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    𝑘𝑟𝑎𝑛𝑘𝑒↯

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    ##すいかい

    Crocus「すっげー! 秘密基地じゃん!」

     突然の来訪者は、高揚感に満ち満ちた声色でそう言い放った。秘密基地。なるほど、物は言いようだな。化学実験準備室は、僕の持ち込んだ私物が並んでいて、學園の中では混沌としている方なのは事実だ。季節によって並ぶものは変わるけれど、冬場に出すこたつなんかは、別の教室で見る機会はおそらくないだろう。とはいえ、どちらかというと、宿直室に近いと思っていたのだけど。
     僕は目を擦って体を起こし、開け放たれたドアの前に立つ人影に視線を向ける。電気を消していたから、逆光で細部までは分からなかったが、男子生徒だということだけは確かだった。彼は僕の存在に気付いていないのか、断りもなく照明をつける。化学実験準備室には奇人の三年生が居座っているという噂は學園中に広まっているというのに、彼はそのことを知らないのだろうか。
     白い蛍光灯が瞬き、目が眩む。思わず小さくうめいた。薄目でしか見られない不明瞭な視界の中、足音だけがはっきりとこちらに近づいてくる。光に目が慣れるにつれ、彼の姿も色鮮やかになる。ピンクの髪に、水色に染められた後ろ髪の毛先。少しぼんやりして見える表情と、そうは思えない先ほどの声。
     見覚えのある顔だった。

    「あ、ねえ、僕のことわかる?」

     まだ毛布の中にいる僕に視線を合わせるためか、しゃがみこんだ彼は自分を指差し首を傾げた。

    「忽那一郎、でしょ」
    「そうそう! あー、よかった。お前誰? って言われたらどうしようって、入り口の前でしばらく悩んでたんだよ。えへへ……」

     ――風紀委員会。現生徒会長で、僕の幼馴染でもある一九十九が設立した、新設の委員会。とある事件がきっかけで正式に加入が決まった僕は、先日、既に風紀委員会に所属しているメンバーとの顔合わせをしたばかりだった。彼はその中にいた、僕と同じ三年生の男子生徒だ。

    「……君のことは前から知っていたよ」

     名前を覚えたのは、この間の自己紹介の時だったけれど。

    「え、マジ? 実は僕もなんだよねー」

     僕のことを知られているのは、驚くほどのことではない。不本意とはいえ、良くも悪くも名が知れている自覚はあった。彼に限っていえば、知っていてのあの行動だったと考えると、何とも言えない気持ちにはなるけれど。遠慮とか、ないのだろうか。
     一郎の視線が僕を頭から足元へなぞり、戻ってくる。
     僕も倣うと、前々から思っていた通り、華奢な身体だった。僕の記憶が正しければ、三年生の男子で似たような体型をしているのは、僕と彼くらいなものだ。決して認めたくはないけれど、僕はその括りの中では一番背が低いということになっている。あくまで、計測された数値の中での話ではあるけれど。おそらく彼はその次だろう。
     知り合う以前から、なんとなく、同族意識のようなものがあったのだ。最高学年になってなお、新入生にすら『小さな先輩』という目でばかり見られてしまうだろう彼に。
     そんなことを考えていると、目の前にあった淡い色の瞳がへにゃりと閉じて、くすくすと楽しげな笑い声が鼓膜を打ち、

    「ほら、照、小さいからさ」

     なんて言葉が降ってきた。自分のことをすっかり棚に上げた言葉と共に頭を撫でられ、思わず顔が引き攣る。頭ひとつ分大きな相手に余裕ぶった態度でそう言われるのも腹が立つけれど、これはこれで、かなり腹立たしい。

    「それは君もだろう」

     苛立ちはある程度抑えつつ、その手を払った。くぐもった音と、袖越しに感じた他人の肌の感触。どちらも、久しぶりに感じた気がした。人の手を振り払わなければならないという状況自体が、この學園に来てからほとんどなかったのだ。
     一郎は払われた自分の手を見つめて、それからもう一度僕を見る。
     冗談の通じない奴だとか、冷たいだとか、そう思われたならそれでいい。きっと他の人と同じように、近寄らなくなるだけだ。彼のような、パーソナルスペースの狭い人間と上手く付き合えるとは思えないし、そもそも、僕は人付き合いというものが苦手なのだ。他人に合わせてへらへらと笑って過ごすのも、他人の話についていくためだけに興味のない流行を追いかけるのも、性に合わない。必要最低限の関係を問題なく持ち続けられるのなら、それ以上はいらない。風紀委員会に関してでいえば、九十九の迷惑にならなければ、それでいいんだ。

    「ん? 僕って小さい?」

     しかし。彼は意表を突いてきた。

    「……、まさか、自覚がなかったのかい」
    「いやあ、ほら、僕ってカッコいい系じゃん?」

     何を言っているのか分からず、もう一度一郎の姿を確認してみる。僕と似たような背格好。長めの横髪や、幼げな雰囲気もあって、男らしいというよりは中性的な印象だ。もちろん、僕の思うかっこいいと彼の思うそれが別のものである可能性はあるけれど、一般的に言うかっこいい男性というのは、身近な人物で例えるなら、同学年の皇北斗のような人間を指すのではないだろうか。実際、彼には専用のファンクラブがあるくらいだし。

    「スレンダー体型だねって言われたことはあるけど、背低いとか言われたこと全然なくてさ。ちょっとびっくりしちゃったかも?」

     ……彼は少し、自意識過剰なのかもしれない。
     無言で哀れみ混じりの視線を向けかけたところで、一郎が困り笑顔で僕の頬を軽くつついた。

    「そんな顔するなよ! ここ、笑うところー」

     はあ。笑うところと言われても。
     黙ったままの僕のことは気にしていないのか、彼は再び準備室をぐるりと見渡して感嘆の声を上げた。興味の先も、喜怒哀楽も、子供のように忙しない。

    「にしてもすごいなあ。僕、ここ入ったの初めてなんだよね。全部照が持ってきたの?」
    「ほとんどは。泊まりで作業することもあるからね」
    「え? そしたら怪異に襲われたりするかもしれないんじゃ……って、あ、そういうことか……」
    「……そういうこと」

     九十九から泊まりは控えるように言われていたとはいえ、まさか學園内でそんなことが起きているとは知らなかった僕は、先日それがきっかけで事件に巻き込まれたばかりだった。九十九は、オカルトなんて信じていない僕に事情を説明しても無駄だと思ったのだろう。仔細は伝えられていなかった。彼女の判断は間違っていない。忠告を無視した僕に非がある。
     結果、オカルト紛いのものをこの身で体験することになってしまったわけだけれど。見方を変えれば、見識が広がったともとれる。悪いことばかりではなかった。
     一郎の手が、僕に被さった毛布に触れる。

