尽きない話どこかで聞いた話、「月が綺麗」という言葉は「I love you」に匹敵するらしい。
「…つき…」
静寂な夜空に星が瞬く中、冷たい城のベランダで少年少女が星を見ながら話している。一瞬の静けさに、虫の羽音みたいにかすれた少女の声。影が揺れる。
「え?…ごめん、何か言った…?」
思わず声が漏れ出ていたことと、相手に聞こえてたことに驚いた。まぁ、今この世界にいる人間は二人しか居ない。…「世界に二人」は言いすぎだが、本当に、二人の声以外の音が聞こえないのだ。こんなに静かなら、聞こえても仕方がない。
「え…!?あ、えっと…月…って言ったの」
「つき?」
話し言葉は難しい。単語を言っても、複数読みや聞き間違い等があるから伝わらないものだ。ゲルダは慌ててわかりやすいようにそれに繋がる話題を出す。これからも、尽きない話が始まる。
「この前、ヨリンデさんからね。「月が綺麗」って言葉は、他の国では「愛してる」って意味なんだって。教えてもらったんだ。」
“どこか”で聞いた話の発信源は、どうやら愛の伝道師からだったようだ。ヨリンデと、グレーテルや鬼姫達とよく話すゲルダがそれを知ってる理由も妙に納得がいく。
「…夏目漱石、」
カイが発したのは実際に実在した人物だ。もちろん過去の人間。既にその人はもう居ない。ただし、時代をアンデルセンに合わせるとするのならば、少し未来の話か、ギリギリ存在はしているかもしれない。
「確か、その国では「愛してる」って決定づけられたんじゃなくて、その、夏目漱石って人が「I love you」をその人なりに訳したって聞いたことがある。」
大正解。まだ「愛」という概念が浸透していなかった時代、文豪たちが自分たちの捉え方で様々な愛を述べている。夏目漱石の「月が綺麗ですね」は最も有名で、最たる例だ。
「そうなんだ……なんだか素敵…」
辺りが暗くて、光源なんて見当たらない。なのに目が輝いてる。と感じたと同時に、カイはゲルダが次言う言葉を予測できた。
「私達も、考えてみない?」
(やっぱり…)
注意、この二人は恋人同士という訳では無い。ただ、たまたま家が隣同士だっただけで、たまたまカイに鏡の破片が刺さっただけで、たまたまゲルダが助けに来ただけで。それだけの仲。それほどの仲。
兄妹みたいに育った二人は、家族みたいに「愛してる」なんて普通のことだった。
「「I love you」をボクたちなりに?」
予測はしていたが、知らなかったフリして聞き返す。そうでもしなければ、同じことを考えていたことがバレてしまうからだ。カイが何事もないかのように普通に喋るから、ゲルダに言葉の予測が出来たこと、知らないフリを隠し通すのが上手かった。
「うん。カイだったら、なんて訳す?」
「……えいえ_」
考える素振りも見せずにほぼ即答だ。ゲルダもゲルダで、カイがこう答えることを予測していた。予測していたからこそ、言い切る前に口を塞げた。
カイは聞かれては言うのを途中で止められ、振り回され状態。口元にあるゲルダの手を拒絶だと思われない程度に優しく掴んで降ろしながら聞いた。
「…なに、」
「…やっぱり…」
自分から聞いたけど、予測もできてたけど、自分も言いたかった言葉が出てきたから止めたのだ。ゲルダは少し気まずそうな表情をしている。
「私だって、私だけの永遠は、カイなんだよ…
それは、ちょっと…ずるい…」
カイにとっての「愛してる」は「永遠」に過ぎない。これだけは譲れなくて、だから直ぐに答えられた。でも、ゲルダの言葉を聞いて「確かに」と思ってしまったのも本当だ。
「別のものにして欲しいって、言ってるわけじゃないの……でも、なんというか……うう……」
「私もそれを言いたかった。それも、譲れないほどに。」なんて我儘を言えるわけがなかった。まるで二人とも翻訳家。自身が思いついた素晴らしい翻訳を、他の誰かと被るなんてどこか複雑で、同じ考えを持った人がこの世に二人も居ることにどこか嬉しく感じてるのだ。
「…ゲルダも、「愛してる」を訳したら「永遠」なの?」
「…うん」
「考えてることが一緒だね。」
「うん…」
カイは、問う度に口元が緩んでいる。しかし、我儘を言った反省の意で俯いてるゲルダは気づいてない。暗くて表情が見えづらいから尚更だ。ゲルダは少なくとも、カイが笑ってるなんて思いもしてなかった。
「じゃあ共同制作ってとこかな」
「うん……えっ?」
予測できなかった言葉と、思ったよりも明るい声のトーンに思わず声が裏返った。
「「永遠」はボクとゲルダ、二人が訳した、ボクたちなりの……
