とは言えない。
火があれば少しは暖かいと煙草を燻らせ深く吸い込んだ。
あぁ、煙草がうまい。
こんな穏やかな気持ちで過ごすなんてここの奴らと関わりだした頃には夢にも思わなかった。冷めていく家庭に、わけのわからないモノに浸食されていく日常に、自分が生み出した憎悪に執念に、幸福から締め出されたような気がしてやさぐれていたと思う。仕事でつるんでいるだけの連中と仲良くする必要なんざ無いと思っていたのに今じゃこのざまだ。笑い交じりに煙を吐いた。
物思いに耽っていると、低く響くエンジン音が遠くの方から近づいてきてビルの足下で止まった。
「アタシはバイクを停めて来るから、先に行ってなさい」
「ありがとう、凛子」
アイドリング音に負けないように声を張るから、ここまでよく聞こえた。
再度エンジンをふかす音が聞こえて、音が遠ざかっていく。軽やかな足音が階段を上がるのが聞こえて、そのまま玄関が開く音が聞こえるかと思っているとその前に声が響いた。
「あっ!エド!デイル!買い出しありがとう!」
それに応えるように、ガサガサとビニール袋の揺れる音が聞こえる。大方、掲げて見せでもしたのだろう。
玄関の開く音と重なるように階段を上る足音とレジ袋の揺れる音が聞こえる。それらが閉まるドアで遮られてからそう間を置かずもう1人の足音が階段を上り玄関を開閉する音がした。
意識してゆっくり吸っていた煙草ももうそろそろ1本吸いきる。なかなか寒さがしみてくるが、あと1人はまだ来ない。それは仕方がないと言い訳して、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、新しい1本を銜える。
あのお人好しの事だ。妖怪どもの騒ぎを治めてからも、やれ礼だなんだと引き留められているのだろう。
試しに霊視の雫を落としてみると探知範囲のギリギリくらいの距離にビルの屋上を飛び移る何かが映った。基本的に真面目で素直な奴が、薄暗くなってきたとは言えまだ完全に暮れきっていないうちから能力まで使って最短コースを突っ切ってくるなんて珍しい。どんな顔をしているのか見てやりたい気もしたが、ここにいたらさすがにみつかるので隣のビルに飛び移って物陰に身を隠した。
影はみるみるうちに屋上伝いに近づいてきてアジトの屋上に危なげなく着地するとすぐさま階段を駆け下りた。そして慌ただしい足音と共に玄関を開ける。
「戻りました!KKもう来ちゃいました!?」
何やら誰かが返事をしたようだが、ここからでは聞こえない。まぁ、オレはここにいるのだから返事の内容はわかりきっているのだが。
全員そろったことだし、もういいだろうとまだ長さの残っていた煙草も携帯灰皿に押し込んで人目に着かない場所を選んで地上に降りる。
いよいよ下がってきた気温に首を竦めて両手を上着のポケットに突っ込んだ。
早くあたたかい部屋の中であたたまりたいと自然足は速まった。
結局、アジトの中はまだ準備が整っていなかったから絵梨佳には文句を言われたし、凛子からも「気の遣えない男はモテないぞ」といらんお小言を頂戴した。それをデイルが窘める隣でエドだけは訳知り顔で見てきたが知らぬふりをしておいた。暁人の奴は「すぐできるから座って待ってて」と背中越しに言いながら忙しそうに台所でバタバタしていた。
「それじゃ、KK誕生日おめでとう!」
それから準備が整って飲めや食えやと誕生日に託けた飲み会は大いに盛り上がった。
アルコールで体も火照ってきたので、涼みがてら一服しようとベランダに出る。夕方はあんなに厳しく感じた冬の風が少し心地よく感じられた。
ライターに火を点けたところで掃き出し窓がカラカラと音をたてるので視線だけ振り返ると暁人だった。そのまま何も言わずに横に並んでくる。
数奇な出会い方をして、奇妙なつながりを結んだもんだ。片や亡霊、片や死にかけでそのまま終わってもおかしくなかった。だが、コイツと出会えたおかげでなんだかんだとありつつもオレは生きているし、ここの奴らとも友だちや家族とはまた違ったものだが信頼し合える関係性を築くことができた。
「お前のおかげだよ」
自然と言葉がこぼれた。暁人の奴は若干きょとんとした表情だ。
「こうしてオレたちが生きてるのも、こんな騒ぎができるようになったのもお前があの夜オレたちに力を貸してくれたからだ。…感謝してる」
酒の力ってやつは偉大だ。自他ともに認める素直さから縁遠いオレでも勢いに任せてこんなことが言える。それでも少し顔が火照った気がするが夜闇に紛れて見えないだろう。
横目に暁人を伺うと、困ったような顔をしている。
「KK、勘違いしてるんじゃない?」
謙遜でも口にするかと思っていたのに返事は予想だにしなかった言葉だった。今度はオレがきょとんとした顔をしていることだろう。
「この“今”はKKが守って、みんなで作った“今”なんだよ。誰よりも頑張って戦ったアンタが勝ち取った“今”だ」
目を見開いたし、喉の奥というか胸の辺りがなんとも言えない感情で締め付けられる。オレ自身と暁人しか知らないだろう、あの時のオレの満たされない想いをコイツは覚えていた。思わず何かが溢れそうで堪らずオレは空を仰いだ。ネオンに負けて星もろくに見えない、この町の空を。
「KK、誕生日おめでとう。生きていてくれて、ありがとう」
どんな顔でこんなくさいセリフを言っているのか見てやりたかったが、今顔を合わせたらオレの方がダメそうなので絶対視線は下せない。
あーあー、年はとりたくないもんだ。
END
Happy Birthday to KK
ちなみに、暁人があんなにギリギリで急がなきゃならないほど手間取ったのは、もちろんKKの予想通りに妖怪たちにお礼をと言われたのもありますが、その際「KKの誕生日だから急いで帰らなきゃ」と漏らしたせいで「旦那の!そりゃめでたい!」って妖怪たちからこれもこれもと贈り物を押し付けられてたからです。