雨曝しの告白「災難だったな」
轟轟と降り注ぐ雨音が電話向こうにも聞こえているのだろう。笑い声を交えた労いの言葉に、裏社会の頂点に利くには軽すぎる口調で「ほんとだよ」とため息を戻す。
「ラジオもテレビも、朝には止むと口を揃えている。火急の用があるわけでもないんだ、そう急いで戻ってこなくともいい。身を寄せられる拠点にはたどり着いているのだろう?」
「一応ね。雨風が凌げるってだけだけど、この状況じゃそれだけでも万歳かな」
「違いない。くれぐれもロック君を頼むよ」
「わかってる。任せておいて」
横目でちらりと青年を見やる。雨に濡れた頭をわしゃわしゃと拭っている青年はこちらの視線に鋭く気づいて、なんだよと首を傾げた。なんでもないと笑ってやって、報告に戻る。
「じゃあ、明日戻るから。言わずもがな屋敷は手薄になるってことだからね、カイン。気を付けてよ」
「フフ」
「笑ってないで」
「心配性だな、ボックス。はて、どこの仮面男に似たか……、いてッ、おい、電話中に……」
「気を付けて戻れよ」
悠然とした口調が崩れたと同時、割入ってきた師の低音を最後に電話が切れた。グラントも後ろに控えて会話を聞いていたらしい。ぶっきらぼうな声音とは裏腹に、気遣いに満ちていた一言を反芻しながら無音の携帯を眺める。黒く沈黙した小さな画面には、子供じみて笑む己の顔が映っていた。
(ちゃんと、似てるんだ)
師の気遣いが嬉しかったのも勿論。しかしなにより、その直前に放られたカインの一言が災難の渦中にいる俺の心を似つかわしくなく浮つかせていた。
巨躯の魔人は人を良く見ている。武人の分析力というよりは、カインを案じて身に付いた癖のようなものなのだろう。グラント曰く、我らがボスの物怖じしない性格は「幼いころから変わらない、肝を冷やす最大要因」らしい。仮面越しの視線は不透明なようでいてわかりやすく、常にカインを追っている。つまり師は、心配性第一号というわけだ。
ともすれば監視じみているグラントの視線を、カインは不思議と嬉しそうに受け止める。先ほど俺を揶揄ったのと同じように、口では散々文句を言いながらその顔は決して満更でもないのだ。言わずもがなカインは強く、その実力はグラントを上回る。そんな男が、純粋な心配一つをああも嬉しそうに抱きしめる理由がよくわからなかった。グラントの向ける視線が時折俺を眺めるようになり、それがひどく暖かで心地の良いものだと知るまでは。
師が差し向ける心配は、愛情の一種なのだと思う。己が紡いだ絆を守らんとする、柔らかな気持ちの延長だ。あの優しい瞳は、人らしい人にしかできない色をしている。少なくとも殺すことだけが能のアサシンには、決して真似などできやしない。
師に似ている、ということは、多少なり人らしくなったということだ。理想を抱いて、変化していく。それは空っぽを生きてきた俺にとって、まさに夢のような進歩だった。
荒天に似合わず、鼻歌でも歌いだしそうなこちらの上機嫌にまたもや目ざとく気づいたのだろう。ロックは不思議そうに首を傾げながら、再び声をかけてくる。
「なんか言われた?」
「別に。無理に戻らなくていいって」
「……本当にそれだけか?」
「んー。ちょっと褒められた、かな?」
明らかに納得のいっていないロックを再び笑って、携帯を古ぼけたテーブルへ預ける。普段寝起きしている屋敷とは比べ物にならないおんぼろの家屋は、空き家をくすねた「調査拠点」の一つだった。要は、俺が仕事に使っている隠れ家である。寝起きができればいいという考えに基づいて確保された隠れ家は、埃っぽくお世辞にも綺麗とは言い難い。頑丈さとて然りだ。薄い屋根からは叫び声にも似た豪雨の騒音が鳴り響き、建付けの悪い窓は強風に煽られてガタガタ不穏な音を立てている。嵐を耐えるにはあまりにも頼りない家屋だが、それでもこの天気の中で外をうろつくよりはマシだろう。
カインの言う通り、今日という今日は災難の一日だった。いつもの通り仕事に出かけようとして、暇だからと手伝いを申し出てきたロックを連れて行くことにし、人手がいるならばと喧嘩を伴う任務をこなすまでは順調であったのに。壊滅した敵のアジトを満足げに後にした途端、天気予報をすり抜けた不意打ちの雷雨に見舞われて今である。ずぶ濡れになりながら乗り込んだ車のラジオからは、突然の嵐によってサウスタウン全体が大混乱に陥っている旨が忙しなく報じられていた。あらゆる川が氾濫の危機にあり、道路はどこもかしこも通行止めである、と。