…「愛してる」…」
譲り合った結果ではない。これは、この翻訳は、二人が居ないと意味をなさない。「永遠」と書いて「愛してる」という読み方は、二人だけのものだ。
ゲルダは数秒間目を見開いてから、嬉しそうに無言で何度も頷く。動きに合わせて髪の毛がゆらゆら動く。話せば声が震えるのがバレない代わりに、嬉しさを何度も伝えている。カイは何かを察してか、何も言わなかった。
ゲルダにかける言葉が見つからないとか、ゲルダを落ち着かせる為だけじゃない。
今、彼の言葉は「愛してる」で止まったのだ。
永遠で居たかったのだ。
長い静寂の中、泣き止んだゲルダがポツリと呟く。尽きない会話がまた始まる。
「私…実はもう一つ翻訳を思いついてて…」
今度は本当に、とゲルダは続ける。
「私だけの翻訳、私が、一番カイに伝えたい言葉。」
それも、カイだけに向ける愛なんだとか。
スゥ、と軽く深呼吸した後に言葉が放たれた。
「…「絶対、かえってきてね」。」
約束を、した。「必ず君の元へ戻る」と。ゲルダはそれのアンサーを言っているのだろうか?いや、半分違う。ゲルダは、二十四時間ずっと一緒に居れないことはわかってる。故郷へ帰ったって、用事などで少しの時間でも離れてしまうことはあるだろう。でも、「かえってきて」、そう言ってしまえば、次また会えることの、自分の元へ帰ってくることの約束が出来る。何度離れても繋がれる、まるで、魔法のような言葉。
「…じゃあ、ボクもボクだけの翻訳を考えないといけないか。」
「きょ、強制はしないわ、既に二人で作ったもの。」
「ボクがそうしたいんだ。」
しばらくの間黙り込む。今度は一から考え始めたので、少し時間が必要だった。記憶から、知識から、カイの知ってる語彙から言葉を選ぶ。
やがて、決まったかのように顔を動かしたが、苦笑の声を漏らす。
「…「いつまでも」、…」
カイが苦笑いした意味がわかった。ほとんど「永遠」と同じ意味だからだ。別の翻訳と言っても、ずっと永遠を求め続けたカイにとっては、訳し方を変えようが言い方が変わるだけである。
だが、読み方を変えただけでは無い。実はこの翻訳には続きがある。でも、直前で言葉を呑み込んだ。
「いつまでも、居れなかった分まで」。
それがカイの訳した「愛してる」だ。
ただでさえゲルダは一緒に居れなかった時間すらもカイを探す為の時間に割いてくれたのに、「居れなかった分まで」の、これからの時間も奪うことになる。あわよくば、今際の際に、手を繋いでくれた人間と、その走馬灯が、自分以外でないところまで。人の人生の殆どを。まるで、呪いみたいな言葉。
「…永遠に似てる言葉。カイらしいわ。」
「ゲルダだって、…ほとんど願望じゃん」
なんて笑い合うが、二人とも「一緒に居たい」ことを隠して、遠回しに伝えた。「一緒に居たい」は、相手の人生に影響をもたらす呪文。
その魔法が、呪いだって気づかれないように、その呪いが、魔法みたいに容易くかけてしまわないように。
「「月が綺麗」で思い出してたんだけど…」
まだまだ続く、尽きない話。
「昔、ゲルダから月とボクが似てるって言われたこと。」
永遠で居たかった静寂の中、ゲルダがもう一つの翻訳の話を始めなければカイから話そうと思ってた話題だ。あまり話したがらなかった、カイが城に一人で過ごしてたときの話が含まれる。
「ここに一人で居たときも、空にある月を見て、思い出して、」
少し、声のトーンが落ちた気がした。
「真っ暗な夜に一人だったから、…あぁ、本当に似てるなって思って。」
顔を見ると先程とは違い、暗闇に慣れたから顔が見える。でも、それでも影が落ちたような、見えないくらいの暗い顔。さっきの、少し明るかった声は何処へ。
「わ、私、そんなつもりで言ったわけじゃ…」
そんな捉えられ方してるとは思ってなくて、ゲルダは訂正をする。「カイと月が似ている」と言ったことはおぼろ月のようにぼんやりと覚えている。あの時、自分がどんな心情で言ったのかを思い出しながら。
「カイの髪は金色でしょ、それが月みたいに輝いてて、綺麗って意味で…」
「わかってる、ゲルダがそんな皮肉めいたことを言う子じゃないって、…わかっている…」
鏡の破片に蝕まれ、皮肉ばかりの思考になっていたときこそはあんな捉え方をしたが、もちろん今は全然別物の意。ただし、ゲルダと同じような視覚情報のものではない。自分の髪が月ほど綺麗な金色だとも思ってない。ならどこが月と似ているのか。カイは続ける。
「月は、太陽の光を反射して光ってる。…逆に、太陽がなければ光らない、存在しない。」
「ゲルダ。」
