待てと我慢はけもののほか 現場から去っていくパトカーの赤灯を暫し眺めたあと、轟は自分の全身に目を落とした。
外傷もなく、スーツの損傷もない。少し肩に付いていた煤をはたき落とし、ラジエーターを背負い直す。
「ショート、ほんとに何も異常はない?」
「はい」
心配そうな仲間のヒーローに、平素変わりない様子で答えた。
間違いなくショートは先程現行犯逮捕したヴィランの個性にかかっている。
相手の立ち回りが派手だったので難なくお縄には出来たが、確保の際に捨て身の個性暴発を食らうという失態だった。
だがなんともスケールの小さい事件で、むしゃくしゃしてやったという程度の初犯な気がする。
「あいつの個性、欲望を我慢できなくなる、とか言ってたが」
「はぁ」
ヒーローに犯罪を犯させて、世間の煽りを食らわせたかったらしい。ただその個性の効果のほども範囲も調書を取る前で判然としないので、特に大きな変化の自覚がない轟の様子には同僚も首を傾げていた。
「何かが無性に食べたくて仕方ないとか」
「昼食ったばっかなので、あんまりないですね」
轟と時同じくして個性事故にあったペンギンの個性を持つ同僚ヒーローは、回転寿司チェーン店に駆け込んでひたすらアジを注文していたところを確保されていた。後会計の店でよかった、と発見者が胸を撫で下ろしていたが、確かにスーパーの鮮魚売り場だったら会計前に腹に入れていたかもしれない。敵の思惑通りに犯罪を犯す前でよかった。
欲望と一口に言っても、無意識のものを顕在化させるのか、何かしたいと欲求を自覚した時点であらわれるのか。
一概に言えないだけに不安が残る。現に轟と同僚とでは欲求の現れ方に既に差があり、万が一ヒーローとしての素行に支障を来すようではおちおち街を歩けない。
同じ事務所のヒーローがガシガシと髪を搔いて天を仰いだ。
「自覚なしに暴走して、何をしでかすか分からないのは怖いな……ショートは一人暮らしでしたっけ?」
「いえ、みど……デクがいます」
え、と顔を上げた同僚が数回瞬く。
「俺が何かしそうになっても、あいつなら止めてくれると思うんで」
正直、自分がかかった個性の概要を聞いた時は今日帰ることを躊躇った。
一人でいる方が緑谷に迷惑をかけずに済むだろうが、一人でいる時に個性事故の影響が出てしまうとまずいのも事実だ。その点、緑谷なら信頼がおける。
そして何より、轟自身の帰りたい気持ちが勝った。恋人として同棲を始めてから、まだ一年と僅かだ。毎日一緒に夕食をとれるわけでもないから、機会を逃したくはない。
「おお……そうか。じゃあこっちで簡単に連絡を入れておきますよ」
轟にはこれから現場の後処理と、事務所に戻ってから報告書の作成業務がある。
ありがたく頷いて、定時退勤を目指してそれからも轟はきびきびと働いた。
それから轟が退勤するまでの間に、かかった個性については『理性の箍を外す』類のものであると報告があった。対象によって個人差があるが、概ね『普段のその人ならやらないようなこと』を我慢できずにやってしまうということらしい。
そろそろ帰りたいな、と思ったところに業務用の電話が鳴ったので、思わず電源を切ってしまったのもその影響なんだろう。
帰路もくれぐれも気を引き締めるようにとのお達しを受けて、公共交通機関の利用は避け、事務所からタクシーで帰宅することにした。何かの欲求を抱かないように情報を遮断するため、耳にイヤホンを挿して到着まで眠ろうと目を閉じる。
自然と思考が行き着くのは、これから帰る家で先に待つ相手のことだった。
何かあった時には隠さない。助けを乞う。もしもの時には自分がそうされたいから、そうする。
けれど今は少し、後悔もしていた。
我慢できずに恋人にぶつける欲望といったら、下半身のそれよりほかにない。考えて、眉間に皺が寄った。
前回そういうことをしたのはいつだろうと考えて、何日前とすぐ言えないくらいには日が空いていることを自覚してしまった。はっきり言って、その欲を抱いたら我慢できる気がしない。でも、それを好き勝手緑谷にぶつけるのだけはいやだった。
一方的なこちらの欲望ですることじゃない。
これまで大事に大事にしてきた、これからもそうしたいものを、こんな個性事故で壊したくない。