    「昼寝し放題?」
    「そうだね。僕がここにいることは知っているだろうけど、先生もわざわざ起こしには来ないし」
    「ええー! いいなー!!」

     僕のその言葉に、一郎の目がきらきらと輝いた。

    「僕が寝てると、先生すぐ起こすんだよ! まあ、それでも寝るけどさー」
    「……教室で寝ていたら、起こされるのは当然だと思うけど」
    「だって、」

     何か言い返そうと意気込んだ声が不自然に途切れる。奇妙な沈黙。それを振り払うように、一郎が僕の身体を無理矢理押しのけた。不意を突かれて左へ転がってしまう。

    「ちょっと、何を……」
    「お、あったかい。さっきまで寝てた?」
    「はぁ……そうだけど……君が起こしたんじゃないか」

     空いたスペースに入り込まれて、半分を占領される。こんなことをされれば、不快に思わない人の方が少ないのではないだろうか。學園の敷地を勝手に占有している僕が言えたことではないかもしれないが、一応、ここは僕が寝泊まりしている場所で、先程彼に言った通り、ついさっきまで僕はここで寝ていたのだ。先日出会ったばかりの相手にベッドに入り込まれて気分の良い人なんていないだろう。
     だけど、どうしてだろう。ひとりごとのように繰り返された、吐息のような「あったかい」という声に、安心が滲んでいるのを感じてしまったからだろうか。思ったよりも嫌悪感がなくて、自分でも不思議に思う。
     隣に、他人の温度を感じる。

    「えへへ。んー、なんか落ち着く……」
    「僕は落ち着かないんだけど」
    「へーきへーき、そのうち慣れるって」

     いつまで居座るつもりでそんなことを言うんだろう。首を傾けて視線を向けると、一郎はずっと僕の方を見ていたのか、目が合った。自分本位な言葉の羅列に、言い返したいことは山のように浮かぶのに、なんだかどうでもよくなってくる。確かに、暖かい。ひとりでいる時より暖かく感じる。

    「あのさ、照って何が好き?」

     ほんの少しだけ微睡みかけた意識を引き戻したのも、やはり彼だった。話題は、何も考えず地に向けて放った鞠のように、どことも知れぬ方向へ跳ねる。彼が来てからの短い時間、ずっとそれに振り回されているような気がする。僕は無意識のうちに、返す言葉を探している。
     好きなもの。自己紹介の時に必ずと言っていいほど聞かれること。そんなものは決まっている。迷うことなく。僕は正しい投げ方を知っている。そう身体を動かせば間違いないと、刻み込まれている。
     それなのに、一郎は、僕の手の届かないところに投げてしまうのだ。

    「あ、実験とか勉強以外な!」

     軽く付け足された言葉が、僕のなにかを突き崩した。
     揺らぐ。実験と研究を除いた僕の人生に、一体何があるっていうんだろう。それだけを見て生きてきた。それだけを求められて生きてきた。優秀な兄の背中を見て、自分もそうなるよう望まれて、僕はその通りになるために頭と手足を動かした。それが有栖川照の人生だ。これまでも、これからも。その間にどんな不純物が混ざったとしても。
     誰もがそれを望んでいる。
     天才科学者の有栖川照を。
     僕自身もそれを望んでいる。
     だって、僕は、それ以外が分からない。
     みんなが当たり前のように言う『好き』が分からなかった。『趣味』も分からなかった。自分に当て嵌めるなら、やはり、実験と研究が僕の『好き』で『趣味』だと思う。ずっとそれを続けている。その中に楽しさを見出してもいる。この先ずっと続けていたいと思うし、続けているとも思う。
     化学は嘘をつかない。いつも素直に、誠実に、いっそ愚直なほどに、僕の手に応えてくれる。化学に心はいらない。愛想が悪くても、面白いことが言えなくたって、誰も文句は言わない。化学は静かだ。僕と、目の前に広がる世界の、無言の対話だ。
     一郎には、この質問の難しさが、きっと分からないのだと思う。彼の笑顔は、世界が好きなもので溢れているような笑顔だ。友達もたくさんいて、趣味もたくさんあって、僕が答えにくいような質問にも、簡単に答えられてしまうのだろう。
     僕とは違う。
     答えられないのは仕方ない。だって、僕には、それしかないのだから。
     そう、諦めてしまっても良かったのだけど。

    「強いて言うなら……甘いもの、かな」
    「甘いもの……いいね、僕も好き!」

     他には何もないと言って、この温かさは得られなかっただろう。僕が言葉を返した、たったそれだけで向けられる飾り気のない笑顔を、悪くないと思っている自分がいた。
     一郎が身じろぎをして、猫のように少し丸くなった。花冷えが続いているから、日の当たりにくい間取りのこの部屋は少し肌寒いのかもしれない。

    「寮からちょっと行ったとこにさ、あ、水鏡館じゃなくて、本寮の方ね。公園あるんだけど、知ってる? 噴水があるとこ」
    「……行ったことはないけど、知ってはいるよ」
    「そこにさ、今クレープ屋さんが来てるんだよね。車のやつ」

     声の輪郭が失われていっているような気がした。ふわふわと、夢みがちな声のまま、それでも続ける。

    「今度、一緒に行こうな」

     重そうな瞼を抱えて、彼は笑った。
     一緒に。僕は、今、遊びに誘われたんだろうか。
     いついなくなるか分かんないから、早めで。そう付け加えた一郎は、もうほとんど喋れていなかった。頭を揺らめかせて、名残惜しそうに毛布から出ようとする彼の体を引き戻したのは、僕の手だった。
     体を起こし、空けたスペースに余裕を持って一郎を寝かせる。どうせ起きたら昨日の続きをやるつもりだったのだ。この場所は、今は使う予定はない。

    「……少しだけだよ」

     あのまま帰すのもかわいそうだから。僕の作業が終わるまでなら、貸してあげてもいい。よほど疲れていたのか、あっという間に寝入ってしまった。
     時計を見ると、思ったよりも時間が経っている。ただ取り留めのない話をしていただけだったのに。
     経過観察のための準備を整えながら、ふと、一郎は何のためにここにきたのだろうと思った。設備に興味を向けて、僕の寝床に入り込んで、変な約束を一方的にして、眠っただけ。今も静かに寝息を立てている。
     分からない。分からないことだらけだ、他人のことなんて。



