人目を忍び、マカラーニャの森を抜け、静寂に包まれた夜の聖ベベル宮へと足を踏み入れる。荘厳な回廊の陰に身を寄せ、慎重に歩を進めながらも、僧兵たちの巡回の気配を意識し続ける時間は、リュックにとって息苦しいほどの緊張を強いるものだった。
だが、そんな彼女とは対照的に、アーロンの足取りには迷いがない。彼にとってこの場所は慣れ親しんだ領域であり、避けるべき道も、すれ違う者の気配も、まるで手のひらを読むかのように把握しているのだろう。
ようやく辿り着いた先は、余計な装飾を排した質実な一室。
僧兵の中でも指導的な役割を担う者には、それに見合った待遇が与えられる。
アーロンは僧兵士長の立場にあり、部隊の統率に関わりながら、次代の幹部候補としても期待されているようだった。
「ここが、アーロンの部屋」
扉を潜り、室内を見渡したリュックは、率直な感想を口にした。
「なんていうか……何もないよね」
「悪かったな」
先に部屋へ入ったアーロンは、太刀を壁際に立て掛けながら、背を向けたまま応じる。
「必要なものさえ揃っていれば、それでいい」
「ふーん……あたしだったら、もっとカラフルにするけどな〜」
興味深げに辺りを見回し、あちこち歩き回るリュック。あちらこちらを覗き込むように動き回る姿は、落ち着きがないというより、純粋な好奇心が溢れているようだった。
そして、視線を巡らせた先、ふとアーロンのきちんと整えられた寝台に目が留まる。
「(わわっ!)」
思わず肩がビャッと跳ねる。
別に異性の寝室に特別な感慨があるわけではない。だが、それがアーロンのベッドとなると、なんとも言えない感覚が押し寄せ、思わず両頬を押さえて「う~~……」と呻く。
「どうした」
ふと背後から声がかかる。
「へっ?いや、その、綺麗にしてるなーって!」
しどろもどろに答えると、アーロンはちらりと一瞥をくれたが、さして関心もなさそうに鼻を鳴らした。
「……俺は少し出る。詰所の監査に立ち会わねばならん」
「詰所の監査?」
リュックは聞きなれない単語に首を傾げ、アーロンの顔を覗き込むようにして鸚鵡返しに口にした。
「駐屯する僧兵の規律と装備の点検だ。怠慢があれば指導もする」
「へぇ〜、それって長くかかるの?」
「問題がなければすぐ終わるが、そうでなければ時間を取られる」
「ふーーーん」
わかったような、わかってないような、微妙な間を残しながら、リュックは小さく頷く。
「要するに、サボってる奴がいたらアーロンが喝を入れるってことだね」
「そんなところだ」
「ほどほどにしといてあげなよ~?それでなくたって顔怖いんだから」
アーロンは一瞬ムッとした表情を浮かべたが、すぐに口を閉ざし、軽く鼻を鳴らした。
(怖いのか? 俺の顔は)
口には出さずとも、内心で引っかかるものがあったのか、ふと自分の顔に手をやる。無意識に眉間のあたりを押さえた。それを見逃さなかったリュックが、ニヤニヤとアーロンを覗き込む。
その視線に気づいた途端、アーロンはわずかに肩を引き、何事もなかったかのように手を下ろした。
「……余計なことを言うな」
短く言い放ち、踵を返す。
「ハイハイ、そんじゃ頑張って」
リュックは軽い調子で言いながら、去り際のアーロンの背中を ぱしん と叩いた。
「いってらっしゃーい!」
扉を潜る彼の後ろ姿に、ひらひらと手を振って見送る。
アーロンは足を止めることなく廊下を進んだが、背後から響く脳天気な声に、内心わずかに眉を寄せる。
(……自分の状況を忘れているのか?)
