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    人気配信者藍良くんとその彼氏の一彩くんがネットの闇でどんどんおかしくなる話(未完)

    #ひいあい
    hiiro x aira

    ◆配信者ラブくん
    本名藍良。巷で話題の個人配信者。元々顔出し無し配信者だったがうっかり顔バレし開き直って顔出し配信をしている。大好きなものはyoutuber。Vも好き。ネット民でメンタルが弱く頻繁に病んでしまうが立ち直りも早い。
    ◆ラブくんのピのヒロくん
    本名一彩。故郷の事を放り出してyoutuberになってしまった兄を追いかけ無一文で都会に出てきた。都会のど真ん中で熱中症になり倒れた所を藍良に助けてもらい、色々な事を教わりながら居候している。
    ーーーーー

    ・9413・
    もはや僕にとって見慣れた光景。お菓子のような甘い匂いの充満する部屋。大きな机の上にあるカメラ付きのデスクトップパソコン。周りにベタベタ貼られたカラフルなハート型の付箋には丸っこい文字でパスワードやタスクメモが書き込まれている。画面に開かれているのは情報量の多い配信サイト。コメント欄には配信を待ち望む不特定多数の視聴者の声が流れ続けている。目の前の藍良……配信者“ラブくん”は、キャスターに座ってキーボードを鳴らし、いつもの挨拶を行った。
    「こんばんら〜ぶ♡ラブくんでーすっそれじゃあ今日の配信さっそく始めていくよォ♡」
    うっすら小気味の良い音楽を背景に藍良は可愛らしい声を出して“ラブくん”として喋り始めた。今日は雑談を兼ねたお勧めアイテムの紹介らしく、カメラに小物を見せつけたり振ったりしてアピールしている。
    それを眺めながら収録範囲内に入らないよう部屋の隅っこに座った僕は色々なレビューサイトを漁っている。藍良が好みそうなアイテムを見つけてはそれがネットショップで入手できるか確認した上でブックマークに入れていく。
    藍良次第だけど、次の配信に使うかもしれないから。それはアクセサリーだったり化粧品だったりする事が多いけど、ちょっとしたオモチャだったりゲームだったりする事もある。初めのうちは情報の大海に脳が洗い流され目を回していたけど、今はちゃんと手に収まるものになっている。端末の使い方すら何も分からなかったけど、全部藍良が教えてくれた。
    しばらく情報の波乗りを続けた後ふと視線を上げると、藍良はコメントを読みあげてはそれに反応を返していた。
    「『どこで買ったの』?フツ〜にアマゾンだよォ、1日で届くしねェ。そうそう、最近置き配出来る様になったから超便利なんだよね……『プレミアムなの?』そーだよォ、むしろ映画とかアニメとか見放題だし送料無料だし入った方が良いよ、マジで!キッズのみんなはお母さんお父さんのアカウント使うと良いよォ……いやPRじゃないし!ちょっ……ウフフッ全然PRじゃないしッお金貰ってないから!わァ、わんちゃんさんスパチャありがとォ〜♡」
    画面に向かって楽しそうに笑う藍良。今日は良い盛り上がり方をしているみたいで僕も嬉しくなる。藍良が幸せだと僕も幸福だ。


    「…………ふゥ。終わったよ〜ヒロくん、もう動いて良いよ」
    「今日は良い雰囲気だったね?」
    「うんっ、いっぱいスパチャ来てるし!ねーパフェ食べいこ〜よォ、おれお腹空いた!」
    藍良はバッとキャスターを引いて首に掛けていたヘッドホンを乱雑に机に置き、脱いだリストバンドをベッドに投げつけて満面の笑みを浮かべている。
    「また晩御飯の代わりに甘い物を食べるのかい?せっかくハンバーグ屋さんなんだから、たまには肉類も食べた方が良いと思うよ。藍良は細過ぎるよ」
    「いいんですゥおれは身体がお砂糖で出来てるからァ〜。ほらヒロくん!早く支度する!」
    僕に向けて大きく振ったその左腕には均等な赤い線が残っている。


    藍良はインターネットで生放送を行う配信者だ。カメラを付けて小物や食べ物やゲームを紹介したり、好きなもの嫌いなもの……他愛無い話を不特定多数に向けて行っている。藍良の可愛らしい容姿と仕草は『ウケが良い』との事で結構人気らしく、視聴者からの投げ銭とアーカイブ動画の広告や案件等で「庶民的ファミリーレストランで好きな物が食べられる程度」には稼ぎがあるようだ。超有名配信者とはいかないけれど、それに憧れを抱きながら、自身のファンとして見てくれる人達のために『とってもラブい』配信を続けている。
    そんな藍良の部屋に僕は居候している。配信者になると言って故郷を出て帰って来なくなってしまった兄さんを追い、連れ戻すべくこのコンクリートの樹海に降り立ったものの、結果的に僕は路頭に迷ってしまった。食べられる草もなければ身を隠せる木も無く、身一つの僕は都会の洗礼を喰らった。兄は見つからず、慣れない気候に心身の不調が嵩み、暑すぎる大都会の熱帯夜に負けて倒れていた僕を懸命に助けてくれたのが藍良だった……


