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    ミイラ尾(1)
    タイトル未定。2022/8/22Twitter初投稿。FBのミイラ尾ネタ。いじっていくかも

    #腐向け
    Rot
    #ヴァシ尾
    vasiTail

    ミイラ尾(1)ミイラ尾1


     目があった。幾層にも重ねられた亜麻布に描かれた、おおきな眼。その左の黒眼だけが、布のうえを、音もなく――
    ――動いた。
     知覚した瞬間、ぽいっ、ときいろの空間に投げだされていた。
     吹きあれるごうごうの風。こんじきの風、下のほうで砂塵が渦をなし、砂嵐。肉体は落下している。生身のスカイダイビング。黄土色、地上から上昇する風とぶつかりあう。耳がちぎれる。ちいさな痛みが集合し、針まみれ。砂で総身、穴だらけになる。
     きいろは、天である。
     キリスト教圏では気狂いの黄とも、裏切り者のユダや娼婦の象徴ともされるが、古代ヨーロッパにおいては、太陽や黄金、小麦をあらわす豊穣の色だった。それは古代エジプトから伝わったイメージとも考えられる。古代エジプトにおいて、きいろは天空をあらわす。天空は、母なる神の守護するところ。
     ちかちかとレモンの汁が散るように、ひかり、きいろの天は急速にせばまってゆく。天辺がちかい。落ちていながら、上昇している。くちのなかに砂がはいってきて、ざらりと不快。目をひらいていられない。顔の皮という皮がびゅうびゅう巻きあげられ、頭髪の毛根という毛根がくちなし色の清浄な砂で洗い流されていく。
     すると足元、くろい長方形だ。ちょうど両足がおさまるほど狭い、黄の世界に黒の空間がぽっかりあいた。踏むと反発する。踏みしめることのできる、なんらかの物体がある。波乗りだ、両足で、つっぱってみる。
     ぴたりと落下がとまった。風はやみ、上昇もない。きいろの世界は急にまっくらになった。黒が象徴するのは肥沃な大地だが――いや、黒の世界ではない。ここは、ふかい、ふかい、青だった。ファイアンスより透明で、海よりしずか、氷よりつめたく、ほとんどくろい。清浄な宇宙の青だった。足に紙1枚大の大地、しばし無重力。
     どっ、と背を押されたかと思った。背に、両側に、頭上に、ひとひとりぶんの、アーチを描くきいろの小部屋があらわれたのだった。一気に閉塞する。胴にも四肢にもちょうどのおおきさ、身じろぎもできない箱の底に、すぽんとぴったり嵌められてしまった。せまい、ちかい、ピントがあわない。眉間にちからをこめ、目をこらす。顔の左右、覚えのある壁画、象形文字が描かれている。真上には翼をひろげた女神。左右対称。正面を向いた絵はめずらしい。おそらくネフティス女神。寸分のくるいもない緻密な装飾文様。赤、緑、黒。おそらく頭のうしろにも神がいて、背のうしろも、足元も、女神たちに守られているだろう。このせまい空間も宇宙なのだ。小部屋どころかこれは、――棺だ。
     棺、その単語が頭を占めるや、とたんにふたたび世界は変容する。いよいよ真っ暗になった。こんどこそほんとうの暗闇だった。蓋がしめられたのだ。意識しなかっただけで、シストラムのすずやかな音が響いていた。しゃらしゃらと夢のように鳴るそれが、とまった。息苦しいほどの大気の奔流もとまり、しんとなった。
     循環がおわる。芳香だ。めまいをもよおす、没薬のかおり。かぐわしい圧迫感。ふいに、恐怖が沸いてきた。もっとはやくに襲われるべきそれは、閉所で発揮された。あわてて蓋へ腕をつっぱろうとした。だがぴたりと棺にはまっていて、腕どころか指いっぽんたりとも、棺の左右の壁からぬけられない、真空パック状態だ。足も胴も、全身をゆすったが、あせるばかりで動けない。つい先ほど洗われたはずの毛穴から、いやな脂汗がでる。
