好きな人の名前を全力で叫ばないと出られない部屋に入れられた付き合ってない無自覚の高校生轟出「あれ……」
眠いような、重いような頭を揺らして、ぼんやりした視界でなんとか像を結ぶ。けれど何もなかった。どこか、白一色の空間に佇んでいる。
何をしてるところだったっけ?
ぐるりと周囲を見回すと、見知った友人が思いの外近くにいて思わず声を上げた。
「えっ、轟くん!」
「……緑谷……?」
僕の顔を認めた後、さっきまでの僕と同じようにこめかみを押さえて、周囲を見回している。
「どこだ、ここ?」
「わかんない……僕ら閉じ込められたのかな?」
床も天井も、四方全てが白い簡素な空間で、ドアも窓も見当たらないことは一目瞭然だ。
「ここに来るまでの記憶あるか?」
「それが、何も……」
「そうか。原因はわからねぇが、立ったまま寝てたとは……考えたくねェな」
轟くんが眉間に皺を寄せた。それから、二人示し合わせなくとも同じ箇所を見る。
全てが白い空間で、壁の一箇所だけ、目立つ違う色があった。丸く突き出た赤い二つのランプ。非常用ベルについてるあれみたいな。その下に、何か黒い点のようなもの。
近付いて見ると、なんと文字だった。それをそのまま読み上げる。
「“好きな人の名前を全力で叫べば出られます”?」
「んだそれ?」
「どこを見ても真っ白な中でこれだけはっきり書いてあるってことは、ただそういうことなんじゃないかな……」
横に並んだ二つのランプ。信号みたいな赤。その下の壁には、遠くからではわからなかったがよく見ると『EXIT』と読める凹みがある。
ふむ、と顎に手を当てて、二人してまた壁の上の文字を見上げた。
「ずいぶん簡単な条件ではあるよね」
逆に罠を疑うが、これしか手がかりがないのだからその可能性は低いと思う。これならすぐ達成できそうだ、と思った安心感と、轟くんが一緒だという心強さから肩の力が抜けて、焦りや緊張はなかった。轟くんも全く動揺してなさそうだな、と視線を向けて、互いの格好にようやく思い至る。
「あれ、僕ら学校に行く途中だっけ?」
両手を開いて、服装の上から下までを確認した。制服のワイシャツにネクタイ、スラックス、スニーカー。見慣れた出で立ちだ。
「そうじゃねぇか。たぶん」
鞄などは持っておらず手ぶらだが、そう考えるのが妥当だろう。
「この条件、随分ざっくりしてるが……叫ぶ名前が間違ってる場合は出られねぇとかあるのか」
「うーん……チャンスは一度きりとは書いてないし、反復リスクがないなら何度か試すしかないよね。僕はオールマイトでいけると思う!」
好きな人、と見て真っ先に思い浮かんだ名前だ。だからまずやってみるなら僕が適任だろう。思案顔だった轟くんはこくりと頷いた。
「まぁ……そうだろうな」
同意も得られて、僕はよし、と腕を回して意気揚々と息を吸った。
「オールマイト!!」
叫び声は反響せず白い壁と天井に吸い込まれる。どうだ、と少しどきどきしながら数秒待つ。全力で、と条件にあったからにはけっこうな声量で叫んだので、外してたらちょっと恥ずかしい。
果たして、壁の上部にあったランプの一つがピンポンと音を立てて緑色に変わった。
「やった!」
思わず飛び跳ねると、視界の端で轟くんも安心したように笑っている。
「轟くんもオールマイトかな? 他に誰か思い浮かぶ?」
「俺は……確かにオールマイトは好きだが、さすがにお前とはレベルが違うと思うっつーか……。もう少し、考えてみてもいいか」
「うん。とりあえず思いつく人叫んじゃってみてもいいんじゃない?」
そう提案はしたものの、手当たり次第に好きだと思う人の名前を叫ぶ轟くんは想像がつかなかった。僕は気にしないけど、外したらなんとなく気まずいかもしれない。
轟くんだから、例えば……お母さんの名前を大声で叫んでそれが不正解だったとしたら、ちょっとダメージはあるだろう。わかる。お母さん、って叫ぶのも、呼んだことないフルネームを叫ぶのも、なんか恥ずかしいしね。でも、肉親を好きだと大声で言えるのって素敵なことだと思うなぁ。
思案顔の轟くんは、ああ、と返事はくれたものの、やはり手当たり次第に叫ぶ選択はしないようだった。なぜだか少しほっとする。
考え事の邪魔をしないよう、僕は少し離れた位置で違う方向を向いて体育座りした。僕が身動ぎをやめると、しん、と沈黙が落ちる。
轟くんをちらりと見れば、胡座をかいてぼんやりと少し上を見つめて物思いに耽っているようだった。
それから僕は手持ち無沙汰に、靴紐を結び直したり、壁と天井の白さを比較したり、時折視線を戻して轟くんのまあるい後頭部を眺めたりしていた。