もしもの時は本気で殴ってもらおう、と腹を決めて、轟は何とか数分間の眠りに落ちた。
「ただいま」
玄関を開けて習慣でそう口にすると、ばたばたと廊下の先から音がして、エプロンをつけたままの緑谷が出迎えに来てくれた。
「おかえり! 事故のこと聞いたよ、大変だったね。体調は何ともないの?」
帰宅まではどうしたものかと思っていたが、その顔を見たらやっぱりどこかほっとして、轟はひとつ頷いた。
「ああ。心配かけて悪ぃ」
次々に労いと心配を零してくれる口元を見つめる。声がころころとビー玉になって転がってきそうだ。そういえば、あそこに暫く触れていない。
――――キスがしたい。
そう思った次の瞬間、気が付けば目の前には大きく見開かれたグリーンがあって、唇にやわらかい温度が触れていた。
腕を伸ばしたという自覚もなかった。
脳の伝達回路が一足飛びにバチバチと弾けたみたいに、したい、ほしい、と思った瞬間に体が動いている。
「んっ……ふ、ぅ」
「ん……っはぁ」
何度か角度を変えて啄んで、すっかり濡れた唇を名残惜しく離してようやく、轟は自分の腕ががっちりと恋人を囲っていることに気が付いた。
自分でも呆気に取られていると、顔を赤く染めて潤んだ緑色がおずおずと見上げてくる。
「あっあの、もしかして……」
轟の個性事故については聞いて内容も知っているのだろう。現状にようやく焦りが湧いてきて、思わず口を覆った。
「これ……やべぇ、かもしれねぇ」
『理性』が消えるということの意味を、今実感した。
玄関先で靴も脱がぬまま、緑谷を囲った長い腕は一向に解かれない。段差があって緑谷のほうが高い位置にいるので、いつもより顔の位置が近いのも欲望に拍車をかけた。
「もう一回してぇ」
自覚してしまうと、もう際限がない。
「今度はもっと舌入れたやつがしてぇ」
「ねぇっ!? 君のかかった個性って、その、したいことが全部口から出ちゃったりもするの!?」
顔をなお赤くした緑谷が、轟の胸に腕を突っ張らせる。轟は少し考えて、自分でもよくわからないと首を傾げた。
「なんつーか……口から滑り出る、って言うか、あ、そうなんだな、って自分で納得できて少し冷静になる感じがする」
「なるほど……」
「でもさっきみたいに、口より先に手が出ることのほうがやばくねぇか。いや出たのは口もだが」
「ンッ、……その、す、するのはいいから、まず上がらない……?」
催促されて、両手は緑谷の腰を抱いたまま器用に足だけで靴を脱いだ。家の中にあがったことで『許された』と勝手に解釈した理性が留守の轟は、いつもの高さからその唇に覆い被さる。
それから銀糸を引くほど口内を蹂躙して、緑谷の膝が力を失くす頃にようやく満足した。
「俺は今、理性の箍が外されてる状態らしい」
夕食を終えて、轟は改めて個性事故について追加で聞いた情報を話した。
幸い食事の最中は個性の影響で何かをやらかすことはなかった。例えば、これがおいしいからもっと食べたい、と思っても、他のものを口に入れているうちにこれも食べたい、という欲求に上塗りされるので、緑谷の作った料理を独り占めするような幼稚な愚を犯さずにすんだことにはほっとしている。
「個人差もありそうだね?」
「ああ、欲求っつっても色々だしな」
アジをたらふく食べに行った同僚ヒーローの話をしたら、緑谷は目を輝かせて聞いていた。
けれどやっぱり、突然口から欲求の内容が垂れ流しになるのがわからない、と首を捻る。そういったケースもあるとは言われなかったから、自分が特殊なのだろうか。これには、顎に指を当てて思案していた緑谷が一つの仮説を立てた。
「きみが大分理性的な人だからじゃないかな」
個性の影響が人によってまちまちなのは、元々の理性の強さが左右しているのではないかと言う。
「その欲求が無意識に近かった場合、普通の人なら真っ先に手が出ちゃうところを、君は自覚の段階でまず口に出して、行動に移す前にワンクッションおけてる。これってすごいことだと思うよ!……そ、そうじゃないときもあるみたいだけど」
称賛してくれたと思ったら、言って顔を赤くする。帰宅早々にやらかしたキスのことを言っているんだろう。