     すると、黒の深淵に、真珠の白が浮きあがった。ウジャトの眼。神の左目。その周囲がぼうっとさらにひかりだす。目があう。おおきな目。くろい目化粧で縁をぐるりと囲った、あの、くろい目、鼻、くちびる、顔、顔だ。この顔を知っている。
     唾をのんだらごきゅっとおかしな音がして、すこし噎せた。それでわずかに平静をとりもどす。
     冷静になれ。
     冷静に……ええと、私は、私の、そう名前は――。そこからやりなおさなければ。
     名はヴァシリ、姓はこのさいどうでもいい。いけない、投げやりになるな、冷静に――。ロシア国籍。保存修復士となるため、技術を学びにイギリスへ。渡英は2日前で、そうだ、ロンドンへきたのだった。時差ボケはなかった。今日はたしか七月二十四日で、日曜日。時間は、何時だ。午前中だった。チャールズとダイアナ、冗談みたいな老夫妻の家に世話になっていて、ダブルデッカーバスで大英博物館へ来て、グランドフロアでたのしみしていたロゼッタストーンを見た。予想していたよりずっとちいさい石碑は、うすくらがりの展示室で、黒山の人だかりをつくっていた。大英博物館といえばこのロゼッタストーンと、ギリシャやエジプト、アッシリアの彫刻が有名だが、ダーウィンの『種の起源』初版本、ヘンデルの楽譜草稿、マグナ・カルタ、ふるびて粉塵に帰るのを食い止められている人類の宝も、山ほど眠っているのだ。修復士にも専門がある。私は絵画や古書といった、紙媒体に興味があって、人気のない展示コーナーは居心地がよく、どこを見ても飽きることはなかった。そうだ、正午を大幅にすぎて、昼食をどうにかしなければと思案してた。朝はパンとクッキーの中間のようなスコーンを食べて、ダイアナの紅茶はおいしかった。できればバラのジャムではなくベリーの酸味がほしかったが、ダイアナは「国花だもの」と胸をはった。バラのワインもあるそうだが期待できない。
     落ちつけ、時間を前後させるな、よけいに混乱する。
     それから空腹をなだめながら、――ひろいミイラ室にきたのだった。その名のとおり、歩いても見まわしても、ミイラミイラミイラ、ミイラの展示室だ。人体型の緻密にうつくしく彩色され、金箔をふんだんにほどこされた棺。これまた予想をはずれ、蓋はふくらんだ形をしていて、直方体よりは楕円体にちかい。ずんぐりむっくりしたフォルムはマトリョーシカを思わせた。中身、ヒトのミイラは、いくえにも隙間なく布に覆われ、マスク、ビーズのドレス、護符などの副葬品を身につけ、横たわっている。ウジャトの眼は、この副葬品の展示で見たのだ。「完全性」、「欠けたものがない状態の象徴」と説明書きがあった。ほかにも猫や鳥の布巻ミイラまであったのだが、なん体とあるなかで、あるミイラだけがヴァシリの心臓をどよもした。それは確かだ。
     布にくるまれたうえから、ほそい革のアクセサリーとベルト、褐色に色落ちした亜麻のうす布を身につけたそのミイラには、墨で目鼻や眉が描かれていた。おおきな目、ひきしぼられた弓なりの眉。なんといっても特徴的なのは、まるで思春期の乙女のそのように、ごくわずかにふくらんだ胸、ふくらみを強調するように胸の中心でクロスする革紐、胸の先端にはご丁寧にポツンと強調された、乳首がある。肉体を少女の官能性をもたせて保存しておきながら、顎鬚と、両頬には縫いあわせたらしい傷の痕跡が描かれている。アンバランスな魅力。ヴァシリの足はそこで完全にとまった。バックパックから画帳と鉛筆をだしていた。昼食のことなどとっくに頭から消えていた。
     なにを見るでもない眼が動いたのは、閉館の放送があってからだったかもしれない。
     もういちど、唾を飲む。