    スプーンを咥えながら藍良は僕のつけたブックマークを確認している。顰めっ面になったり笑顔になってくすくす笑いだしたり忙しくて愛らしい。味の濃いハンバーグを口に運ぶとチーズが皿からものすごく伸びて、それを見て藍良はにやにやしながらカシャリと写真を撮った。
    「ゥフフッ。原始人、チーズに困惑する」
    「んむ」
    「ヒロくん美味しい?美味しいかァ、良かったねェ……好きなだけ食べなよォ、ポテトも頼んで良いよ」
    「ううん、流石に出してもらうばかりじゃ忍びないから食べた分は自分で出すよ?」
    藍良は急に寂しそうな顔をした。そしてだんだんジト目に変わり、「ヒロくんのくせに」と呟いた。
    「そんな余裕あるのォ?ヒロくん、バイトしてないんだから無いよねェ?」
    「それは藍良が……」
    「いーよォ、大人しく奢られてくれれば良いっ。おれの為と思ってよ。ね?」
    机上で手を重ねられる。首を縦に振った。こっちに来たばかりの頃色々……あったから、微々たるものといえ自分の食事代も出せないほど持ってない訳じゃない。体力と力だけはあるから日銭の為に働く事も考えたが、家主の藍良に許可を得ようとしたところ猛反対されたのだ。彼がノーと言うことには大抵理由があって、それは僕が未知の常識によるものだったり、藍良の可愛い我儘だったりする。どちらにせよ、藍良がやると言ったことには僕は従うばかりだった。都会の掟は馴染みがないし、彼は恩人だ。


    ・13425・
    バキッ、と何かが壊れる重い音がした。僕が驚いて顔を上げると藍良が顔を真っ赤にしてヘッドホンを机に叩きつけ、弦の部分をへし折っていた。始まった。僕は携帯端末を床に放り投げる勢いで置き咄嗟に藍良の側に寄る。
    彼の手には既に剃刀が握られていた。デリケートな顔を剃る物で、肌の傷を防ぐ為にガードがギザギザについている物。それでも刃物には変わりなくて、藍良はそれを横に強く引いて肌を傷つける癖がある。普通の刃と違って傷口が潰れるのか相当深く傷つけているのか、藍良の腕はいつまで経っても傷が遺っている。
    「藍良……」
    「〜〜〜〜〜〜ッッ……んン"うッ……」
    「藍良、やめなよ」
    声にならない甲高い鳴き声をあげてブルブル震えている藍良の腕を掴み……特に剃刀のある方を強く握る。か弱い藍良の手はぽろりと刃物を手放して、床に落ちたその危険物は蹴って部屋の隅に追いやった。……焦ったせいで元からある傷痕に爪が食い込んでしまったらしく、開いた生傷から鮮血が流れだしていた。
    「イ"ッ……あ"、ぐ、」
    「ごめんよ。でも落ち着いて、駄目だよ切っちゃ……」
    藍良には自傷癖がある。何かに怒りや苦しみをぶつけて物を壊したりする事は理解ができる。でも自分を傷つけるなんて非合理的な行動は、僕は理解できなかった。自分を傷つけても更に苦しい思いをするだけなのに、藍良はそれをやめられない。
    「ん"、にィ"ィい、ア"ぁぁああ"あ"ぁ…………!」
    「大丈夫。大丈夫だよ藍良。安心して」
    動物のように呻く藍良を強く抱きしめて背中を叩く。こうすると心音が聴こえて落ち着くんだと兄さんから教わった。神経の昂った藍良は腕から抜け出そうとしているものの、細くて筋肉の無い身体にはそんな力は無い。
    「何か酷いことを言われたの?」
    「フッー……、ッふ、ふゥゥウッ……ッウゥウ……」
    「大丈夫だから、僕が居るよ。落ち着いて」
    配信後やツイッターアカウント上で何かあったのだろうか。藍良はこうして発作のようなものを起こすことがあった。初めて見た時は僕はとにかく発狂して流血する藍良に驚いて、慌ててベッドに押さえつけることしかできなかった。
    落ち着いてから原因を聞くとそれは些細な誹謗だったり強い言葉だったり、はたまた好きなチャンネルが閉鎖する事だったり多岐に渡る。大きな理由無く漠然とした不安感でこの状態に陥ることもある。……本人曰く「時々病んじゃうんだ」そうだが、僕の観測する限り頻繁に病んでいるような気がする。

