シンクちゃんinザンクティンゼル「シンク、シンク!」
突然グランが興奮した様子で立ち止まりシンクの腕を引っ張る。
森の中のいくつもある巨木の一つを指さしておおげさにはしゃいでいる。
「見て!木!あれクワガタ」
「え、どれ……」
グランの興奮がシンクにはわからなかった。
逆にグランもなぜシンクがクールなままでいるのかわからなかった。
恐竜の時代から男の子はカブトムシとクワガタが好きなのに。
商人の艇の積み荷に交じってきたのか。
ザンクティンゼルにはいない大きなクワガタが大木の真ん中あたりにとまっている。グランは身振り手振りを交えてシンクに説明したが熱意はあまり伝わらなかった。
シンクはクワガタが何かわからない。
グランが指さす木に止まる黒い虫の名前なのはわかったがそれだけだ。
虫は虫である。嫌いでも苦手でもないが好きでもない。
そんなシンクにグランが甘えた声を出した。
「シンク、ね、捕まえてきて」
「えっ」
正気か?
虫だぞ?捕まえてどうするんだ?
しかしグランの目はキラキラと興奮して光り輝いていた。
上目遣いで見つめられてグランに甘えた声を出されて抵抗できる者などいない。
「お願い、僕木登り禁止にされちゃたから」
グランが頼むものだから、シンクは虫など触るどころか捕獲したこともないのに頷いた。
グランはよほどあの虫が好きなのだ。
グランの望みなら自分にできることは全て叶えてやりたい。
幼い大きな瞳にうつる期待に答えたい。
木登りは簡単にできる、虫が飛ぶ前に捕まえることもできるはずだ。
頷いたシンクは聳え立つ大木でも器用に登りはじめた。
シンク自身気がついていないが。
うまれてこのかた虫取り、虫相撲など多くの子供たちの遊びに興じたことがなく、虫に触れる機会はなかった。
毒虫は毒にも薬にもなり、扱う家系がカルム一族にもあったが、長の家系ゆえに座学で済まされていた。
虫の儚さなどまったく知らないシンク。
常人にはない運動能力と膂力で、グランのために絶対に捕まえてやると意気込んで手を伸ばして握りこんだ。
ので。
シンクの握った拳から、ぐしゃっと潰れる音と白い液体があふれ漏れる。
ちぎれた黒い節足がピクピク痙攣しながら地に落ちた。
おそるおそる拳を開く。
黒い甲殻の破片と白い綿のような液体だけがシンクの手のひらに残った。
木の下にいたグランは落下してきた残骸をみて何が起きたかを悟り、声も出なかった。
自分の手のひらで小刻みに動いていた節足がやがて力を失っていくのを見ながらシンクの目からも光が失われた。
またやってしまった。
どうして自分はこうなのだ。
壊すこと、殺すことしかできない。グランが欲しいと思ったものを手に入れることができない。
自分のことを受け入れてくれる人たちに出会って、自分の足で歩きだしたと思っても
本質は何も変わっていない。
シンクが落ち込んで降りてきたのでグランは心配になった。
クワガタは残念だったけど、シンクの折れるように垂れ下がる耳を見て、地面の残骸は……見なかったことにした。
「シンク大丈夫?井戸で洗おう」
「すまない……」
ベタベタの手を拭うこともせず、ぼんやりと手のひらを見つめるシンクが心配でグランは遊びに行くのをやめて村に戻ることにした。
シンクはトボトボとグランの後をついてきている。
グランは歩く速度を落としてシンクと並んだ。たぶん、こうした方がいいと思った。
「虫の形は覚えた、今度はうまく捕まえるから……」
人は落ち込むとどうして下を見るのだろうか。
シンクは背中を丸めて力なく歩いていた。
グランに捕まえてきてやると言って失敗した。失望されたらどうしよう。
もうシンクには頼まない、優しいグランはけっして口にはしないけれど心の中で思ってしまうかも。