    ――やはり、あのミイラだ。「踊り子のミイラ」。
     筆と墨で描かれた顔ではなく、眉、まつげ、顎ひげ、くちびるのしわの一本いっぽんまで精緻に再現された、生ける人間の顔をしていた。男だ。
     そいつは棺の蓋の内側からにょきりと生えてきて、ヴァシリの目と鼻の先でニタリとわらった。
     しろいゆびがあらわれる。指揮者のように優雅にふるうと、魔術であったのか、ゆびさきから、水銀のようにおもたげに、ふるふる揺れてあやしい金属光沢をはなつ、銀色の液体がでてきた。ゆびさきのダンスにあわせて神聖な軌跡をえがく水銀。やがてミイラ男は蓋と棺のわずかな隙間――目が闇に慣れてようやく気づくほどわずかな隙間に、水銀を埋めこみはじめた。ちりちりと火花が散る。
     水銀ではないのか。鉛? 熔接するというのか――?
     ヴァシリは吼えた。彼を知るものが見たら驚くだろう。ものしずかな男である。だが、だれだって即身仏になるのはごめんだ。


    𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠


    「ふがっ!」
     目覚めると、ヴァシリは逗留先、チャールズとダイアナ夫妻の下宿屋の二階のベッドに、ひっくり返っていた。上下のまつげが貼りついてしまって、こすると目ヤニがぼろぼろ落ちる。乾ききったよだれはガビガビしてくさいし、ひどく咽喉が渇いた。頭をぼりぼり、二〇時。窓辺は昼間のあかるさ。サマータイムである。
     しろいレースのカーテンの下は、庭の草花、ジキタリスのピンク、白薔薇、鬱金色の名を知らぬ花が咲いていた。イングリッシュガーデンのかたすみには、乳母車が乗り捨てられている。いまどきのバギーではなく、造花のように繊細で、アンティークな乳母車だ。うす汚れた刺繍、やぶれたレーステープ、錆びた車輪。老夫妻の子が赤ん坊のころのものだろうか。きれい好きな彼らのイメージにそぐわない。飾るでもなく、しまうでもなく、乗り捨てられていた。
     ファーストフラッシュのしぶいかおりがして、階段をきしませ降りると、チャールズとダイアナは居間でくつろいでいた。紅茶を一杯もらう。卵料理はどうかと勧められるも、かわいた砂が肺と胃を満たしてしまったのだろうか、腹は減っていない。ヴァシリは、自分がいつの間に帰ったのか、彼らと会話したのか、聞いてみようとしてやめた。
    「外出してきます」
    「ええ、気をつけて」
     異邦人が意味のわからない質問をして、おだやかな彼らの時間をこわしてはならない。
     地下鉄に乗ろうか考えているうちに、足はかってに動いていた。意思もまたそちらの方向へ動いていたから、不都合はなかった。朝はバスに乗った道のりだったはずだ。遠近感のくるいはあまり重要でなかった。
     徒歩三〇分、ヴァシリは白亜の階段をのぼる。ギリシアの神殿風の建築、イオニア式の優美な柱、大英博物館。とうに閉館時刻は過ぎている。人っ子ひとりいない、観光客も、学芸員も、警備員も、ネズミも。正門は鍵もかけずに、しかも勝手に、音もなく、ひらく。空洞に誘いこまれる。ヴァシリが踏みいると、背後で扉がしまるが、やはり鍵は開いたままだ。逃げたければ、逃がしてやろう、とでもいうのか。
     グレートコートには自然光で幾何学的模様の影が落ち、秒針が二十三時五十九分五十九秒から〇時ちょうどになる瞬間のように、カタンとたった一秒の切り替わりによって、夕が夜になり、光が消え、影も消えてしまった。闇にヴァシリの一歩目の足音だけが、おおきく響きわたった。そのほかはただしずまりかえって、誕生日のパーティのとき、家族や友人が息をひそめて驚かそうとする瞬間の直前の、そわそわしたつくりもののしずけさのにおいをさせている。嵐のまえの、いまにも爆発するエネルギーを、世界最古の博物館そのものが秘めて、うずうずしている。ぽつ。ぽつ、ぽつ、照明が前進するごとに点々とつき、やがて一本の道が示されてゆく。
