恋請「なあフリック、賭けをしよう」
言い出したのはビクトール。いい加減酔いも回っている筈の宴もたけなわの頃合いだったにも関わらず、その声はとても落ち着き払っていた。軽い酔い心地のまま、ぼんやりと酒場の喧騒に身を任せて頬杖をついていたフリックは、足を組み替えながら向き直る。
「ふうん…どうせろくでもない魂胆があるんだろ」
たっぷり一呼吸分の間、無遠慮にビクトールを上から下まで眺め回してやってから、フリックはにやりと笑ってそう応じた。
ああ、まったくもって良い酒だ。なんたってビクトールの考えていることが良くわかる。
いつもよりほんの僅かに上目遣いにこちらを伺う男の視線をフリックは真正面から受け止めた。この男が、こういう目をするときに考えていることなど、フリックにはとうの昔に分かりきっている。
何を言い出すにしても話の落としどころは一つだけ。酒場を辞した後のことならば、多分フリックも同じことを考えている。それがなんとも愉快な心持ちだ。
卓の上にはトランの新酒、それも旅をしないと言われている蔵の一升瓶が二本も並んでいる。一本はすでに空き瓶になって久しいし、もう一本の中身も、もう随分と残り少ない。グレッグミンスターでもそうそう手に入らないそれは、レオナがシーナから巻き上げた木箱二つ分の戦利品のうちの一本で、今日の昼過ぎにトランから届いたばかりの初物だ。
酒の良し悪しにそう頓着するほうではないが、それでもこの味わいは格別だ。つい先ほどまで、自棄酒を決めこんでいたシーナが、俺が負けたおかげで飲めるんだ感謝しろだの、できればレオナさんと美人のおねーさんがたにしか飲ませたくないだのなんだの、散々息巻いては絡んでいたが、確かにそう言いたくもなるのも納得の美味しさだ。
周囲も実にいい塩梅で出来上がりはじめている。あちらこちらで、飲み比べだの、潰れた奴らを肴に盛り上がったりの、それから懲りないシーナの、さらにとっときの酒を賭けての一勝負を挑んでいたりだの、レオナの酒場はいつもに増した賑わいだ。
ビクトールが賭けをしようと言いだしたのは、そんな宴も終わりに近い、もう大分遅い刻限のことだった。
最初は、いつもの座席にいつもの面子、つまりはハンフリーとビクトールの三人でしばらく酒を飲んでいた。一升を空けたところでハンフリーが席を立ち、そのままなんとはなし話が途切れるままに、フリックはぼんやり酔いと喧噪を楽しんでいた。上等の酒がもたらす酔いは心地よい。うっすらした眠気に、それでも席を辞すのも勿体なくて、ぼうっとしていた頃合いだったから、最後に一つ盛り上がるにはちょうどいい。
周りの大半は潰れていて、起きているメンツもそのおおかたはすでに良い感じに出来上がっていて久しい。賭け事とくればなんにでも首を突っ込んでくる連中も、大方潰れているような有様だったから、これなら多分、余計な茶々も入らぬ筈だ。
「魂胆ってえか、まあ、ちょっとした頼みっつーか……まあ、ほら、せっかく届いたばかりだからよ」
肝心の頼みの内容は言わぬまま、ビクトールはレオナから片手に乗るほどの小さな箱を受け取った。包装の油紙を剥がした中身は、トランの賭場でよく見かける花札の一式だ。
都市同盟ではまず見かけない花札遊びだが、ここしばらく、ここ本拠地の一角では、ちょっとした流行となっている。
札を持ち込んだのは昔馴染みの漁師の二人。ときどき船着場の彼らの小屋で、飲んだくれてた面子がものの見事にこの花札賭博にはまりこんだ。ビクトールもフリックも、そうちょくちょく顔を出していたわけではないが、当然そのお仲間で、まあ、タイ・ホーだのヤム・クーだのにこそ負けてはいるが、他の面子からはそこそこそれなりの小遣い銭を巻き上げている程度には嗜む腕だ。フリックとビクトールの互いの腕前はほぼ互角。金さえ絡まなければ、元々地元の遊びでもあるフリックのほうが、少々有利といったところだ。
フリックは、ほぼ正確にビクトールの賭けの意図を見てとった。
ああ、まったくなんて分かりやすい。でかい図体、それに年齢だって相応に食っている筈なのに、お前、俺なんかに見透かされて。
お前、それでいいのかよ。
酔いに任せた尊大さで、フリックはビクトールの思惑から優位を取る。