あの女は、素性もはっきりしないまま、帰る手段もわからず見知らぬ土地に身を置いているというのに、まるで旧知の間柄のように気安く振る舞う。
呆れないでもなかったが、だからといって不快というわけでもない。
慎重に対処すべき相手のはずが、その振る舞いはあまりに無防備で、アーロンは警戒のしようもなかった。
それでいて、どこか異様な馴れ馴れしさを感じる。まるで以前から自分を知っていたかのような――そんな距離感。
(……不思議な女だ)
角ばった心の表面を少しずつ削り落としていくような存在。それが 厄介なのか、……胸の奥を微かに揺らすのか、自分でも判断がつかなかった。
アーロンはわずかに息を吐き、乱れた肩掛けを無造作に整えながら、その思考を振り払うように歩を進めた。
───────────
アーロンの背を見送り、扉が閉まると、部屋には静寂が落ちた。
その場に立ったまま、リュックはゆっくりと視線を巡らせる。質素な調度、無駄のない整頓された空間。これがアーロンの暮らす場所なのだと思うと、不思議な気持ちになる。
ひと通り室内を見渡し、彼女はふうっと小さく息をついた。思えば、今日は随分と慌ただしかった。気を抜く暇もなく、状況に流されるままここまで来た。
緊張の糸がほころび、肩の力が抜けていく。
リュックはテーブルのそばに歩み寄り、椅子を引いた。床を擦る音が妙に耳に残る。静かな部屋に自分の動作だけが響くのが、どこか落ち着かない。深く腰を下ろすと、思った以上に体が沈み込んだ。
張り詰めていた心が緩むにつれ、今さらながら、自分がどれほど気を張っていたのかを思い知る。
ぼんやりと目の前の机に視線を落とすと、木目の表面には細かい傷が刻まれていた。長く使い込まれた痕跡がそこかしこに残っている。リュックは何とはなしに指先でそれをなぞった。
(ユウナん……パイン……)
ふと、元の世界にいる仲間たちを思う。ついさっきまで隣にいたのに、今では手を伸ばしても届かない場所にいるような感覚が、不思議なほど現実味を帯びていた。
「来れたんだから……きっと、帰れるよね」
ぽつりと零れた声は、頼りない独り言のようでもあり、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
でも——どうしてこんなことになったんだろう?
十年前のアーロン。
ユウナがティーダ追っているように、自分もまたアーロンの手がかりを追っていた。それなのに、探し求めた未来ではなく、彼がまだ生きていた過去へと迷い込むことになるなんて。
偶然とは思えなかった。
胸の奥に芽生えたその感覚を、リュックはそっと抱きしめる。これはただの出来事なんかじゃない。何かが、何か大きな力が、自分をここに引き寄せたのだと。
その確信が、不思議と彼女の足元を支えてくれるような気がした。
「……くよくよしてても、しょうがないよね!」
リュックはそう言って勢いよく立ち上がると、パチン!と音を立てて両頬を叩いた。
「よしっ!」
迷いは吹き飛んだ。気持ちを切り替え、前を向く。今やるべきことは、はっきりしている。
「まずは、アーロンが帰ってこられる方法を探さなきゃ」
帰る方法はその次!その声は、先ほどまでの迷いを振り払ったように、しっかりとした響きを帯びていた。
ふと、腰に提げたポーチの重みが気になった。なんとなく手を添える。そこで、記憶の奥底に沈んでいた光景が、不意に鮮明によみがえった。
「……あっ!!」
驚きと共にポーチの中を探る。指先に触れたのは、見覚えのある感触だった。慎重に取り出し、両手に乗せてまじまじと眺める。
「…あった…!」
手のひらに収まるスフィア。それは、この世界に来る直前、ユウナやパインと共に探索し、ようやく探し当てたものだった。何の気なしに電源を入れた、その瞬間──閃光に包まれ、気づけばこの世界にいたのだ。
ポーチに仕舞った覚えはない。そんな間もなく飛ばされたのだから。しかし、こうして手元にあるということは、何らかの理由で、リュックと共に過去へと来たということになる。
「アンタ、どうやってついてきたの?」
呟くように問いかけ、スフィアを指先でそっとなぞる。一緒にこの時代に来たということは、きっと意味がある。そう思えてならなかった。
「一緒に過去に来たってことは、何か関係があるんだよね……」
リュックはスフィアを机の上に置くと、再び椅子へと腰を落とした。気持ちを整えるように、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。そして、意を決すと、スフィアの電源を押した。
(お願いだから、今になって未来に戻ったりしないでよ~……)
カチッ──
小さな作動音が指先に伝わる。しかし──
「……?」
待てど暮らせど、何の反応もない。画面は暗いまま、沈黙を保っていた。
「ありゃ?」
再びボタンを押してみる。何度か試してみるものの、スフィアはまるで機能を失ったかのように動かない。
「動かないじゃん。壊れてんのかなあ」
リュックは小さく肩を落とし、スフィアを片手で持ち上げて裏側を確認する。カチカチとスイッチを試し、軽く叩いてみる。しかし、それでも何の反応もない。
「も~~、こういう時に限って!」
少し乱暴に揺らしてみたり、手のひらで叩いてみたり。一通り試してやがてため息をつき、常備している工具ケースを取り出すと、ゴーグルをかけ、慎重にスフィアを開いてみる。
細かく配線をチェックしながら、部品の状態を確認する。だが、どこも破損は見当たらなかった。リュックはゴーグルを外し、机に広げた工具を見下ろす。
「……こりゃダメだ」
ぽつりと呟く。指先でスフィアをこつくと、淡い光沢のある表面が揺れた。
(どうしろってのさぁ……)
肩を落とし、机の上に突っ伏す。さっきまで上向きそうだった気持ちが、またしても霧の中へと沈んでいくような心地だった。