手に入る情報だけでは、屋敷に戻る算段が付かない。燃料にも限りがあり、目先にある大通りは既に身動きのできない車で埋まっている。ならば路地裏に車を隠したまま、手近な隠れ家に引き上げて体勢を立て直すのが得策だ。たっぷり数分考えて出した俺の提案に、ロックは苦笑しながらそうしようと頷いてくれた。普段はなにかと口喧嘩をしてばかりだが、それも気を許した相手への傍若無人である。こうした危機的状況において、俺と彼の意見は即座に一致することが多かった。
「まぁ、叱られたとかじゃねぇならいいけど。……脱いだ服貸せ、干す」
「自分でやるのに」
「いいから」
差し出されたお節介の手に、雑に絞った私服を手渡す。過去の俺が気まぐれに衣服を置いておいてくれたおかげで、濡れたまま過ごさずに済んだのは助かった。幸いにして数があり、ロックにも同じように乾いた服を渡すことができたものの、当然俺のサイズであるためにあちらはぶかぶかと丈を余らせている。服に着られながらせっせと人の世話を焼く姿は妙な幼さがあった。彼とて決して華奢な体つきはしていないのだが、どことなくあどけない表情がどうも印象を錯覚させるらしい。
「ふ……」
「……言っとくけど俺が小さいんじゃなくて、お前がデカすぎるだけだからな、これ」
「なんも言ってないじゃん」
思わず笑い声を漏らすと、先んじて不満気な言い訳が飛んでくる。外は雷を伴った豪風雨、部屋はいくつかあるにはあるが、人が過ごせるように片づけてあるのはこの一室だけ。あとはゴミ屋敷同然の散らかり具合であり、とどのつまり逃げ場所がない。密室に近いこの状況で間違っても大喧嘩などごめんだ。せめてものご機嫌取りにと余った裾をくるくると折りたたんでやってみたものの、美しい青年は眉間の皺を一層深くするばかり。しかし不機嫌極まりない表情とは裏腹に、続いた言葉は「ありがとう」という素直な礼の一言だったので再び喉を鳴らす。
「律儀だねぇ」
「いろいろ助けられてんのは事実だし……。服も、後で洗って返す」
「いいよ別に、置いてあったのも忘れるくらいの適当な奴なんだしさ」
タオルで拭ってなお湿り気の残る金糸を、わしゃわしゃと乱雑にかき混ぜる。再びの子ども扱いにロックからは抗議の声が上がったが、やがて諦めたように大きなため息が一つ聞こえて、深かった眉間の皺も自然と薄らいでいった。こちらがへらへらと笑ったままでいたからだろう。生来、心根の柔らかな男は人が楽し気にしていると釣られて口角が上がってしまうらしい。たとえポーズであっても、長く不機嫌を保つことができないのである。演技の一つもできないと知った時は、一体これが何をどうすれば支配者の器になるのかと主の審美眼を疑ったものだが、絆された今となってはこの柔らかな性根も愛おしいばかりだ。裏社会には到底向かない生温さ。しかしそれが傍にあると、自分もつられて人間臭くなる。それが、嬉しいのかもしれない。
「普段、屋敷に戻ってこねーときはこういう隠れ家で休んでんの?」
「そ。味気ないけど寝るには十分でしょ。流石に二人で入ると手狭だけどね」
服と、ついでにタオルを干し終わったロックは伸びをして部屋を見回した。目で見て楽しいような、物珍しいものは特にない。部屋に押し込まれているのはベッドに机くらいのもので、これはどこの隠れ家も同じ様なものである。血を落とすためにシャワーがあることを必須条件としているが、バスタブの有無は気にしていないので規模はまちまちだ。この家屋には比較的大きな風呂場がついているため、上手く行けば身体を温めるくらいのことはできるかもしれないと踏んだのだが、試しに栓を捻ってみたところいつまでも冷水が吐き出されるばかりだったので諦めた。
「ロック、ベッド使っていいよ」
「お前はどうすんだよ」
「んー、床?」
「……それはなんてーか、あんまりだろ」
恐らくいい顔をしないだろうな、と思いながらベッドを譲ると、思った通りのしかめっ面が返ってきた。ロックは困ったように眉を下げながらおずおずとベッドに乗り上げると、端も端に身体を寄せて空いたスペースを眺め出す。
「もしかして二人いこうとしてる?」
「床よりかは暑苦しいほうがマシだろ。嫌なら止めねぇけど、せめて床で寝るほうは公平にじゃんけんで決めようぜ」
