ヒスムル(仮)8グレゴールは溜め息を吐きながら事務所へ向かっていた。
一晩中巣を探し回ったが、ヒースクリフは見つからなかった。
「ハァ……どこ行ったんだよ……」
ヒースクリフと最後に会ったのは2日前だ。
(まさかヤケになって警備員に突っ込んで行ったりしてないよな……?)
K社の職員とヒースクリフが対峙している様子が容易に頭に浮かんで胸がざわついた。
そんな事が起こってしまえばもうヒースクリフの助かる余地は無いに等しいだろう。
「……クソ……」
頭を掻きながら事務所に入り、ムルソーのデスクを見に行くとムルソーはそこに居なかった。
「おい、ムルソーはどうしたんだ?」
オフィスのフィクサー達に聞いてみると今朝退勤したらしかった。
(なんで急に……?)
昨日の様子からして仕事が終わるまで帰らないつもりのように思えたのだが……
気になってムルソーに電話をしてみたものの、ムルソーが電話に出る気配は無かった。
「ハァ……どっかでぶっ倒れてないよな……」
以前家に帰る途中でムルソーが半分寝ながら歩いていた事を思い出して、グレゴールはムルソーが余計心配になった。
だが、探しに行く暇は無かった。
グレゴールは今日の依頼の件数を確認して現場に向かう準備をした。
* * *
日頃から外回りで歩き回ったり走ったりする事が多く、足には自信があったグレゴールだが流石に巣中を探し歩くのは疲労も相まって骨が折れた。
(くそ……とりあえずあいつさえ連絡取れれば良いのに……)
休憩時間に苛立ちながらグレゴールがムルソーに電話を掛けると。
『……もしもし。』
「……!お前、今何してるんだ?今朝退勤したって聞いたけど。」
『ああ……その事で話があるのだが……』
「何だよ?」
『……ヒースクリフが見つかったから一旦鍵を返してほしい。』
「……」
色々と言いたい事があり過ぎて言葉を失ってしまった。
「……えっと……どこで……?」
『今パン屋の前のベンチに居る。時間があれば……』
「いや、そっちじゃなくて……どこで見つけたんだ?」
『……ヒースクリフの方から事務所に来た。』
「……」
グレゴールは遠くに行ったものだと思って事務所から離れた場所を探していた。
それなのに、それなのに、ヒースクリフが事務所に向かっただなんて。
「……そ、そっか……まぁ……見つかって良かったよ……」
『……今、時間は空いているか?』
「まあ……な……パン屋ってあそこだろ?帰り道の……」
『ああ。そうだ。』
「じゃ……そっち行くから……」
電話を切って大きな溜め息を吐いた後、痛む足を引き摺って待ち合わせの場所に向かった。
* * *
ベンチに座ってる二人を見つけて少なからず安心したグレゴールは二人に声をかけようと近付いた所で気が付いた。
ヒースクリフがムルソーの肩に頭を預けて眠っているのだ。
そしてムルソーはそんなヒースクリフの頭に頬を乗せて眠っていた。
(起こしづれぇ……)
グレゴールが溜め息を吐きながら待っていると。
「……ン……?」
「……あ。」
ヒースクリフが先に起きた。
グレゴールと目が合うと瞬きをした後、途端に表情を強張らせて視線を泳がせた。
「えーと……鍵渡しに来たんだけど……」
「えっ⁉︎あ、ああ……ありがと……」
ヒースクリフがやけにデカい声を出したり動いたりしたが、ムルソーは多少唸りはしたものの起きる様子は無かった。
ヒースクリフはムルソーの肩から頭を離して俯きながら鍵を弄っていた。
「……なあ、おっさん。」
覇気の無い声でヒースクリフがグレゴールを呼んだ。
「どうした?」
「……この前……殺してやるって言って……ごめん……なさい……」
「……」
「……どうか、してた……もう、二度と言わないから……」
グレゴールは暫くの間黙り込んでから口角を上げて、ヒースクリフの頭を左手でわしゃわしゃと撫でた。
「なっ……、何だよ……」
「可愛いなぁ、お前さんは。」
