力への変身アルベールと天雷剣に誓いを立ててすぐ、喉から言葉が出なくなった。積み重なった心身の疲労が声帯の働きを奪ってしまったようで、強いて薬を出すなら「時間」とのことである。何を喋ろうとしても出ていくのは掠れた吐息ばかり。腕に負った傷が比較的軽かったのは不幸中の幸いだった。筆談のおかげで意思疎通の手段が絶たれることはなく、しかしその不便さに言葉を吐く有難みを痛感したのは言うまでもない。
声を出せなくなった私を案じて、仲間たちは殊更に私に語り掛けるようになった。ジータやルリア、ビィなどは勿論、三姉妹もひっきりなしにこちらの意思を確かめようとしてくれる。寒くはないか、痛みはないか。向こうが言葉にしてくれると、私は頷くか、首を振るか、少しの動作で意思を示せすことができるので大助かりだ。しかし意外にも、最もお節介になりそうな男は常に私の手元を覗き込むにとどまっていた。
アルベールである。
彼は最も長い時間医務室に横たわる私に寄り添ってくれたが、彼は筆談用のメモをじっと見つめるばかりだった。紅眼はやがて私を見て、聞かれることと言えば「なにもないな」という確認の一言。親友殿だけが、代わりに言葉を紡ごうとはしなかった。今やお前の代わりに怒るのだと感情の肩代わりさえして見せる男が、だ。
今までの彼を想うのなら、沈黙を気遣ってべらべらと口を回しそうなものを。アルベールと二人きりになると、部屋はやたらに凪いでしまう。そうすると私のほうがたまらなくなって、静寂にペンが走る音が混じるのだ。君の傷はどうだ。天雷剣はもう反乱の意思をみせないか。街の様子は、国の様子は。
私が言葉を紡ぐと、アルベールはゆっくりとそれぞれの問いに答えてくれる。時にはにっと笑って筆談で返すこともあった。だがやはり、どれだけの時が過ぎても向こうがこちらにあれこれと問いかけを寄越すことはしない。ついぞ私の声が直るまで、彼は私の言葉をじっと待った。アルベール、と唇を動かすだけで振り向いてくれるほど私の要求をよく理解していたのに。私の想うことなど、己の心を汲むように拾うことができるだろうに。
◇◇◇
「お前はどうしたい?」
ある昼下がり。すっかり戻ってきた多忙な日常のさなか、ふと投げられた一言に療養中頭を占めていた疑問が舞い戻ってきた。
団長執務室に詰めた我々の前にあるのは温泉街の市場調査をまとめた資料である。商工会から提出を受けたもので、調査と言ってほとんどが報告書である。国からの支援金をどう使い、どれだけの恩恵があったかという纏めだ。これをもとに、我々は次の議会で貴族諸侯の皆々様に温泉街への投資の継続是非を問わねばならない。観光地の整備で島外からの観光客が目に見えて増え、軍事国家との名が先行していた評判も有数の温泉地として塗り替えられつつある。交易の申し出も徐々に増加しており、恩恵が出ているのは明白だ。しかしこの国のお偉方は岩よりなにより頭が固く、未だ若き新王と罪人が進める方針転換に懐疑的なのである。
「どうしたい、というのは? 諸侯を黙らせる手立てについてかい?」
「もう少し手前から聞きたい。反論があったとしたら抑え込みたいのか、諭したいのか。説得して渋々納得させれば上々か、それとも協力してくれるところまで陥落させたほうがいいのか。策を聞かせろと言ったほうが正しいかもしれないな。俺も議会には多少顔が利く」
「ふふ。まぁ、私がべらべらと並べる理屈なんかより、君の微笑み一つのほうがよっぽど人の心を変えるだろうな」
「だから言ったろう、文字通り顔が利くんだ」
「おやおや? ついに貴公子の自覚が出てきたかい」
「……そう特徴のある顔とは思わないが、産まれてこの方悲鳴と共に追い回されてきた人生だ。少なからず国の上に立つのなら、持てる才能は武器として扱うべきだろう」
驚きをもって友を見つめる。この男は天賦の才を山ほど持つ割に非常に謙虚で、剣の才も、雷の才も、その見目の美しさすら、賛辞を贈ると「やめろ」といって頑なに認めなかったのに。
誰に褒められても、アルベールは決して才に対して慢心を見せることがなかった。騎士として生きる以上、誉め言葉に対して謙遜を見せるのは然るべき振る舞いとも言える。だが彼の否定は紛れもなく本心からくるものであり、それは凡人の心をささくれさせるのに十分すぎる刃だ。かくいう私とて、今よりずっとひねくれていた引きこもりの間は恵まれた環境と才を堂々とひけらかさないその態度にいら立ちを覚えたものである。
「少し見ない間に、随分振る舞いが大人になったな雷迅卿」
「それがお前のためになる」
「私の?」
話がどんどんと逸脱していく。何を言っているのだと揶揄って、さっさと議題を戻すこともできたが今は仕事より彼の本心が気にかかった。ペンを置き、仕事を放る。アルベールも仕事が滞ることに嫌な顔はせず、手にしていた資料を机上へと戻した。付き合う気があるらしい。
「国を再興し、栄華を取り戻す。俺の抱える夢は壮大で、だからこそ叶えるためにはあらゆる力が必要だった。武力も然り、知恵もそうだ」