    「えっ、寝てた!?」
    「ぐっすりと」
    「うわぁ……ごめん……」

     結局、一郎は僕が起こすまで眠り続けていた。そろそろ寮に帰らなければならない時間だ。窓の外も暗い。片付けも済ませ、あとは帰るだけというところまで起こさずにいてしまったのは、物音で目覚めるだろうという達観もあったけれど、あまりにも気持ち良さそうに寝ていたから、というのも少しだけあった。

    「構わないよ。それより、君の用事は?」
    「用事?」

     僕が頷くと、一郎はなんとことやらという顔で首を傾げた。

    「いや、別にないけど……照と話しに来ただけ?」
    「…………え?」
    「え?」

     思わず間の抜けた声が出てしまった。何の用もなく来るなんて。しかも、僕と話すためだけに。そんなことがあり得るんだろうか。現にあり得てしまっているのだから、否定のしようもないけれど。
     一郎は僕が戸惑っていることに戸惑っているらしく、お互いに変な顔をしながら見つめあってしまった。
     ああ、彼にとっては当たり前なのか。用もなく他人に話しかけることが。それが、僕みたいな相手だったとしても。
     僕がその結論に至った時には、一郎はドアを開けて準備室から出るところだった。去り際に振り返り、また僕に笑いかける。

    「約束、忘れんなよ!」

     彼は僕の返事なんて聞かずに走り去ってしまった。
     抜け殻のような毛布が、廊下から流れ込む冷たい空気に晒されても、まだ温かさはどこかに残っているような。そんな奇妙な感覚だけがあった。
















     目立った特徴といえばシンプルな噴水しかない公園に、マリンブルーの塗装のされた可愛らしいキッチンカーが停まっていた。生地の食感がウリらしく、それらしい謳い文句の書かれた垂れ幕が飾られている。本寮の近くと聞いていたから、かなり混んでいることも覚悟していたけれど、ピークは過ぎたのか客は疎らだった。

    「そこそこ美味いって聞いた」
    「……そこそこなんだね」
    「めっちゃ美味かったらバカみたいに混んでると思うけど、ながーい列に並んでみたい願望がおありですか?」
    「ないかな」
    「でしょ」

     近くに来てみると、思ったより大きな車だ。
     僕たちの前に、水鏡學園の制服に身を包んだ生徒が二人並んでいた。

    「うーん……うーん……きょーちゃんは何にする?」
    「智花はどれとどれで迷ってるんだ?」
    「え、えっとね、いちごと、黒蜜もおいしそうで……クリームも二種類あるし……ど、どうしよう……!」

     気弱そうな女生徒は注文が決まらないらしい。客用に手に持てるようになっているメニューを、すらりと背の高い男生徒が肩越しに覗き込む。指をさしながらたどたどしく迷いを伝える彼女の言葉を聞いて、彼はたいした時間もかけずに結論を出した。

    「すみません」
    「はい! ご注文はお決まりですか?」
    「いちごカスタードと、黒蜜抹茶あずきクリームを一つずつ」
    「かしこまりました。少々お待ち下さいねー」
    「えっ、きょーちゃん、いいの……?」
    「いいよ。今日は智花の好きなものを食べに来たんだから」

    「…………はぁ」

     目の前にいるのは長身の美青年と小動物のように愛らしい少女。対して、僕たちは学年低身長のワンツートップ男子二人組。
     僕は別に、異性に好意的に見られたいと思っているわけではないが、絵に描いたような光景を見せつけられると、現実を痛感して居た堪れなくなる。そう、例えば僕が九十九の隣に並んだとしても、どう頑張ったってああはなれない。そういう惨めさの話だ。
     一郎の切なげなため息に同情してしまう。やはり、身長を伸ばす薬の開発は必要だ。世界には、僕たち以外にも、これに苦しめられている人がたくさんいるに違いない。
     クレープを受け取った二人が立ち去り、愛想良く笑う店員からメニューを手渡された一郎が、僕にも見えるようにそれを持ち直す。

    「……思ったより多いね」

     先程聞こえた言葉で察しはついていたけれど、クリームが二種類あるだけでバリエーションはほとんど倍だ。スイーツフレーバーだけでなく、ツナやピザ味なんてものもあるらしい。
     どれも、僕の知っているものとは似ても似つかない風貌だった。

    「迷う?」
    「…………」
    「さっきのイケメンくんみたいに、僕もやってあげようか。今日は照の好きなものを食べに来たんだし?」

     無断で肩を組まれる。その重さに文句をつけようと首を回すと、にやついた顔が目に入って更に腹が立った。しかも、近い。彼はどうも、不躾というか、馴れ馴れしいというか。僕の肩に乗った腕が、その全てを体現している。

    「勝手に約束して連れてきたのは君だろ……」
    「そうだった。じゃあ照がやって〜」
    「…………」
    「そこまで嫌そうな顔しなくてもいいじゃん!」

     抱きつかれる。苦しい。近い。

    「……ねえ、ほんとになにで迷ってんの? これ?」

     近い。

     何もかもが、近すぎる。



     近くにあったベンチに二人、クレープを片手に座る。派手なピンクの包装紙で巻かれた柔らかい生地の中には、クリームがたっぷり入っていた。僕の中のクレープは、皿の上に綺麗に飾りつけられていて、フォークとナイフを使って食べるものだった。こういうものがあることは、知識としては知っていたけれど、実際に手にするのは初めてだ。
     ――放課後、学友と一緒に食事をすることも。

    「ちなみに、めちゃくちゃこぼれる可能性がある」
    「えっ」
    「だから先に味見して。ぐちゃぐちゃになるから」

     一郎の手にしたクレープからは、キャラメルソースの掛かったクリームが覗いている。僕が迷っていた数種類の中から、一番好きなものを選んだらしい。
     いくら生地に工夫があっても、クレープの皮というものは元々薄い。ほとんどがクリームだ。さて、紙で包まれただけのこれを、どこからどうやって食べよう。
     僕は、一郎が手に持ったそれを僕に渡してくれるのを待っていた。しかし、いつまで経っても彼の手はクレープを持ったまま。早く食べろと言わんばかりの視線と、かろうじて僕側に向けられたクレープの上部分が、何とも言い難い空気を形成している。

    「あーん」

     聞こえなかったふりをして、何も変わらないクレープをじっと見つめるが、同じ言葉が鼓膜を揺らすばかりだった。きっと、またあの揶揄っていることを隠しもしない嫌な笑みを浮かべているのだろうと顔を上げると、予想に反して普通の顔をしていた。