     誘導している。上階へとつづく道。呼んでいる。
     ヴァシリは気に食わなかった。どこを歩くか、なにを見るか、なにに会うか、どのように感じるかは、自分が、自分で決めるべきだ。
     そういった考えに至り、そんな自分に驚く。
     無気力で、自己主張せず、自我がない。周囲はヴァシリをそういった性質だと評価する。ヴァシリ自身もその評に納得してきた。親や教師に言われるままに、かつて持っていた夢のようなもの――なんだったか、忘れてしまった――を諦め、手に職をつけようとしている。ふつうの技術では周囲は歓迎しない。かなわない夢は捨てさせたいが、特別な感性や才能をもっている自慢の息子、教え子であってほしいのだ。そんな自分に、逆らってやろうという反骨心があったことに、驚いた。
    「ロゼッタストーンを、見る」
     たからかに宣言してやる。けれども、当然であるが、照明はつかない。問題なかった。携帯端末のライトをつける。まっさきにイギリスで手にいれた有名メーカの端末は、懐中電灯として十二分の役割を果たしてくれる。
     昼間にも見たその石は、一番人気といって過言ではない。考古学につよい関心がない人間でも、興味をそそられるのが、ロゼッタストーンだ。言語の天才シャンポリオンによって解読され、なぞに包まれていた古代エジプト三千年の歴史が、いっきにヴェールを脱いだのだ。それが、呼吸するように、たたずんでいる。ヴァシリも考古学や言語学に興味のうすい、ありふれた人間のひとりだが、この紀元前一九六年からの旅人へ、感謝のような奇妙な感傷をいだかずにおれなくなる、神秘的な魅力がある。
     右から、左から、しゃがみこんで下から、遠間から、遠慮なく観察する。廊下の照明が急かすようにちかちか明滅して目にうるさい。なにかが得られそうな気がするのに。
     カツカツ、かたい床を、かたいヒールのようなものが打つ音。
     規則的な音。足音だ。
     ハイヒールの警備員――?
     すばやく端末のライトを消す。ヴァシリは隠れるか、隠れまいか、左右を見回した。カツカツ、隣の部屋だ。ちか。照明がつく。スポットライト。そこには、猫がいた。
     黒猫だ。
     すらりとしたからだつき。金色の眼、黄金の首飾りとひたい飾り、耳環に鼻環、やさしげに見せる金の目化粧。
    「おまえ、クフ王だかラムセス二世だかのとこにいた、バステト神か?」
     高貴な女神は、にゃあ、とは啼かなかった。鼻をつんととがらせ、おたかくとまっている。カツ、カツ。硬質な音は彼女の青銅の肉球によるものだったのだ。ながい尻尾が優美にゆらゆらゆれる。
    「いい加減にゆけ、というのか。仕方がないな」
     女神に免じる体裁、上階で待つもののもとへ行く。
     彼女は階段を昇れないのか、昇らないのか、ヴァシリを尾でおいたてると、その場でくるりとまるまった。猫らしいしぐさだ。肉球は金属でも、ふれればやわらかい毛並みをもつのかもしれない。



     階段はくろぐろと渦まき、ながく影をひいている。果てが見えない。深淵へとつづく昇り階段。
    「DNAか……」
     昼間はこんな奇妙な二重螺旋構造の階段ではなかった。
     昇りきれる。ヴァシリはロシアから履きつぶしてきた、ボロのスニーカーを信じる。
