聖域#1
「私はこれからルイ様なしで生きていかなきゃいけないんですね…」
何がしかの事情…主に金回りが悪くなったことが理由でこのマンションを出ていく女共は大体総じて同じセリフを吐く。そんなことを言いつつ、お前らは明日からもしたたかに生きていくくせに。今目の前でさめざめと涙を流すこの女はまだ稼ぎが期待できそうだったので一応「金ができたらまた店に来い」と伝えておく。本当にまた店に来る者、もう二度と姿を現さない者、またこのマンションに返り咲く者、それは様々だ。また会うか会わないか、金を落とすか落とさないかの判断一つに俺の命運が少しずつ委ねられているかと思うと、ホストと客の関係性というのは奇妙なものだと改めて思う。
「何?どっか行くの?」
「あ、バカ!あの子今日で最後なんだよ、デリカシーなさすぎ!」
「あーっ、そうか!出ていくの今日だったっけ?」
「てか明後日のランチの約束まだ生きてるよね!?あとでまたラインするね!」
もたもたと別れの挨拶などしているうちに背後がやかましくなってきた。大荷物を持って今にも出て行こうとしていたその女の目からさらに涙が溢れて「みんなまたね」と言って去っていったので、まあ戻る見込みとしては半々といったところか。トリリオンのホストたちの中には、俺が一体どんなハーレムを作っているのかと興味津々で聞いてくる者も多い。妖艶な女共は首輪をつけて常時いかがわしいコスプレか下着姿で家の中をうろつき、キッチンだろうが廊下だろうがところ構わず性行為に明け暮れ、俺は自分のことを「ご主人様」と呼ばせ、鶴の一声で何でも言うことを聞かせる…などがよくあるイメージらしい。俺も当初はそのように構想していないでもなかったが、実態は意外と生活感に溢れているどころかここは女子校か?と言わんばかりのかしましさ。あと無闇やたらと部屋を汚したくないので寝室と風呂以外で行為はしないし、コスプレは各々の気まぐれでしているのを時々見るくらいだ。
「あーあ、私ここに来てまだ2か月だけど、あの子優しくて好きだったのになぁ」
「私もー。でもいいじゃん、これからも会える距離に住むらしいし」
「ねー、誰か私のマスカラ知らない?」
「これじゃない?昨日テーブルに置き忘れてたよ」
「ありがとー!」
「今からご飯作るけど食べる人〜」
今日も変わらず、うちはとても騒がしい。
#2
ある日のこと。
「ルイ様ー、今日のお昼ご飯ラーメンでもいい?」
「ラーメンか。まあいいだろう」
「よし決まり、今から作るね。味噌バターラーメン好きだったよね?」
「ん?ああ…」
返事をしながら俺は一瞬考えた。それを最後に食べたのはホストになる前の話だし、こいつらに好きなラーメンの種類など話したことがあっただろうか?女は百貨店の北海道物産コーナーに売っていたレトルト加工された味噌バターラーメンを何食分か買ってきたという。
「あんたも食べる?」
「私はダイエット中だからこれだけでいいや〜」
たまたまいた別の女はそう答えてゼリー飲料を飲み続ける。俺はラーメンを作るために湯を沸かし、野菜を切り始めた女に尋ねた。
「おいお前、なぜ俺がそのラーメンを好きだと知っている?」
「え?何でって…何でだろ?あんたは知ってた?」
「うん。何で知ったのかは忘れちゃったけど、そうだってことは確かに知ってて…」
2人とも頭にクエスチョンマークを浮かべて記憶を手繰るようにしながらそう話す。結局、謎が解明されることはついぞなかったが、実はここに女共と住み始めてからというもの、同じような現象が昔からたまに起きているのだ。教えた覚えのないことをなぜかこいつらが知っている。内容は今回のようにどうでもいいようなことで、元々読書が好きだったことも何故か知られている。ここの女共は総じて目ざとく耳ざといので少しの変化でも見逃さないのは分かるし、そこはホストである俺も少し共感できる部分である。しかしそれを差し引いてもなぜ?と疑問だった。一度これをたまたまミオに話したら、「一緒に暮らしてんだからそれくらい無意識に気づくんじゃねースか?」と何の気ないように返されたが、生活空間を共にするとはそういうものなのだろうか。普通をよく知らない俺には分からん。
そこに別の女が帰宅してきた。ここに住んで3年は経過している古株だ。
「ただいま。あ!ラーメンだ。いいな〜、まだある?」
「もう何人分か残ってるらしい、勝手に作って食え。しかし確か貴様、味噌よりも塩派じゃなかったか?」