シンクは奈落の底へと沈んでいくようにぐるぐる考え込んだ。
「え、クワガタ知らなかったの?カブトは?」
「わからない」
首を振る。カルムの郷には薬草や毒草が生えており虫の数は少ない。
虫自体をシンクは幽閉された座敷牢の窓の外やたまに許される外出の時に姿を見ただけだ。
毒虫以外に詳しくなる必要はない、だからクワガタ、カブト、蝉、バッタ、カマキリ……虫が苦手でなければ外遊びで触れるそれらに触れたことはない。あの男と共にいるときも虫について学ぶ機会がなかった。
「……ミ、ミヤマは……?ヘラクレスは?この島にはいないんだけど」
「……誰かの名前か?」
グランはショックだった。たとえこの島には生息していなくても図鑑の中にいる大きなクワガタや大きな体と立派な角を持つヘラクレスオオカブトは子供ならだれもが憧れると信じていた。
「お、オオクワ……」
「大きなクワガタだな」
そうだけど、そうじゃない。
シンクは大切なことを学んでこなかった。それはグランの父親も教えていない。
大問題だ。
「シンク、僕の部屋に図鑑があるから今夜見ようね!」
「あぁ。クワブトの姿も覚えたい」
違うよ!と叫んでしまいそうだった。しかしこらえる。
シンクはとても重症だ。それをどうにかできるのは自分しかいない。その使命感がグランを奮い立たせた。
よくわからないがグランは落ち込んだし失望していない様子で、シンクも安心した。
定期的に掃除をしているグランの父の部屋には大きな本棚にぎっしり本が詰まっている。
書斎も兼ねているのだ。
グランは持ってきた踏み台に乗った。
「昆虫図鑑はね、これ」
ランプを棚に置いてグランが分厚い本を取る。
隣には植物、動物、魚、鳥……一通りのラインナップが並んでいる。
色あせていて端がボロボロの本は、代々受け継がれてきたようだ。
図鑑のほかにも背表紙のタイトルを読んでいくと多くの小説や農業に関する書籍、空図などいろいろな本がある。シンクは思わず目で追っていく。
「たくさんあるんだな」
「うん、父さんが集めたのかな?よくわからないけど」
「あの男の……」
「父さんって本を読む人だった?」
「俺の前では……ないな」
「じゃあおじいちゃんとかかな?会ったことないんだけど……あ、これね、僕のお気に入りなんだ」
グランは本棚の中から一冊の本を取り出した。
図鑑よりも薄いが十分な厚さがある。表紙には騎空艇を背景に古めかしい格好の男がポーズを取っている。
小説か絵本のようだ。
グランは図鑑の上にお気に入りの本を重ねて持った。
「図鑑は読まないのか?」
「図鑑も読むよ。今日は早めにベッドに行こう」
その日の夜は早めにベッドにグランに連れていかれた。
ランプに火をともして二人でベッドの上に寝転がる。
ビィはベッドに行く気はないらしく、1階にいるままだ。
ベッドの上で体をくっつけあって昆虫図鑑をめくっていく。
「クワブトはどれだ?」
「そんなのはいないよ」
グランはページをめくっては虫の名前とそのかっこよさや、積み荷に交じってこの島に来たことがある種を熱心に語った。残念ながらザンクティンゼルの冬を乗り越えられる虫は少なく、他の島からきた虫はだいたい死んでしまう。
「シスも見られるといいね」
「あぁ……」
「これ!これがミヤマだよ。たまにね、積み荷とかに乗ってくるんだ」
グランが指さした先に茶色のクワガタの絵が載っている。
「それでね、これがヘラクレス実際に見たことないけどかっこいいよね」
グランは数ページを一気にめくった。胴体が黄緑色の長くて鋭い角をもるカブトムシが描かれている。グランの興奮はマックスだ。
黒い角がカッコいい。全空で最大の大きさに育つ。そう熱弁した。
でもシンクには全部同じに見えた。