「どこがだよ……」
「偉いな、ちゃんと謝れて。」
泣きそうな子供のような目で、ヒースクリフがこちらを見上げた。
「お前さんは良い大人になれるよ。大丈夫だ。」
「……なんでそう言えんだよ。」
「しっかりしてるから。」
「……」
「すぐ頭に来るのだっていつか落ち着くよ。いつまでもそうって訳じゃないから。今は無理に背伸びしようとしないで流れに身を任せておきなよ。多少は逆らってみても良いけどさ。」
ぽんぽんと頭を叩いて手を引くと、ヒースクリフが拗ねたような顔で髪を弄った。
「……俺はお前さんはこのままで良いと思ってるよ。でもいつか変わっちまうんだよなぁ。ははっ、おじさん悲しいよ。」
「……ガキ臭えのに?」
「ガキくさいから良いんだよ、お前さんは。」
意味が分からないと言わんばかりに眉を顰めるヒースクリフにふふん、と笑ってやってからグレゴールは続きを話した。
「お前さん自身は自分を恥じるかもしれないけどな……周りにとってはそれもお前さんの良い味なんだよ。勿論好き嫌いは別れるだろうけど……少なくとも俺達は好きな味なんだ。」
「……」
「深刻に捉えなくても良いけどさ……そのままで居てくれよ。それだけ言いたかったんだ。」
グレゴールはそう言ってヒースクリフに手を振って事務所へ向かった。
「あ……おっさん……」
「ん?」
グレゴールが振り向くと、ヒースクリフは視線を逸らさないように耐えてこちらを見ていた。
「……仕事……気を付けて……」
ヒースクリフが耐えきれずに視線を逸らしながら控えめに手を振ったのを見てグレゴールは笑顔で頷いて返した。
グレゴールを見送って数分が経過した頃、ムルソーが漸く目を覚まして寝ぼけ眼で周囲を見渡した。
「……!」
時計を見た所で漸くグレゴールとの約束を思い出したようでカッと目を見開いてこちらを見てきた。
「もう帰ったよ。ほら、鍵。」
「あ……ああ……」
ムルソーは浮かない顔をしてヒースクリフから鍵を受け取った。
「……なあ、そろそろ合鍵作ったらどうだ?……って、俺が言うのも何だけどさ……」
「……そうだな……作りに、行こうか……」
まだ眠気が残っているのか、それとも何かを考えているからなのかふらふらと立ち上がってムルソーは歩き始めた。
大した時間も掛けずに完璧に複製された合鍵を二つ持ってムルソーは店を出て来た。
「……これは貴方用の合鍵だ。」
そう言ってムルソーは片方をヒースクリフに手渡して来た。
「おう……ありがと……」
「……帰ろうか。」
いつもよりも疲れたような顔でムルソーがそう言うのを見てヒースクリフは黙って頷いた。
帰った後もムルソーはじっと何かを考えているようだった。
ヒースクリフが風呂から上がってもムルソーはソファに座って何をするでもなくローテーブルを見つめているだけだった。
「……おっさんと喧嘩したのかよ?」
ヒースクリフがそう聞いてみるとムルソーはぴくりと動いてこちらを見て頷いた。
「……怒鳴り合いになって。」
「え……そんなに……?」
ムルソーは額に手を当てて頷いた。
「……自分でも恥ずかしい話なのだが……どう、謝ったものか……分からないんだ。」
「……でも電話では普通に話してたじゃねえか。」
「……」
「……おっさんなら、多分許してくれるだろ。俺も許してもらえたんだし。」
ムルソーはまだ不安そうに瞳を僅かに震わせていたが、やがて決心がついたようで表情が引き締まった。
「……夜に謝りに行く。」
「夕飯食ってから?」
ムルソーが頷いたのを見てヒースクリフは冷蔵庫の中を確認した。
「……あ。」
あの朝のピラフがそのまま残っていた。
(……昼に食おう……)
ヒースクリフはそう考えてからムルソーの昼食のレシピを考えた。
「昼、なんか食いたいのある?」
「……いや……特に無い。さっき食べたパンがまだ残っていて……」
「じゃあ俺だけ食うか。」
時計を見るともう12時近かった。
