白痴ネタ(🔥❄️)「おはよう、ガイア」
薄暗い部屋の中、ベッドの上で体を起こした彼はぼうっと窓の方を見つめている。ガイア、ともう一度呼びかけてみるも、返事はない。カーテンを開けると柔らかな朝の日差しが差し込んで、星を宿す隻眼が眩しそうに細められた。窓の向こうでは風がごうと唸り、木々を揺らしていた。
「おはよう」
焦点があっていないような気もするが、一応視線が向けられている方向から声をかけてみる。青い瞳にゆっくりと光が戻った。いつも通り挨拶は返ってこない。
「早起きだね」
「座って待ってて」とソファを指差してから朝食を持ってくると、彼は素知らぬ顔でベッドに座っていた。別に今更落胆することではない。投げ出された手を引いてソファに座らせ、テーブルにトレイを置いた。
「ミネストローネとパン。足りなかったら言って」
ディルックは向かい合わせに座って自分の朝食を並べながら、ガイアの細い指がゆっくりとスプーンに伸びるのを見つめた。何のために、と思う。何のために彼は食事をして、僕はこの生産性のない日常を続けていくのだろう。「殺してくれよ」と彼の悲痛な声が鮮明に思い出されて目を伏せた。今思えば、一つだって願い通りにしてやらなかったように思える。贖罪みたいに今更優しくしたって意味がないのに。重くのしかかる沈黙に、何かにつけて話し出すのはいつもガイアの方だったことを実感させられるだけだった。
スプーンが置かれる音に、濁流のような思考が止まった。ガイアの手元を見てみれば、スープ皿は殻になっているもののパンが半分ほど置かれたままだ。
「いらないの?」
ガイアは興味を失ったようにパンから目線を外した。最低限の量なのに。これくらいは食べてもらわないと、動かないとはいえ栄養失調にでもなってしまいそうだ。ディルックはパンをちぎって、閉じられた口に押し付けた。明後日の方向に向けられていた瞳がディルックを捉える。
「食べて」
いかにも迷惑気に目を細めて、ガイアはわずかに口を開いた。隙間にねじ込むみたいにパンのかけらを押し込む。生きる気力の無さを突きつけられるこの行為を、ディルックは一等嫌っていた。あの日の選択は間違っていたのだと嗤われているようで嫌になる。どこが間違いだったのか、あるいは全てなのか、考えない日はない。やっと皿が空になって、苦行を終えたディルックは席を立った。
「隣の部屋にいるから、何かあったら入ってきていいよ」
努めて柔らかな声色で、優しく微笑む。目元の隈と相まって余計に草臥れた様子になっていたが、ディルックはそれを知る由もない。ガイアはディルックの表情を見ると、反射のように僅かに口角を上げた。青い頭を撫でて、ディルックは部屋を出る。喚くでもなく、ただ無反応でいるだけの彼の世話は体力的にはそう消耗するものでもなかった。彼がこうなって何ヶ月が経っただろう。いつ戻るかも、そもそも戻るかも分かっていないのに、既にあの胡散臭い笑顔まで恋しくなっている自分が馬鹿みたいだった。
書類仕事を進め、朝と同じように昼食をとり、また書類に向かう。カーンルイアが滅びて以来魔物の数は激減し、ディルック自ら討伐に乗り出すこともなくなった。まだ商談をできる状況でもなく、昼間はほとんど書類仕事くらいしかやることがない。ワイナリーのオーナーにバーテンダーに闇夜の英雄にと三足の草鞋を履いてきたディルックには、この余暇をどう過ごしたものか想像もつかなかった。ノックが聞こえたので返事をすると、葡萄ジュースを持ったアデリンが入ってくる。
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「大丈夫だ。ありがとう」
ほとんど屋敷から出なくなってしまったディルックを心配しているのだろう、アデリンは以前よりも頻繁に声をかけてくれるようになった。そういえば、エンジェルズシェアにも長らく足を運んでいない。流石自由の都というべきか、戦争の爪痕が残る中でも酒場は元気に営業している。しかし、あのカウンターに立つと無意識に青い髪を探してしまうのだ。鹿狩りや教会でさえ、無意識にあたりに視線をやってしまう。一体何を探しているのだろう。彼は確かにここにいるのに。
◇
「ディルックの旦那〜!遊びにきたぞ!」
階下から明るい声が響いて、ディルックは顔を上げた。いつの間にか目を覚ましたガイアは窓際に立っていて、振り向きもしないで窓の外を見ていた。鍵は閉めてあるが、いつか窓から落ちるんじゃないかと気が気でない。空たちを部屋に連れてくるか迷って、結局ガイアの手を引いて階下へ向かった。ディルックたちの姿を見つけたらしいパイモンが小さな手を大きく振っている。
「よく来てくれたね。飲み物を出そうか、リクエストはある?」
「オイラはアップルジュース!」
ぐうぅ、と腹の虫が鳴いて、真顔の空がパイモンを肘で突いた。「うっ」と小さな声が漏れる。
「食事も用意しよう」
「いいよ、さっき昼ごはん食べたばかりなんだから…」
「くれるって言ってるのになんでもらわないんだよ」
「そろそろ横に成長するんじゃない?」
「オイラはいつだってスレンダーだ!」
わぁわぁと主にパイモンによって一気に賑やかになった空間に、思わず笑いが漏れる。アデリンが出してくれたクッキーで一旦落ち着くと、空は「ごめんね、騒がしくて」と苦笑した。ガイアは相変わらず口をつぐんだままで、感情を映さない視線だけが交わる。
「騒がしいくらいがいいよ」
ディルックが呟く。その言葉に滲む疲労に、空は眉を下げた。