――俺は、別に構わないのに。お前どこまで自信がないんだよ。
トランから届いたばかりの手刷りの色も鮮やかな札をざっくり切ってビクトールが卓に置いた。積まれた山から互いに一枚札を返して親を決める。
フリックの札は梅のカスでビクトールは牡丹に蝶。もう一度札を切りなおしたビクトールが慣れた手際で場札手札を配っていく。
運と度胸とかけひきとがものを言うのがこの「こいこい」だ。少々酔いの回ったこの頃合いに遊ぶには、分かりやすいルールのこの賭け事が丁度良い。船着場での一文十ポッチだの百ポッチだのといった高いレートの博打も盛り上がるが、いい感じに酔っ払いながら、一文一ポッチの子供の遊びみたいな金を賭けるのも、また格別の楽しみだ。
だからビクトールと賭けること自体に異存はない。問題があるとすればその賭け代で、そしてそいつを手に入れる方法としてビクトールが選んだのが、「こいこい」だったというその点だ。
配られた手札八枚を確かめながらフリックはちらりとビクトールの表情を伺った。
広げた札の向こうからこちらを見上げる眼差しには、思った以上に隙がない。これから賭けを始めようという高揚はまるで無く、むしろ負け戦からの退き際を探っているかのような重苦しさだ。
フリックは内心のため息を札の吟味で紛らわせる。
例えば、いっそじゃんけんだとか賽の目頼みの丁半一発勝負だったら何の問題もなかったのだ。結果に作為の入る余地がなければ、勝とうが負けようが、そして賭け代がなんであれ、結局のところは遊びの延長という落とし所に持っていける。勿論限度はあるけれども、賭けの結果ということなら、ビクトールがいうところのちょっとした頼みごと程度は笑って引き受けてやるつもりだ。
しかし「こいこい」は違う。同じ賭けごとでも、腕と度胸、駆け引きにこそ妙がある。互いに互角の相手なら、相手の出来役を見た上で、勝ち逃げすることも、それから逆に、負けてやる事だって、やってやれないことはない。
……お前。こんな賭けにかこつけた上に、さらに逃げ道まで準備しなきゃならないって、どれだけ一体疚しいんだよ、ビクトール。
なし崩しに体温を分け合う関係を持つようになったのは、もう年単位で昔のことだ。実際に寝台をともにするのは月に何度かあるかないか、ハイランドとの戦いが佳境を迎えつつあるここ最近では、今回のように互いの仕事の関係で一ヶ月以上もろくに顔を合わせないこともよくあるようなことだったが、だからといって夜の誘いに疚しさを感じるなど今更もいいところだ。
フリックは、今度は、ため息を隠さなかった。
「三回勝負」
「…おう」
ビクトールがはぐらかした‘ちょっとしたお願い‘とやらの具体的な内容を敢えて問いたださないまま、フリックは短い言葉で勝負の枠を決めていく。あまり、長引かせるつもりはない。ビクトールがこういうはぐらかし方をするのなら、無理に聞き出すよりも、さっさと勝敗を確定させたほうが余程早い。それになにより――どうやら当のビクトールはまるで気づいていないようだったが――フリックは、ビクトールの頼みごとについて、その中身はともあれ、一つ大きな確信を持っていることがある。
多分フリックにとって、その頼みごととやらは、嫌なことでもなんでもない。それどころか、きっと笑って引き受けてやれるくらい、それはきっと自然なことだ。
勿論その考えに、何の根拠もないのは分かっていたが、それでもフリックはきちんとそのことを知っている。
――馬鹿だな、ビクトール。これでも俺、多少のことならお前の望みは叶えてやってもいいって思ってるのに。
「単純に、勝ちか負けか。高目でもカスでも、先に二つとったほうが相手に頼みを聞いてもらう。得点勝負じゃないからポッチは賭けない。いいな?」
「……おう」
一方的に言い切ると同時にフリックは手札を一枚、無雑作に、だがきっぱりと場札に重ねた。
ろくな手札はなく場にもさして特徴があるわけではなかったが、だが山札からの引きは悪くは無い。取り札はまずは四枚。まだ役の狙い所は見えてこない。
続くビクトールが場に打ちつけてきた札に今後の手を考える。ビクトールの思惑に乗ってやるのは構わないが、それと勝負は別の問題だ。