それよりもグランの顔が近くにあって、枕の上に本を置いて身を寄せている今の体勢がこの上なく好きだと思った。
グランが自分の好きなことを教えてくれる。
肩をぴったりとつけて、すぐ横にグランの顔があって。
布団の中でぬくもりを感じながらのこの時間が好きだと思った。
「ね、ぼくのお気に入りの本一話だけ読んでいい?」
「いい」
もうすぐ眠る頃間。眠気を感じているのは自覚しているがあまりにもこの時間が幸せで終わってほしくない。
グランのお気に入りは。空の蒼が印象的な絵本だ。
1ページごとに主人公の男が艇に乗り冒険する姿が描かれている。
「人生は冒険さ~空図はないけ~れどふんふーん」
グランはご機嫌に鼻歌交じりでページをめくっていく。
それは心の羅針盤にしたがって旅をする騎空士の御伽噺だ。
第一話は主人公が周囲に応援されながら旅立つ話だった、宝石や黄金よりも価値のある宝が空の向こうにまっている。そう語りながら青い空に騎空艇で旅立っていった。
第二話を見ようとしたところでビィが下の階から上がってきた。
「おい、そろそろ寝るぞ」
「もう一話だけ~」
「明日起きれなくなるだろ~」
「は~い……次の話は明日にしようね」
「あ、あぁ」
明日もあるのか。
またこんな風にベッドの上で眠ることなく話をして本を読んで。そんな時間があることが嬉しかった。
「父さんもこんな冒険をしているのかな」
グランが無邪気に問いながら名残惜しそうにページをペラペラめくっていく。
挿絵には大きな鳥や檻に入れられた巨人の姿があった。この物語の主人公の冒険もさぞ危険に溢れているのだろう。だがあくまでも創作だ。
……グランは、自分の父親の旅が子供を連れていけないほど危険なものだとわかっているのだろうか。
思い返すとそんな説明もあの男はしていなかった。
「……シンクの頭のつむじはじめて見れた」
グランより背の高いシンクの顔や頭を見られるのは椅子かベッドの上くらいだ。
寝るときはベッドに入ってすぐに寝てしまうから、グランはようやくシンクの耳がこの島に来た頃よりも大きくなっていることに気づいた。
「耳って大きくなるの?」
「そう、なのか……?」
「髪の毛がつやつやしてるからそう見えるのかな?」
「鏡を見ないからわからない」
グランはシンクの獣耳をじ~っと見て、そっと両手を伸ばした。
耳を触ろうとしている。わかったけれど抵抗する気はなく、シンクは触りやすいように顔を傾けて耳を差し出した。
「やわらかくてあったかい」
「耳だからな」
「ふわふわしてる」
「お前が言うならそうなのだろう」
自分で触ることがないからわからないが。
この村にきて、安心して眠れる場所に辿り着いた。
カルムの郷やあの男と過ごしてきたときにくらべて、栄養のある食べ物があるおかげだろう。シンクの耳はどんどんつややかになった。ぺしょぺしょだった薄い耳もしっかり肉厚になってきていた。
ビィがランプの明かりを消した。部屋の中が夜のとばりが訪れた。
シンクのベッドは冬にはできる。そう薪づくりのおじさんに言われている。
次に商船がくるのも冬の前あたりと言われている。
シンクの部屋にベッドがきたらもうグランのベッドでこんなふうに眠ることがなくなるのか。1階のシンクに与えらえた自室。
そこの小さな棚には本が増え、部屋の中には鉢にはいった植物や村人たちからもらった不思議な置物が増えていた。
居心地がよくてその部屋でゆっくりと、一人で過ごすことがある。
けれど一人で寝たいかと問われると。
自分だけ一階のベッドで眠るのを想像すると嫌だなと思った。
村の皆がシンクの部屋の家具を考えて用意してくれるのは嬉しい。
なのに寂しいと思う気持ちがでてくる。
両立してしまうのだ。
【続
】