「え?まあ基本そうだけど、ルイ様どうして知ってるの?言ったことあったっけ?」
「は?何でもなにも…」
不意を突かれて俺はしばらくじっと考えを巡らせてみた。
「…そうだな…どうしてだろうな?何故か知っていた」
こういう不思議現象はきっとこれからも起きるし、その理由も結局よく分からないままなのだろう。
#3
ピンポーン。
家のインターホンが鳴っても、女共が誰かしらいれば俺が直々に出ることは基本的にない。アポなしの来客などまずないし、大体が宅配便だからだ。この間うっかり玄関先に出てしまい、近所に住む噂好きのババアに回覧板を渡されがてらあれこれ詮索されて心底うざったらしかった。下の階のジジイ同様、近所付き合いは面倒だ。
女共のうち1人が「はいはい、出ますよっと」などと言いながらドアモニを見て小さく悲鳴を上げた。いつも飄々としたその女に似つかわしくない、怯える子犬のような声だった。
「どうしたのー?」
たまたまリビングにいた他の奴らもわらわら寄っていく。「誰だ?」と聞こうとしたら、今度は玄関のドアを力任せに叩く音が響き渡ってぎょっとした。ふざけるな、壊れたドアを見て近所のババアがまたどんな噂を立てるか、考えただけでうんざりだ。またファミリー層の住人たちが「治安が悪い」「教育に悪い」だの何だのでクレームをつけてくる格好の理由になるじゃないか。
最初にドアモニの前に立った女はいつの間にやら腰を抜かしてへたり込んでぶるぶる震えている。その理由はすぐに分かった。ドアを壊さんばかりのノックと一緒に聞こえてきたのは喚き声や怒号。ドアモニからも玄関先からもハモリで聞こえてくるので余計に気分が悪い。内容をよくよく聞いてみると、どうやらその女の両親のようだった。何らかの方法を使ってエントランスのオートロックやコンシェルジュの目もすり抜けてきたのだろう、家を出てから何年も会っていなかったらしい娘に対して開口一番で罵詈雑言、二言目で金の無心など、どうせまともな親じゃない。醜いが、別に珍しくもない醜さだ。
「少し出てくる、お前らはここにいろ」
「気をつけてね、ルイ様」
「阿呆、俺を誰だと思ってやがる。あと、そいつが見つかると面倒だ。引っ込めておけ」
動けなくなっている女を他の奴らが何とか立たせて奥の部屋に連れて行く。「あんたも毒親持ちだったんだぁ、お互い災難だよねー」などと話し声が聞こえてくるのを尻目に玄関ドアを開ける。
「さっさと帰れクズどもめ、警察を呼ぶぞ」
一応先にそう言っておいたが、何となく予想していた通り引き下がらないどころか余計に喚き散らされる。いよいよ苛立ちが増してきた、と同時に父親の方の襟首を掴んで引き寄せる。ノーリミットで殴らないだけ、俺も丸くなったのかもしれない。
「今なら警察を呼ぶだけで済ませてやると言ってるんだ」
「おい、あいつらもう帰ったぞ」
警察を呼ぶまでもなくあっさり逃げ帰った男女を見届けた後、奥の部屋に入って声をかけると、先ほど実の両親に罵声を浴びせられていた女は芋虫のように毛布にくるまっていた。ちらっと隙間からこちらを確認して俺と他の女共以外に誰もいないと分かると、毛布を剥ぎ捨ててこちらに駆けてきたかと思えば力いっぱい抱きしめられる。ついでにその場にいた他の奴らもわいわい寄ってきた。
「ルイ様超かっこよかったよ〜!」
「2・3発殴ってやればよかったのに〜」
「また近所からのクレームがうるさくなるだろうが」
「やばーいルイ様が近所の評判気にしてるのマジウケる〜!」
「評判なんてどうせもう下がりようがないくらい落ちてるのにね!」
「うるさい。早くメシにしろ」
「は〜い!」
「私ビーフシチュー作っていい?」
「じゃあ私はパン焼こうっと。朝に作ってたタネがまだあったはず」
「ちょっと、シチューにニンジンは入れないでよね」
くっついてきたかと思えばすぐに散っていくが、こいつらの切り替えの良さはそこまで嫌いではない。しかし、さすがにやはりそう簡単に切り替えることが難しい者がこの場に1人だけ。力を込めていた腕を緩めてようやく俺から離れた女は重い口を開く。
「ルイ様、あの…」
「フン!貴様のしみったれた身の上話など聞きたくもないわ。申し訳ないと思うんならもっと稼いでくるんだな」
