ステップ・ファミリー 休日昼間の映画館はさまざまな客層で賑わっている。
エスカレーターを上ってそのフロアに足を踏み入れると、がらりと雰囲気が変わった。どことなく上品な印象を受けるのは照明の色によるところが大きい。壁の色もシックなブラウンを基調とした、開けた半円形の空間だ。
先程までとは違う、靴の下で感じるのが珍しい弾力のある絨毯の床。
奥に見える、赤いカーテンがかかった幻想的な入口。
先頭にエリ、その隣に寄り添うように緑谷が、そして最後に一歩後ろから轟が続いた。外見もバラバラで傍から見て不思議な三人は、もう兄妹のように打ち解けている。今は、仲良く午後の日差しが差し込むカフェで食事をしてきた後だ。
物珍しげに周囲を伺いながら、エリが緑谷の手をそっと握った。照明がおさえられた空間に、これまで歩いたショッピングモールとは違う雰囲気を感じたらしい。
見上げたモニターに映し出された上映スケジュールによれば、 シアターは1から10まで。それなりに大きなシネコンだ。
ここへ足を向けたのはエリがキャラメルポップコーンの甘い香りに誘われたからだったが、少女は初めて踏み入れた場所に早速興味津々な様子を見せていた。
思い思いの飲食物を手に専用ゲートへ向かう人々を、まるい目がきらきらと追いかける。エリの反応を見て、緑谷も顔を綻ばせた。
「映画館はじめて? 暗い部屋で、テレビの何倍も大きい画面と音で見ると、ちょっとびっくりするけど楽しいよ」
「あれより大きい?」
エリが中央に吊り下がった宣伝モニターを指差す。
「うん」
「わぁ……!」
手を引いて、緑谷はずらりとポスターが並んだ壁の前にエリを誘導した。最新作が一番目を引く真ん中に貼られている。
「どれか気になるのある? お兄さん達のオゴリだよ」
屈んで横から目線を合わせ、茶目っ気のある笑顔を向ける。
自分の膝に手を置いて背を屈めるスタイルは、エリといる時の緑谷の定番だ。彼がせかさずに少女の反応を待っている間、轟はいつも二人の隣もしくは後ろで車や通行人に目を配っていた。
今回は三人一緒になって壁のポスター群を眺める。流行りにはとんと明るくないので、轟にとっても物珍しいものばかりだ。
大好きな人の笑顔と並んだ映画のポスターを交互に見た少女は、次第に期待で瞳を輝かせた。
奢りだなんて当然のことを敢えて緑谷が軽い調子で口にしたのは、エリが成長したからだ。
お金のことを気にするようになるのは、一つの成長でもある。聡い彼女は無邪気さを見せつつも、周囲の大人に気を遣っているのを緑谷は知っていた。
幼い子にはそんなことを気にしないで楽しんでほしいと思う反面、自然とそういった事柄にも意識が向くようになるのは、確かに彼女がこの世界で毎日を『生活』している実感を得て、嬉しくもあった。
「えっとね、えっと、じゃあ……」
うろうろと小さな体で大きな目を動かしているのを、ほほえましく見守る。
「これ!」
小さな指が指し示した先を、三人揃って見上げた。
「おお〜〜……」
緑谷は歓声を上げたようでいて、その声には僅かに戸惑いの色が乗っていることを轟は察した。きっと同じことを考えている。
全米No.1ヒットガンアクション、と疾走感のある金の文字で書かれた、一際目立つ宣伝ポスター。拳銃を構えた男女が大きく左右に配置され、背後では景気のいい爆発が起きている。さすがに子供でも内容の想像はつくだろう。
正直意外だった。もっと端の方にある動物の話だとか、やわらかいタッチのアニメーションだとか、そういうのを選ぶと思っていた緑谷と轟はさっと目配せし合う。
「大きい音とか、爆発とかするの平気?」
「うんっ」
