無「潮江課長って、結婚されたんですね」
モブ川さんの『今日は良い天気ですね』みたいな言い方と内容が合っておらず、考えるよりも先に「え?」という言葉が口から漏れていた。
「いや、薬指。指輪つけてるじゃないですか。ゴールデンウィーク前は付けてなかったから、ゴールデンウィーク中に結婚したのかなぁって」
「ほんと?」
結婚したなんて報告聞いていないし、そもそも指輪が付いていたかどうかも正直覚えていない。ただ潮江課長は独身だったはず。恋人がいるとかも聞いたことがなく、まさに寝耳に水だ。
「普通報告するよね……?」
「まぁそうですけど、今の時代全部言わなくてもいいと思いますけどね。言ってこないってことは潮江課長的に公言したくないってことじゃないですか」
モブ川さんは良くも悪くもに他人に興味がない。話を振るだけ振ってあとは何事もなかったかのように身を引く。最初から話に参加して、話の種を蒔いたのにただ話を聞いているだけの人になる彼女は相変わらず自由な人だ。
言われると気になってしまうのが人間の性。休憩終わりの午後の勤務のとき、潮江課長に書類を渡すついでに左手をチラリも見ると薬指の根本に銀色の輪っかが光っていた。
「指輪、してたね」
「ですよね」
翌日、モブ川さんに伝えると確信するように頷いていた。
「あと噂で聞いたんですけど潮江課長、ここ最近お昼はお弁当持ってきてるみたいでそのお弁当がめちゃくちゃ可愛いキャラ弁のときがあるみたいです」
「キャラ弁!?」
あまりにも潮江課長と結びつかないもので、つい大声が出てしまう。どうやら潮江課長が休憩室でお昼を食べてるときにたまたま居合わせた人が見たらしいが、可愛らしいクマを象ったお弁当を食べており、そのことを言うと少し照れたように「恋人が作った」と話していたようだ。
「百歩譲って結婚はいいとして、成人男性にキャラ弁作ります?」
「うーん……、まぁ、無いことはないんじゃ……」
「潮江課長の結婚相手、お子さんがいる方とかじゃないですかね」
「……子供のキャラ弁のついでに課長のも作ってるってこと?」
モブ川さんは『そうです』と言わんばかりに頷く。確かにキャラクターものが好きな子供のお弁当を作るついでに作れば、課長がキャラ弁を持って来ていた理由も違和感なく納得できる。というか、潮江課長の結婚相手が連れ子が居る女性となると驚きはさらに倍だ。
「皆薄々課長が指輪つけてるの気づいてるんです。あと夜の飲みも断ること多くなったって。でも結婚したとか誰にも言ってない。ここまで隠すって何かあるって言ってるようなものですよね」
話だけ繋ぎ合わせると確かに結婚したことを公言してないことが違和感だ。例え、相手に連れ子が居たとしてもそれが理由でここまで隠す理由になるとは考えづらいし、そうなると相手が公に出来ない人、有名人だったりするのか。そんなことを考えながら話していると人の気配がした。
「あ、居た。総務部の尾浜が休憩後頼んでた資料を取りに来るって今連絡があった」
「分かりました。わざわざすみません」
メモを片手に現れた潮江課長に思わず心臓が跳ねるがモブ川さんはそんか素振り一切見せずに、お礼を言いながらメモを受け取る。今の今まで目の前の人の話をしながら、淡々といつも通りに話が出来るのは彼女の凄いところだ。
「あ、潮江課長。つかぬ事をお聞きしますが」
「なんだ?」
「ご結婚されたんですね」
言いながら指輪のことを指すモブ川さんに驚き、咄嗟に彼女の口を塞ぎながら潮江課長に謝り、なんでもないと誤魔化そうとしたものの課長は特に表情を変えることなく口を開いた。
「あぁこれか。正式に結婚した訳じゃない。事実婚みたいなものだから籍は何も変わってない」
事実婚。というワードに驚いてしまう。そんなことは想定外だった。確かにそれならあまり公に言うことも無いような気もする。モブ川さんは口を塞いでいた私の手を解くと、またしても課長に追求していく。