そう突っぱねると、初めて笑顔が少しだけ戻った。どうやら追い出されなかったこと以上に、事情を話さなくてよいことにホッとしたらしい。その気持ちは少し分かる。誰にだって知られたくない過去の一個や二個…いや十個や二十個は持っているし、中でもここにいる者は特にそうなのかもしれないと日頃から節々で感じる。
「ありがとう、今週ドンペリゴールド5本入れるね!」
「フム、悪くない」
皆何かしら抱えている。ここに住む女共が人知れず隠れて流している涙も知らないわけではない。かといってそれを指摘するわけでもない。ここはそういう世界なのだ。
#4
「ねぇルイ様、どっちが似合う?」
「知るか。どれでもそう変わらんだろう」
もう、そればっかりなんだから。と言いながら、ある女が鏡の前で1人ファッションショーに勤しんでいた。いつもなら部屋を散らかすなと言うところだが、今は少しだけ優しくしてやる。
「あーあ、いいなぁ店外デート!」
「しゃーないよ、あの子が先月一番お金落としたんだし」」
後ろで他の女共が思い思いの反応を見せる。
「っていうか店外って不思議な表現だよね、この生活も店外みたいなもんじゃん」
言い得て妙だ。
一緒に暮らしていても、2人きりのデートの時間を勝ち取りたい気持ちは皆一応持っているらしい。そのデートは今日ではなく明日なのだが、服の吟味を一通り終えた女は今度は髪型やネイルだのをどうしようかなどと上機嫌にスマホを覗いている。
「ただいまぁ。ルイ様、さっき下にシン様が来てたよ」
ある女からの思わぬ突然の情報に仰天した。なんという晴天の霹靂。こいつらには緊張感というものが備わっていないのか?
「なっ、貴様…!何故俺に声をかけねぇ!」
「私も上がっていかないかって言ったんだけど、このマンションを見にきただけだから別に呼ばなくていいって」
相変わらず謎だよねーと女は明るく笑う。が、俺としてはそうそう悠長に笑ってはいられない。
「シン様!」
「む?」
急いでマンションを出て少し走ると、目立つ後ろ姿はすぐに見つかった。よかった、間に合った。
「どうしてここに…何か御用だったのではないのですか?」
「この近くを通りがかってな。ふと気になっただけだ、お前がどんな城で生活しているのか」
「ではよかったら家でお茶でも、」
「いや、元より外観だけ見てすぐ帰るつもりだった。あそこはお前の聖域だろう、私が足を踏み入れると理が乱れる」
「聖域…ですか?」
「そう、聖域だ。あそこに入っていいのは住んでいるお前や彼女達の他にはコーちゃんくらいのものだろう」
シン様には感謝しているし尊敬もしている。しかし、言っていることの真意が分からない時が普段から多い。この方はいつも直接的な答えをなかなかくれないのだ。シン様なりのお考えがあるということだけは重々理解しているのだが。
「あまり深く考える必要はない、その中にいる時には気がつかぬものだ」
それだけ言い残し、今度は呼び止める間もなく去っていってしまった。
#5
小さい頃、高熱を出したことがある。まだ戸籍上母と定義される女と一緒に暮らしていた頃のことだった。
こんなに苦しいんだから、今日だけは夜出かけるのをやめてそばにいてくれるのではないか?朦朧とする頭でそう期待した。今思えば馬鹿だとしか言いようがない。もちろん、俺の明らかな体調不良に絶対に気付いているはずなのに、いつものようにあの女は振り返らずにあっさり出かけていった。ゴミまみれの部屋に取り残された俺は、早く帰ってこないかなとドアをずっと眺めているうちに眠っていた。
それも今は昔。俺は過去に2年間の山籠り生活を経験したことに加え、今は日頃から鍛えていることもあり滅多に風邪など引かない強靭な体を手に入れていた。
…と、思っていたのに、何ともはやこの体たらく。
「ルイ様、たまご粥食べれる?」
「…そこに置いておけ」
ことの始まりは昨日。身体に違和感を感じたが、気のせいだろうとそのままいつものように出勤した。そして今朝からは微熱。ここで休んでおかずにいつもの筋トレに勤しんだのがまずかったらしく、午後には高熱に発展していた。異変に気付いた女が俺の顔…に触ることは避け、首筋に片手を当てて言った。「ルイ様、熱あるんじゃない?」。それに対し、「うそ!」「あの頑丈オバケのルイ様が!?」とリビングは騒然。瞬く間にこの家の住人のライングループにも情報が回され、そのトーク画面もついでに騒然。
普段ならここまでの大騒ぎにはならなかったことだろう。しかしなんと今日は俺のバースデーイベント前日。なぜこんな時に限って!