    胸元の抵抗がなくなって唸る音が聞こえなくなると藍良はもぞもぞと動いて僕を上目遣いで見る。そしてバツの悪そうな顔で目を泳がせ、小さく呟き始めた。
    「……ゴメン。おれ……」
    「ストレスが溜まってるんだよ、藍良は頑張り屋さんだから。ただ自傷するのは良くない。他のことで発散できないかな?」
    「……血が出るとスッとする。おれの中の苦しい物が外に出るみたいに感じるんだ。歌っても怒鳴ってもダメ。今日もヘッドホン、壊しちゃったけどやっぱり……、それ以外方法、無い……」
    すん、と鼻を啜る音がする。少し鉄の臭いが漂う。
    「ああでも、吐きグセでも付いたらちょっと変わるかも。ダイエットにもなるし……」
    「それもちょっと良くないかな……何より胃液で喉が荒れたら喋りにくくなってしまうんじゃ?」
    「それは困るなァ……おれ、配信出来なくなったら意味ないもん」
    正しくは、これ以上細くなったら心配になるのが本音。居候しているから家主に倒れられると困るとかそういう理由じゃない。僕は純粋に藍良の事が心配だった。
    配信中の藍良……“ラブくん”には、インターネットアイドル的なキラキラして可愛く愛らしい姿しか無い。現実の藍良は愛憎も怨嗟も嫉妬も在る人間だ。明るい面だけを多少無理して創り上げた分、影が凝縮されてどす黒い物がこっち側に出てきてしまっているように感じる。
    本物のアイドルなら事務所という後ろ盾があって仕事として成り立つけど、ラブくんはたった一人で応援も批判も中傷も全部笑顔で受け止めている。腕を切るのは、そういうドロドロした感情を触覚、視覚的に外に出している感覚が欲しいからなのかもしれない。
    僕はそう考察するしか出来ない……自分の腕を切ろうと思った事なんて生きていて一度も無いから。
    「見てくれる人も一万人超えて、その中には酷い事を言う人も居るかもしれないけど……僕は藍良の味方だよ」
    配信はしばらく休もう、と言いかけてその言葉は飲み込んだ。藍良はこれを言うとものすごく悲しむ、し、怒る。だからただ黙って、すっかり落ち着いた様子の背中を撫でた。興奮した後だからか暖かい。
    味方、という言葉を何度か呟いて咀嚼して、藍良はフフっとはにかんだ。
    「ヒロくんにしかこういう所見せられないから、おれは甘えちゃうんだねェ」
    「ウム、根本的解決は出来ないけど……僕は藍良を応援してるし、同時に心配に思っているよ。力になれるなら何だってする」
    「なんでも?」
    「僕が出来ることの範囲なら。もちろん出来ないことでも、努力すれば達成できるなら努めるよ」
    「じゃあさ……、……。」
    何かモゴモゴと口籠っている。急かしたりしたくはないから、態度は変えずにじっと次の言葉を待つ。
    「ヒロくんさ……おれのピになってよ」
    「……ピ?それは……どういうものなのかな?」
    「かーれーしー、都会じゃ彼ぴっぴって言うのォ。そんでさ、二人じゃないとできないような配信とかやんの。友達、よりもっと深い意味かな」
    「僕達は既に仲の良い友人同士だと思うのだけど、あえて宣言するということは……それは称号を与えると言うか、結婚のようなもの?」
    「ふっ、あはは、結婚まではいかないよォ。じゃあ言い方変えるね?おれはヒロくんが好き。ヒロくんはおれの事好き?」
    「好きだよ。それに、藍良には恩があるし、尊敬している」
    「ふふふ。おれたち両思いだねェ……じゃあ、今日からヒロくんはおれのピ」
    僕は無知だ。彼氏、という位が持つ意味はよく分からないけど、あえて今宣言する事で何か藍良が満足するならそうするべきだ……都会の分からないことは藍良がいつも教えてくれるから。僕が首を縦に振ると、藍良は頬を少し赤くして満面の笑みを浮かべた。


    ・13125・
    僕は“ラブくんのPのヒロくん”という形で配信に登場するようになった。……その御披露目配信とやらは盛大に荒れた。ラブくんには今まで綺麗な愛され体質のキャラクター性しか認められていなかったから、ピ?というものが存在していることが信じられない人が多いらしい。恐怖感を得るほどの……僕が見ても酷いと思えるコメントを連投するユーザーもいくらか居た。配信終了後、落ち着いてからそれを未だ慣れない手つきで全てブロックリストに入れ、次回からはそういったユーザーのメッセージは流れないようにする。この操作も覚えたばかりだ。僕は藍良のピとして共に活動する為、今まで以上に横文字や聞き慣れない単語を短期間で叩き込む必要があった。
    生配信で悪意のあるメッセージを流さないようにする事は、ファンとして味方をしてくれたり初めて見る人を嫌な気持ちにさせない為の配慮らしい。悪い事を放置しているともっと悪い事をしていいと勘違いされてしまう……割れ窓理論というそうだ。だから取り締まる。今までは藍良が精神力に余裕のある時にしていたようだが、最近は僕が担当するようになった。やっている事は半分『プロデューサー』?という物に近いと思う……多分。
    『Pって何のP?』『カレピじゃん』『裏切られたオタク達』『チャンネル登録解除するわ』……色々寄せられてるけど、『応援してます』『めっちゃタイプなんだけど』といった肯定的なコメントも少なくない。『幸せならOK』というメッセージと共に……投げ銭の上限額が投下されたりもした。