    「ほら、早く食べてよ。クリーム溶けちゃう」

     これが、僕たちのような、年頃の青少年の『普通』なのだろうか。違和感を抱く僕が異端なだけなのだろうか。
     多くの人は、異端を嫌う。自分や、大きな流れに背くものに、マイナスな感情を抱く。変。おかしい。ノリが悪い。ヤバそう。ついていけない。気持ち悪い。近寄らない方がいい。
     ――あいつヤバいよ。近寄らない方がいいって。
     僕には関係のないことだ。どう思われたって、知ったことじゃない。理解してほしいなんて思ったこともない。近寄りたくないなら、そうすればいい。
     勝手にすればいい。一郎も。
     彼の一時の気まぐれに、僕が振り回されてあげる必要はないんだ。そのうち、飽きたら、やめるだろう。離れていくだろう。
     彼も所詮はただの不純物だ。本来は必要のないもので、たまたま、今ここにあるだけで。

     僕は、口を開いた。

    「ぷっ、ははははは!」

     清々しいほどの笑い声が青空に響く。
     一郎が僕の手を取って、僕が食べようとしていた彼のクレープを握らせた。両手にクレープを持った僕は、呆然と間抜けな顔を晒している。何が起きているんだろう。

    「照って、結構かわいいとこあるんだな」

     そこまで言われて、ようやく揶揄われていたことに気付いた。頬が熱い。耳まで熱い気がする。
     誤魔化すようにクレープを齧った。三口くらい食べてやった。キャラメルとクリームの程良い甘さが、上辺しか分からなかった。一郎が文句も言わずに、嬉しそうな顔をするものだから、余計に恥ずかしくなる。その笑顔はどういう意味なんだ。

    「ほら」

     そんな一郎に、僕もクレープを差し出す。目を瞬かせる彼に、僕は先程聞いた言葉を言い返してやった。

    「あーん」

     僕の意向返しにすら、一郎は何故か楽しげで。抵抗がないのか、恥ずかしげもなく僕の手ごと両手で掴み、自分の方に引き寄せた。ブルーベリーソースのかかったクリームの小さな一角が、彼の口の中に消えていく。溶けていく。口の端についたクリームを、舌が舐めとる。食べた。僕の手から。
     はっとした僕は、自分のクレープへと意識を向けた。一郎の齧ったところから、少し形が崩れている。確かに気をつけて食べないとこぼれてしまいそうだ。しかし、案外こういうものは、要領を得てしまうと難しくないことが多い。僕はそういうものが得意な自覚がある。落ち着いて処理すれば、少なくとも惨事は免れるだろう。
     クリームが下に溜まりすぎれば、皮が破れて下から漏れてしまう。そうならないよう、適度に上からクリームを食べ進めていかなければならない。形を崩さない程度に、柔らかく押し出しつつ、食べ進めていく。
     いちごやバナナなどの大きく重さのあるトッピングを入れていなかったのも功を奏して、特に問題なく食べることができた。
     そういえば、一郎のことを気にしていなかったけれど、彼はきちんと食べることができたのだろうか。
     少し嫌な予感がする。食べ始める前、彼は宣言していなかっただろうか。ぐちゃぐちゃになる、と。
     恐る恐る視線を遣ると――

    「はあ、よくそんな風にぐちゃぐちゃにできるね……少し驚いているよ」
    「うぐ……初めてのくせに上手に食べやがって……ちょっとくらいこぼせよ!」
    「人に失敗を期待するなんて、意地が悪いね、君」
    「うるさいうるさい!」

     犯人は、顔を真っ赤にして、不貞腐れながら俯いていた。
     手のひらでなんとか支えられているが、下に溢れるか溢れないかの限界にまで到達している、クレープらしきものがそこにあった。これをクレープだと言い張るのは、少し厳しいかもしれない。
     無惨に潰れた生地の残骸から手の上に溢れたクリームを舐めとるような食べ方は、見る人が見たら卒倒してしまいそうだ。人前でやってはいけない食べ方の代表例のようになっている。

    「そこまで食べるのが苦手なら、わざわざクレープにしなくたって良かったんじゃないのかい?」
    「だ、だって……」

     一郎は少し言い淀んでから、少し遠くに視線を向けた。僕たちがクレープを買ったキッチンカーが停まっている。ブロンドヘアの少女が一人、またクレープを買っていった。

    「……照は、こういうの食べたことないと思ったから」

     そうでしょ? 彼の瞳が訴えかけてくる。
     その通りだ。初めてだった。放課後誰かとこんな風に過ごすことも。ああいう店で何かを買って、外で食べることも。肩を寄せ合ってメニュー表を眺めたことも。あーんなんてふざけ合ったりしながら、軽口を叩くことも。こんな行儀の悪い食べ方をする人と一緒に食事をすることだって。全部、初めてだった。
     一郎は、僕に食べさせてもらうことは恥ずかしがらなかった癖に、下手な食べ方を見られることは恥ずかしいようだった。こうなることは、初めから分かっていたはずだ。それでも僕を誘ったのは。

    「初めて食べた時、どきどきしたんだ。友達と、帰り道に買ってさ。……なんか特別な感じするんだよね。一人で食べたり、お店で座って食べるのとは違くて」

     べたべたな手で、かけらを拾って、口元へ運ぶ。指についたクリームごと舐めとる。必死で余裕のない食べ方だと思った。マナーも、手順も、要領もなくて、みっともない。

    「僕、そういうのをね、照ともしたいって思ってる」

     甘い匂いの風が吹いた。キャラメルとクリームの匂いだ。

    「だからさ。照がそういう気分になったらでいいんだけど……友達になってくれたら、嬉しいな」

     友達。
     友達って、なんだろう。

    「ずっと待ってるから」

     手洗ってくる。そう言い残して、一郎は走って行った。綺麗に畳まれた包装紙と、クリームだらけでぐちゃぐちゃになった包装紙を手に取る。
     友達ってなんだ。
     友達になりたい気分って、どんな気分なんだ。
     そんなこと、誰も教えてくれていない。僕は知らない。調べ方すら分からない。

     だけど、少しだけ、ほんの少しだけ、知りたいと思っている。僕の知らないこと。一人では分からないこと。
     一郎の教えてくれる、日常の味を。
     それがもし、このクレープと同じくらい、そこそこに美味しかったなら。二つの包装紙を見比べながら、そんなことを考えていた。






















     あれ以来、一郎は気まぐれに化学実験準備室に顔を出すようになった。それは、學園生活のほとんどを一人静かに過ごしていた僕の世界に、突如空いた風穴のようで、毒にも薬にもならない、僕の知らない香りのする風を不意に運んでくる。
     彼が去り際に言う「また来るから」という、いつのことを指しているのか曖昧な言葉は、約束というにはあまりにも簡素なのに、僕はその『また』が来ることに何の疑いも抱かずにいる。このドアをノックもせずに開けて、僕の名前を呼んで、最近あった出来事やちょっとした噂話なんかを一方的に話して、帰っていくのだ。
     そして、今日も。