「ルイ様、今月は過去最高売り上げ期待できるかもってあんなに頑張ってたのに…」
「当日までに絶対治しましょう!バースデーイベントがグダグダで終わるなんて許さないからね!」
「バーイベでする予定だった私のシャンパンタワー貯金も無駄になっちゃう!頑張ってルイ様!」
「どうしたら元気になる!?おっぱい揉む!?」
「今おっぱいはダメ!アッチが元気になったら熱が余計に上がるかも!知らないけど!」
「熱は…38.9度?やば!」
「もー、それなのに平気なふりして筋トレしちゃって、意地っ張りなんだから!」
そうして騒がれ怒られ激励され、今に至る。今日はさすがに休みを貰って寝室の広いベッドに横になった。女共の言う通り、明日のバースデーまでには絶対に治さなければいけない。万が一動けないなどという状況になればシン様にも迷惑がかかる。
散々大騒ぎした後、女共はいつもより少し静かになった。俺に気を遣ってか皆小声で会話しているらしい。ベッドで目を閉じていても時々誰かが様子を見に来る気配を感じる。
浅い睡眠を何度か繰り返しているうちに夜になっていた。微睡む目で何となく寝返りを打ち、ドアのほうをボーッと眺めているとふと過去の記憶が蘇る。我ながら本当に馬鹿げていた。小さい頃、あの狭い部屋で1人高熱に冒されなからも眠気と戦いながら待っていたのだ。「やっぱり心配だから戻ってきた」とあの女が帰ってくることを。誰かから甲斐甲斐しく世話をされるという概念が当時の俺にはなかったが、それでも何気なく流していたテレビドラマの中に親に看病される子どもが出てきた時に羨ましいと思うくらいには寂しかったのかもしれない。
くだらん。そう思いまた逆方向に寝返りを打った時、ドアが開く音と一緒に声が聞こえた。
「…ルイくん、大丈夫?」
一気に目が覚めた。誰が来たのかなど、見る前から声だけですぐに分かった。
「コっ…!」
「あーほらダメダメ!寝てなきゃ!」
起きあがろうとしたらすぐにベッドに押し戻される。この時間クラブワンで働いているはずのコーさんは、とりあえず俺が特に抵抗せず再びベッドに横になったのを見てホッとしたように笑った。
「なぜここに…」
「ここの女の子たちのうちの10人くらいが店に来てさ、どうしてもって頼まれたんだ。ルイくんが大事なバーイベ前に珍しく風邪引いちゃったからお見舞いにきて元気付けてやってって」
「すみません、あいつらが仕事の邪魔を…あまりここにいてはいけません、伝染りますから」
「言うと思った。いいのさ、君にはいつも助けられてるから」
部屋の電気が暗いので、明かりは開けたドアの向こうから漏れてくる電気の光のみ。まるでコーさんが後光を背負っているようだった。
実は時々、よくない夢を見る。この顔がまるで薄い紙一枚で危うく保たれていたのようにいとも簡単に剥がれ、出てくるのは整形する前の俺の顔。そして強烈な猫背に逆戻り。真っ暗な空間で俺の周りには誰もいない。そんな夢だった。あの女は俺の顔が嫌いだったのだろうか。俺の顔がもう少し整っていれば俺を連れて行ってくれたのだろうか。中学生で美醜について意識するようになった頃、そのように考えていたことがある。
しかしコーさんの瞳を見ていると時々思う。コーさんは違うのではないか?コーさんだけは、昔の俺のままでも今と同じように接してくれるのではないか?実際はそんなことはもう確かめようがないのだが、その一縷の希望を持てるだけで心の暗がりに光が灯るのだ。
「喜んでくれたかな?」
「当たり前じゃん、だってルイ様には一番の薬でしょ」
「コーちゃん大好きだもんね」
「もー妬けるわぁ、いつものことだけど」
「分かる〜」
ドアが半開きになっているので女共がヒソヒソ話をしている様子が見えるが、内容までは聞こえてこない。
「いやぁ、ボク初めてここに来たけどさぁ」
コーさんがそう口を開いた。
俺の私生活についての周囲からのイメージは大体共通している。そして実態を話すとそのギャップに驚かれる。イメージというのは例えば妖艶な女が首輪をつけて常時いかがわしいコスプレや下着姿でうろついていそうだったり、それから他にも…
「ボクが想像してた通りの賑やかな家だね!」
ああ、この人は出会った頃から今まで変わらず、そしてこれからもずっと俺の光なのだろうと思った。
