藪に蛇俺は祖父が怖かった。
定年まで立派に銀行を務め上げ、いつも真面目で優しい祖父は、妻である祖母にも、娘である母にも、親族にも周りの人間にもとても好かれていた。まさにお手本のような「立派な人間」だろう。
俺もお年玉や小遣いをたくさんもらったし、遊園地などに連れて行ってもらった記憶はたくさんある。確かに「いいおじいちゃん」だったと思う。
だが、俺には祖父がどこか事務的に人間をこなしているように見えた。やっていることになんというか、感情が読み取れなかった。やるべきだからやっている、そんな気がした。こんなことを思ってるのは俺だけだろう。
実際に母にすこし漏らした時には大目玉を食らった。母は尊敬を通り越してもはや崇拝のように祖父を尊敬していたようで、親を泣かせるというできれば人生のうちで発生すべきでないイベントを達成してしまった。俺は結構優等生だったこともあり、母はひどくショックだったようだ。
だが、俺の気持ちは全く変わらなかった。俺だって身内に対してこんな気持ちにはなりたくない。それでも、何度祖父と関わっても、その感覚が薄まることはなかった。
誰にでも良い人間と思われるように動く人形のような祖父が、怖かった。
祖父は先日、亡くなった。家族に囲まれて、文字通りの大往生だった。嗚咽で包まれる病室の端で、俺だけが無表情で祖父の足元のシーツを見つめていた。
こんなことを思ってはいけないことはわかっているが、もう祖父に対してこちらも孫の顔をしなくていいことに俺はかなり安堵していた。
祖父もそんな俺をどこかわかっていたのではないかと思う。俺と祖父だけが家族の中で疎遠だった。
悲しみも束の間、葬儀の準備で家の中は大騒ぎだ。そのため家族総出で祖父の家に泊まり込むことになった。
まあ最後の孝行だ、これが一区切りになるならと積極的に参加した。母は俺が祖父を嫌っていると思っていたようだから、ずいぶんと驚かれた。これであの時のことをいくらか払拭したいという下心はもちろんあったが。
副葬品の準備に入る。祖父は牛丼が好きだったらしいがそれは入れられないとして、祖父が好んでいたオレンジ色の花だのお菓子だのが選ばれた。家族の写真や、現役時代にもらった賞状などもある。端の方に、大切そうに置かれているものがあった。
それは、祖父が生前にひとつだけ棺に入れることを希望していたもの。
祖父がいつも肌身離さず持ち歩いてた手帳。
これが目に入った途端、俺の頭にある記憶が蘇った。
小学生二年生くらいの時だったか。祖父の家に泊まった時に、真夜中にトイレに起きた時。暗い渡り廊下を歩いていると、祖父の書斎に明かりがついているのが見えた。祖父はとっくに眠ったはずで、こんな時間に何をしているのか猛烈に気になった俺は、音を立てないように襖を開けた。
祖父の横顔が見える。祖父は食い入るように何かを見ていた。それはそれは熱心に。手元にあるのはいつも持ち歩いている手帳だ。どうやら祖母や母でさえも中を見たことがないらしい。もちろん、孫や親戚の子どもたちも一度も触ることすら許可されなかった。
その目には、喜びとも、悲しみとも、憧れとも取れる様々な色が浮かんでいた。普段の穏やかな祖父から想像できないほど欲深い顔。生きた熱のある顔。初めて祖父が人間として俺の目に映った。そんな祖父を見たのはそれが最初で最後だったが。
その手帳が目の前にある。
「決して中身を見ずに棺に入れるように」
そう祖父が言い残したもの。
部屋には俺だけがいた。
耳の奥にどくどく血が流れるのを感じる。
恐怖と緊張と好奇心に駆り立てられた俺は、もう震える指を止められなかった。
ゆっくりと手に取り、中を開く。