     一段、すると壁面はぐるりと変化する。影絵、あるいは映写式の壁画だ。グレートコートの格子模様のむこう、アステカの神々、中国の神獣たち、ギリシャの戦士らが動きまわっている。ストーンヘンジを運行する日月、北斎の庶民と話す、カンタベリーの聖人たち。音楽もきこえてくる。ガムランだろうか、金属製打楽器の殷々とした響き、撥弦楽器、管楽器、アンデスのフォルクローレ、黒人霊歌がまじりあい、見えない音は燐光となって降りそそぐ。なかでも、あっちは死者の書の図絵だ。神々の審判、天秤の一方には羽がのり、血のしたたるとれたての心臓がもう一方へのせられる。大英博物館が誇る全長三十七メートルの、グリーンフィールド・パピルスだ。
     壮大、荘厳。歓迎しているつもりだろうか。まさかな。そろそろ太ももが限界だった。体感ではもう五階以上へ昇っている。
    「私を呼んだんじゃないのか。会いたくないなら帰るぞ!」
     深淵へいらだちをぶつけると、膝ががくんとした。段差がある、とおもって足をおろしたところは、すでに平らだった。地味にむかつく。
    「いやなやつだな」
     錯誤をおこした膝をさする。辿りつかされたのは、ガラスでまもられた棺と、ミイラのための、ミイラ室。昼間おおくの入館者がうろうろしていた、あの部屋そのまま、怪異はなし。音楽も消え、しんとして、うすぐらい、ただ閉館後の博物館だ。気をそがれる。
     息をひそめ様子をうかがう。シューシュー、空気の流れる音がする。所蔵物が空気による汚染をうけないよう自動で換気をしているのだろうか。だが、ああ、冷風だ。エアコンをいれて待っていてくれたらしい。ヴァシリはすこしほほをゆるめた。
     ついで、キィンと澄んだ金属音。音のほうを向くか向かないか、という次の瞬間――、横っ面に手酷い一撃をうけた。
     頬は、ぬれていた。脳が揺れる。膝をついてしゃがみこむ。撃たれた? まさか。手のひらをあてがうと、べちゃっとした粘着質の焼土色。血圧、心拍が急上昇する。流血だ――いや、なんてこった、心臓に悪い。血じゃあない。粘土。素焼きの壺や兵馬俑につかわれる、テラコッタだ。
     引鉄にからみつけたしろいゆびが、生涯最期に見るものになるところだった。
     片膝を立てて座った姿勢でライフルを構えた、ふいうちの狙撃者、ミイラ男は、得意満面、かきあげる髪もないのに、頭をなでる。ふくらはぎに針金の人形のようなものをのせて、かたわらの針金のような、すかすかの椅子にライフルをたてかける。すると椅子はガタゴト四つ足で歩きだし、それを針金の人形が針金のハンドバッグ片手に追いかけてゆく。
     ヴァシリはいよいよ唾をのむ。先手をとられた。二手目までとられるわけにはいかない。
     ミイラ、というのはヒトなのかモノなのか。
     ヴァシリが近寄ると、ミイラはゆっくり立ちあがった。まったくの人間に見える。偉そうに腰に手をあててふんぞり返っているし、鼻の穴がふんすとふくらむ。下半身は、下帯で覆われていて安心した。生々しくても、ひからびていても、それを見るのは男として覚悟がいる。館内の展示によれば、彼ら古代エジプトの男性は超ミニスカートか、ちいさな三角形の布をまきつけるだけの褌、またはフリチンで過ごしたのだという。染色をしていない亜麻布の褌は、うちに質量をかくしている。ミイラ”男”でまちがいない。
     ならば、その胸をどう説明する。
     ビーズも銀細工もつらなっていない、くびすじの下で、革紐の簡素なアクセサリーに強調された、つんと外を向くうすあかい乳首。眠るミイラの胸には、記号として存在していただけのものが、ささやかなふくらみの上で、かすかな立体感をもってピンク色にいろづいている。ほんものだ……。
     この風貌で女性であると、対応はもっと難しくなる。下心はない。断じて。鼻のしたをのばした、いやらしい目つきをするつもりはない。