この愛の伝え方に名前があるとするのなら、どんな名前なのだろう。
「ゲルダがそばに居てくれるから、ボクが笑ってられるんだ。」
ゲルダは、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した意味を理解する。話を聞いたばかり、それも、カイから夏目漱石という名を初めて耳にしたときですらも、「月が綺麗ですね」=「愛してる」というのが当然で、その人は何故、どんな意味を持ってそう訳したのかまでは考えていなかった。
夏目漱石は、「私が綺麗に輝けるのはあなたのおかげ」、「あなたが居ないと存在出来ない」気持ちを月と太陽で表したのだろうか。そんな気持ちすらも重い想いなのに、相手を太陽と伝える壮大な愛と包容力!!今のカイも恐らく、夏目漱石と同じ様にゲルダを太陽と見立てた。
「?」
戸惑うゲルダにカイは首を傾げる。カイはゲルダに壮大な愛をくれた。抱えきれないわけじゃない。でも、ゲルダだって何度もカイから勇気をもらった、希望の光だった、太陽の周りを回ってる月なんてゲルダの方。ゲルダもカイが太陽だった。
(…私、そんなにカイが思ってるような光じゃないよ…)
魔法と見間違うほどの呪いは闇だ。魔法のエフェクトじゃ誤魔化しきれない。魔法も呪いも、かけられる人が居るから成り立つのだ。
「私だって…カイが居るから笑えてるの…」
目頭が熱い。理由なんて解ってる。愛に名前なんてない。名前を付けたらそれは名付け親のものになってしまい、「独占欲」へと変わるからだ。逆を言えば、ゲルダは愛に名前を付けてしまった。「あなたを照らす太陽でありたい、でも、あなたに照らされていたい」と、自身のカイへ送る強い独占欲に、気づいてしまったのだ。
わがままだ。
太陽も月も、唯一無二の存在。確かに二つ以上は存在しない。見かねたカイは出来る人。またこうやって別の案を差し出してくれる。
「じゃあボクら、星になろう。」
星は、太陽以外にも自ら光る恒星というものがある。地球からじゃ全部同じ太陽に照らされた星に見えるかもしれないが、地球から見られなくたって、太陽の光を借りなくたって、互いを照らし照らされ、笑い合ってればいい。
これがカイと夏目漱石の違うところ。相手を上へ上げるんじゃない、自分を下へ下げるんじゃない。相手と対等に居てくれるところ。でなければ、相手だけが上の立場の人間に優しく片手を握ってくれることなんてない。それこそ、「いつまでも」そばに。
いつも二人が雑談するときは、ゲルダが泣いたりなんてしない。ここが氷の城で少し寂しいところだからだろうか。流石にこんな夜にまで起きて、寒いベランダででするべき話じゃなかっただろうか。でも、そもそも「ベランダで星を見ながら話そう」と提案してきたのはゲルダだ。
「なんで急にこんな話したの?」
唐突に「月」から始まったこの会話。途中、「愛してる」を訳したり、カイと月が似ている話、星の話へと、最終的に別の話題へと広まった。それらの話をする前の話題が「今日寒いね」とはとても思えないくらい、唐突だったのだ。
「…月が、綺麗だったから…」
カイが確認しようとベランダの柵から身を乗り出して空に浮かんでるはずの月を探す。今夜はずっと暗く、かろうじて星は輝いていたが何か一つ物足りなかった。今日は新月だ。
すると、カイの重心が後ろの方へと引っ張られる。ここはゲルダが一度落下事故を起こした場所。落ちてしまうのを心配してかゲルダが自身の方へと引き寄せたのだ。
ああは言ったが何も、本当に星になる気はない。
「絶対に、かえってきて、ほしかったから…」
新月なのに、月が綺麗と言ったの?
帰ってきて欲しかったのに、ゲルダが氷の城に来たの?
カイはそこまで鈍感でも、ゲルダの翻訳を忘れたわけでもない。
…愛してるから、こんなにも愛おしい話をしてくれたの?
服や手袋越しでもわかる。ゲルダの手が熱い。
月明かりがなくてもわかる。ゲルダの顔が赤い。
夜の氷の城って、こんなに気温、高かっただろうか。
夜風に触れて寒くないわけが無い。この不快でもなんでもない熱は、言い訳のしようがない。
息を吸うように嘘を吐いて、隠し事も誤魔化しもたくさんしてきた二人。それらがバレることだってあった。ゲルダなんて途中で泣いたことが二回もバレている。それでも、ゲルダの方が一枚上手らしい。まだ一つだけ残ってる隠し事は、今のところバレて居ない。今後バラすこともないだろう。
今日が寒いって話の後に、虫の羽音みたいな声で思わず「好き」と呟いたことを。
そして、それを誤魔化す為に、月の話を始めたことを。