九話進捗2「いか、ないと…!」
痩せきった腕をついて重い体でベッドから這い出そうと動き出す。まだ動くなと押し留めようとする医者たちを鈍い腕で振り払って這うようにベッドから落下するが、打ち付けた身体の痛みなど二の次だ。そんなことより早くあの子の元へ行かないと!
あの子が泣いてる。
早く行って、抱きしめて、涙を拭ってあげないと。
「……はぁ。トニー屋、獣の状態で大人二人運べるか?」
「出来るぞ」
軽い荷物のように抱えられて、大きなトナカイの背に乗せられた。後ろには支えるためか目付きの悪い方の医者が腹に手を回して同乗している。
「いいか。我が儘を聞くのはコレっきりだ。上でステラたちと会ったら後は大人しく医者の言う事を聞いてもらうぞ」
「なるべく揺れねぇようにはするけど、気持ち悪くなったら言うんだぞ!」
ダッと走り出したトナカイの背に揺られながら、彼は宝箱からようやっと飛び出した。
★☆★☆★
音の出し方も忘れてしまったようなか細い吐息に、声を張り上げた喉はすぐに咳き込んでメロディを遮る。
掠れて歪んでひび割れた、酷い酷い歌声だった。
かつて天にすら望まれた、カナリアと呼ばれ囲われた美しい声とはかけ離れたそれが耳に届いて、ステラは自らの頭を真っ先に疑った。
幻聴か?
幻覚か?
ついに、自分の気が触れたのか?
だって、まさか、ずっとずっと奇跡を願って、幸運を求めて、得られなかったあの声が、彼の、こえが──
「てぞー、ろ…?」
「すてら、しりうす」
星の明かりの下に彼が居た。
四足の獣の背に乗って、トラファルガーに身体を支えられながら、ひどく痩せてやつれた容貌で。けれどその眼はしっかりと開いてこちらを向いていて。その口がそよ風よりも小さな声で自分たちの名を呼んだのが、確かに聞こえて。
次の瞬間、ステラは走り出していた。
ただひたすらがむしゃらに。縺れる足を叱咤して、縋るように手を伸ばして、見失わないように顔だけは彼に向けたまま。不格好に、ただ必死に。たった数十秒の距離を走って、走って……
「テゾーロッッ」
幻でない彼に、触れた。
「ステラ、ごめんね…ずっと、ずっと待たせて…」
「いいのっ、いいのよ、そんなっ…あなたが、あなたが無事で、目を覚ましてくれたっ、それだけで…!」
ただそれだけで、ステラたちの十五年は報われたのだから。
「シリウス」
ステラを抱きしめたままテゾーロが青年の名を呼ぶ。
歪んだ形の不格好なドラゴンの彫刻を纏った彼は、その姿のまま動くでもなく沈黙している。
離れた場所に居る彼に、立ち止まっている彼に、手を伸ばす。両手を広げてもう一度名前を呼ぶ。
「シリウス」
テゾーロがあげたあの子の名。あの子だけのもの。
あの子が未だに持ち続けていてくれた、愛の証。