幻肢痛 あれはいつだったか。……そう、近衛騎士を叙任される少し前だ。
アッカレ砦での訓練中、小隊は魔物の群れに襲われた。
白銀個体も現れているにも関わらず、近辺で魔物が発見されたとの報告は受けていなかったため、十分な治療物資が無い状態で戦闘に雪崩れ込んだ。乱戦の末にかろうじて死者を出さずに殲滅できたものの、兵士の一人は重傷を受けていた。
彼は新兵をかばってモリブリンの前に飛び出し、棍棒で殴られて昏倒したところ、餌食になった。
剣を握っていた右腕はモリブリンの大きな足で思い切り踏みつぶされて、剣ごと粉砕されたようだ。肘から先は肉と骨がすり潰されたようになっていた。目を背けたくなるような光景に、庇われた新兵は青ざめ嘔吐し震えていた。
応急措置として肩を縛って止血し、救護隊を呼ぼうとしている中、隊長は俺に「腕を落としてやれ」と苦虫を噛み潰すような顔で命令した。もうこいつの腕は使い物にならない。回復の見込みがないのは明らかだ。しかし人の身は斬ったことがない。剣を抜いたはいいものの手が震えてしまった。
「やってください」
血を失って意識を失いかけながら、かすかな声で彼は言った。
「どんな姿でもいい、生きて妻のところに帰りたい」
肩の関節に片手剣の刃を当てて、思い切り体重を乗せた。
肉と骨を裂く感覚の中、男のつんざくような悲鳴が鼓膜を貫く。
ーーーーー
電撃を喰らったような痛みに、跳ね起きた。
右腕が痛い。痛みを紛らわせようと腕を摩ろうとするが、左手は空を撫でる。
あの時……ハイラル城地下で瘴気にやられて炭のようになった右腕。虚空に落ちていく姫の手を取ろうと伸ばして、空を掴んだ右腕。彼女を守るために退魔の剣を握り続けた右腕。それはもう、上腕から先、何もなくなってしまった。朽ちた腕の代わりになってくれたラウル王の腕は跡形もなく消えた。ゼルダを人に戻すための依代となって。
辛うじて瘴気の腐食を免れた右肩を摩る。傷が早く閉じるようにと、きっちりときつく巻かれた包帯に包まれている。シビレリザルフォスにやられた時みたいに右腕だけが痺れて痛む。もう無いはずの右手の指がぎしぎしと軋む。
息ができない気がする。落ち着け。すぐに良くなるから。マスターソードもここにある……
「痛みますか」
隣で眠っていたゼルダが眠たげに声を発した。
「……申し訳ありません」
起こしてしまったことを詫びようとしたが、蚊の鳴くような声が喉から漏れるだけだった。
「いいんです。……凄い汗」
身体を起こしたゼルダに背中を摩られて、やっと自分が酷く汗をかいていることに気がついた。
痛みに邪魔されて呼吸ができず、咽込んでしまう。喉がひりついて、脂汗が止まらない。目から涙が滲んでくる。天地がひっくり返ったような目眩に襲われて、なんとかやり過ごそうと身体を丸めた。
ゼルダに背中を撫でられながら「ゆっくり息を吐いて」と囁かれて、その通りに肺の中の空気を全部吐き出すと、やっと息が吸えた。ふぅ、ふぅ、と何度も空気を吸うために息を吐き出せば、痛みはやがてズキズキとした鈍痛になり、呼吸ができるようになってくる。
消耗した身体を横たえると、ゼルダが優しく布団をかけてくれて、困ったような泣きそうな顔で俺の頬を滑らかな指で何度か撫でた。ひんやりとした指先が気持ちよくて、勝手に瞼が重くなる。
「……お水、持ってきますね」
ゼルダは寝台から降りようとするが、咄嗟に左手で彼女の手首を掴んでしまった。暗い階下に降りようとする姿が、暗闇に消えてしまうようで恐ろしく感じた。記憶を全て失った時すら、心細さなんてこれまで感じたことはなかったのに。腕が一本無くなっただけで、こんなに心身が弱るとは思わなかった。
「リンク……」
嗜めるように、左手がゼルダの両手に包まれる。少しひんやりした細い指が、俺の左手をぎゅっと握りしめる。
「しばらく、このままで」
喉から搾り出した声はすっかり掠れてしまっていたが、ゼルダはゆっくりと頷いてくれた。
「眠れそうですか?」
もう一度、俺の身体の右側に寝そべったゼルダは、布団の上から俺の腹の辺りをゆっくりと摩ってくれる。暗闇に怯えてささくれだった気分を落ち着かせられるように。鈍い幻肢痛を紛らわせられるように。
「何故、まだ俺をお側に置いてくれるのですか」
「……どうしてそう思うんですか?」
「……もう十分に貴女を守れる自信がないかもしれません」
熱い雫が頬を伝う。見られたくなくて、反対を向いて身体を丸めると、ゼルダに背後から抱きしめられた。柔らかくて暖かい身体が背に押し当てられる。ずっと慕っていた主君にこうされるのは、未だにどこか現実味がない。それでも、底なしの深穴に落ちるような不安感から掬い上げられるのは確かだった。
「貴方は剣技も弓も、誰よりも強い騎士でした。でも、それを失ったとしても貴方の強さは心の中にあります。……私はそれを知っているから」
「今は心身共にこんななのに?」
「それを自覚しているだけ上出来です」
柔らかい腕に強く抱きしめられて、花のような香りに包まれた。泣き止みたいのに涙が止まらなくて、左手で顔を覆った。
あの兵士は、一命をとりとめた。彼の退役の日、あのような役目をさせて申し訳ありません、と頭を下げられた。すっかり闘志はなくなったのか、空っぽの袖をはためかせながら、穏やかな顔で妻に片腕を引かれる後ろ姿を城門から見送ったのを思い出した。
……俺は、まだ退きたくない。まだ戦いたい。彼女のために。でも、もうその自信がないんだ。
「明日はりんごをもいで、ジャムを作りましょう。わたしがりんごを刻むから、リンクが鍋をかき混ぜて」
「危ないよ」
「刃物を使うお料理だってできるようになったんですよ、わたし」
少し拗ねたような声をするから、向き直って左腕でゼルダを抱き寄せると、ゼルダは微笑みながら抱きしめ返してくれた。
もっと強く抱きしめたいのに。
片腕では足りなくて、俺はまた泣きたくなった。