ぽん、と叩かれたベッドの余白は見るからに狭い。まず純粋な横並びは無理がある。俺がロックを抱き込めばそれなりに寝れはするだろうが、果たしてこの青年はそこまでのスキンシップを許すような人間だっただろうか。
「こういう寝方でもいいってこと?」
一瞬の躊躇いがあったが、他でもない彼自身の提案である。嫌ならば抜け出していくだろうと踏んで、こちらもベッドに乗り上げた。一回り小さい身体をぎゅうと両腕で抱き込んで転がると、胸元を柔らかな笑い声が擽っていく。
「ふふ、でっか……。腹立つ……」
「……」
「あ? なんだよその顔……。驚くとこあったか?」
「いや、もっと嫌がるかと思ったから。アンタが人にべたべたしてるとこってあんま見ないし」
「……くくっ、変な奴。お前、普段あんだけ調子いい癖に、なんで急に自信なくすわけ」
腕の中でロックが身じろいでいる。両手を上げて俄かに隙間を作ってやると、青年は離れていくわけでもなしに自由になった掌で俺の頭を撫で始めた。先ほどのお返しのつもりなんだろう、手つきは粗い。
「こないだもそうだったけど、そういう遠慮はしなくていいぜ」
「こないだ? なんかあったっけ」
「俺がギースタワーで暴走起こした日。……途中で倒れたの、助けてくれたろ。あんなにいっぱい心配寄越したくせに、我に返って親しくねぇとか言い出してさ」
「……」
ロックの言う過日に思いを馳せる。カインを妬む敵対組織とのいざこざが、大掛かりな暴動に発展した激動の一日は記憶に新しい。
ギースタワーに近づくにつれて、ロックがおかしくなっているのは明白だった。彼の中に眠る力のことはカインから聞かされていた為、大方空気に当てられているのだろうという察しはついたものの、あそこまで憔悴した青年の姿を見るのは初めてでひどく動揺したことを覚えている。
助けてくれ、と言われたらすぐにでも手を差し伸べてやるつもりだった。しかし歩くのも覚束ないほど朦朧としてなお、ロックは一人苦悶に耐えるばかりで、こちらを頼ろうとしてくれない。なんでもないと大丈夫を繰り返すばかりの青年に、もどかしさは募る一方だった。
冷静になって考えれば、強がり続けたロックの心境はよくわかる。あの日のカインは自陣を荒らされて余裕がなく、ましてグラントをも傷つけられて相当な苛立ちの中に居た。お人よしのロックが、そんな状態の人間にまさか心配をかけられるはずもない。あくまでカインの護衛である俺にも、余計な手をかけさせまいと思ったのだろう。
けれどあの時は、その強がりが憎らしかった。多分、心配だったから。守りたかったのだと思う。だから倒れ込んだロックに向かって、うっかり心の端をそのままぶつけてしまったのだ。俺の前くらい強がるな、と。
彼にとって俺が、さも特別な存在であるかのように。
「……俺とロックの関係って、言葉にできる?」
「あ?」
「カインとロックは血縁があるし、メアリー様を巡る協力者っていう関係もある。でも、俺とロックはどうなんだろう。……同僚、とか、そういう感じ? でも、だったら、ちょっと遠いと思うんだ。無条件で頼れっていうのは、全部預けてってことで……それは結構、信頼がないとできないことでしょ。それこそカインとグラントみたいに」
「……」
「だから、言い過ぎたと思って撤回した。でも……もしかしてそんなことないの?」
首を傾げる。ロックは驚いたように目を見開いて、やがて幼い顔で喉を鳴らした。頭を撫でていた手が背に回り、せっかく開けた二人の隙間がゼロになる。湿った髪が喉を擽る妙な感覚。鼓動が聞こえるほどくっついた身体からは、ぬるい温度が伝わってくる。自分で抱き着いた時は気にならなかった「ふたり」の近さに、少し体温が上がったのは何故だろう。
「まず、なぁ。一年とちょっと一緒に暮らして、親しくねえは無理あるぜ。途中まで挨拶がせいぜいだったのは事実だけど、もうちょっと欲張ってもいいだろ」
「欲張るって?」
「関係なんて言ったもん勝ちだ。……多分」
「ロックも自信ないんじゃん」
「うるせぇな……。でも、多分、言わなきゃ名前なんてつかないぜ。なんでそんなに心配してくれてんのか知らねーけど、頼ってほしいってんならそういう関係でいいんじゃねぇの。カインとグラントが手本なら、少なくともダチではあるんだろ」
「オトモダチってベッド一つで寝る?」
「知らね。でも、嫌じゃない」
確かに、嫌ではない。土臭い雨の匂いに満ちていても、腕の中に納まる体温に感じるのは安堵だけだ。
