Human Likeドーナツの穴は、どこまで存在するのだろう。
環にひとつの欠けもないとき?
ひと口齧られたとき?
いや、最後のひと口まで?
あるいは、そこにドーナツがあったという事実を認識した者がいるならば、たとえもうドーナツがなくとも穴はあると言えるのかもしれない。もしかしたら、ドーナツの穴なんてものは初めから存在しない、という見解もあるのかも。
もはや使い古されて久しい、旧文明の思考実験だ。
"ない"ことによって"ある"ことを証明する。"ある"と"ない"の境目の定義を見出すために、さまざまな可能性を思い描き、議論し、真理──必ずしも学術的に正しいとは限らないが──へと辿り着く。
それでは、人はどこまで人であると言えるのだろう?
エーテル適性減退症候群。
人を人ならざる存在へと追いやる難病、いや奇病だろうか。症状が進行すれば良くてベッドの上であの世行き、タイミングが悪ければたちまち討伐対象へと早変わり。この身体に巣食うのは、そんなとんでもない存在だ。
この病の罹患者には、常にエーテリアスへと変貌するリスクが付きまとう。度重なる大規模ホロウ災害によって文明のほとんどが瓦礫の下へと埋もれ、最後の砦である新エリー都すらも辛うじてその都市としての体裁を保っている現状では、きわめて導火線の短い爆弾を裸で抱えさせられているようなものだろう。ピンの抜けかけた手榴弾、という比喩も言い得て妙といったものだ。
このような状況において、僕たちは、僕は、どこまで人であると言えるのだろうか。この地に暮らす大多数──機械人やシリオンも、エーテリアスでないものは皆等しく人だ──と何ら変わりのない、理性をもった人であると、胸を張って宣言できるのだろうか。
「……というと?」
花緑青がゆるく細められ、続きを促す。
聞いていてけして気持ちのいい話ではないだろうに、到底ハッピーエンドに着地しそうもない与太話を厭う素振りすら見せず、ただ真摯にこちらを見つめる双眸。僕はどうも、この色に弱かった。その気になれば折り紙付きの頭脳と舌技をもって適当に見栄えのいい結論を出してしまえるのに、ホロウでエージェントを導くよりも余程お手軽なそれを選択しない彼が好ましいと感じるのは少々絆されすぎなのかもしれない。
「アキラくんはさ、エーテリアスって何だと思う?」
「正式な定義ではなく、僕の主観を述べるなら……そうだな。結晶化した強靭な身体に丸いコア、理性を持たず人を脅かす存在といったところだろうか。もっとも、ここ最近はたびたび例外に出逢っているけれど。」
「うんうん、主観って言いながらほぼ世論だね、ソレ。あんたらしいっちゃらしいけど。」
じゃあさ、と。僕は続ける。
人はどこまで、いつまで人なんだろう。H.A.N.Dが誇る人類の守護者である"浅羽悠真"は、いつ世界の脅威に成り下がるのだろう。
この身体が人の形を保てなくなったとき?
意味のある言葉を話せなくなったとき?
理性を失って、かつての同胞に、人に危害を加えようとしたとき。
あるいは、この病を患ったそのときから、僕はもう人の定義から外れてしまったのかもしれない。運良くこの世界にとって有益な才能に恵まれていたおかげで、まだ人として生きていられているだけで。
ね、あんたはどう思う。あんたは僕をどう定義する?
「悠真」
ひとつ、息を吐く。瞳をそっと閉じて、またひとつ、吸う。そして現れた瞳は、ただまっすぐに僕を見つめている。すこしくすんだティールブルーにレモンイエローがとぷんと溶けて混ざりあうそのとき、判決が下される。
「君は人だ。約束が果たされる、その瞬間まで。僕が、君を人にする。誰がなんと言おうとも、必ず。」
その言葉は、なんの引っ掛かりもなくするりと僕の胸へ収まっていった。まるで初めからそこに置いてあったかのようだ。
僕の胸中は言いようもなく晴れやかだった。いつになく満たされた心地がした。聡明な彼は、僕の求める言葉を口にしてくれただけかもしれない。意外と演技派で、表情すらも計算の内だったり。けれどそれでも構わなかった。
だって彼は彼自身が僕を人たらしめるのだと言った。彼が僕に手を下すその瞬間まで、僕は安心して、胸を張って人であり続けられるのだ、と。その言葉だけで、僕は最期まで僕であれるのだから。
──問題。人はどこまで人であると言えるのだろうか?
──解答。アキラくんが、僕を呼ぶかぎり。