小腹も空いて来たのでヒースクリフはピラフを温めて食べる事にした。
22時、私は自分の鍵と今日作った合鍵を持って家を出た。
眠そうにしながらも見送ってくれたヒースクリフの顔を思い出しながらグレゴールに今から向かう旨の連絡を入れようと思った。
『んー……もしもし〜……?』
「……もしもし。少し用があるのだが……」
『今から……?どうしたんだよ?』
いつもより気怠そうではあるが、いつも通りの返しに私は安堵しながら用件を伝えた。
「貴方に合鍵を返そうと思って……それと、直接話したい事がある。」
『ん……別に良いけど……』
「……今、家か?」
『おー。明日休みだから久々に色々買っちゃったよ。お前さんの分は無いけど。』
「分かっている。手短に済ませるつもりだから今回は何も持って行かない。」
その後一言二言交わして電話を切り、グレゴールの家へと向かった。
家に着き、グレゴールと対面してみると酒を飲んでいる事が分かった。
「んで?話って何だ?」
玄関まで上がると、グレゴールが壁に寄りかかりながらそう聞いて来た。
「……昨日、怒鳴った事を謝らせてほしい。」
グレゴールは目を見開いてこちらを見た。
「……貴方の言う通りだった。私は……その事実から逃げたいだけだった。……ヒースクリフの言った事を免罪符にして、目を逸らしていただけだった。」
「……」
「……貴方には怒られてばかりだな。学ばされてばかりだ。」
そう言って懐から合鍵を取り出して、グレゴールに渡してその手を両手で包んだ。
「いつもありがとう。」
グレゴールはおかしな顔をしてキョロキョロと視線を彷徨わせてから隠すように右腕を口元にやって息を深く吸い始めた。
「……グレゴール?」
「……お前……それだけの為にわざわざここまで来たのか……?」
「……そうだが。」
目を細めながらこちらを見つめるグレゴールの目が、光っているように見えた。
「……どうしたんだ?」
そう言った瞬間、グレゴールに腕を引っ張られて口付けられた。
グレゴールらしからぬ性急なキスだった。
「……ムルソー……今日、しないか……?」
そこで漸く気がついた。
(ああ……だから目がギラついていたのか。)
そんな呑気な事を考えていると、グレゴールが握った私の右手にどんどん力を込め始めた。
「……ああ。しようか、グレゴール。」
「……あ。」
目が覚めた時、もう日が昇っていてカーテンの隙間から光が差し込んでいた。
起き上がって時計を見てみると10時だった。
「……おはようさん。」
隣で横になっていたグレゴールがそう言って微笑みながら私の腹を撫でてきた。
「おはよう、グレゴール。」
グレゴールの頬にキスをすると、グレゴールは私の後頭部に手を回して深めのキスをしてきた。
唇が離れてからもグレゴールが背中から腕を離さないので覆い被さる形で見つめ合っていると、不意にグレゴールが口を開いた。
「……なあ、今日休みか?」
「……あ……昨日は休みを取ったが今日は取っていない。」
「もう一日だけ休んじまえよ。今までろくに休んでこなかったんだから。」
「……」
「そろそろあいつらも真面目にやるべきなんだよ。そうだろ?ん?」
グレゴールが珍しく食い下がるので私は頷いた。
「……電話を掛けたいのだが。」
いつまで経っても腕を背中に回したままのグレゴールにそう言うと、グレゴールは「はいはい。」と言って腕を退けた。
事務所に連絡すると案外あっさりと休みを貰えた。
「んじゃ、出掛けるか。」
電話を切るとグレゴールがカーテンを開いて私に向かってニッコリと笑いながらそう言った。
ファーストフード店で2人で朝食を済ませてからグレゴールの買い物に付き合った。
「……相変わらずインスタント麺ばかりだな、貴方は。」
「楽なんだよ。電気代も節約出来るし……」
そこまで聞いて初めて家に来た時、冷蔵庫の電源を切っている事に衝撃を受けたのを思い出した。