     たとえば思考に計量器がついているとしよう。「毒」という単語にギクリと反応するように、「殺人」という単語にその針が跳ねとぶように、「裸体」には考えをぶれさせるちからがある。ヴァシリの感覚でいえば「秘すべきところ」をあらわにされているのだ。目がひかれてしまうのはしかたがない。
     だがこれは、あまりに無遠慮で傲慢な、観察者の視線だ。人種、文明――偏重した優越感のなせるものだ。すでに弔われたものを博物館に飾り、見世物にし、好奇心を満たし、ゆびさし評論し、悠久の歴史を学びとった気になっている。このときのヴァシリは、ごくふつうに、そういった大衆の感覚と変わりなかったのだ。
     左の黒目が動いた。
     ぎょろ、と音がするほど、ミイラ男の目はおおきい。
     見あげてくる目、ブサイクと紙一重の上目づかい。上まぶたは黒、下まぶたはふかい緑の目化粧をし、おおきな瞳、血のかよったくちびる。人形じみた顔立ちだが、精妙さはヒトそのもの。たまにゆっくり、まばたきもする。
    「わからなかった。こっち、義眼か」
     ミイラ男の顔に手をかけ、右目をのぞきこむ。方解石の白目と、黒玉髄だろうか。とろりとした光沢がある。貴石には縞模様がなく、選びぬかれた素材とわかる。
    「私に見せつけてきた幻では、左はウジャトの眼だったじゃないか。いまはふつうだなぁ。……この右眼は副葬品だろう? もしかして生前、盲目であったとか? だから作りものの目をもっているのか?」
     推理するゆびさきに、ちくちく刈った髪がふれる。熱帯乾燥地域の民らしく、全体をみじかく切りそろえている。黒髪。まちがいなく人毛。植毛じゃこうはならない。さわさわなでる。なでごこちがいい。
     ヴァシリはミイラのくちびるがふるえるのに気づかない。
    「肌はまろみのある透明。きれいすぎて嘘っぽい。うん、……うつくしいな。ウジャトの眼、宇宙の黄金比か。ここは二分の一。十六分の一の白目、黒目は四分の一……。三十二分の一の目化粧はしないのか?」
     ミイラはくちをひらく。あかくぬれる舌。ぱくぱく、髭のある顎が腹話術の人形みたいだ。しかし声がでることはなく、ミイラは不機嫌そうに口角をさげた。
    「ぐ……っ!」
     横っ面にふたたびの衝撃。
     意思と関係なく、床に尻をついていた。
     なぐられた。ふたたび頭をぐらぐらにされた。
     ミイラ男は、こんどは左眼をこれでもかというほど下目づかいにして、ヴァシリを見くだしていた。怒りに、鼻の穴がこれでもかとひろがっている。手には鈍器。ハンドベルだ。湾曲し、女の頭部が彫刻されている持ち手。大英博物館には楽器も所蔵されている。銅のそれはからからと鳴り響く。
     どんな文化圏でも、他者の髪、頭部に許しなくふれるのはマナー違反だ。部位にかぎった話ではない。手だって失礼だ。ヴァシリ自身、ハグも握手もなじみがうすい。じろじろ観察するのも。彼は犬猫ではないのだ。
    「すまなかった」
     頭のどこかで、ミイラをモノだと認識していたのだ。そうでなくばヴァシリは「彼」に、ふれられなかったはずだ。つめたかったから、乾燥していたから、人間の不快さが、彼にはない。言い訳だ。ペットにするようにさわっていい理由にはならない。
     歯が折れたかとおもったが、ひきずる痛みはなかった。
     顎のあたりをごしごしこする。
    「……まいったな。私はおまえに呼ばれて来たつもりだったが」
     するとひとりでに、ハンドベルがカラカラ、キンキン歌いだした。鳴るのではなく歌うのは、持ち手の女の顔のくちがうごくと、音がでているからだ。持ち手、ではなく彼女の上半身といったほうがよいのかもしれない。ガラガラ、シャン!