小気味良く音を立てて場に置かれたビクトールの手札と場札を見比べる。もとより負けてやる気なんてかけらもない。まずは一勝、それも出来れば高目の役で快勝してのけたい。ビクトールの思惑を考えるのはその後でいい。
挑むような眼差しで笑って、フリックは小気味の良い音も高らかに手札を卓に叩きつけた。
そして勝負は一勝一敗での三戦目、ビクトールが親での対戦にもつれこんだ。
フリックの手札は残り三枚。親のビクトールは二枚を手元に残しているが、すでにビクトールの取り札に高目の役である雨四光が出来上がっている。他に一番下の役とはいえ、タンも成立しているし、そのうち二枚は赤短だ。
まあ、あっちにあれだけ取られちゃな。ここは負けといてやることになるんだろうな。
フリックは手札と場札、それからビクトールの出来役をもう一度確認した。
負けてやってもいいとは思う。件の頼みごとについて、口を割った時のビクトールの顔は見物で、まともに相手をするのも馬鹿馬鹿しい。とはいえ十中八九負けが確定している状況であっても、さっさと勝負から降りてやるのも癪な話だ。
ビクトールの、ちょっとした頼みを聞いてやるのは容易い話だ。このままいけばおそらく次のターンでビクトールの勝ちが確定する。そうなれば自然にお願い事とやらを叶えてやる羽目にはなるのだが。
――だが。
「あー…、その、な。キスが欲しいって、それだけなんだけどよ。…その、出来れば俺からじゃなくて、フリックさんのほーからの、だと、嬉しーなー、とか、まあ、その、よ…」
最初の対戦で快勝したフリックが話を振ってやった時、ビクトールは口ごもりこそしたものの、はぐらかすことなくこう応じた。
ある意味予測どおりの返答ではあったのだが、その答えは同時に予想を遥かに上回る破壊力を持っており、フリックはしばし言葉を失った。
ヒックスでさえ、もう少しは気の利いたことが言えるだろうに。お前、三十路男が言うに事欠いて、そうくるか。
さりげなく双方に失礼なことを考えて、気を取り直さなければならなかったほどに動揺している自分にも驚いた。
少なくともいい年をした男が、数年来の体の関係さえあるような相手に対して言う台詞じゃない。まともにこちらを見ることも出来ず、かといって完全に目を反らすことも出来かねたのか、へらりと誤魔化すような笑みさえ浮かべるその様は、いっそ感動的なまでに情けない。
――ああ、お前、ビクトール。お前本当にバカだったんだな。
あきれ果てたため息とともにフリックはその賭け代を了承し、ビクトールに二局目の対戦を促した。
動揺が尾を引いていたわけでもあるまいが、ものの見事に勝ちを持っていかれての三戦目、結局の所、ビクトールの勝ちは目前だ。
ビクトールの頼みを叶えてやる事はやぶさかではないけれど。
――でもお前、負かした相手から仕方なく、って、そんなの本当に望んでいるんじゃ、ないんだろう?
フリックはしみじみと息を吐きだした。
負けて、キスしてやるのは簡単だ。けれどもそれじゃ、意味がない。とはいうものの、この三戦目、フリックの取り札は実に残念な有様で、とてもじゃないか勝ち目が見えない。
そもそも取り札そのものの枚数が少ない上に、なまじ青短を狙っていた分、カス札さえも中途半端な枚数だ。どの札を取ってもこの段階では無役のまま。せいぜい出来ることといえば、場にある「梅のカス」を片付けてビクトールの赤短の可能性を削っておく程度のこと。それでもカスが九枚になるから、次のターンでビクトールが勝負をしなければ、まだフリックの勝ち目もないわけじゃない。もちろんビクトールが決めるつもりなら、その時点でフリックの負けは確定する。
赤短を切る目的で、先に「梅のカス」二枚を確保したフリックの判断は、だがものの見事に裏目に出た。
山札からフリックが引いた札は「梅の赤短」。
場札となったその札に、ビクトールは、無言のまま「梅に鶯」を叩きつける。
出来役は「雨四光」「赤短」「タン二文」の三つ。
ビクトールの文句なしの快勝だった。
「――こいこい」
だから、何を言われたのか、フリックはその一瞬、まるで理解ができなかった。
「え」
「だから、こいこいだよ。お前の番だぜ、フリック」
「え…なっ――」
何を考えているんだ、貴様!