    「いよーっす!」

     意味の分からない、おそらく挨拶のつもりなのだろう声が、昼休みの微睡みを吹き飛ばした。やれやれ、と小さな溜息を漏らしながらも、この状況に慣れつつあるの感じる。恐ろしい。そんなことを考えていた僕に一石を投じるのも、やはり彼なわけで。

    「失礼します……」

     今日の客人は、一人ではなかった。

     一郎とは打って変わって知的な雰囲気を持つ彼は、遠慮がちな言葉と共に小さく会釈をした。そんな彼に向かって、一郎が目を瞬かせる。

    「遠慮しなくていいのに」
    「いや、なんでイチロー先輩がそんな我が物顔してるんですか」

     勝手知ったるといった風に中に入る一郎に訝しげな視線を向ける彼は、生徒会書記、佐原理人君だ。彼のことも以前から知っている。先日風紀委員会として会った際も、生徒会の活動で目にする時と同じく、九十九の良き助手、といった雰囲気だった。慣れている様子だったから、ああいった場合には説明役や進行役を担当する役回りなのかもしれない。口を動かす書記、というのは少し面白いけれど、あの手際を見るに適任ではあるだろう。
     何にしても、意外な組み合わせだ。風紀委員会という特殊な環境で背中を預ける仲間とはいえ、お互い気が合う性格には思えない。一郎はがさつだし、理人君は神経質そうだ。もうしばらく口にしていないような気がする、「何か用かな」という言葉を向けるべきか、少し迷ってしまった。一郎には無いだろうけれど、念のために。
     顔を上げ、口をなの形にしようとした瞬間、目の前に置かれたものに、一瞬反応が遅れた。何事かと一郎に視線を向ければ、何やら得意げな顔をしている。キャラメル色のバスケットと、その中から仄かに香る香ばしい匂い。
     一郎が立ち上がり、端に追いやられている机を引っ張り出す。理人君もそれに倣ってか椅子を運び始めた。一人状況についていけていない僕に、理人くんが微笑む。

    「すみません、有栖川先輩。この人、思い付くと何でもやりたがるので……。いつも迷惑かけてませんか?」
    「おい、それどういう意味だよ」
    「そのままの意味ですけど」

     その言葉を咀嚼する。迷惑。どうだろう。
     傍迷惑な人だとは思う。人の心に土足で踏み込んで、好き放題して、勝手に帰っていくような、そんな人だ。だけどそれを嫌だと思っているかと言われれば、よく分からない。
     まだ判断するには何かが足りていない。そんな気がする。

    「迷惑というほどではないよ」

     言外に多少鬱陶しくはあることを伝えたつもりだったが、一郎は分かっていないのか、得意げな顔を今度は理人君に向けた。
     そんなことをしているうちにいつの間にか移動が終わっていた机と椅子の配置は、学校で友人と昼食を摂る生徒がよくやっていた、ぴたりとつけた二つの机を複数の椅子で囲む、あの並び方だった。二人が椅子に座る。一郎が僕を見る。ほら、座りなよ。そこ照の椅子だよ。何も言われていないのに、そんな声が聞こえたような気がした。見えない糸に引かれ、僕はそこに腰を下ろす。まるでそれが当たり前のことであるかのように。

    「照はさ、お茶会部の女子がやってるお茶会、知ってる?」
    「……茶道部のことです」

     シンクの横にある棚からグラスを取り出した一郎の言葉に、理人君が補足を加える。彼が手にしている魔法瓶からは、紅茶の匂いがした。

    「いやいや、あれはお茶会だよ。茶道じゃないもん。ティーカップで紅茶飲んでたもん」

     お茶会と聞いて、赤髪のクラスメイトのことを思い出す。彼女は茶道部だが、個人的に友人を集めて、食堂の外にあるガーデンテラスでそういったことをしていたような気がする。

    「あん君のお茶会のことなら、あれは部外活動だよ。集まっている人たちは茶道部の部員かもしれないけれどね」
    「え、そうなの?」
    「そうだよ」

     僕の前に紅茶の入ったグラスが置かれる。赤みがかった水面に自分の顔が映る。
     この部屋にグラスは二つしかない。どちらも元から備品として置かれていたものだ。今まで、グラスの数で困ったことはなかった。基本的には自分しか使わないものだ。万が一来客があって必要になったとしても、もう一つで事足りてしまう。
     けれど、今は三人。三人もいる。改めて実感した。科学者や生徒としてではなく、まるで友人と歓談に興じているかのような時間を、三人で過ごしているなんて、なんだか他人事のように感じた。
     一郎が何かを取り出す。薄い円形のそれは、蛇腹のように畳まれていた、シリコン製のコップだった。ひとつしかないそれを理人君の前にずいと差し出して、三人分の紅茶が注がれた。
     一郎は、この部屋にグラスが二つしかないことを知っていたのだろうか。僕はまだ、どこか置いていかれたまま、目の前で手際良く進められていく何かの準備を眺めていた。

    「で、あれいいなーって思ってさ……じゃあ僕たちもやったらいいんじゃね? ってことで、用意しました!」

     そして、視界にちらついていたバスケットの蓋が開かれる。中に入っていたのは、アップルパイだった。ホールをカットしたものではなく、手のひらくらいの大きさのものがいくつか入っている。真ん中に乗せられたコンポートも、それを包み込む小麦色も艶やかだ。

    「卵焼きもあるよ」

     そして、何故か卵焼きだけが詰められたタッパーが横に並ぶ。
     バスケットの中のアップルパイ。その横に置かれた卵焼き入りのタッパー。ばらばらのコップに魔法瓶から注がれた紅茶。雑に並べられた机と椅子。それを囲む僕たち。どれをとっても『お茶会』とは言い難い絵面だ。どこかシュールですらある。
     それに、この可愛らしいバスケットを片手に化学実験準備室まで歩いてきたのだと思うと、何とも言えない気持ちになった。……似合わない。

    「理人はジャッジ係です」
    「……ジャッジ?」

     怪しい脳内ビジョンを振り払い首を傾げると、理人君がパイを取り分けながら溜息をついた。使っているのは、随分と派手な色をした菜箸だった。ショッキングピンクだ。

    「成長度合いを確認しろってうるさくて……」
    「絶対前より美味しくできてる!」
    「きちんと美味しいものが作りたいなら、寧々先輩に教えてもらった方がいいって何回も言ってるじゃないですか。お菓子作りなら、寧々先輩の方が僕よりずっと得意ですよ」
    「……片喰に頼むのは緊張するから無理」