     ミイラ男は彼女にこくんとうなずき、いそいそと彼の棺にしまいこんだ。代わりにあざやかな濃いピンク色のショールをひっぱり出し腰巻にし、ヴァシリをふりかえって、またうなずく。
     ヴァシリもうなずきでかえした。なにかが起こる。わくわくした。
     うしろ姿にはっとする。半人前、といってしまえば、また彼をおとしめるかもしれない。彼の背面はまだミイラだったのだ。だれしもがミイラで想像する包帯人間の状態、おうとつのない、何千年とねむりつづけ、ひらたくつぶれた後背をして、皮膚ではなく、巻きついた褐色の布があった。足でいえば、みずみずしいのは甲までで、踵は干からびたまま。ふくらはぎは生きているのか、つまさき立ちの跳躍が彼の歩行だった。
     胸に意外なふくらみがありながら、腰はのっぺりしているのがアンバランスだ。だから彼は腰巻で隠したのだろうか。髭面に乳房があるのもアンバランスだし、おおきな目は顔にあるだけでバランスをうしなうほど存在感がある。不均衡こそが彼の調和でもあった。
     素足がステップを踏む。ミイラの包帯は彼の枷ではないのか。しろいひかりの粉を散らせて彼はすすむ。かがやきをやめてしまえば、おが屑になるひかりだ。ミイラと、人間になりつつある部分の境から生じるきしみなのだ。
     グレートコートまで戻ってきた。中央に、かつて図書館だった円柱形の展示場がある。夜の空がやってきていた。月光で影をまとう白亜の円柱は、古代ローマの円形劇場の風格がある。



    「生くるべきか、死すべきか。それが問題だ!」
     ハムレットだかリア王だかブルータスだかが叫ぶ。演じるのは日本のからくり人形に、チェスの駒、パルテノンの神々もいる。唐三彩の将軍は名役者だ。
     あっちではジュリエットが死んだ。こっちではオセローが妻を扼殺している。オセローは十センチたらずのチェスのクイーンが演じ、妻デズデモーナは体格のよいアフロディーテなので、なにがなんだかわからない。
    「彼らは話すことができるんだな」
     ミイラは首を左右にふった。
     役者たちは声を発することができるが、踊り子のミイラのように関節をやわらかくして思いのままに動いたり、表情を変化させることはできない。だがクイーンはぴょんぴょん跳ねているし、アフロディーテはくねくねしてもいて、個々に違いがあるようだ。規則性があるのだろうか。教えてくれるものはいないか。
     ヴァシリはほとんど弾丸のかたちをした、簡略を極めたポーンに話しかけてみた。彼はさきほどシーザーを演じていた。ミイラがやれやれ、と肩をすくめている。
    「ミスター? ……いちばんやすい駒にミスターって、まあいいか。おい、よろしいか」
    「ブルータス、おまえもか!」
     おどろきと、かなしみ。いかりにさきだつシーザーの血ぬれた哀切のさけび。
    「お、……おお~」
     ヴァシリは気圧された。顔もつくってもらえなかったポーンのどこからこんな迫力がでる。
    「……ちょっと、おたずねしたいのだが」
    「ブルータス、おまえもか! ブルータス、おまえもか! ブルータス、おまえもか!」
    「なんだ、こいつ」
    「あら、むだよ」
     世界中の色気を濃縮した、低くも高くもないメロディアスな声は、殺されかけのアフロディーテから発せられた。大理石のしりをぷりっと向けてくる。
    「この子たちはきまったセリフしか言えないのよぉ。もとはただの木偶の坊だったところに、このあたしが、百年かけてセリフを教えこんだの。ふふ、だから役者として完ッ璧。すてきでしょ? ここはあたしのための完ッ璧な劇場なんだから!」
     女神の遊び場――! 首にクイーンの駒をぶらさげた女神に、反応しきれない。ぽかっ、とくちがあく。
