蝶葬と剣契その男が最初に目の前に現れたのは右議政の護衛武士を切り捨て、S社からの逃亡を始めたあの夜からだった。
「そんな翼でお前は飛んで行けるのか……?」
「……、」
声が聞こえた瞬間に素早く剣を抜き、声の聞こえた方へ切先を向けると、黒い背広を着た男が立っていた。
男は煙草を口から離して溜め息を吐くように煙を吐き出した。
レンズ越しに、心底哀れむような目を向けて。
煙草の匂いが今になって漂って来た事に気付き、剣を握る力を強めた。
「お前だけじゃない。お前の親友達の翼も血が染み込んでる。そんな翼でどうやって羽ばたくつもりなんだ?」
「……何を言っているのか理解出来ない。追手なら何故襲って来ない?」
「お前の翼を捥ごうって訳じゃないさ。ただ……気になっただけ。」
「……」
月が、雲からゆっくりと出て来て、男を照らし出した。
青白い月明かりも相まって、男から生きている気配がしないのを見て、少し驚いた。
只者ではないと思っていたが、生きているように思えないのが不可解でならなかった。
不意に、男が影から出てこちらに近付いて来た。
後退して剣を一度下ろして構えるが、男はゆっくりと歩んで来た。
「お前は……何の為に踠いているんだ……?」
「……お前が知る必要は無い。」
「教えておくれ。哀しい子よ。」
「……警告はした。」
一歩踏み出し、近付いてくる男の首を斬り裂いた。
男の目が驚きで見開かれた。
だが、それだけだった。
頭は落ちず、赤い血が噴き出す訳でもなく……ただ一瞬、白い埃のような物がぱらぱらと瞬いて、それで終わりだった。
「……そんなに険しい道を、どうしても進むのか……?」
「……」
「……ならば……」
その口角がニッと吊り上がった。
「お前を見ていよう。お前の行く先を……」
男はばらばらと白い蝶の大群になったかと思うと、夜の闇に消えて行った。
あれからだ。
私が一人になった瞬間に、あの男が現れるようになった。
絡み付くような目でじっとこちらを見ているだけの日もあれば、話しかけて来る日もある。
丁度今日がそんな日だった。
「本当にあの群れとやり合うつもりなのか?」
「……」
何の予兆も無くいきなり声を掛けられる事にはまだ慣れていなかった。
群れとは黒雲会の事だろう。
「……今はそうするしかあるまい。」
「無鉄砲だな……本当に。」
「……口出しは不要。何が起ころうと私の責任だ。」
「ふっ……まあ良いさ。沢山の蝶を導けるだろうからな。皆安らかに眠って……安息の地へ旅立つんだよ。」
「……」
「お前もいつか導いてやろう。肉体が壊れた時に、必ず。」
私は傍らをチラリと見遣った。
哀しそうな、愛おしそうな眼差しがそこにあった。
……あの方と、同じ目をしていた。
「…………」
無数の蝶が、私の体を撫でて窓の外へ飛んで行った。
恐ろしい程冷たかったが……彼なりの応援だったのだろうと思うと、何故だか悪い気はしなかった。