     一郎の緊張という言葉にどういう意味がこもっているのかは、俯いた顔からは窺えなかった。ただ、寧々君はどこか浮世離れした雰囲気があるから、そういう意味でも彼には話しかけにくいのかもしれない。僕が言えたことではないかもしれないけれど。
     目の前に置かれたアップルパイを見つめる。

    「……これ、君が作ったんだね」
    「うん。昨日眠れなくてさー」

     ふわ、と呑気なあくびが浮かんでは消える。特別美味しそうに見えるというわけではないけれど、一郎が作ったと言われると驚きを隠せない。お菓子作りは、普通の料理より、材料も時間もきちんと計る必要がある。彼にそんな細かい作業ができるとは思っていなかったのだ。薬品の細かな計量をしている僕を横目に、「そんなの大体でよくない?」とぼやいていたのが記憶に新しかった。

     いただきます、と三人揃って、僕たちの奇妙なお茶会が始まった。
     ある程度覚悟をして口にした一郎のアップルパイは、思いの外美味しかった。焦げてもいないし、変な味もしない。あまりシナモンは効いていないようで、コンポートは甘ったるかったけれど、それはそれで美味しかった。向かいに座る理人君が手を止めて小さく呻く。

    「ね、どう?」

     まだ何も言っていないのに、一郎はにこにこと嬉しそうだった。その顔と、食べかけのアップルパイを視線が行き来する。視界の端で、靴の先が揺れていた。

    「ちょっと甘すぎませんか……」
    「そりゃあ、理人のために作ったわけじゃないからね」
    「じゃあなんで食べさせたんですか! 苦手なの知ってるくせに……」
    「あはは!」

     まだ何も言えない僕を、流れるように青が射抜く。視線が合った瞬間、何かに引っ張られた感覚があった。檻の隙間から鉤を投げ入れられたような。その先に引っ掛かったものが、胸の奥の方から引き摺り出される。不思議と、嫌ではなかった。その流れに身を任せることを、僕は良しとしていた。

    「……美味しいよ」

     質問の答えだと言うには、小さすぎる声だったと思う。それでも彼は笑った。細まった目。緩く上がった口角。ほんのり赤らんだ頬には照れ臭さが滲んでいた。大きな声を出して騒ぎ立てる、いつもの笑い方とは違う。あの日、初めて遊びに誘われた日、眠気に誘われながら浮かべていたあの笑みに似ていて――
     それは白昼夢のように、一瞬で消え去ってしまった。
     喉にへばりついた甘さが、どろりと、胃の底へと溜まっていく。それが微かに熱を持つ。温かい。
     僕の、こんな拙い感情表現で、一郎はあんな風に笑うんだ。それは、僕が引き出したものなのだろうか。あの不思議な力に抗わなかったから。
     この檻は、僕を濾過している。有栖川照に必要のないものを奥に押し留めておくための装置だ。今まで僕はこれに何度も救われてきた。効率の良い選択をするために、正しい選択をするために、これが必要だった。そう思っていた。
     だけど、本当にそうなのだろうか。
     もし、本当はこんなものは必要なくて、それに代わって手に入る、色とりどりの美しいものがあったとしたなら。僕はそれを、手に入れたいと思うのだろうか。今まで作り上げてきた、孤独で洗練された世界を、突き崩してでも。
     目の前で繰り広げられる軽く弾むような会話を、心地良く思う。また何かを引っ掛けられる。引き摺り出される。口角が上がった。胸の奥がむず痒い。痺れている。
     ひびは、既に入ってしまっていた。その隙間から、甘い汁が滴って、昏いところへと流れていく。
     歯を溶かすように。
     僕は、舌触りの良い毒を飲んでいる。




























    「ああ、イチロー先輩ですか? 幼馴染なんです。父親同士の仲が良くて、その付き合いみたいな感じで」

     怪異との戦闘用に調合している新薬のサンプルを受け取るため、九十九の代わりに僕の元を訪ねてきた理人君に、以前聞きそびれていたことを尋ねてみる。疑問の答えは案外単純だった。

    「本当に小さい頃……確か小学校低学年くらいまでだった気がします。なので暫く疎遠だったんですけど……今でも当たり前のように僕のこと弟扱いしてますね、あの人」

     お世話してるのは僕の方なのに。不満気にそう溢した彼に、思わず頷いてしまう。二人を兄弟だと思って見れば、奔放な兄と良くできた弟、といったところだろうか。
     兄。ふっと脳裏に過った顔を振り払った。頬に触れそうになる手を抑える。あるはずのない痛みが走る。

    「……先輩?」

     ぼうっとしていたのか、レンズの奥から覗き込まれる。僕は逃げるように背を向けて、薬品棚の中から目的のものを取り出した。

    「何でもないよ。薬品の説明はこれを。何か問題があればすぐ伝えるよう、言っておいてもらえるかな」
    「分かりました」

     数本のアンプルとメモを手に、理人君は去っていった。
     九十九は毒に耐性を持った特殊な体質な上、自分の四肢を武器にして闘っている。勿論、安全面においても万全を期しているつもりではあるけれど、万が一という可能性もあるから、僕の薬品を用いたドーピングをするのに、彼女以上の適任者はいないだろう。異形の怪物と渡り合うための薬の研究は、さすがにまだ手探り状態だ。
     常人ならざる、という意味では、同じ生徒会の犬養君にも試してみたいところではあるのだけれど、彼には何だかんだと理由をつけて逃げられてばかりだった。他にも色々と試したいことがあるのに。
     宿主を失って歯抜けになった棚の中には、僕が作った薬品が並んでいる。目的があったものもあれば、気まぐれで作った何の意味もないものもある。今までは、特別に依頼されたり、論文や研究発表会に提出するために作ったものを除けば、そのほとんどは私欲を満たすためのものだった。研究欲。知識欲。探究心。自分の限界を試すこと。そして、自己の証明。
     あの日向けられた刃の恐ろしさと胸の痛みは、自ら上書きしたこの傷を鍵にして強固な檻の奥に仕舞い込んだ。僕は自分から孤独を選んだ。ものを言わない“彼ら”だけが、僕の信頼できる全てで、僕を支えてくれる全てだと決めて。
     だけど、記憶は消えない。完全に消すことはできない。無垢な赤い瞳を、風に靡いた淡い色の髪を、たしかに覚えている。
     例え全てを閉ざしてしまっても、内側に深く刻まれたものは無くなったりしない。そのことを、ここ最近、何故か思い出させられていた。
     今、僕が作っているもので……僕の手で、少しでも彼女の力になれるだろうか。
     ――なれたらいいのに。
     ぼんやりと、そう思った。