反射的に出掛かった言葉をどうにか喉元で押さえ込んで、フリックはまじまじとビクトールを凝視した。
ビクトールの表情は読めない。一枚残った手札を手元に伏せ、組んだ両手で口元を隠したまま、底の見えない眼差しでこちらをじっと眺めている。
「こいこい」は、本来さらに大きな役を見込めるときに対局の続行を宣言するものだ。今のビクトールの役ならば、間違いなしの大勝で、対するフリックの取り札は、役こそ出来ていないものの、カスが九枚、短冊四枚、タネ札三枚と、引きによってはすぐにも低めの役が成立する。フリックがここで役を作る事ができれば、そして「こいこい」をしなければ、すなわちそれはフリックの勝ちとなり、先に「こいこい」をしたビクトールの得点も加算される。今回は金こそ賭けていないから、あまり得点や役の高低にこだわる必要はないけれども、まずこのタイミングでの「こいこい」は有り得ない。
で、あるのならばビクトールの意図は明白だ。
フリックが、ビクトールの求めに応じるのが嫌ならば、低めの役で勝ち抜けすればそれでいい。逆に応じてもいいというのなら、役を作らない、あるいは作った上で「こいこい」をすればいい。勿論フリックの役が出来ない可能性もあるにはあるが、その場合はビクトールの勝ちが確定する。
『勝つも負けるもお前が選べ。俺が強要したわけじゃない』
ビクトールが欲しいのは、ことここに至っても、つまりは免罪と言い訳だ。
いっそ腹も立たないほどに、ビクトールは不安と期待を抱えたまま、フリックが結果を出すのを待ち構えている。そのことを理解すると同時に、フリックは、ビクトールが本当に望んでいることを叶える方法も見つけてしまう。
――本当に、お前はバカだな、ビクトール。こういうふうに投げられたら、俺は勝たないわけにはいかないじゃないか。
フリックは深く笑う。
――お前、自分でもわかっちゃいないみたいだけど、本当は俺に勝ちたくなんて、ないんだろ?
場には四枚。手札二枚のうちどちらを出しても役は出来る。投げられた勝ちを掠め取るのは簡単だったが、どうせだったらもっと徹底した勝ちを叩きつけてやろうじゃないか。
先ほどビクトールが山札からひいたばかりの場札は「菊に杯」。これに手札の「菊に青短」を勢い良く叩きつける。
カスとタン、それに青短の三つの役が一気に出来る。
ビクトールがあからさまにしくじったとの表情をあらわにする様に溜飲を下げたフリックは、そのままぐっと身を迫り出して山札に手をかけ、そこで一旦動きを止めた。
――これで、済むと思うなよ、ビクトール。なんたって俺は今、最高に機嫌がいいんだから。
山札を返さないまま、フリックは艶然とビクトールに笑いかける。目論見をはずされたビクトールは、わずかに腰がひけたまま、それでもフリックから目を離せない。
「念のために、確認しておくぞ、ビクトール」
「…おお」
「俺が勝ったら、当然お前も頼みをきいてくれる、それで間違いはないんだよな?」
「――おう」
「わかった」
笑みの形を崩さないまま、フリックはすばやく手首を返すと、山札を表を確かめもせずに場に叩きつける。
坊主のカスに、重なっているのは「芒に月」。
ビクトールの喉がごくりと鳴った。
「――『月見で一杯』。さて、付き合ってくれるんだよな、ビクトール?」
艶やかに笑ってフリックは、酒瓶片手に席を立つ。慌てたように後を追いかけるビクトールには、否も応も、選択権などありはしなかった。
「なんだよ、お前手ぶらかよ」
酔いを少しも感じさせない足取りも軽やかに階段を登っていったフリックに、ようやく屋上で追いついた。お前にしては気が利かないなあ、などと笑っている姿を見る限り、どうやら怒っているわけではないらしい。手すりに寄りかかって眺めているのは、ようやく東の空に姿を現したばかりの下弦の月だ。