「……私の家に引っ越してはどうだ?」
夢の為にそこまでするのならその方が効率的だ。
そう思って提案したつもりなのだが、グレゴールは理解出来ないような顔をしていた。
「俺が?お前さん家に?」
「ああ。」
「いやいや、そんな事したらヒースクリフが気まずくなるだろ。」
「……何故ヒースクリフが?」
「……ハァァ……」
何故かグレゴールに呆れたような顔で溜め息を吐かれた。
「……あ。ゴミ袋買わないと。」
グレゴールがレジの前で急に思い出したようでそう呟いた。
「……そう言えば、部屋が随分綺麗になっていたな。」
「ああ、ヒースクリフが掃除してくれたんだよ。俺もびっくりした。」
話題が逸れたかと思えばすぐにヒースクリフの話題に戻った。
「金に余裕あったら雇ってやれるんだけどな……」
そうぼやくグレゴールの表情は至って真面目な物だった。
「……貯金をした所で不健康な食生活をしていては独立した瞬間に貴方が倒れる可能性の方が大きいだろう。」
「んな事言われても……」
「……やはり、一緒に住むべきではないか?」
グレゴールは眉を顰めながらじっと私を見た。
「その方が合理的だ。貴方は節約が出来るし、ヒースクリフも貴方から直接勉強を教えてもらえる。」
「いや……そうだけどさぁ……」
私は、彼が何故こんなに渋るのか分からなかった。
「何故渋るんだ?」
「……お前……いや、そうだった……お前さんはハッキリ言わなきゃダメなんだった……」
グレゴールは頭を抱えて溜め息を吐いた。
「……これからあいつとくっ付くんだから俺が居たら邪魔だろ?」
「…………くっ付く?」
「あいつ明らかにお前の事好きだろ。今はそうじゃなくてもその内今以上の関係になりたがるタイプだぞ、あいつは。」
「……それは承知しているが……邪魔とは、一体……?」
グレゴールは一瞬の内に色々な表情を浮かべて舌打ちした後、頭にやった手はそのままに天井を仰いでまた下を見た。
「チッ……はぁーーーこれだからお前って奴は……!」
「……??」
私が困惑していると、グレゴールは足早にレジへと向かって行ってしまった。
「……私に何か問題があったのか?」
買った物を袋に詰めて店を出てから聞いてみると、グレゴールは立ち止まってこちらを振り向いた。
「……お前、あいつに恋人になりたいって言われたらどうするんだよ?」
「……彼が望むようにするが。」
「そうだろ?でもな、俺が居るとお前とヒースクリフの関係がややこしくなるんだよ。流石に意味分かるだろ?」
「……」
「ほら、言ってみろ。どうなるよ?」
「……貴方が言っている事の意味が分からない。私にどう答えてほしいんだ?」
「……」
グレゴールは驚愕したような顔をしてから髪をガシガシと掻き出した。
「普通あいつは嫉妬するしこっちだって気まずくなるんだよ……!そもそも俺が居る状態であいつと付き合うって言うのも問題なんだよ!分かるか⁉︎俺の言ってる事!」
「……ああ……」
「理解出来たか?ちょっと説明してみろ。」
グレゴールの言っている事が何となく分かった気がした。
「……つまり、貴方とヒースクリフとの関係が浮気状態になると言いたい……のか?」
「そうだ!だからお前は今の内に俺と関係切っとかなきゃダメなんだよ。同居とかもってのほかだ!」
「……」
「……なんだよ、その顔……?」
「……私は、貴方との関係を終わらせるつもりは無い。」
グレゴールが激しく動揺している事が彼自身の表情から読み取れた。
「……はあ?」
「そのつもりがあるのだったら貴方に謝りに行ったりなどしない。」
「いや……お前さ……」
「……そこまで言うのなら、ヒースクリフに直接聞いてみよう。家に居る筈だ。」
グレゴールは嫌そうな顔をしたが、私はそのつもりで居た。
彼に聞けば答えが得られるのだから。
その答えがもし私と正反対の答えならば私もそうすれば良い。
私達は一度荷物を置いてから家に向かった。