両手を拳にした元気な返事に、にっこりと笑顔を向けた緑谷は一旦エリに合わせた中腰から姿勢を戻した。
「ちょっと待ってね」
そう言ってスマホをタップし始めた手元を、轟が覗き込む。そして目を丸くすると、ああ、と手を打った。自分ではこうは気を回せないと感心する。
緑谷は検索窓に映画のタイトルと合わせて、“ベッドシーン”と打ち込んでいた。
ぴたりと背後についた気配に気付いていた緑谷が、少し恥ずかしそうな、眉間にシワを寄せてなんともいえない渋い顔をする。
「ちょっと轟くん覗かないで」
「いやお前の気が付き方がすげぇ」
「ホラこういうのはセンシティブな問題だから……」
検索画面を素早くスクロールしながら、下唇をつまんでいつもの思案顔。
海外のアクション映画には往々にしてそういうシーンが差し込まれる。轟に経験はないが、家族で観賞して突然の気まずさに襲われることもしばしばだとか。幼い女の子が隣に座った状態では尚更だろう。場合によっては後で相澤に叱られる可能性もある。
エリの付き添いに緑谷が選ばれたのは、エリに好かれているからという理由に留まらず適任だったと轟には思えた。
「――よし!」
ネタバレありのレビューをざっと読んだ緑谷が顔を上げる。緑谷が指を置いていた画面のあたりに、『濃厚なキス止まりです』と書かれているのが轟にも見えた。それも寝室ではなく、戦場で気が高ぶって、もしくは死を意識してのよくあるパターンらしい。血は出るがグロテスクな表現はなし。ご家族にもおすすめです。評価につけられた星の数も低くない。
「セーフ……! かな? だよね?」
ぱっと振り返って見上げてきた緑谷の大きな瞳に気を取られて、轟はよく考えもせず頷いてしまった。
「それじゃ時間……あっ、ちょうど20分後のがある! やったね、ポップコーン買ったりしてたらすぐだよ!」
ポップコーンと聞いてエリは頬を紅潮させた。ここに入る前からあの甘い匂いがずっと気になっていたのだ。大人もみんな楽しそうに抱えた大きなあれを持って自分も映画を体験するのだと思うと、途端に胸がわくわくした。
「エリちゃん、どの辺りの席で見たい? あんまり前の方だと首が疲れちゃうから、おすすめはね」
しゃがみ込んで、スマホの画面を二人で覗き込む。今はカウンターに並ばなくても指先の操作だけでチケットを買えるから便利だ。真ん中いっちゃおうか、と楽しそうに顔を寄せ合っているのを、轟は立ったままもう慣れた角度で見下ろした。今日はいつもの数倍緑谷のつむじを見ている気がする。
立ち上がった緑谷が、エリの手を引きながら行こう、と空いた手で轟を促した。無事にチケットを買えたらしい。
数歩先を行く二人に続いて飲食物のカウンターに並ぼうとする轟の横を、興奮した子どもとそれを諌めながら追いかける父親が追い抜かして行った。
「こらっ! 危ないだろ。それに、ちゃんと並ばないとだめだ」
すみません、と轟の後ろに回る親子に会釈を返して二人に合流すると、列が離れると思って心配してくれたのか、少しほっとした顔をしたエリにきゅっと指先を握られた。当然、エリのもう片手は緑谷と繋いでいる。轟が何か反応を返す前に、緑谷の笑顔が目に入る。
今エリは轟も含めた『三人一緒』が当然だと思ってくれている。家族のようにひとまとまりに、手を繋いでいる。なんとも言えない、そわそわした心地がした。
電子チケットをかざして赤いカーテンのゲートを潜る。エリにとっていよいよ初めてのシアタールームだ。
大きなポップコーンバケットを両手で抱えて先頭を歩く少女をゆったり追いかける。後ろ姿だけでわくわくしている様子が伝わって微笑ましい。