     荷物をまとめ、化学実験準備室のドアを開けると、夕焼けに染まった廊下に一人、壁を背にして座り込んでいる人影があった。一郎だ。懐かしい記憶とほんの少しの焦燥感のようなものに浸っていた頭を殴られたような気がして、驚きが表に出ないように繕う。

    「終わった? 一緒に帰ろ」

     何か音楽を聞いていたらしい。耳からイヤホンを抜いて、ポケットにしまうと、壁に立て掛けられていた黒いケースを背負って立ち上がった。返事も待たずに歩き出した彼の隣に、僕は何も言わずに並ぶ。一緒に帰る約束なんてしていなかったし、今日のように待ち伏せられたのは初めてだった。でも、驚きは最初の一瞬だけで、余韻も残さず消えていく。強引で勝手な一郎の行動に、自然と流されるようにしている自分がいた。そうしていると、いつもひとつしかない影がふたつになって、緩やかに伸びていく。
     何とは無しに、視線は彼の背中の大きな物体に引き寄せられた。それに気が付いたのか、一郎が小さく笑う。

    「ギターだよ。僕、軽音部だからさ」

     あんまり上手くはないけどね。彼はそう付け足した。
     そこで気が付いた。僕は彼のことをほとんど知らない。どこの部活に所属しているのかも、お菓子作りをすることだって知らなかった。僕は、自分の隣にいる時の一郎の姿しか知らないのだ。
     彼の方から僕のところにやって来ることが、僕たちにとっては当たり前だった。僕をあの部屋から連れ出すのも決まって彼だった。一郎は、時折僕のことを知りたがって、小さな質問をする。僕はそれに、答えたり答えなかったりする。そうして過ごしていると、僕の意識の外で歯車は回り出していて、気が付けば知らない匂いの風に吹かれているのだ。
     僕が一郎のことを知らないままでも。

     ――僕のことを知ったって、何も面白いことはないだろうに……君も飽きないね。

     そう言った僕に、彼は何と返したのだったか。

     歩調の緩んだ僕に、少し先を行っていた一郎が振り返る。後ろ歩きの彼と視線が交わる。僕から逸らすと、一郎は何事もなかったかのように話を続けた。足は止めていなかったはずなのに、僕はまた彼の隣に戻っている。

    「一学期の最終日にさ、毎年夏祭りやってるじゃん。あそこでライブやるから、練習本腰入れなきゃなんなくて……あー、疲れたー!」
    「へえ。三年生は學園祭で演奏するものだと思っていたよ」
    「去年まではそうだったんだけど……ほら、今年はレベチの奴がいるから」

     大袈裟に肩をすくめる一郎に首を傾げると、これまた大袈裟にため息をつかれた。

    「『栗花落天音』だよ。軽音部にいんの。この話、前にもしなかったっけ?」
    「ああ……」

     その名前には覚えがある。確か現役アイドルの一年生だ。面識があるわけでも、関わる予定があるわけでもなかったから、今の今まで忘れていたけれど。
     たしかに、彼女が話に聞いた通りの人物なら、オーディエンスの目的の大半は彼女のステージになるだろうし、そこに並び立つのであれば、それなりの実力は必要だろう。
     夏祭りのステージについては、生憎記憶がなかった。
     毎年学期末の時期に開催されている夏祭りは、學園の敷地も利用されているというだけで、厳密には學園の行事ではない。屋台の切り盛りや運営をしているのは、生徒ではなく、主に近隣に住んでいる有志の人間だ。水鏡學園の生徒層のせいか、企業の出店もそれなりにあるようだけれど、僕はどの角度からも関わったことがなかった。遠目にそれとなく眺めて、それだけだ。九十九が何か張り切っていたことだけは覚えている。

    「照は去年行った?」
    「夏祭りに?」
    「うん」

     首を振った僕に、一郎はだよね、と笑う。

    「今年は来なよ」
    「……気が向いたらね」
    「じゃあ、気が向くように、おまじないでもしようかな」

     にやにやと食えない笑みを浮かべながら、二人きりの道で耳元に寄られ、わざとらしく手を添えて囁かれる。

    「会長の浴衣、去年は赤系だったよ」

     僕が何か言うより先に、一郎は駆け出していた。

     一体何のつもりなんだ。そう呟く暇もなく、あっという間に背中が遠くなっていく。
     九十九の浴衣について話すだけで、どうして僕の気が向くと思ったのだろう。幼い頃の九十九はいつも和装で、彼女のそういった姿は、僕にとっては珍しくも何ともない。仮に珍しかったとしても、服装が違うだけで何が変わるというのか。
     瞳と同じ色をした浴衣を纏う少女。今とは違う、声、背丈、髪の結い方。
     水鏡館のドアを開けるまでの間、僕はまた褪せた記憶の中の赤色に囚われていた。



     職員室に用事があった僕は、受け取った資料を眺めながら、いつもと違うルートで化学実験準備室に向かっていた。一般教室の前を通ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

    「あーもう! だから弾きながら歌うのは無理だって!」
    「二ヶ月あればなんとかなるだろ」
    「僕歌うの苦手なのに……」
    「ってもさぁ、最後なんだから、やっぱ派手なことやりたいじゃん!」
    「じゃあお前歌えよ」
    「嫌だよ」
    「サイテー!! 音楽性の違い! 解散! 全部お前のせい!」
    「はいはい喧嘩すんな。じゃあ頭から。ワン・ツー!」

     窓から覗くと、赤いギターの弦を弾く一郎の姿が見えた。真剣な表情、と言うには、纏っている空気は尖っている。どこか別人のようにすら思える彼が、すっと息を吸ったのを目に留めて、僕はその場から立ち去った。
     背を向けて歩き出す。背後から響いている歌声は、どこまでも聞こえてきそうだと思ったのに、気が付くとどこにもなかった。
     化学実験準備室の引き戸を閉める。ぴたりと空気が隔たれる。
     この部屋は静かだ。



    「…………」

     部屋に入るなり、ぼうっと立ち尽くしている一郎を、僕はどうしたらいいのか分からなかった。おそらく、四限が始まるかどうか、という時間帯だったと思う。はなから授業に出る気がなかったから、時計なんて気にしていなかった。
     沈黙に寄り添って、空調の微かな音だけがある。一郎はその薄い膜を破ろうとはせずに、少しだけ身体を傾けた。それだけ。ピペットを置く音すらやけに大きく響いた。ガラスの擦れる音が僅かに空気を裂く。少し迷って、結局、その隙間から声を出した。