    ……配信後。トイレや夜食の為に藍良が退席したらすぐにTwitterを確認する。一緒に配信する上では告知もあるしアカウントへログインできる方が良いとしてパスワードを教えてもらっていたから、それを使って容易くTLを表示する。右も左もわからなかった頃が懐かしいと思ったけど、そんなのつい2,3日前のことだ。インターネットに触れていると自分の中の時間感覚が目まぐるしく早くなる……これが藍良が配信に執着する理由なのかもしれない。たった3日更新されないだけで、もうずっと長い事アカウントを放置したように感じてしまうんだ。
    TLには藍良の好きな配信者が沢山の告知ツイートを流している。それよりも目的はこっちだ、通知欄。
    通知には良いものも悪いものもある。初めて見た時、いっその事こと何も来ないように僕は設定を変えた。勿論やり方を検索して、こっそり行った。すぐに藍良から「応援してくれる人もいるでしょ」と言われ、通知は元に戻された。だからこの一覧には優しい言葉も嫌な言葉も全部刻み込まれている、直接。配信中の川の流れの如き言葉と違って、見せつけるようにこびりついている。
    『ラブくん今日の配信お疲れ様です!いつもラブくんの元気いっぱいな姿に励まされてます♪』『配信通知来てすぐすっ飛んだ』『本当にいつもありがとうございます応援してます』『ラブくんマジ天使』『可愛すぎない……?』……ツイートの真下にくっついてるのは大抵こういうコメントだ。彼等はラブくんのチャンネルに張り付いていて、すぐに反応を残してくれる。僕も見ていて元気が出てくるし、藍良がこれだけ沢山の人に受け入れられているのは見ていて嬉しくなる。こういうのは良いんだけど。
    『相変わらずブス』『本当にこいつキショい、無理した隠キャオタク』『顔が可愛いだけの無能じゃん』『急にピとか出されても冷めるだけなんだよ。もう何のネタやっても自慢にしか見えない』『彼氏とのエロ配信まだ?』……ツイートを参照する形で直接投げかけられている、こういうコメントは少し怖い。
    客観的に見れば。容姿を単に非難する中傷はともかく、至らない点や批判は自分の足りない面を指摘してくれるものもあるのだから、参考材料として受け取って自分をより良くする事が最も健全なのだと思う。
    でも……藍良はこういうのをずっと今まで一人で溜め込んで、腕を切ったり物を壊す癖がついたんだろうから、今更見れば見るほど腕の傷が増えるだけだろう。目の前で言われるのと違って相手の素性が分からないからこそ、そこに含まれている悪意というのは恐ろしい。
    だから藍良の見るこのアカウントで少しずつ嫌な物をブロックする。好きをみんなにアピールして、好きな物をみんなと一緒に追いかける為に使ってるんだと言っていた公式アカウントで、見たくないだろうと判断した物を弾いていく。
    ブロックするたび汚い言葉がプチリと通知欄の間から消えてなくなっていくのはまるで害虫を潰してるみたいだ。姿や音色の美しい保護して愛すべき虫ではなくて、猛毒を持っていて自分や家族を刺して大変な病をばら撒くような、滅するべき害虫。それが自分の指先一つで消えるのは、この手で潰していると言っても過言じゃない。………………少なくとも、この言葉の向こうには人間がいるはずなのにな。
    どうしてこんな事思ってしまっているんだろう。純粋な敵と見做すべき人間ばかりじゃないことは分かってるつもりなのに。チクチクした言葉ばかり注視しているせいで、僕まで感化されているんだろうか?見たくないのは藍良じゃなくて、僕の方なんじゃないか?
    「ヒロくん」
    「……、うん?」
    藍良の声に肩が揺れる。すぐ側に立って、感情の読み取れない真顔で僕を見下ろしていた。いつもなら気配で戻ってきたことに気づける筈なのに……夢中になってしまった。
    「どうしたの、藍良……」
    「ブロックしてるでしょォ?アンチとか」
    「……藍良が見たら傷つくと思って」
    「ダメ。全部解除して」
    「どうして?」
    藍良は大きなため息をついた。無表情から、いつもよく見せる呆れた顔になって僕は少し安心する。
    「あのねェ。そうやって安直にブロックすると逆効果なの。ブロックした所で複アカ使えば見られるし。わかるかなァ、分かんないよねェ。アンチに一番効くのって無視なんだよ、無視」
    でも、藍良は無視しきれてないんじゃないかな……その言葉は飲み込んだ。それは今置いといた方がいい。
    「見ないようにした方が良い、と思ったんだけど……」
    「いーんだよ、気にしないよーにしてるもん、アンチ粘着してるの、……いつもの事だし。悪口言う奴なんて大抵自分が言われて一番ヤな事言ってるに過ぎないしね。ただそれ以上に!」
    グッと襟元を掴まれる。布が引っ張られて藍良が愛用している柔軟剤の甘い匂いが弾けた。
    「黙ってヒロくんがそういう事やってんのが嫌!アカウントいじるならおれが横に居る時にして!おれの味方なんでしょォ?!」
    「ご、ごめん。もうしないよ」
    「ほんとに?」
    「ウム。約束する」
    「……約束」
    パッと胸元のか弱い圧力が無くなる。手を離した藍良は寂しそうな笑顔を浮かべている。
    「ヒロくんは、おれの味方だからこそやったんだもんね……それはよく分かってるよ」
    こっちこそごめん、と謝られる。謝って欲しいわけじゃないんだけど、藍良は罪悪感があるみたいだった。僕はブロックリストを解除していく。……本当にこれで良いのか、なんて自問は藍良が良いというんだから良いに決まってるのに……不安が胸につっかえている。


    ・15102・
    何だかんだいって二人配信も安定してきた。前よりもゲームをする事が増えて、操作のおぼつかない僕に藍良がノウハウを叩き込んでくれて、下手だった僕がいつのまにか藍良よりスコアを出すという一連の流れが出来つつあった。見ている人達にはそれが面白いらしく、『ラブくんは可愛いだけじゃなく面白い』という、良い……良い……?風潮が生まれていった。笑いというのは攻撃性と同じ。果たして笑われる事が良い事なのかは分からないけど、人に笑顔を届けていると思うと……たしかに悪い事ではない気はする。投げ銭は減ったけどアーカイブの再生数が伸びている。チャンネル登録者も増えて、同接も前より多い。
    藍良は初めの頃あくまで「ぴー」と暈していたけど、『明らかに彼ピッピじゃん』と指摘された通り、僕達はそう見えるようだし、実際非常に仲の良い友人だった。『カップルチャンネルとして作り替えなよ』というコメントがあるくらい、そういう方向で受け入れた人が沢山流れ込んできたのもあると思う。そうなるとやっぱり増えるのはそういう声。
    「コメント読んでくよォ〜……『二人は初エ……』こら!何コメントしてんのこれっ?!そういうのラブくんのチャンネルは禁止ですっ!あとそういう関係じゃないからッ!ヒロくんも怒って!」
    「ウム。風紀を乱すような発言は良くないと思うよ。チャンネルがバン……?される事もあるそうだし」
    「本当それ!次!『ヒロくん苦労してそう』『ヒロくん尻に敷かれてる』……今日こういうの多いなァ〜?」
    「どちらかというと僕が、……ラブに迷惑をかけているかも。都会の事もネットの事も全然分からなかったんだけど、みんな彼が教えてくれたんだ」
    危うく藍良と言いかけそうな所をぐっと飲んで言い換えた。コメント欄が盛り上がっている。その中に色付きのコメントで『ヒロくんはラブくんのことラブいですか?』と流れてきた。これは投げ銭コメントで、チャンネルにお金を入れてくれた人のメッセージ。藍良からはあからさまな暴言じゃない限り絶対反応した方が良いと教えられたものだ。
    ラブい……藍良の口癖。前にそれの意味を聞いた時、愛してるという意味だと聞いた事がある。愛とは信頼し尊敬がおける人や物に対して抱くものだ。僕は家族や故郷、兄さんを愛している。そして今聞かれているのは恩人であり彼氏という称号を与えてくれた友人の藍良。僕の答えは決まっている。
    「ウム、愛しているよ!」
    その瞬間、パンと背中を引っ叩かれた。コメント欄は今日一番流れが速くなり、藍良は真っ赤になって笑っていた。