緑谷の手には自分の分のドリンクカップがひとつ、轟の手には残り二人分のドリンクとポップコーンの乗ったトレイ。エリの抱えたものとは違って、甘ったるい匂いはしない。容器のサイズも轟の手に収まりそうな四角錐台だ。それでも、上映中に二人がかりでも食べきれるかどうかという量に思えた。轟はあまり、長時間画面を見ながら何かを食べるという経験をしたことがない。
それに緑谷と轟は、並んでいる間にキャラメルの香りを嗅いでいるだけで気分的に胃が許容量を超えてしまった。エリが自分で甘い匂いのポップコーンを持っているのは正直ありがたい。ついさっきカフェで甘いものを食べたばかりだというのにこれが女の子か、と二人はこっそり舌を巻いた。
視線の先では、弾んだ足取りに猫の顔型ポシェットが揺れている。あれが相澤のチョイスだと持ち主から聞いた時は、緑谷も轟も驚きと同時に納得したものだ。
その背中を見守りながら、本日の保護者二人はそっと聞こえないように会話する。
「こういうドンパチやるのを選ぶって事は、少なくとも酷いトラウマにはなってないってことだよな」
「うん、ほんとに……よかったよ」
彼女の痛ましい日々と、そこから救い出した凄絶な戦いとを轟も伝え聞いて知っている。この少女を思って、隣の友人が泣いていたことも。
それまでの過酷な環境下を思えば、大きな音や暗い場所に強い拒絶反応が残ってもおかしくない。文化祭での経験は非常に大きなものだったようだ。緑谷へ視線を移せば、少女の笑顔を奇跡のように眩しく眺めている。
「……ああ。よかったな」
密やかに笑う横顔を見て、轟も目を細めた。浮かない顔をしていた頃の輪郭が重なって霧散する。
エリを見ていればわかる。緑谷はあの子を心から救ったヒーローなのだ。轟にとってもそうであるように。
この時振り返ったまるい目がじっと見上げているのを、保護者役の高校生二人は気付かなかった。
如何にシアター数が多くとも、休日の昼間で話題作とくればそれなりに席は埋まっている。中央ブロックに三人並んで席が取れたのは運が良かった。
「えっと、じゃあエリちゃんが真ん中で」
そうそう何かがあるとも思えないが、念のため保護者役で挟むのが妥当だろうと提案する。だが緑谷が言い終わるより早く、察したエリがぴょんと飛び出して奥の席に座った。
「エリちゃんそこがいいの?」
「うん、デクさんが真ん中!」
腕を引かれて、否やもなく緑谷は少女と轟の間に収まる。
「えーと、ありがとう……?」
正確な意図はわからないが、いい席を譲ってくれようとしているのだろうと考えて緑谷は礼を言った。
塩味のポップコーンが乗ったトレイは緑谷とエリの座席の間にセットした。荷物を足元に置いた轟が背を起こして膝に肘をつくと、緑谷を挟んでエリと目が合った。その大きな瞳にじぃと見つめられた後、にっこりと微笑まれる。それで轟は理解した。
この少女は、轟に気を使ったのだ。大好きなヒーローを、一人占めしないようにしてくれている。
(……気付かれたか)
ふ、と間にいる人物から隠れるように笑い返して、ちらりと目線をそこへ向ければ心得たように同じ人を見た。
こんな小さな女の子にまで気付かれるほど自分はわかりやすいのか、と思うところがないではないが、小さな仲間の気遣いは素直に嬉しい。
少し身を乗り出して目線を合わせると、満足げな彼女に礼を言った。
「ありがとな」
「うふふ」
そんな二人のやりとりを、緑谷だけが不思議そうな目で見ている。ただ二人が楽しそうだということだけ分かれば特に追究はしなかった。
緑谷は映画が始まる前にポップコーンのフレーバーを少し交換して、また少女を笑顔にさせていた。