    「あらネコちゃん。フレーメンしちゃってるじゃない。あんたのフェロモンけばすぎって」
     こんどはゆったりした低い女の声。熟女だ。アフロディーテからきこえたのか。ちがう、その首を絞めているオセロー。クイーンの駒だ。象牙色だったクイーンが、みるみる白と黒をまとっていく。彩度がないのにけばけばしい。
    「やだぁ、いみじかるべきぃ」
    「あんたホント……語彙がババアよ」
    「え、いみじって今どきの子言わなくなっちゃった? チョベリバ?」
    「ヤバイ、でいいんじゃない?」
    「だめよぉ、だめだめ!」
     アリとゾウほど体格のちがうふたりだが、言いたいことを言いあえる友人関係のようだ。ほかの美術品はプログラムを組まれたように演技をつづけている。好き勝手に動いてしゃべれるのは、ここではこのふたりだけのようだ。
    「ふうん。すてきな坊やね。おちびちゃん、がんばるのよ」
     クイーンには悪魔の妖艶さがある。犬が百匹でるやつのババアみたいだ。がんばれ、とからかわれたのはミイラのほう。おちびちゃん? じゃあ私が、すてきな、ボウヤ?
     ミイラはあのちょっとブサイクな上目づかいで、くちをとがらせている。
     愛の女神はヴァシリにウインクする。
    「この子も水分六〇パーセントの肉体に慣れてきたら、あたしみたいな桃尻になるから、楽しみにしてなさいよ」
    「あんたのはでかすぎ!」
     クイーンがげらげら笑い、女神がぷりぷりおこる。ポーンはまだブルータスをさけぶし、唐三彩の将軍は、まだ生きるべきか死ぬべきか考えている。
    「なんだこれ……」
     ミイラはヴァシリを小突いた。 
     てまねき。爪は桃色だ。
     これを見ろ、と示したのは『マクベス』。かなりふるい版、紙は風化したカゲロウの翅のようだ。たよりないもろさが、ミイラのゆびふりでけなげにみずからページをまくる。文字が宙にうきあがる。
    ――To-morrow, and to-morrow, and to-morrow. Creeps in this petty pace from day to day. To the last syllable of recorded time.
    「明日、明日、また明日と、ちっぽけな歩みで日々は過ぎ、やがてそのとき、さだめのとき、最後のときがおとずれる――?」
     ミイラのひとさしゆびが魔術的に踊る。あの棺で見たダンス。鉛はあらわれない。うきでた文字が、緋色に明滅しだす。
    ――To-morrow, to-morrow, to-morrow.
    「明日?」
     ミイラがうなずく。
    ――To-morrow, to-morrow.
     緋文字に火がつく。
    「明日……、あしたも来いということか?」
    ――To-morrow.
     ボッと燃えあがり、灰はまたたきをゆるさず消えた。
    「は? もう、あしたの約束?」
     こくん。これまででもっともはっきりうなずいた。
     ゆびさすほうは、出口だ。
    「は?」
     帰れって?
    「は?」
     どうして私だった?
     今日はなんのために?
     二発くらっただけなんだが?
     動く美術品の不思議は?
     え?
     あした、と伝えるためだけに、この騒がしい劇場に連れてきたのか?
    「はぁ?」
     シャワーを終えて、腹をいっぱいにして、ダイアナ特製カモミールのかおりの枕にしずんでも、ヴァシリは納得いかなかった。

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