「お弁当も彼女さんが?」
「弁当? あ、キャラクターもののやつのことか? ……手先が器用で料理が好きなやつだから、時々ああいうの作ってくれるんだがな」
ちょっと困ったように話すのにその顔はどこか幸せそうに微笑んでいて、これ惚気話だなと気づくとどこかむず痒いような感覚がする。
「隠すつもりは無かったんだが、知らないとこで迷惑かけてたらすまない」
「いえ。こちらが勝手に気になってだけです」
じゃあお疲れ、と立ち去る潮江課長の背中が見えなくなりモブ川さんと顔を見合わせる。手先が器用で料理が好きな人と事実婚。たったそれだけで今まで謎を呼んでいたものが全て解決し、それ以降潮江課長の話が話題に上がることは無くなった。
そんなことから1ヶ月が経とうとしたある日のお昼前、所要で午前中は外に出ており、会社に戻って来ると会社の受付前に青年が居た。用があるらしいが、あいにく受付は今別の来客対応をしており青年は少し離れたところで待っているようだった。しかし、受付はどこかへ内線をかけたり来客と話しており青年の対応にはまだ時間が掛かりそうだ。
青年の手には小さいトートバッグ。見る感じ、お弁当のようだった。会社の人の関係者でお昼ご飯のお弁当を届けに来た、と察して青年に声をかけた。私がいる経理部は会社の1番上のフロアのため、他部署の人宛でも届けるのはそんなに手間ではない。お昼も近いし、あんまり長くなっては青年も困るだろう。
「あの、どうかされました?」
「あ、えっと……お弁当届けに来て」
チラリと受付を見た青年に、憶測は間違いじゃなかったと心の中でガッツポーズをする。よろしければ私が届けましょうか? と言うと青年は一瞬躊躇ったものの、よろしくと頭を下げた。
「メッセージ送っても全然既読にならなくて……。助かります」
「いえいえ。私、1番上の部署なんで」
「1番上……? 経理部の方ですか?」
フロアの階だけで部署を当てられ少し驚いたものの、青年の目的の人がそのことを教えていたのなら不自然ではないと思い、そのまま頷いた。
「良かった。潮江文次郎に渡してください」
潮江文次郎。潮江課長の名前にハッとし、青年の手元を見ると左手薬指に銀色の輪っかがキラリと輝いていた。そこで察した。目の前の青年が潮江課長が言ってた『事実婚した相手』なのだと。
「ケマって言ってもらったすぐ分かると思います」
「ケマさんですね。分かりました」
青年からお弁当箱の入ったトートバッグを受け取ると、頭を下げながら彼は会社を後にした。それを見ながら私だけが知ってしまった事実を受け止めきれず処理しきれないためモブ川さんに話すことも浮かんだが、やっぱり私だけの秘密にしておくことにした。
エレベーターに乗って1番上の階を目指す。一度も止まることなく目的の階に着き、扉が開くと目の前にスマホを片手にどこか慌てた様子の潮江課長が居た。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。それ……!」
潮江課長が指差した先は今さっきケマさんから預かったトートバッグで、エレベーターを降りたあとそれを潮江課長へと渡すと潮江課長は目線を外し少し泳がせていた。
「……ケマさんって方から預かりました」
「そうか。メッセージ気づくの遅くなって……。すまん、迷惑かけた」
「大丈夫です。あの、ケマさんってもしかして……」
全部言うのはどこか気が引けて言葉を濁したものの、潮江課長には伝わったのか少し間を置いたあと小さく首を縦に振った。
「……引いただろ」
「少し驚いたんですけど、それだけでした。私から誰かに言いふらすつもりは無いです。課長のことですし」
そう告げると課長は眉を少し下げ、どこかホッとしたように笑い「ありがとう」と溢した。良くも悪くも他人に興味がないのは私もだったようだ。
了