見えなくても、「……ん」
唇が触れる。
ただそれだけのことなのに、こんなに毎回、新鮮に胸の奥が震えるのは。きっと俺の片想いが長すぎたからだろう。
「ふ、ぁ……ら、い」
「ん?どした」
「〜〜〜っ」
距離なんてほぼない、まさに目と鼻の先でライドウが呟く。吐息が当たってくすぐったい。
こんな関係になってから初めて聞いた声。小さな子に語りかけるようでもあり、でもそこに含まれた甘さは全く種類の異なるものだ。
「な、んでも……な、んぅ」
優しいけれど強引に、にゅる、と舌先を掬い取られる。
あつい。ライドウの口の中で溶けてしまいそう、と馬鹿みたいなことをぼんやり思う。
溶けて馴染んで、もう離れたくない。そうすれば、幻術にかけられてるんじゃないかって疑心暗鬼も一緒に溶けて無くなるかもしれない、なんて。
ぼーっとしてくる頭の中で、ちゅぷ、ぬる、と断続的な水音が響く。半分夢の中に居るみたいな感覚。だから、俺の目が開いたのも無意識というか、多分そう。
「……ふ」
「っ!」
目尻に微かな皺を寄せて、吐息だけで笑われる。
恥ずかしい。俺どんな顔してたんだろう、一気にかああと喉元から熱が上がってきて。でもそんな俺の焦りも羞恥も呑み込むように、また口を塞がれる。
キスをするのが好きだ、ライドウと。言いようのないふわふわとした幸福感で満たされて、おこがましいかもしれないけれど、こうしてる間は彼を独占出来ている気になれる。
でも、もしかして。
俺とキスしてる時、ずっと───
**
「アオバ。お疲れ」
「っ!ライドウ。お疲れ様」
恋人と同じ職場というのは、ふとした時に会えるタイミングが多くて良いものだ。ただまあ、事情を知っている同僚に揶揄われたり根掘り葉掘り色んなことを訊かれたりと、面倒なこともあるけれど。
どこで、いつ会ってもアオバは少し驚いて、嬉しそうな顔をしてくれる。俺だって多分、声が弾むのを隠し切れていないだろう。
むず痒くてあたたかくて、甘酸っぱい飴を舐めている時みたいなつんとした感覚。良い歳になって、こんなものが自分の内から湧いてくるとは思いもしなかった。
「今日さ、早く上がれそう?」
「あ……うん。調整すれば」
「いや、そこまでやってくれなくても」
「俺が!その……やりたいから、えと、いいよ」
もにょもにょと小さくなる語尾。俯きがちになりぷいと横に逸らされた顔は、微かに赤みが差している。
ああまた、あの感覚だ。にやけてしまいそうになるのを意識して抑える。
「じゃあ、お願いしようかな」
「……うん!いつものとこで」
「俺の方が遅かったらごめんな?」
「ううん、大丈夫」
お互い違う方向へ歩き出して別れる。
俺も早いとこ仕事終わらせないとな、まあ今日はこの後、そんな急ぎのアレも無かっただろう。
「……ライ!」
大声という程でもないが少し張った声。
珍しい。と思うより先に反射で振り向く、と。
「待つの、嫌いじゃないから今は……だから、遅れても良いよ」
「……っ」
言うだけ言って、ろくな余韻もなくぱたたと駆け出していく背中を見送る俺は、一体。
どんな締まりのない顔をしてるんだろうな?
**
「はあ、あれ美味しかったねえ山芋のやつ」
「そうだな。家でも再現できそうだし今度作ってみる?」
「作る!明日試しにやってみる」
「はは、早いよ。どんだけ美味しかったんだ」
美味しいものを、好きなものを食べて。幸せそうなアオバを見ているのは楽しい。
木々に挟まれた人気のない暗い砂利道でも、こいつの周りだけぽわぽわと、蛍か何かのように鈍く光っている気さえしてくる。
「……アオ」
「ん?なに」
「止まって。こっち見て」
「っ、あ……」
近くに人の気配はない。大人が外でする行為ではないが、もう今更だ。
眼鏡をするりと奪い取り、滑らかな手触りの頬を指でなぞると、ぴくんと震えるのはいつものことで。こういう反応がまた───
「あ!ねこ」
「へ?」
夜の静けさを裂く、よく通る声でびしいと指さされた先。
ぼんやりと白いシルエット。猫、か?