だが自分が理性的、と言われても轟にはピンとこなかった。
「そう……なのか?」
「うん、きっとそうだよ」
でもそれなら、緑谷に逃げる猶予を与えてやれる。ほかでもない緑谷の分析だから、信憑性も高い。やっと安心して隣にいられる気持ちになった。
口に出した内容がヤバかったら、すぐに腹に一撃入れるか距離をとってもらおう。そう決意を固める轟がリビングのソファへ移ると、ぺたぺたと素足の緑谷がついてきた。
「となり行ってもいい?」
当たり前だろ、と言いたいのを堪えて、脇にずれてわざわざ可愛いお伺いを立ててくれた恋人を態度で迎える。
「えへへ」
隣が彼の重みで僅かに沈むのが何度経験しても嬉しくて、なのに先に幸せそうに笑われて胸が詰まった。
緑谷はソファの上へひょいと足を持ち上げて体育座りをした。ハーフパンツから覗くその揃ったまるい膝小僧が健康的なのに、轟の目にはどうしようもなく艶めかしい。
「轟くん?」
「ヤりてぇ」
心に浮かんでいたはずのやわらかい気持ちとは真逆の内容が、真顔で口から滑り出ていた。緑谷の笑顔が固まる。
「お、……悪い」
意図しない言葉の突出に、思わず口を掌で覆った。
突然即物的な欲求をぶつけられてぽかんと口を小さく開けている恋人には申し訳ないと思うが、制御が効かないからどうしようもない。
「かわいい」
無防備で、心を許してくれているから隙だらけで、さわりたい。
思うが早いか、服の上からあたたかい太腿に手を這わせて触れた。
「抱きてぇ」
「ひょ……っ!?」
落ちそうなほどに目を大きくした緑谷が真っ赤になって飛び上がる。
「ととっ、どっ、轟くん、今のって……」
「挿れてぇ」
「どわーーーっ!?」
一通り口から出したことで、轟は幾分冷静になれていた。
のけぞった緑谷を、ソファから落ちないように引き寄せる。
「大丈夫だ、無理矢理どうこうするつもりはねぇから」
この距離で言っても信じ難いだろうが、まだなんとか自分を氷漬けにせずに済んでいる。
「頭の中で考えるのと、口に出すのは……たまにアウトだが、行動に移さなければセーフだろ」
犯罪者予備軍のようなことを言ってしまったが、羞恥に打ち震える恋人が可愛くて、ついついその肌に触れてしまう。
「ていうかっ、なんで轟くんの方が平気な顔してるのっ!?」
「それは俺も思った」
轟は堪えきれず喉の奥で笑った。
欲求を次から次へと暴露して、普通恥ずかしがるのはこちらの方だろうにとおかしくなる。
「……もうっ……」
恥じらう表情をもっと堪能していたかったが、緑谷は抗議するように轟の肩に額をつけた。
その後不意に零された声音の温度に、僅かな夜の気配を感じて思考が止まる。
「いいよ」
「え」
もぞりと頭が動いて、前髪の隙間から覗いた目が、羞恥に潤んでいる。
「準備、してある、から。……ベッド」
「は」
「……いく?」
咄嗟に返事が出来ずにいると、正面から間抜けな声が聞こえてはっと我に返った。
「ふぇあ」
「あっ……悪ィ」
いつの間にか、緑谷の頬に手を伸ばしてその口に親指を突っ込んでいた。
いつになく積極的で魅惑的すぎるお誘いに、欲求の発露どころか思考が数秒ぶっ飛んでいたらしい。ただその赤い舌に誘われて、掻き回したいという欲求に沿って体は動いていた。
我に返って引き抜こうとする間際、指先にちゅうと吸い付かれて下半身がぶわりと熱を持つ。
「おまっ……」
んっ、と艶めかしい声を耳が拾って更に追い立てられる。
ちら、と見上げてきた大きな瞳にドッドッと心臓が早鐘を打った。
「緑谷っ……」
ギッタンバッコンと欲望と正気のシーソーが忙しい。今や簡単に前者のアクセルを全開にできる状態なのだ。滅多なことはしないで欲しい。
目元を覆って心頭滅却を試みる轟に、可愛らしい恋人からの追い討ちは続く。
「電話が来て、君がかかったっていう個性の概要を聞いてっ……、そ、そういうことだって、あるかもしれないって考えたんだよっ」
だって、と羞恥が振り切れたのか、緑谷が声を荒げた。
「轟くんがそういうことをするのは、僕だけだろっ!」
男らしい物言いの割に、その耳までが真っ赤だった。ぽかん、と見つめて、じわじわと幸福感が湧き上がる。
「ああ」
思わず笑みが漏れた。そう思ってくれたことも、受け止めようとしてくれたことも嬉しい。