「あーあ、これで満月だったらばっちり決まってたんだろうけどな。まあ、この季節に月見酒ってのもぞっとしないか」
もう一度、名残惜しげに空を仰ぐと、フリックは近づいてきたビクトールを強引にその場に座らせて、そのまま遠慮もなしに背中合わせに寄りかかってくる。
ああ、酔っていやがる。それもかなりご機嫌な酔いっぷりだ。
「なあ、ビクトール。お前本当にバカだったんだなあ」
頼むから、そんなにあっけらかんと言わないでほしい。ビクトールはフリックに引っ張られるまま腰を降ろし、そのままがっくりと項垂れた。
自分でも自覚はしているのだ。自覚をしていて、さらにあれだけ手酷く拒まれて、それでもなお。
フリックからのキスが欲しい。てっきり許してくれるだろうと、そう思っていたのだけれど。
ずるずると姿勢を崩したビクトールはそのまま体を反転させ、なし崩しに伸ばした腕でフリックの膝を抱え込むと、そのまま太腿に頭を落とした。はたかれることは覚悟をしての行動に、降ってきたのは、やれやれとでも言いたげな短いため息と、それから無雑作に髪をかき混ぜてくる筋ばった手のひらの温もりで、ビクトールはますますひどく落ち込んだ。そんなビクトールを見透かすように、フリックが笑う。
「なあ、もう一回言ってみろよ。お前は何が欲しいんだ?」
――低い、ぞっとするほどかすれた声。
応えられないビクトールの、視界がぐるりと反転した。膝を抜きがてら、フリックが器用に体勢を入れ替える。床に仰向けに転がされ、胸元に半ば体重をかけた片膝をのせられては、さしもビクトールも動けない。
下弦の月と、屋上に焚かれた常夜燈のこころもとない明かりでは、こちらを見下ろすフリックの表情は分からない。分からないながらも目を離せないビクトールのその頬に、冷たい手のひらが添えられる。
夜気に冷えた唇が一旦ふわりと額に触れたあと、おもむろにビクトールの返事を奪い取る。応じる術もないままに、ついばむだけの口付けが、次第に熱を帯びてくる。ビクトールは腕を伸ばしてフリックの頭を抱え込む。心得顔で笑うフリックは逆らわない。
ねだるビクトールの求めるままにフリックは唇を落としていく。
頭の芯が痺れるような感覚に酔い痴れながら、ビクトールはふとあらぬ考えに捉われる。
――お前の欲しい物なんて、俺にはとうに分かっているんだよ、ビクトール。
繰り返される口づけに、フリックがそんな言葉を口にするわけもなかったが、ビクトールは脳裏にはっきりと、そんなフリックの声を聞き取った。
――もしかするとフリックは、自分の思惑も何もかも全部分かっているんじゃないだろうか。
ひどく危険な考えは甘い。その甘さが、さらにビクトールの酩酊を深くした。
フリックは、まるでビクトールの考えを読み取ったかのように、前触れもなく体を起こして息をついた。上がった呼吸を整えて、それから思い出したように持ちだしてきた酒瓶に手を伸ばす。
中身は酒場にいた時と変わらない。喇叭のみをするような酒じゃあないな、月見の酒のつもりだったのに、と、笑ったフリックは立ち上がり、そうして横たわったままのビクトールに手を差し出した。
「…部屋で、飲みなおそう、ビクトール」
僅かに上擦っていることを除けば、フリックの声はまったくいつもと変わらない。笑って差し出された手は暖かく、立ち上がったビクトールは、泣きたいような気分に襲われる。
先を歩くその背中を抱きしめたい。ビクトールを立たせた後は振り返りもせず、とっとと歩き出したフリックの後を追おうとして、ビクトールは不意に己のそんな気分と衝動の正体に思い当たる。
遠い昔に、覚えがないわけじゃないこの感情は、まさか。
心臓が、一つ大きく脈を打つ。
これは恋だと頭の中で誰かが叫ぶ。
先に階段を下りていったフリックが踊り場の向こうに消えてもなお、ビクトールはその衝撃のあまり、その場から動くことができなかった。