ふわりと転がるのは。
「ねこ……じゃ、なかったね」
「ああ、袋だな」
「……」
「……っふ」
「笑わないでよ!だって猫に見えたんだよ!!」
「盲目にも程がっ、ある、ふは」
「誰かどっかから幻術かけてたんだって!」
「暇な奴も居たもんだなあ?」
漂っていた甘い空気は霧散してしまったけれど、まあこれはこれで。
かわいい恋人の、ちょっと間抜けなところもまた愛しい。
その陰で、ちりと何かが燻るような感覚が、鳩尾の辺りで起きた気がしていたが。
すぐに笑いにかき消されたそれを、その後思い出すことはなかった。
・
・
「それでさ、俺めちゃくちゃ焦ったんだけどゲンマさんが『いや嘘だから。分かるだろ』って。酷くない?」
「っはは。まあでも、分かりやすいかなそれは」
「ライまでそんなこと言うの……誰も俺の味方してくれないんだけど?!」
「同意を求める人選が悪いんだよ」
「なんでぇー……」
ソファにぐたりともたれ掛かる身体。インナーがパンツのウエストから出て、ちらりと白い肌が覗いている。
無防備な姿に煽られるのは男の性か、それとも。
「!」
「耳、冷たいな」
「っふ、ゃ……くすぐっ、たい」
「んー、まあそういう触り方、してるから」
「〜〜〜っ!」
何か言いたげな、でも何も言えないんだろうなという感じの引き結んだ唇。かわいい、愛しい。抑えが効かないわけではないけれど、衝動を止める理由もない。
ゆっくりと顔を近づける。
「アオ」
「っ……ぁ、俺!トイレ」
「え?」
シュン!と音が鳴りそうなぐらいのスピードで立ち上がった恋人は、これまた物凄いスピードで部屋の中を駆け抜けて行く。残された俺の宙に浮いた手は、半端に中腰の姿は、恐らく酷く滑稽なものだろう。
いや、それよりも。
燻りがさっきより大きく、形を持って再燃する。
おかしい。恥ずかしがることは今までもあったにせよ、こんなにあからさまに避けられたことはない。
でも話している時は本当に普通なんだ。キスしようとした時、だけ……
「……嫌、なのか?」
ずきん、と。
内臓のどこかが、引き攣れたように痛む。
嫌がられるなんて1mmも想像できていなかった。どうしてかって、それは。
アオバは俺のことをずっと、それこそ気が遠くなるほど昔から好いてくれていて。だから、いつもどんな小さなことでも嬉しそうにしてくれて、俺はそんなアオバの顔を見るのが好きで。
どれだけ傲慢だったか、今更ながら気付く。
無条件でやることなすこと全て受け入れてもらえるなんて、俺は───
「あ、えと、戻りました」
「っ!」
気配もなく側に立たれて、跳ねるように顔を上げる。こういう時に忍らしさを出すのは何故なのか、まあ本人は無意識かもしれないが。
違うだろ俺、そんなことより。
「アオ」
「……」
「ごめん。その……嫌だったなら、謝る」
「え……」
「全然そういうこと、考えられてなくて俺。自分がしたいからってお前の気持ち考えずに、本当に、ごめ」
「っいやいやいやいや?!違うよ?!」
違う、のか。何が?
見上げた先の顔は、赤いのか青いのかよく分からない、見たことのない表情を浮かべていた。目がきょろきょろと泳いで、合わない。
「違うんだ、その……ええと。なんて言ったらいいか」
「……嫌、ではなかった?」
「いやじゃない!ライにされることで、嫌なことなんてっ、ない」
「じゃあ、なんで……」
「〜〜〜ああ、もうっ」
どん、と肩を押されてバランスを崩した身体は、背中からソファの座面に倒れる。
間を置かず触れるもの。
唇に。
アオバの、それが。
「ん」
「っ、ライは」
「……はい。俺は?」
2.3回瞬きをする間に離れてしまったけれど、これはキスだ。えらく乱暴で、急な。
言葉を選んでいるのかただ言い出しにくいだけなのか、目の前の唇が数回、ひくりと揺れる。
「なんでキスする、時……目、開けてるの」
「え?」
目を、開けている。
ああ、言われてみればそうかもしれない。そりゃずっと開けているわけではないし、開いている時もガンガンにということもなく薄目ぐらいだとは思うが。
……なんでかと、言われると。
「見逃したくなくて」
するりと胸から出た答えを、そのまま口にする。
「お前の、恥ずかしがってる顔とか……嬉しそうな顔も。キスしてる時の、余裕なくてとろんとしてる、ところも」
至近距離で俺を見下ろすアオバは、口元を手で隠している。髪の影もあって表情がよく見えない。
でも多分、これは。
「よくそんな、恥ずかしいこと言え、る……っ」
「言えるよ。だって好きだから、アオのこと」
「〜〜〜っそういうの!」
声も震えているし、もはや涙目だ。
「……ふっ、はは」
「なんで笑うの!」
「ははっ、く……っごほ!っは、はあ、アオ」
「……なに」
むすっとした顔に、子供みたいに赤い頬と、その赤さが溶けて滲んだみたいな目。ああもう、こいつはどこまで俺の情緒を掻き乱せば気が済むんだろう。
でもそれも、おあいこか。
「キスしてもいい?」
「俺から……したのに」
「うん、嬉しい。でも俺もしたいんだ」
「……目、瞑ってくれるなら」
「心得ました」
頭の後ろに手を回して、ぐいと引き寄せる。
押し倒されているのは俺だけれど、主導権はアオバにはない。唇を甘く噛んで、柔い舌を吸う。
んぅ、と声を漏らして引いていこうとする頭をぐっと押さえると、顔の横に置かれた手がふるふると震えた気がした。
「っん、う……んん"!」
「……なに?目瞑ってるよ、俺」
「っ、ばか、ライ!」
「ばかでも、なんでもいいから……続き、させて」
ゆっくりと目を開ける。
アオバが俺を見ている。
ああ、こんな顔も本当に、
「好きだ」
「……俺も、ずっと好き。ずっと」
見えなくても、変わらず胸を震わせる感情は。
お互いに同じだといいと、思った。