「助かる」
素直に礼を言うと、緑谷は口をむずむずさせて何某かの言葉を飲み込んだ。その両腕が伸びて、そっと抱きしめられる。
「……どうせなら、この機会に色々教えてよ。僕にしてほしいこと」
胸がいっぱいになって、ぎゅ、と自分より小さな背を抱き返した。
別に普段我慢をしているつもりはない。でも、壊したくない、傷付けたくない、と思って抑え込んでいた欲求が開かれる。
「君はいつもやさしくしてくれるから。もし普段我慢してるなら、したいことがあるなら、それを教えてほしい」
やさしく轟の髪を撫でるようにゆるく抱きしめて、ふふ、と楽しそうに笑った。
「まだ開いてるお店を探して、たくさんお蕎麦を買いに行くのでも付き合うけどね」
抱きしめられたままその首元に鼻先を埋めて息を吸うと、桃の葉エキスが入っているというボディソープの、ほのかに甘い匂いがする。
こんなにあどけない顔で笑っている恋人が、電話を受けてから急いでシャワーを浴びたのかもしれないと思ったら、腰がずんと重くなった。
「はぁ……」
すり、と己より幾分細く小さな肩に額をこすりつけて、熱を逃がすように息を吐く。
「轟くん……?」
「ちんこいてぇ」
「ッ!?」
なんだか台無しな本音が滑り出てしまったが、もうどうしようもない。
隠す段階でもないので、少しばつが悪い気持ちで少し身体を離す。
我慢できなくなるっていうのはそもそも欲求の増幅とかもしかしてそういう個性の影響が、と緑谷はブツブツと思考に沈みながら人の股間を凝視していた。
「轟くんっ! つらければ、まず僕がその……っ」
「いい。そういうんじゃなくて」
何を言おうとしているのかを察して、そっとその手を取って遮った。
片方の欲の処理のようなことなどしなくていい。ただ願わくは、
「セックスがしたい」
お前としかできないこと。
お前にしたい、してほしいこと。
「緑谷」
呼ぶと、はっと小さく緊張が走った。
途端に夜の湿度を滲ませた空気に尻込みして、後ろ手をついた身体を狭いソファの端に追い詰める。
その腹をそっと撫でた。
「ここに、一番奥まで挿れて」
びく、と反射的に身を引こうとするも逃げ場のない腰を膝で挟む。
「限界まで焦らして」
「ぇ、ぅ」
顔を寄せて、赤く染まる耳朶に欲望を吹き込む。
「我慢できなくなったお前が腰振ってんの見たい」
至近距離で、息を呑んだのがわかった。
硬直しているのをいいことに、四本の指先でぐるんと臍の辺りを撫でる。
「そしたら俺の上に乗せて、下からガンガンに突いて」
「……ぅ、ぁ……っ」
ぞくぞくぞくっ、衝動が背骨の下から脳天を駆け上る。ただでさえ緑谷は轟の声に弱い。腰が抜けて完全にへたりこんだ。その翡翠に滲んでいるのは、もはや期待以外の何でもない。
「理性的なお前の頭ん中ドロドロんなるまで犯して」
ゆっくりさすり上げられた腹が、びくびくと痙攣した。はっ、はっ、と短い息が漏れる。
「俺のでヨがってるとこ、全部見てぇ」
轟は恍惚と笑んだ。やさしいやさしい、いとしさに塗れた肉食獣の笑みだった。
頭と下腹部に、きゅうと熱が集まる。今言われた一連の想像だけで、じわ、と下履きをゆるく押し上げる自身の中心が濡れてきたことに緑谷は気付いた。もじもじと隠すように膝を擦りあわせる。でも何よりその奥の奥が、きゅんきゅんと目の前の男を欲しがって切なくないている。
目を合わせられないのに、その視線が近距離から射抜くように向けられているのを悟って、緑谷は獲物の気分で身を縮こまらせた。
耐えかねて両手で顔を覆う。
轟の零す息は既に熱を持って情事中のようなそれなのに、緑谷が頷くまで、“待て”を保ってくれている。
これまでにないほどの直截な言い回しに、『理性』を失った彼の本音を垣間見る。
轟がもう熱を逃がす効果もない息を三度吐いた時、緑谷が自ら顔を隠した手指の隙間から、真っ赤に染まった目元が覗いた。
恥ずかしさに視線は外されたものの、どろりと同じ欲の滲んだ瞳。
「……が、がんばる、ね……」
知らず轟は舌舐めずりしていた。
あろうことか、ごちそうがそうやって自ら皿の上に乗ってしまうから。
もうけものは、一秒だって我慢なんかできない。する必要もないだろう。