「ディルックさん、無理してない?心配なら俺たちが見とくからさ、少し寝たら…」
「必要ない」
ほとんど拒絶するように即答してしまったことに気づいたディルックは、バツの悪さに目線を逸らした。何をムキになっているのだろう、純粋な善意からの提案だというのに。
「負担なわけじゃないんだ。ただ、最近少し夢見が悪くて」
空は合点がいったように頷いた。先を促すような視線を向けられるも、なにを話せばいいのかわからず口を噤む。見かねたパイモンが空に耳打ちをし、どこからかイグサが出てきた。
「これやるから元気出せよ!」
「…ありがとう」
枕元にでも飾ろうかと考えながら、薄く光るイグサを手に取る。珍しくガイアの方から手が伸びてきたのでそのまま渡した。「ガイアも欲しいの?」と空がイグサをもう何本か机の上に置く。
「えっと、今日はイグサを渡しに来たわけじゃなくて…ガイアがこうなった原因って、神の目だと思うんだ」
「神の目?」
空とパイモンが揃って頷く。2人の話によれば、稲妻の政策であった目狩り令で神の目を奪われた人々の中には、願いに関する記憶を失ったり錯乱したりする人も少なくなかったらしい。ディルックも遠い噂で聞いたことのある話だった。
「みんなここまで重度じゃなかったけど、状況が違うから…。ガイアの神の目、黒く濁ってたよね?」
「あぁ」
「俺だったら浄化できるかもしれない」
ディルックが初めて顔色を変えた。赤い瞳が一瞬だけガイアの方へ向けられた後、空を捉える。
「…できるのか?」
「憶測だけど。トワリンの涙とか、層岩巨淵の黒いやつとかも浄化できたから」
すごいだろ!となぜか胸を張ったパイモンは、何かを思い出したように首を傾げた。
「それで、ガイアの神の目がどこにあるか大体の場所とか分かるかと思って聞きに来たんだけど…」
ディルックは空の言葉に僅かに言葉に詰まるような素振りを見せたが、その後に続いた声色はいつもと何ら変わりなかった。
「…すまないが、最後に戦ったあたりにあるとしか…」
「そっか。大丈夫、俺たち絶対見つけるから」
「まさか地下へ行くのか?危ないだろう」
「任せろ!ディルックの旦那もこいつの実力は知ってるだろ?」
「だが…」
カーンルイアも大戦の後は廃墟状態で、放置されたままの遺跡守衛がちらほら残っているだけだ。大丈夫だと何度主張してもなおも食い下がるディルックに、空は困ったような表情を見せる。
「心配してくれてるのは分かるけど、ディルックさんもガイアを取り戻したいでしょ?」
赤い瞳に、困惑の色が映る。行き場を失った視線が右へ左へと彷徨って、その珍しい様子にパイモンと空は顔を見合わせる。
「旦那、今日ちょっと変じゃないか?」
「うん。本当にどうかしたの?大丈夫?」
「…わからない」
彼らはガイアを取り戻すと言う。ならば、今のガイアはガイアではないのだろうか。今まで見ていたガイアこそきっと偽物だろうに。本心を押し殺して誰にも悟らせず、ずっと心の内で死にたいと思っていた彼が作り出した虚像こそ、僕たちが今まで見ていた「ガイア」ではないのか。虚像だと分かっているものを今更引っ張り出して何になる?つい今朝まで、今目の前にいる彼らのように元のガイアを取り戻したいと思っていた。だが喉から手が出るほど欲しかった選択肢を目の前に置かれた途端、突然恐怖心が首をもたげる。
神の目を浄化して、ガイアは一見元に戻ったとして、それで。いつも通りの笑顔で酒場に向かうだろうか?それとも人気のない星落ちの丘から身を投げる?わからない。双子のようだと噂された頃ならいざ知らず、今となっては彼の心情を推し量ることなんてきっとできやしない。板挟みになって摩耗しきった彼が抜け殻のようになってしまったことに、悲しむよりも先に納得してしまったのだから。幸せになって欲しかった。どの口が言うのだろう。しかし、苦しめるために取り戻す気などない。
「これやろうか?」
パイモンがクッキーの最後の一枚を差し出す。ディルックはゆるゆると力なく首を左右に振った。
「…あまり、無理はしないでくれ。神の目が見つからなくても僕は構わない」
「構うだろ!」
「本当にいいんだ」
「…ディルックさんがよくても、ガイアはもう一度話したいって思ってるんじゃないかな」
そんなわけがない、と彼を突き放してしまいたかった。真っ直ぐな言葉は心を抉る。きっと並べ立てた理由も言い訳にしかならない。
「無理はしないよ。ディルックさんに心配かけるようなことにはならないから…ディルックさんも、無理しちゃだめだよ」
こちらに微笑みかける空が眩しかった。いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。ディルックはあの日の最後の記憶を反芻する。「お前はいい加減取捨選択をした方がいい。何もかも掴もうとするのって大変だろ」と至極真面目な顔で気遣うように言い放ったガイアは、自分が捨てられる側にいると勘違いしていたのだろう。こんな風になったって離れられないのに。ディルックはアビスの魔術師がガイアの神の目を奥の神殿へ持って行ってしまったことを空に伝えようか悩んで、結局やめた。取捨選択とはこういうことだろう、そうガイアに問いかけても答えは返ってこない。これなら全部掴もうとがむしゃらにもがく方が余程気が楽だったが、今更戻ろうったってもう気力が残っていない。悪夢で目を覚まして隣室に行けば彼が穏やかに眠っている。その寝顔を見るたびに、疲れ切った自分がこれで十分だと囁いていた。