至って普通の手帳で、中には特に気になる記述はなかった。あまりの呆気なさに落胆とも安堵とも取れる気持ちでいっぱいになる。あれは夢だったんだろうか、それとも何か別の記憶が混じったのか。おじいちゃんごめんな、そう呟いて手帳を閉じようとした。
だが、最後のページに、何かが挟まっていることに気づいた。写真だ。
写っていたのは男性だった。こちらを見て穏やかに微笑んでいる。
ずいぶん古い写真なのに、まるでこの人だけ光り輝いているようだった。
例え難い美しさだった。近いものをあげるとすれば、夜明けの静かな空に刺す朝日のような。
この手帳の中身は誰も知らない。祖父の言いつけを守らない人間はこの家にはいない。俺以外は。もう正気ではなかった。俺は、写真を抜き取るとそっと服の下に隠し入れ、部屋を出た。
誰にもバレることはなく割り当てられた自室に持ち帰ったそれを、俺はずっと眺めていた。
見れば見るほど不思議な人だった。まるで人間じゃないようだが、絵やCGではないことは確かだ。薄い色彩でもはっきりわかるオレンジの髪。ひとつひとつが作り物のようにパーツが整った顔。目つきは決して良いとは言えないのに、笑顔は柔和。着ているものはパーカーなのに、とても高貴に見えた。
なんて名前だったんだろう。どんな声だったんだろう。祖父とはどういう関係だったんだろう。なんだかこの人のことが知りたくてしょうがなかった。
写真を見つめたまま横たわっているうちに、葬式の準備の疲れもあり、自然と俺は眠る姿勢に入っていた。
万が一見つかったらまずい、どこかに隠さなければ…そう思いはしたが、意識はそこで途切れた。
気がつくと俺は知らない部屋にいた。
マンションだろうか?何もない広々とした部屋だ。窓の外に広がる風景がここが高い場所にあることを知らせていた。
これが夢なんだろうと察しはついていた。指ひとつ動かせない。どうしたもんかと立ち尽くしていると、扉がきぃ、と開いた。
あの写真の人がいた。
興味でいっぱい、という面持ちで俺の元に向かってくる。
「うーん、目元とかは似てるのかなあ?わかんないや」
俺の周りをくるくると回りながら顔を覗き込んでくるたび、この人自身がまるで光源のように光を放っているようで、視界に入るたびに目が痛む。だが、焦がれていた人が現れてくれたことに俺は嬉しかった。少しも目を離したくなかった。
「でも」
目の前に顔がくる位置でぴた、と止まる。
「確かに彼の血を引いてるね」
声から穏やかな色が消えた。笑ってはいるが、空気がグッと冷えるのを感じる。
「欲しいものがあると見境いがないところとか」
にい、とその人は口角を上げた。
怖い。でもきっとこの人が怖いんじゃない。
言いつけを破った後ろめたさ、祖父を好きになれなかった罪悪感が一気に上ってくるのを感じる。まるで大きな鏡に、それらが写り込んでいるのを見せられているような。
逃げたい、体が動かない。
「ボクのことは全部持っていきたいみたい」
冷や汗が止まらない。
「返してあげてね、それ」
かろうじて動く頭を動かして、震えるように頷いた俺を見るとその人はぱ、と笑った。空気が緩むのを感じる。脅かしてごめんね?と、俺を慰めるように頭を撫でた。細く冷たい手に、やはりこの人はこの世の人ではないんだなと実感させられる。
そのうちにまた意識が遠のく。閉じる視界の中でその人はばいばい、と笑って手を振っていた。
目が覚めた。日はまだ上っていない。春先だというのに全身汗をかいていた。
写真は手のひらにシワひとつなく収まっている。恐ろしくてたまらなかった。
家族が寝ていることを確認してから、手帳のある部屋に忍び込みすぐに写真を戻した。
逃げるように部屋に戻り、布団に入る。まだ心臓はうるさいが、なんとか眠る姿勢に入る。
起きたら全て忘れているように。
そう願いながら、俺は目を閉じた。