茨の夜嫌な夢を見て目を覚ますと、このごろは大抵心配そうな紅眼がこちらを見つめている。呻いたか、叫んだか、とかく私が悪夢に魘されていると雷迅はその名の通り素早く飛び起きてくれるのだ。肉刺だらけの剣士の掌は、しかし柔らかく私の頬を撫でつける。今日もそうだった。何か怖い思いをして、懸命に目を見開けば友と視線がぶつかり合う。
「おはよう。いや、まだ夜なんだがな」
部屋が夜に包まれていることなど、言われなくても一目瞭然だった。うっかり消し忘れた読書灯が鈍く光っているおかげで、目を凝らせば互いの姿は見ることができるけれども、それ以外の情報はない。当たり前の解説と、呑気な起床の挨拶は紛れもなく気遣いである。ぜぇはぁと息を荒げる私を、意図的に落ち着かせようという声音だった。
「アルベール」
その名を呼ぶと、紅眼が笑った。私も少しほうっとする。何もかもを繋ぎ留めてくれる命綱だ。かつては縋ることに躊躇もあったが、今や思うまま手を伸ばすことができる。
「眠れそうか?」
「……気分ではないな」
「そうか。じゃあ起きてしまおう。俺も今日は寝つきが悪いんだ、丁度いい」
金糸を弄び、成人男性にしては線の丸い頬を撫でる。子犬のように私の手にすり寄ったアルベールは、悪戯っぽく笑うとさっさとベッドから立ち上がってしまった。悪夢の内容を聞いてこないのもまた気遣いだろう。私の見る悪夢など、十割九分は父に関するものであるからして。口に出さぬことでさんざすれ違った我々だが、それでもやはり言わないほうが楽になれることもある。アルベールはそれをよくわかっているらしい。無茶を招く隠し事はなしと約束したにもかかわらず、こういう時の沈黙は進んで許してくれるからありがたかった。
しかし悪戯な誘いには気が引けてしまう。丁度いいもなにもなく、夜なのだから眠るべきだ。ただでさえ我が親友は昔から不眠症の気があり、どこかの誰かが心労をかけたおかげで、目の下の隈はちょっとやそっとの化粧では消せぬほどに深くなってしまっている。せめて目を閉じて休むくらいはしろと叱っているのは他でもないこの私だった、だから夜更かしの誘いなど、断ってベッドに沈むのが正しい。
「~♪」
「……。理性と欲求というのは、まったく帳尻の合わないものだね」
何時の間に背から伸びたのだろう。触手の頭にぐいぐいと押されて、ベッドに沈んでいた身体があっという間に持ち上がる。一緒に行こう、と誘う触手の楽し気な態度は、私の本心の現れだ。友のためを想うなら「こうすべき」という正しさと、私の想う「こうしたい」という我儘が競って、我儘が勝っている。
「少しだけね」
「~♪♪」
理性的に見て正しくなくとも、今、この時私の世界では夜更かしをするのが正解だろう。友を追ってベッドを抜けると、どこか心が軽くなるような気がする。焦げた雷の匂いを追っていけば、アルベールは台所でランプに火を入れているところだった。
「一杯やるかい」
「酒はだめだ、明日に残る。朝の牛乳が残っているだろう? あれにはちみつを溶かすのはどうだ」
「なるほどねぇ、糖分に振り切ると。眠るのにもエネルギーを使うというから悪くないな、どうせやるならチョコレートもどうだい」
「甘すぎないか」
「ちょうど苦いチョコレートばかりだ。いい塩梅になるとも」
私が戸棚を漁り始めると、アルベールは鍋を漁り始めた。星の眼騒動に関わる大怪我を受け、看病のために同棲したままなんとなしに続いている二人暮らしである。元々アルベールが寝に帰るのに使っていた家は、単身暮らしには広いが二人暮らしには少し不便もあった。大人が並ぶように作られていない台所は、当然狭くて動きづらい。だがこの窮屈が、悪夢から覚めたばかりの身体には心地いい。
「温めてしまっていいか?」
「ああ、チョコレートは刻んで入れるから……。少し多めに作ってくれるかい、デストルクティオも飲むらしい」
頭の中に鳴り響くおねだりを汲み、きちんと声にしてやれば触手がご機嫌に頭を振り乱す。