    配信はそのあとすぐに終わりになった。藍良が適当に締めて即座に切ったと言った方が正しい。俯き加減に僕から顔を背けて震えている。
    「何かまずかったかな……?」
    「まずくないよォ、まずくないけどさァ……恥ずかしいっていうか……や、違う、何だろう、複雑」
    僕はその震えが今までに露出していたような怒りや悲しみのせいではない事に気づいた。
    「ごめんよ、ラブいかどうかと聞かれたらそういう事かと思って」
    「違う、違うよ?謝らないで。全然嫌じゃないんだよ?うーんと……そう、そういうのはさァ、みんなの前じゃなくて、おれだけに言って」
    「藍良だけに……?」
    「そう。おれだけに。好きって言った時みたいに、おれの目を見て言って。」
    顔をあげて藍良が振り返る。赤いままで、目元が少し濡れている。
    「“ラブくん”はアレでいい、みんなの物だもん、あんなんでいいけど……、おれは満足出来ない……」
    おれの事も愛してる?揺れる瞳で射抜かれて僕は目の奥が熱くなる。どうしてなのかわからない。僕は現実と仮想を区別するつもりは無いのだけど……藍良は僕に特別を求めている。
    「愛しているよ、藍良。ラブくん、じゃなくても、ラブくんでも、藍良は藍良だ」
    「…………ヒロくん」
    「うん?」
    「ぎゅーってしてェ」
    とろけるような嬉しそうな顔で藍良は僕に向かって両手を広げた。だから強く抱き締める。藍良の鼓動がすごく早くて、細くて柔らかい身体が熱くて……僕まで溶けそうだ。


    ・15651・
    見知らぬ人が投稿した切り抜き動画へ一つずつ削除申請を出す。短い動画は再生されやすくて再生数を奪われるのだという。案件類への返答は藍良が自分で行う。情報の検索、削除申請、ラブくんの口調を模した動画の告知、僕もできる事が増えて沢山の情報を打ち込むようになった。ローマ字に馴染めなかった代わりの、かな入力でのキーボードの打ち方も安定してきた。
    「ヒロくん〜」
    「どうしたの?」
    背後から肩に体重がかかる。柔軟剤の甘い匂い。首筋に暖かい吐息と喉でかすかに笑う声がかかる。
    「ふふふ、くすぐったいよ」
    「ヒロくんのにおいがする〜、ヒロ臭」
    「それって臭いって事?」
    「いや、なんだろ。いい匂い……って言うのは悔しいなァ、なんか。でも臭いとかじゃなくて……分かった、落ち着くんだ。落ち着く」
    褒めてるけど褒めてないからね、と大矛盾をかまして頬を突いてくる藍良が可笑しい。藍良は今まで以上に身体をくっつけて甘えるようになった。配信をしない昼間の時間は睡眠、動画編集、情報収集、ネタ探しの外出……兄さんを探す事……にあてているが、その合間にはこうして情報の海から抜け出しゆっくりした二人の時間を感じている。

    配信が終わった後海外の恋愛ドラマをお菓子を囲んで見るとき、大抵藍良はクッションを鷲掴んで足をばたつかせている。僕にはまだ理解しきれない感情だと伝えると、「ヒロくんはお子様なんだよねェ」と言われたが、年齢は藍良の方が下。些細な強がりが可愛らしい。
    「うわー、これ甘すぎィ……恥ずかしくなってきた」
    「甘い……?このポップコーンは塩味だよ?」
    「違うよォ、ドラマの方!役者さんのこと!だってあんなセリフ吐きながら後ろから抱きつくの、このシチュじゃ、もう、良すぎっていうか……反則だよォ。こんなの好きになるに決まってるじゃん」
    「成程……実践しても良いかな?」
    「は!?えっ!?ふにゃああ!?ち、近いっ!やめろォ許可出してませんーっ!反則反則ッ!」

    ……はたまた怖い映画を手を握り締めあって見ることもあった。ホラー映画とかスプラッター映画とか、藍良は僕を怖がらせようとしていたみたいだけど自分の方がビクビク怯えていた。たしかにそういった映画は大きな音等で人を驚かせるための演出が強く含まれているから驚きはするけれど……僕が怖いと感じるものの方向性は違うかも。
    「ああ〜〜〜っ絶対くるっ、振り返ったらいるッ!絶対くるよこれェ!手握っててェ!」
    「ウム、勿論。でも藍良、怖いものは苦手なんじゃ?どうして見ようと思ったの?」
    「だ……だって、ヒロくんと一緒じゃなきゃ……怖くて見られそうに無いし……」
    「フフ。そっか」
    「わ、笑うな!!こっちは真剣なんだよォ?!」

    二人で過ごしながら、次の配信はあんな話をしたいとか、この映画を紹介したいとか、目を輝かせる藍良に相槌を打つ。
    配信は視聴者と対話する形であれば今まで通り藍良一人で行って僕は裏方にまわるし、ゲームやおもちゃ、テーマを決めた会話等二人必要なら僕も登場する形に落ち着いた。