……誰を思い浮かべているんだろう。僕の知ってるヒーローかな。それともやっぱり、家族の誰かかな。あるいは……クラスの誰か、と考えて、そういえば僕は『好きな人』という言葉の広さに思い至らなかったことに気付いた。
僕は、すぐさまオールマイトを思い浮かべた。結果的にそれは正解だったけど。反対に熟考している轟くんは、そんな簡単なファン心理とかじゃなくて、本当に心の深いところの『好き』を探しているんじゃないだろうか。
そう、恋愛の意味でとか。
思いついてしまうと、途端にそわそわした。だって、これから彼がそれを叫ぶのを聞いてしまうのだ。それって悪いことじゃないかな、耳を塞いでいたほうがいいかな、と一人でぐるぐる考える。
………聞きたく、ないな。
そう思ったことに、数秒遅れて驚いた。なんで、そんないやなこと思ったんだろう。
静かな部屋では神経を尖らせなくても僅かな音も聞こえてしまう。轟くんの微かな声を耳が拾い、僕は顔を上げた。
結論が出たのだろうか。こっそり横顔を見守っていると、何度か口の中で転がすように何かを呟いて、自分の中で答えが出たように一つ頷き、彼は真っ直ぐ前を見た。
「……みどりやいずく」
突然の改まった呼び方に、なに? と返事をする前に、壁の方を向いたままの轟くんがすぅ、と大きく息を吸った。
「緑谷出久!!」
平素聞かない大きな叫び声の後、バチン、と何かが切り替わるような音が部屋中に響く。次いでパン、パン、と乾いた音が連続した。
「え? なっ、なんだ?」
発砲音のようなそれに、周囲を見回しながら反射的に身を低くする。
「緑谷!」
鬼気迫った表情の轟くんが手を伸ばしてくれる。背後のランプは二つとも緑色になっていた。でも僕は伸ばされた手を掴む前に、がくん、と落下して―――
ピピピ、とこめかみの辺りで響く電子音に、いやいやながら重たい瞼をもち上げた。
顔に当たるごわごわした羽根布団。どこだここ、と一瞬思ったが、どこもなにもない、自分の部屋のベッドの上だ。
ごそごそと態勢を変えて、鳴り続けるスマートフォンのアラームを切る。これで起きられないと、ベッドから出ないと届かない位置でオールマイトが朝を知らせてくれるのだ。
轟くんは……? と視線を動かして探してしまってから、自分の行動に恥ずかしくなって布団の中で丸くなった。
寸前まで見ていた夢を思い出した。そうだ、あれは夢だ。ここに轟くんがいるわけない。
「夢かぁ……」
寝ている時にガクッとなるあれ、ジャーキング現象。いやミオクローヌス現象? 筋肉の疲れがとれてなかったのかな。夢のタイミングとバッチリで目が覚めたようだ。
それにしても、夢の中で轟くんが叫んでくれた名前。思い出して顔を覆う。僕はなんてことを、とまた布団に潜り直した。
夢で見たんだから、きっと僕の願望だ。一番親しいとこっそり思っている友人に、同じだけ返してほしいなんて。そう思っていて欲しいなんて。自分でも気付いていなかった浅ましい願望を新年早々見せつけられてなかなかしんどい。
一人もんどりうっていると、枕元で通知音が鳴った。確認して目を剥く。
「とっ、とど、轟くん」
メッセージ受信、と表示された名前がタイミング良すぎて、思わず指が滑って早々に既読をつけてしまった。
『あけましておめでとう。
夢に緑谷が出てきた。だから起きたらなんか、一番に言いたくなった。
今年もよろしく』
年越しの二日間だけ自宅に帰省した僕は、クラスの皆とは年明けの深夜にメッセージを送り合っていたけれど、例に漏れず寝るのが早い轟くんとはまだ挨拶をしていなかった。
朝起きて一番に、送ってくれたのだろうか。じわじわと嬉しさが湧いて、返信の指を滑らせる。
『あけましておめでとう!今年もよろしくお願いします。
僕の夢にも、轟くんが出てきたよ!起きた時寝ぼけて探しちゃった』
偶然にも夢の話を先に振られて、嬉しくなった僕もそう話すことにした。どんな夢を見たかは誰もわからないんだし、これくらいなら恥ずかしくない。
既読はすぐついたけれど、次の返信はなかなか来ない。暫く画面を開いたまま待っていたけれど、一旦ここで打ち止めかな、とアプリを閉じようとした時、ポコンと吹き出しが増えた。
『じゃあ、俺が叫んだのであってたんだな』
吸いかけた呼吸が止まる。思わずがばりと起き上がって正座した。両手でスマートフォンを握りしめた指先がつめたい。そこに表示された文字を何度も目でなぞる。ドッドッと心音がうるさい。
「………え?」
どういうこと、まさか、もしかして、続く言葉を僕が何も打ち込めないうちに、画面の下にはまた吹き出しがひとつ。
『初詣、楽しみにしてる』
―――そうだった。これから、A組の皆で予定をしていたんだった。
つまり、これから、轟くんとも顔を合わせる。
「………まじか………」
ドッドッと響き続ける心臓をおさえて、僕は正座したまま突っ伏した。