「昔グランサイファーで、星晶獣は飲み食いに執着がないと聞いたんだがなぁ。随分食いしん坊じゃないか? こいつ」
「力を食らう、というのが特性だからね。何をも求めなくなった今、欲求が違う方向に向いているのかもしれないな。どちらにせよ美味いものを気に入る、というのはいいことだとは思わないかい。空が気に入れば、空を敵に回しもしないだろうさ」
「そうだな、……その通りだ。飛び切り美味い飲み物にしてやる」
この選択とて、正しくはない。先王を屠った星の兵器など、切り捨ててしまうのが吉だろう。つきつめていけば私も生きていていい命ではない。だが、だが。生きていたくて、生きている。デストルクティオとて然りだ。どれだけ罪に染まっていようと、どれだけ生きている価値がなかろうと、それでも生きていたかった。
(我儘だ。わかっている。わかっているから夢をみる)
眼を閉じ、静かに息を吸う。父が這いずってくる夢だった。血みどろになった父が、這いずりながら私の首を締めようとする夢。鬼の形相を浮かべて恨みを並べる父を、私は明確に拒絶した。それでも生きていたいから。――それが私の願いであるから。
「夜というのは難儀なものでね」
「ん」
「昔から夢を見るのが下手なんだ。だから、眠るのは君と同じで得意ではない。けれど静かで、人目も少なく穏やかだろう。この帳は、私のような人間にとって非常に都合がいいんだよ」
「……嫌いでもあるが、好きでもあると?」
「まぁ、そんなところだ。誰の眼も届かないところでならと思うと、己の選択に勇気が出る」
「勇気?」
「……生きていてもよいのだと、ね」
きっと怒るだろうと思い、一度言葉を飲み込んで、やはり表へ吐き出した。想像の通りアルベールの鋭い視線が私を射抜き、牛乳の瓶をどかっと勢いよく置いた友はずかずかとこちらへ近づいてくる。ずかずか、といってたかだか二、三歩だ。しかし迫力のある数歩だった。
「ユリウス」
「ふふ」
「俺が生きろといった。お前の我儘ではないからな」
「ああ……、そういうと思ったよ」
「悩むな。いや、悩むなというのも酷なんだろうが。――思いつめないでくれ、お前の選択は俺の選択でもある。だから、考えるなら俺も一緒に……いや、なんでもかんでもひけらかせというのも違うんだ。ただ、ただ、俺は……お前に、幸せに生きてほしい」
言葉を選ぶ友の顔は迷いに満ちていて、最終的に見えなくなった。強く抱きしめられたからだ。骨が軋むほどの抱擁に、意味もなく笑いが込み上げてくる。
「ふ、ふふっ、アルベール、痛いよ、痛い。力任せが過ぎるぞ、君」
「これくらいしかできることがない」
「ホットミルクも作れるだろう?」
「……」
「命だって助けてくれる」
「……それは……」
「体裁を取り繕うならば、あれこれ言い訳をせねばなるまい。だがね、心を吐くなら純粋に幸せなだけなんだ、アルベール。だからこそ咎に引きずられてしまうこともあるが、そういう時は君がいてくれるだろう?」
「もちろん」
「だからね。難儀だが、好きなのさ」
小柄だが逞しい背を抱きしめ返して、とんとんと背を叩いてやる。力一杯の抱擁はやがてそうっと緩んでいき、紅眼がおずおずとこちらを見上げたかと思うと、次の瞬間には唇が奪われていた。
「……、これからも、夜は一緒にいよう」
「夜だけ?」
「朝から晩まで四六時中、と言って鬱陶しそうにするのはお前だろ」
「ふふふ、昼に言われたらね」
「……朝から晩まで四六時中?」
「それでもいいなぁ」
「本気にするぞ」
本気も何も、今もうすでに四六時中一緒に居るじゃあないか、と。返事は言葉にならず、笑い声の中に消えていく。本気だからなと真面目くさって繰り返したアルベールは、むくれっ面でようやく火の元に戻っていった。鍋に火がかかり、真っ白い牛乳が注がれていく。あれが沸く前に、私もチョコレートを刻まねばなるまい。
恐ろしさのない夜が進む。友の居る世界は、いつ何時でも穏やかだった。