甲斐甲斐しく世話を焼いているようにも見えるが、本心から一緒に楽しんでいるようにも見える。仮免補講で子供の相手はそれなりに慣れたと思っていた轟だが、緑谷を見ていると「子供はこうすれば喜ぶのか」という発見が多い。
緑谷は子供相手というより、年下の友人への対応がうまい。轟はつくづくそう思った。根っからの優しさもあるだろう。
そもそも、緑谷と体験するほとんどが彼女にとって初めてで、きっと全て楽しい記憶として積み上げられていくのだろう。
轟も、緑谷と映画館に来たのは初めてだった。
今日は元々予定していた母親への見舞いがなくなり、手持ち無沙汰に共有スペースに顔を出してみれば、そこにはエリを伴って訪れた相澤と応対中の緑谷がいた。
回復してきたエリにとって学内に閉じこもってばかりが良いことではない。前々から一緒に街へ行く予定だったが、相澤に所用が入りどうしても数時間抜けなければならないという。その間、エリを頼めないかという話だった。
護衛を兼ねているのだから人数は多いほうがいい。相澤が轟の予定を聞くより早く、緑谷が「一緒にいかない?」と轟を誘った。
一も二もなく了承の返事をした轟は、飛び込んで来た休日の予定を満喫することになったのだ。とてつもない役得だった。
女性客の多いカフェにもエリのためならと勇んで入店し、丸いテーブルを囲んで見た目にも甘いパンケーキを食べた。
他の男性客といえば恋人らしき女性に連れられている以外におらず、明らかにデートスポットだ。きっと男友達とでは絶対に行かなかった。
ベッドシーンの有無を事前に気にしながら並んで映画を観ることもきっとなかった。
暗い劇場で、スクリーンに見入る横顔をそっと盗み見る。すっかり気にならなくなっていたが、今日はずっと心拍数が早いままだ。
「すごかった! ね! デクさん!」
「うん。楽しかったね」
「うん! ロイドさん、しんじゃわなくてよかった……! まだどきどきしてる!」
危惧していた爆発も、銃撃戦も、ラブシーンもセーフラインだった。年代違えど三人共楽しめたようで何よりだ、と笑い合う。
「そっかぁ。最後、すごかったよねぇ」
「ショートさんは? 面白かったっ?」
「ああ」
「どきどきしてる?」
期待して見上げてくるまあるい目に、暫しの思案。
「……どきどきしてる」
「えへへ!」
やりとりを眺めていた緑谷が目を細めた。エリが喜ぶような回答をしたのだろう、口下手な友人がいとおしい。けれど轟はそう思われてそうだな、と推察しつつ、本音だぞ、と思う。
「してるぞ、ずっと」
「へ?」
「心臓」
きょとんとしている緑谷より一歩前に出て、轟は初めて緑谷より先にエリの手を取った。当然のように握り返されて、なんだか面映い。
「デクさん!」
轟が振り返れば、早々にエリが後ろへもう片方の手を伸ばしていた。あいつは今日何度もこの光景を見ていたのか、と思う。
「はーい」
いい返事をしながら、小さな手を取る。
「なんか、ずっと思ってたけど、あれだな」
なんとなく、口に出してみようかと思った。自分が経験してきていないもの。けれど、今日たくさん目にしたもの。たのしくて、しあわせで、笑っている。
「ん? なに?」
「なんか、〝家族〟みてぇ」
え、と小さく呟いた緑谷と、薄く笑う轟を交互に見上げて、エリの表情が輝いた。やっぱりくすぐったいな、と思う。
緑谷は何度か口を開閉させたあと、頬から耳まで赤く染めてくしゃりと目尻に皺を寄せた。色々なことを考えたのかもしれない。思わず火傷痕を隠すように俯いて少しだけ後悔しかけたが、それもすぐに霧散する。
「そうだねぇ」
まるで泣き笑いみたいに笑うから、轟も鏡写しのように眉を下げた。