    「……酷い顔だね。保健室に行った方が――」
    「寝てもいい?」

     僕の声に釣られたかのように、彼の声が遅れて重なった。
     何の捻りもない単純な言葉だったというのに、一瞬理解が追いつかなかった。生気のない目が、実験器具を広げたままの僕に向けられている。

    「寝るのは構わないけど……」
    「ん……ありがと……」

     ふらふらと覚束ない足取りで布団へ向かい、倒れ込む。絵に描いたような体勢で力尽きていた。作業に戻るべきか、このまま様子を伺っておくべきか迷いながら、死体のように転がる同級生を眺めていた。
     睡眠不足なのだろうか。どうしてここまでやつれているのだろう。
     いや、ひとつだけ思い当たる節はある。
     この間廊下で耳にしたやりとり。一部分しか聞いていなかったけれど、どうも部活の練習で煮詰まっているようだった。ストレスで寝付きが悪くなる、というのはよくある話だ。眠れないまま体力だけをいつも以上に使い続ければ、あっという間に限界はやってくるだろう。

     ――僕のことを知ったって、何も面白いことはないだろうに……君も飽きないね。

     不意に、この間思い返していたやりとりが蘇る。
     あの時、一郎は、

     ――仲良くなるには、まず相手を知ることからって言うじゃん?

     確か、そんなことを言っていた。

    「仲良くなるには、相手を知ること……」

     口にすると、それは奇妙な熱を持った。人肌のような微温さを舌の上で転がして、呑み込む。これも彼の持ち込んだ毒かもしれないと、薄々勘付きながらも、僕は選んで呑んでしまったのだ。


     それからしばらく。六限の授業は出るつもりだったが、一郎は眠ったまま起きる気配がない。あんな状態でやってきた彼を起こす気にもなれず、きちんと毛布をかけ直して、部屋を後にした。
     彼が目覚めたのは、放課後になって少し経った後だった。顔色はだいぶ良くなっている。

    「おはよう」
    「うー……んん……」

     半身を起こしただけで、まだ意識ははっきりしていないのか、間の抜けた声で返された。寝癖がついている。

    「体調は?」
    「もう平気……」
    「そう」

     再び、沈黙。饒舌な彼が口を閉ざすと、この部屋は独りの時と同じように静かだった。慣れ親しんだ空気に感じる違和感は、静けさに混じる他人の気配によるものだろうか。視線をやると、寝ぼけ眼のまま毛布を弄っていた。

    「大事をとって、今日は早く帰って寝ることをお勧めするよ。今夜は非番だろう」

     その言葉に、何かが揺れたような気がした。緩慢な動きで一郎の首が回る。交わった視線の先で、彼が何か言いあぐねているのを感じた。
     他人が隠しているものを、態々暴こうとは思わない。そういう、人によっては優しさだとも言う“お節介心”は、あいにく持ち合わせていなかった。だけど、ふと、またあの言葉が脳裏を過ぎる。他でもない、目の前の彼が口にした言葉だ。

    「何か、」

     ガラスが擦れた音のように沈黙を裂いたのは、聴き慣れた、自分の声だった。
     気が付くと、一郎の前に立って、僕の影に覆われた彼を見下ろしていた。

    「何か、悩みがあるなら……話を聞くくらいしか、できないだろうけど」

     随分と拙い言葉の羅列だ。だけど、僕にとっては。

     あの日、ふつりと浮かび上がった思いを引き出す。一人では分からないままだったことを知るために、僕は自分の隣の空間をほんの少し譲り渡した。始まりは、好奇心にも似た感情だったように思う。
     なら、今は?
     小さなスペースに収まった一郎の姿は、僕からはよく見えなくて。ただ伸ばされる手の先や、鼓膜を揺らす笑い声だけを与えられて、不可思議な感覚で満たされていた。僕は、その内側を覗き込みたいと……そう、思っているのだろうか。
     それを知って、彼を知って、僕はどうしたいんだろう。
     あの言葉が頭から離れないのは、あんなことを言ってしまったのは、何故だろう。

    「……眠れないんだ」

     そう口にした一郎は、僕から顔を背けた。

    「ひとりだと、上手く眠れなくて」

     曰く。人の気配がないところで眠ろうとすると、休息に満たない程度の浅い睡眠にしかならない。普段は授業中に寝ることが多いが、最近はそれでも上手く寝付けず、ついに体調を崩してしまった、ということらしい。初めて化学実験準備室を訪ねてきた日、よく眠れたことを思い出して、保健室ではなくここに足が向いていた。と、何故か言い訳を並べるような調子で、ぽつりぽつりと溢した。
     明らかに不眠症の類だ。
     そういえば、理人君と机を囲んで食べたアップルパイは、眠れなくて作ったのだと言っていた。

    「水鏡館に来る前は、同室のやつがいたから大丈夫だったんだけど、今は一人部屋だからさ。まあ、それでも、今まではなんとかなってたんだ。なのに、ほんとに眠れなくなっちゃって……」

     口を閉ざしたままの僕に何を思ったのか、一郎はぱっと顔を上げて忙しなく手を動かしながら、「あっ、でも、さっきちゃんと寝れたから! 今は大丈夫!」と取り繕うように笑った。
     た、と。床を跳ねたような幻聴。胸の中の奇妙な蟠りの理由を、僕は正しく認識することはできなかったけれど、それは苛立ちにも似ていた。踏み込んだ分だけ遠ざかられたような。努力を無碍にされたような。そこまで話しておいて、どうして今笑うのだろう、と。
     その不可解な感情は、彼の言葉と同じように、また妙な熱を持って僕の中に居座ろうとする。

    「それなら」

     吐き出してしまいたいと思った。

    「来たい時に来れば良いよ」

     見開かれた青い瞳は、瞬きの間にゆるりと緩んだ。安心、喜び。そういった、一郎が日頃前面に押し出して表す前向きな感情の裏側で、それとは違う何かが滲んでいるような気がした。それを視界の端に留めて、僕はどうしてか、胸が空いたような心地がしていた。今、確かに、何かを手にした感触があったのだ。
     ありがとう。そう零した彼の声は随分と小さかったけれど、二人分の呼吸しかない部屋の中では、それだけで十分だった。
     僕は背を向けて、広げたままだった実験道具の方へ戻る。まだ作業の途中だったのだ。
     そこには僕が立てる微かな物音だけがあった。一郎は、僕の方にやってきて無駄口を叩くこともなかったけれど、帰るとも言わなかった。ふと、彼がいたはずの方を見遣ると、膝を抱えたまま静かに座っている。
     僕の視線に気付いたのか顔を上げた一郎は、振り向いて目を合わせると、気恥ずかしそうに笑った。そこでようやく、彼は弱みを見せたことを恥ずかしがっていたのだと気付いた。

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