    そのスタイルが確立してから数日後、藍良はずっと好きだという憧れの配信者とのコラボが決まった事を飛び跳ねながら報告してきた。喜ばしいことだ。
    「ね!ね!ヤバくない!?まさかこんな日が来ると思ってなかったよォっ、ビックリしたほんとにっ、有名人だから認知されてるとも思ってなかったしっ……」
    「ウム、彼がどれ程著名かは数字が物語っているよね……!良かったね、藍良!」
    「ウフフっありがとォ!ずっと夢だったなァ、こーいうの……配信やってて良かった〜!」
    僕も嬉しかった。藍良があまりにも嬉しそうだし、楽しみだった。それから配信予定日三日前まで藍良は「病む」事が無かったんだから、本当に凄い影響力だ。


    ……コラボ配信三日前。とある有名暴露系配信者が『ネットの闇』生放送を行った。槍玉に挙げられたのは藍良が大好きで敬愛する配信者で、三日後にコラボを企画していたその人だった。
    『ー……そう。彼はガチガチの出会い厨だった訳。しかも学生相手……犯罪だよ?!自分のファンの子供に手出して、【ピー】撮りで脅して貢がせてたそうです。いやー、ヤバすぎるなーこの事案。証拠出しましょう、被害者のA子さんとのLINEです、ハイ。この後通話の録音もあっかんね。』
    渦中の配信者はその生放送が終了した次の日、配信サイト及びTwitter等全てのアカウントを削除した。ラブくん公式の、企画の概要を話し合った楽しげな記録が残るダイレクトメッセージボックスには“このアカウントには以後メッセージを送る事ができません”と表示された。……不誠実だと、怒りの感情を覚えたけど。それ以上に藍良を思うと気が気じゃ無い。




    真昼間なのに真っ白な曇天、高温多湿、気色悪い空気。日本語としては至極難解な文字が殴りがかれたメモを握りしめ、最寄りのコンビニで買い物をする。水、パスタサラダ、ピンクのエナジードリンク、フルーツジュース。……藍良の大好きなスイーツ、お菓子、菓子パン等適当に自分の食べる物。
    なるべく早足で戻った。本当は一人にしたくなかった。しかしメモを押し付けながら、見開いたあのどす黒い瞳孔を見て僕は出かけざるを得なかった。

    当然嫌な予感はしていた。部屋に入った瞬間肌がざわりと粟立つ。いつもより異常な甘い臭い、纏わりつく泥のような湿度、それに酷く血生臭いのが混ざり合って、住み慣れた筈の一室はとんでもない世界になっている。半開きの遮光カーテンから灰色の光が差し込んでいて酷く薄暗い。出る時は採光の為開けたはずなのに。
    藍良は洗濯をしたらしい。けれど濡れた物を乾燥機にかけず部屋干しにしている。それが甘い臭いの充満している原因だ。床には空になった洗剤と柔軟剤が散らかっている。まだ半分は残っていた気がするんだけど。
    ベッドに腰掛けた藍良の顔は髪で隠れて見えない。血に濡れた指先には赤い剃刀が握られていて、真っ直ぐ前に突き出して静止した腕からだくだくと血が滴っている。モノクロの世界に赤い鮮血だけが色を持って時間が止まったみたいだ。ぽたぽた垂れる小さな水音だけが、時の正常な事を指し示している。