「……ああ。武力は君がまさに。光栄にも、知恵には私を選んでくれたね。最も、信頼を裏切る形で国をかき乱す張本人となってしまったが」
「だがあの混乱がなくては、国の舵取りは変わらなかった」
「アルベール」
「わかっている、外では言わない。だが本心を披露するなら、俺の考えは今の通りだ」
不謹慎な物言いを咎めるように睨みつけると、アルベールは真摯な瞳で私の視線を受け止めて見せた。この顔の親友殿は何を言おうと考えを曲げることがない。ため息を吐き、大人しく話の続きに耳を傾けることにする。
「王を屠り、お前が飛び立ったあの日。俺の中にあったのは怒りよりも寂しさだった」
「……」
「夢の根幹が変わっていたんだ。国を盛り立てるという結果ではなくて、お前と一緒にそれを成すという経緯のほうへ。だから、罪を覆ってお前と隣り立つことをよしとした。国のためにと言ったが、間違いなくあの選択はほかでもない俺のためだ。……大義名分でお前を傷つけてばかりだな」
「罪滅ぼしと考えたのも事実だが、君の隣に戻りたかったのもまた事実だよ。だから甘んじて秘匿を許した」
「お前は最後まで抵抗しただろう。この罪は俺のものだ、わけあうつもりはない」
机を挟んだ、向かい側。お互い椅子に腰を下ろさず立ちっぱなしだ。距離は近く、手を伸ばせば届く。小手の嵌らない指先が頬を擽り、やがて目じりを撫でた。乾ききったそこに、まるで涙があるかのように優しく、柔らかく、アルベールの指は何度も何度も行き来を繰り返す。
「やがて、お前の……ユリウスの隣で生きることこそが、夢の全てだと思うようになった。だから、守るために何ができるかを必死になって考えている」
「守る、ね。ふふ、何度も言うが、騎士に守られる騎士などいないよ」
「友を守らぬ友もいない。……だから、使えるものはすべて使うさ。お前が諸侯を落としてこいというのなら、愛想笑いもおべっかもいくらだって使ってみせる」
凛とした紅眼に迷いはない。覚悟が光を灯している。触れる掌から伝わる慈愛と、余すことなく注がれる忠義にじわりと体温が上がるのを感じた。国が誇る英雄にこうまでして愛されていい人間ではない。だが、彼に愛されているのは心地がいい。
欲しいものを問われれば答えはアルベールに決まっていた。誰もがくれなかった暖かな心を、こんなにもひたむきに与えてくれるのだから。
「……最近、私の言葉を聞くだろう」
「ん?」
「声が出なくなったあたり……この国に戻ってきてすぐからだ。君はやたらと、私が口を開くのを待つ。あれも、守る覚悟のなにか、ひとつかい」
頬を擽る掌をそのまま。甘えるように自ら首を傾げながら、否定も肯定もせず抱えてきた疑問を投げかける。アルベールはしばらく私の言葉を噛み砕いて、やがて合点がいったというように鮮やかな微笑みを浮かべた。
「ああ。俺はどうにも、ひとの心を推し量るのが不得手のようだから。勝手に想う前に、まず聞いたほうが確実だろう? それから、お前の不得手も治せる」
「……。なるほど。わざと言葉にさせていた、と?」
「その通りだ。お前は――心を、思考を、かくすのがとんでもなく上手い。けれどその逆はてんでさっぱり、そうだろう?」
あっけらかんと笑う友に、呆れのため息と苦笑を返す。彼の言う通りではあるが、改めて真意を知ると気恥ずかしい。心を伝える、というのは私にとって本当に難儀なことだった。それを友の思い通りに、少しずつでも素直に吐いていたのかと。
(……繕わずとも、アルベールは受け入れてくれる。だから、言葉にできていた。伝えなくては伝わらない。大切だということも、愛しているということも。……そうか、そうだね)
掌に掌を重ねて、そうっと頬から引きはがす。されるがままの甲に唇を近づけて、そっと誓いの真似事をしてやると、アルベールは紅眼をまん丸に見開いて「は」と素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「ひけらかせというから。君はすっかり変わったが、それは私もおなじことらしい。人目を憚らないのであれば……今を幸せと思うよ」
「……だから言ったろう、長い付き合いは幸に決まっているんだ」
見開いた目を細め、勝ち誇ったように口角を上げて、アルベールは次いで私の手をむしるように奪っていった。甲に降る口づけは絵画のように様になる。鮮烈なまでに美しく、愛おしい男。
「さ、どうする? 俺という雷はお前のものだ。好きに使え」
「く……。触手に続いて、これまたとんでもないものを手に入れてしまったものだね。さて、どうするか」
くすぐったく絡んだ視線をどうにか解いて、放りだした資料に二人して戻る。どこまで行っても、彼は光で私は咎人だ。いずれまた分かたれるかもしれないと、どこかで燻り続けていた恐れのようなものがある。だがそれも、今さっきの強烈な稲光に焼かれてすっかり見えなくなってしまっていた。この先の未来に離別はあり得ないのだろうという確信は、私と雷をこれ以上なく強固にするある種鎧のようなものだった。