「……スラムで暮らしてると、人と親しくなるってことはまずない。あんまり入れ込み過ぎると生きづらくなるだけだから」
「ふぅん」
「だから、人とどんなふうに触れ合うかの正解がよくわかんないままなんだ。自分に心があるってことにも最近気づいたばっかりだし」
頭の中に浮かんだ言葉が、勝手にぽろぽろと音になって零れていく。雨音が沈黙を埋めるこの煩さの中であれば、少しくらい小恥ずかしいことを言っても聞こえなかったことにしてくれるのではないかと、ロックの優しさを信頼した。
「だから、決めていいって言われたら、際限なく我儘になるよ、俺。一番近いところがいい。アンタが一番弱ってるときに、何の遠慮もなく助けに来いって言ってもらえるようなとこ」
「……なんで?」
「うーん……、なんでだろう。気に入ったから?」
「どのへんを?」
「俺が目いっぱい隠した殺意、気づいたうえで話しかけてきたあたり」
「どんな気に入り方だよ」
雨音に隠れた会話は、密やかに進む。
「面白いと思ったんだよね。こんなに鋭くて強いのに、自分のことを一つだって守れない、変な奴だ、アンタ。人のことばっかり見て、考えて、自分の幸せを後ろ回しにしようとしてない? そういう可能性があっちゃいけないみたいにさ」
「……」
「それが、許せないのかも。ロック、裏社会のうの字も似合わないくらいいい奴だから。例えアンタがギースの息子だったとしても、ここに居ちゃダメなんじゃないかって思うくらいにアンタの魂は眩しい。そういう魂はもう少し幸せになるべきだと思う。だから手を掴んで、沈んでいくのを止めておきたい。心配なんだ、ほっといたら真っ黒いところにざぶざぶ沈んでっちゃいそうで」
「ふ……、なんだよ、それ」
ロックは笑ったが、その笑みは否定の嘲笑ではなかった。どこか心当たりがあるような、少しの迷いを含んだ笑い声。俺がぼそぼそと紡いだ彼に関する言葉たちは、突拍子もなく的外れと言うわけではないんだろう。彼を取り巻く因果の重さは知っている。無邪気に己の幸せだけを願えるほど、呆けた育ち方をしていないことだって。
それでも幸福たれと願ってしまう。だって、この男はどこまでも穏やかな光をもって薄闇を照らしてくれるのだから。
(ああ――、グラントもこういう気持ちで俺達を見てんの?)
じっとロックを見下ろすと、紅眼と視線がかち合った。澄み切った瞳に映る自分の顔を眺めると、その視線は見たことがない色をしている。エメラルドは変わらないが、その、温度がぬるいのだ。ならば、この心は愛なのだろう。
「言い直していい? 強がるなって。強がらないでよ、俺の前でくらいは。助けに行くから、お願いロック」
「……努力する」
「そこはうんって言ってよ」
「強がってるつもりがねぇんだよ。ただ、迷惑かけらんねーって気持ちが先走るだけで」
「それを強がってるって言うの。迷惑かけてよ、世話が焼けるのは今に始まったことじゃないでしょ」
「お前な……、いや……はは……、まぁ、そうだよな。意地張ったってかかるもんはかかる、わかっちゃいるんだけど」
畳みかけるように懇願を続ける。文句が言い終わらないうちに苦笑に変わり、やがてため息交じりの自嘲になった。最後にうっすらと微笑んだロックは、小さな声で「できるだけ」と付け足してくれる。それが今、彼に言える精一杯の同意なのだろう。
本音を言えば、もう一歩踏み込んだ頷きが欲しい。けれどあまりにしつこすぎて喧嘩になっては元も子もなかった。逃れる部屋も、外もない。それ以上に今は、抱えた温もりがどこかへ去ってしまうのが嫌だった。
「人って難しいね。道具でいるほうが簡単だった」
「……戻りてぇの?」
「それは嫌。難しいけどこっちがいい」
「そ。……安心した」
ほうっと吐かれた安堵の吐息が喉元を擽った。背に回った手がとんとんと規則的に背を叩くのでどんどん意識が霞んでくる。
「ロック、それ眠い」
「どうせ朝まで止まねぇだろ。濡れて疲れた、俺も眠い。このまま寝て、朝もう一回外見よう。どうするかは、そん時考えることにしてさ……」
「蹴飛ばしたらごめんね? おっこちて怪我しない様に、頑張って」
「心配すんな。そんときはお前も一緒に引きずり落とす」
悪戯な笑い声が、呼気が、鼓動が、重なっている。こんなにも人の気配が近くにあって、抵抗なく意識が夢に落ちていくのは、生まれて初めてのことだった。