    「……藍良……、ええと……、……。」
    なんて、声をかけたら“良い”のか、わからなくて。でもそうしないと藍良を助けられないから、何とかしようと歩みを進めた結果出た言葉が、「仕方ない、よね」……それしかなくて。
    藍良は顔をあげると笑顔だった。
    僕は細く弧を描くその表情に安堵する……一瞬だけ。よく見ると、それは純粋な笑顔というよりは“恍惚”というような笑みだったから。目を逸らす。腕には久しぶりに深い裂傷がついている。でも、切っちゃダメ、とは、今は言えそうにない。「ねえ」という声に肩が跳ねた。
    「こっちおいでよ、ヒロくん」
    首を傾げる様は、甘えるような声はいつもみたいな可愛らしい藍良そのものなのに、どうしてか胸がざわついて……喉が渇いて仕方ない。しゃく、と袋をその場に下ろして隣に座るとギュウと手を握られる。……ぬるぬるする。白黒に見える視界に鮮烈な赤が映える。直視できない。汚れたシーツ、洗ってももう落ちないだろうな。
    「大好きだったんだァ」
    「……うん」
    「ヒロくんはさ、おれの事……おいていかないよね?」
    「それはもちろんだよ」
    「……えへへェ、嬉しい」
    藍良がもたれかかって来る。ふにゃりと笑う声はすっかりいつもの様子に戻っていて、僕の緊張は解けた。
    「……藍良、救急箱を持って来るから……」
    「ね、腕出して」
    「え?」
    「良いからァ、ほら」
    張り詰めた意識が緩んだ僕は何のことだか分からず繋いだ手を解いて藍良に差し出した。グッと細腕に掴まれて、
    「あ……っ、……藍良?」
    僕は視覚で認識するより早く反射で腕を引いていた。藍良は血塗れの剃刀を向けている。
    「良い事してあげるからさァ、ね?」
    「良い事……なの?」
    「うん、すごい……気持ち良い事だよ」
    それは、藍良が?……僕は腕を斬ることに抵抗がある。それは藍良の自傷に対しても。けど……藍良が僕を切ることで満足できるなら、それはそれで……良いと思う。僕は強い人間になる為訓練されたお陰で痛みに対して耐性がある。ある程度なら耐えられる筈。殴られる事にも、鋭利な刃で斬りつけられる事にも。ただ、柔らかい腕の内側を小刻みに自傷する経験は、流石に、ない。
    「腕、貸して」
    空中でさっきより硬く掴まれて固定された腕に小さな鋸が添えられた。ズズズ、とゆっくり横に引かれて視界が明滅してチラつく。
    ……思っていた以上だった。これ、すごく……痛、い……
    「う"、くっ……あ"ぅ……ッ」
    「痛いの最初だけなんだ。すぐ大丈夫になるよ」
    ドブッと血が溢れ出して、でも刃は未だ藍良の手によって傷の中に進みながら深く裂傷を作っていく。ズブ、ズブ、と身体の中に、鋸みたいに揺れながら鈍が入って来る。鉄の臭いと組織液の生臭いのが痛みと相まって吐き気を感じた。スパッと切れるなら大した痛みじゃない。傷口がぐちゅぐちゅに潰れるように、拷問みたいにゆっくり、ゆっくりと引き裂いているから、こんなに痛いんだ。多分ナイフで刺された方が痛くない。
    粘着質な音をたてて小さな剃刀は腕から離れた。腕に一筋程度の小さな傷なのにドクンドクンと脈打っている。今まで息を忘れていた事に気づいて深く深呼吸した。武道の師匠から攻撃に耐える訓練を受けた時より痛い気がする。
    「ッ……はぁ、はぁ……ぁ、いら、痛い"よ……、い"ッ……」
    たった今できた生傷の少し下に容赦なく次の刃が入れられる。痛い。熱くなったり冷たくなったりが交互に来て、息が詰まって感覚がおかしくなっていく。汗が止まらない。ぐっと足の先に力が入った。
    藍良はこんなことを繰り返していた訳で……どれくらい辛い思いをしていたんだろう?こんな痛みが麻痺するほど?あんなに傷がつく程に。さっきまで確かに感じていた少し怖いという感情が、痛みと混ざり合ってよく分からなくなっていく。
    「ん"、……ッ……う"……ぅぅ……」
    3度目。肉の露出して肌寒くなる感覚がする。そう意識してしまうほど呼吸が乱れて呻き声が抑えられない。ずっと無言の藍良を見上げる。藍良は嬉しそうに目を細めていた。
    ……5度目の刃物が身体から抜ける頃、僕は肩で深く呼吸をしているうちに不思議な感覚に陥った。頭がぼーっとして、ジンジン痛んでいた腕が麻痺したようになって、すごく熱いだけに感じるのだ。
    「ふ、…………っ、……」
    「……うふふ。ヒロくん、ふわふわしてきた?」
    「う……んん……」
    「おれも初めの頃そうだった。今はもう痛いより、そんな感じ。不思議だよね……痛いのが限界になると、頭が溶けたみたいになるの」
    脳内麻薬って言うのかな。そう呟いた藍良の顔が蕩けて見える。僕にハグをしているときみたいに。気持ち良いって、そういう事……?僕は今どういう顔をしてる……?
    「ヒロくんも知っちゃったねェ。ふふゥ、共犯だ」
    「で、も、すごく熱いし……たくさん血が出るし、あまり良い事じゃあないよ……」
    「身体に悪い物は美味しいでしょォ、それと一緒」
    目が霞んで頭が働かない。藍良はもう一度確かめるように腕に刃を当てて、引いた。縦に伸びる筋繊維がブツブツ千切れて裁断される感覚がした。でも痛みはあまり感じなくて。藍良がギュッと腕を握る力を強めると、線状の傷口の全てからどろりと鮮血が溢れて腕をつたって擽ったくなる。
    6本目の赤い筋が腕に開く頃には指先の感覚が痺れて無くなっていた。……もう僕は藍良を止められそうにない。あまりにも楽しそうにしているから。これが良いというのなら、良い事なんだろう。
    「見てる人達にさァ……えっちなことしないんですかって、よく言われるじゃん。ああいうの聞かれるたび、ヒロくんはどう思う?」
    「どう、って……?」
    「おれとそういう……、いやらしい事、するの……」
    性的な事を指しているんだと思う。生物として備わる時々モヤモヤするあの感覚……兄さんにそういう時どうしたら良いか、どういうのが「いやらしい」のか、いくらかはこっそり教えてもらった事はあるけれど、詳しい内容は僕にはまだ理解しきれない事だった。あんまり教えたがらない様子でもあったし、深く追及する事もなくて。
    「……分からない。経験無いし、あんまり考えた事が無いから……」
    「じゃあ、こういうの」
    剃刀をベッドに投げ捨てて、藍良は僕の熱くなった腕を掴んで持ち上げ……手を握り合わせながら、自分の血の滴る腕と僕の腕を……傷口と傷口を重ね合わせる。そのまま、ギュウ、ギュウと指先を握り締めたり緩めたりを繰り返される。腕の肉が引き攣って、血が混ざって露出した真皮が擦れあって……腕が溶け落ちそうな程、すごく熱い。
    「ッ……ぁ、藍良……これは……?」
    「嫌?嫌じゃない?」
    「いや……、ではない……」
    「なら良かったァ……ん、ゥ……ッフフ、ヒロくん……どくどくいってて、気持ち良い……」
    ぬちゃ、ぬちゃ、と音を立てて擦れ合う傷が、何か……いけないもののような気がする。目を離せない。裂傷が引っかかって傷口が開いていくたび背中がゾクゾクする。真っ赤な血が纏わりついて、腕が藍良とひとつになってしまったみたい。痛みはもう麻痺して殆ど感じないけど動悸が早く煩くなる。藍良は言葉通りどろどろに蕩けた目を伏しがちにして、深く息を吐きながら惚けた表情をしていた。
    「これ、変な感じするでしょォ。別にえっちなことしてないのに、やってるみたいな。粘膜が擦れてるからかも……」
    「ーーー〜〜っ……ぅ……」
    顔を寄せて囁かれると意識が白んで揺らぐ程背中のゾクゾクが止まらなくなった。思わずギュウっと強く手を握り返してしまって、真横から小さな喘ぎ声が聞こえる。
    「ぁうぅ……っ、んん……、フフフッ……ぞくってきた」
    藍良、すごく気持ち良さそうな顔をしてる。ぼんやりそんな事を思っていると目が合ってクスクス笑っている。……僕も似たような顔をしているんだろう。