コーさんはその後も少しだけ滞在して、「明日頑張ってね」と言い残してクラブワンに帰っていった。わずかに食欲が出てきたので温め直したたまご粥を食べて、もう一度眠りにつく。次に目覚めた時はもう翌朝で、「ヤッピー!」と聞こえてきたので驚いて振り返ると、女共がニタっと笑いながらこちらの様子を伺っていた。
「ふふっ、コーちゃんじゃなくて残念でしたぁ」
「なっ…紛らわしいことを…」
「ルイ様、もう熱は平気?」
「…ああ、もう引いたみてぇだ」
バースデーイベントは大盛況。営業時間中ずっとコールは鳴り止まず、いくつもタワーやボトルが入る。自身の過去最高売り上げを更新したことを確認する頃には、珍しく酒が回って頭がいつもよりぼんやりするのを感じていた。
明け方に帰宅すると今日はさらに珍しいことに20人の女共全員が揃い、お祝いだと言って特上肉ですき焼きを作っている。とても眠いが、今日はもう少しこの余韻に浸っていたい気もする。寝るのはすき焼きを少し食べてからにしようと思いソファに座った。
「ルイ様、締めってうどんと雑炊どっちがいいー?」
ダイニングからトコトコと声をかけにきたのはここに住む20人の中でも抜群の器量を持った女で、超高級店でナンバーワンを保持し続けている人気嬢だ。米はどうせすき焼きと一緒に食べるのだからうどんの方がいいんじゃないかと返事をしようとしたら、酒の回った頭だからかなんなのか、突然自分では思いもよらない台詞が出てきた。
「俺の元々の本当の顔がどんなだったか知ったら、貴様らもここからいなくなるんだろうな」
まずい、朦朧としてつい時々想像することを。他の奴らはすき焼きの準備に夢中でこの会話に気づいていない。誤魔化そうと思ったが、目の前の女はまるで何気ない会話をするかのようにスマホを取り出して言った。
「本当の顔?自分が望んでなった顔の方が本当の顔に決まってんじゃん。ルイ様、これ私の昔の顔。私、整形に3000万かけたんだよ」
SNSにビフォーアフター上げてみようかな?と少し自慢げに、それが自分の勲章の一つでもあるかのように見せてきた写真を見て驚愕した。原型が一切ないのは俺も同じだが、まさかここまで変わるとは。しかも整形感が一切ない。目も鼻も口も輪郭も何もかも。この俺でも整形に気付かなかった。
「ふふっ、私のこと追い出す?まだたくさん稼げるけど?」
完全論破、ぐうの音も出ない。
「…どこの美容整形外科だ?」
代わりに絞り出したのはそんな一言だけだった。
#6
荷物や家具を引き払った部屋を眺める。10年以上住んだこことも今日でお別れだ。
「結婚する」と女共に宣言した日、阿鼻叫喚の地獄絵図になるかと思いきや、泣いたり喚いたりすることはあれど思ったより冷静な者が多かった。俺を婿に迎え入れる女の資産はここの女共の生涯収入を束にしてもまるで歯が立たないほどで、まさに規格外中の規格外。初回で俺にブラックパールを入れた婆さんのことは、今やトリリオンだけにとどまらず他店にまで知れ渡ってる。水揚げや引退を予想していた女も多かったのだろう。
「ルイ様、さようなら、お元気で」
「うむ」
女共は皆メソメソと泣いているが心配などしない。ましてや罪悪感などあるわけがない。こいつらはこれからも人生を選択し、明日からもしれっと図太くしたたかに生きていくだろう。俺と同じように。往生際悪くなんらかの方法でまた俺に近付く者もいるかもしれない。
しかしここを実際に離れることになった今、俺もこの気持ちに気がつかないわけにはいかなかった。
「俺はこれから、貴様らなしで生きていかねばならんのだな」
声に出してみるとなんともはや。結婚すると言った時、意外にもそこまで騒ぎ立てないこいつらに「もっと悲しめよ」「もっと惜しめよ」と少しだけ、本当に少しだけ不満に思った。なぜこの俺がこんな。
そこで、皆泣くのをやめて俺をまじまじと眺めていることに気付く。全員、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「…なんて言うとでも思ったか阿呆どもめ!さっさと散れ!」
くるりと踵を返して俺は歩き進めた。少ししてから、さっきまでとは比べものにならない音量でわんわんと泣く女共の声が後ろから聞こえてきた。フン、そうだそれでいい、お前らはずっと俺のことを忘れずに生きていけばいいんだ。しかしその思いはそっくりそのまま自分にも刺さる。ここでの生活は一生忘れないだろう。
俺のこれからの人生はおおむね確約されたようなものだ。しかし今日だけは諦めて感傷に浸るほかないらしい。
今日、俺はこの聖域を手放した。
(終)