    ……それが血の乾くまで続いた。組織液のお陰で血が止まって、段々皮膚が乾燥して擦れる度痛みが戻って。脳内麻薬、みたいなもので麻痺してドロドロになっていた思考が覚めて、冷静になってきて。頭がズキズキ痛くなってきたことを訴えたら「おれも一緒」と自虐みたいに笑っていた。
    「水……と、救急箱、持ってくるね」
    藍良の自傷癖を認知してから、それ以上があった時のために用意していた物。ベッドに横になって沈む藍良は満足そうに頷く。血で汚れて酸化したシーツの汚れをグリグリなぞりながら、微睡んで心地良い時みたいにゆっくり足を擦り合わせている。水のペットボトルを渡すと一気に飲み干して三分の一だけになった。
    「おれねェ……ヒロくんとなら、したいなって思ってたんだ。でも、そんなのやった事ないし。……けど、一緒に切るだけならあんまり怖くないから……」
    「血が抜けるのは危険だよ、やっぱり……腕出して、藍良」
    「え、消毒すんの……?いいよォしみるじゃん、包帯巻くだけでいい、いつもそうだもん」
    「ちゃんと消毒するよ」
    「や、待って待って、ガぁぁあぁぁう"ぅぅ……っ!」
    効果音がつくとしたら“ジュウウ”とかだろうな。血の止まった藍良の腕に消毒をかけてティッシュで押さえていく。足をジタバタさせて首を振って暴れるから、強く腕を固定した。血は止まってるけど、まだ腕も頭の奥もジンジンする……
    「ハァーッ……ハァー……ッ、きっつ……」
    「切らなければ痛くならないんだよ?」
    「そう、だけどォ……ッ……、……無理だなァ」
    ガーゼを傷口にあてて包帯を巻き付けて、最後に端をテープで止める。……都会向けの、インターネットで得た知識。知りたいことを打ち込めば何でも分かるなんて本当にすごい事だと思う。同じように自分の腕も手当てをする。此処は僕の住んでいた故郷には無い病原体や菌がいるだろうから、特にちゃんと処理した方が良い。何かあっても迷惑をかけるだけだから。……横目で見ると、藍良は包帯の巻かれた部位の広さに目を細めている。
    「あー……今日はちょっと盛り上がっちゃったかも」
    「配信はしばらく長袖を着た方がいいと思うよ」
    「このジメジメ暑い時期にィ?」
    でもエアコン効かせればいっかァ、と納得する様子に対して首を縦に振る。実は機械の空調が苦手な事は未だ話していないし、多分言わない。

    「ねえ、血が出ない事ならいいの?」
    手当てが終わり手持ち無沙汰になった藍良がポツリと呟く。え?と聞き返すと同時に僕は服の中に手を突っ込まれてお腹を触られ、冷えた手にびっくりして身体が跳ねた。
    「分かんないなら、おれ……ヒロくんに教えてあげる。一緒の布団でくっついて寝るより気持ち良い事があるんだよ」
    腹をゆっくり撫でられる。腰骨のあたりを押し込まれるとゾクゾクするのが止まらなくなる。藍良はそういうことを期待しているんだと思う。
    ……僕としては、藍良に触れられる事に拒否感は何も無い。無くなっていったと言う方が正しい。人に肌を晒すことは良くないと言いつけられ、そういった教育……性的な事とも隔絶されていたから、本来持ってはいけない感情なのだろう。しかし僕に“人として当たり前にあるもの”を教えてくれた兄さんは、本当に好きな相手にはそうするべきだと言っていた。だから僕は藍良と血で触れ合う事を受け入れられたし……多分、藍良の望んでいる行為もできる。藍良の事をもっと深く知りたいとも。
    そうやって自分の意思だけなら何も拒絶することなんて無いはずなのに、僕は未だに身に染みついた教えに影を踏まれるように縛られている。
    「どう、かな?」
    「藍良とは……藍良となら、そういう事もしてみたいと思ってる。でも、そういう事は結婚してからじゃないと。けどそれは藍良の自由や、やりたい事を奪う事になるし、だから……出来ない」
    俯き加減に伝えるとふはっと空気が抜ける音がした。顔を上げるといつものように愛らしく笑っている。
    「お、重いな〜っヒロくんちはァ、そもそも男同士じゃ結婚できないでしょォ?」
    「えっ?都会はそうなのかい?」
    「ウン?……ま、まあ、なんか話拗れそうだから置いとくけどさ。おれたちお互いに信頼があって、一緒に住んでるでしょ。お風呂上がりにお互いの裸見ても別に嫌な気持ちにはならないでしょ」
    「そうだね」
    「それって家族とは違うの?」
    「…………。そう言われると確かに。儀式等を行っていないからあまり自覚がないけど……」
    「やったから!ヒロくんはおれのピになった時からもう、彼氏!てか、一緒に住んでんならもう家族じゃん!」
    脇腹を強めに摘まれる。僕は悩んでいた事が風でフッと吹き飛んで、肩に掛かっていたものが無くなったような心地だった。
    「そっか……言われてみたらそうかも。ありがとう、藍良」
    「で、えっと……結局どうなの?」
    「ウム、教えて欲しいな。藍良のしたい事なら叶えたいし、僕も藍良の事を知りたい」
    お腹を触っていた手が止まったので掬い上げて両手で包み込む。手を握って真っ直ぐ目を見て言葉を言うと、真意が伝わりやすいらしい。
    「〜〜…………ッ、あ、こ、今度、ね?今度っ……じゅ、準備とかあるしィ」
    藍良は自分で言っておきながらものすごく赤くなっていた。
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