アンドロメダの青い瞳 1「未成年がタバコ吸ってんじゃねーよ」
親愛の温度を一欠片も感じない、大好きなはずの声。
そのきつい響きと共に、背中に衝撃。
蹴られた。
アキに蹴られた。
――初対面以降は、こんなことなかったのにな。
デンジは屋上で背中を蹴られて、前につんのめった。鉄柵に手をつき、タバコを咥えたままのろのろと顔を起こす。
別に、暴力なんて今更どうってことない。デンジは幼い頃から暴力には慣れきっていたし、きっと他の誰にそれをされたって、何とも思わなかった。
デンジはただ、"アキに蹴られた"という事実が苦しいだけだ。
痛むのは、蹴られた背中なんかじゃない。
「17でピアスにタバコ。チンピラじゃねえか。仕事、やる気あんのか」
「いてぇって!早パイ!」
今度は耳を掴まれた。
『今回』のアキは、よほどデンジのことが気に食わないらしい。こんなことは、もうしょっちゅうだった。
――でも、仕方ねえよな……。
デンジは悲鳴を上げる自分の心から目を逸らし、それを見ないふりをした。
――だって。
アキはもう、何も覚えてねぇんだもん。
アンドロメダの青い瞳
ポチタがデンジの心臓になった瞬間、『前回』の記憶が一気に流れ込んできた。
デンジは記憶の奔流に半ば発狂しながら、ゾンビ達を滅茶苦茶に殺戮したのだ。
全身を腐った血で汚しながら、発狂する自分とは別の冷静な部分が現状を分析していた。
――俺、『2回目』じゃん。
デンジはすぐさま悔いた。
どうしてポチタが消えてしまう前に、それを思い出さなかったのだろう。
もし思い出せていたら、今回はもっと上手くやれたかもしれないのに。
後悔しても、もう間に合わなかった。
ポチタは既に、デンジの中に消えてしまった後だったから。
全てのゾンビ達を殺め終わった後、貧血状態のデンジは血の海の中でしばらく呆然として……少し状況がおかしいことに、ようやく気がついた。
ゾンビの悪魔を倒しても、それからしばらく待っても。マキマが来なかったのだ。
『前回』と『今回』は少し違うらしい、と気づいたのは、この辺りからであった。
デンジは突然、どうしたら良いのか途方に暮れた。
だってこのままでは、会えない。
しばらく口を開けて呆けていたが、そのまま死ぬわけにもいかなかった。デンジはまず、『今回』の方針を決めることにした。
とにかく、公安に入ることを目指そうと。
公安に行けば、パワーがいるかもしれないと思った。
そして。
そこに、アキもいるのではないかという予感があった。
デンジはとにかく、アキに早く会いたかった。アキがまた元気で生きているかもしれないと思ったら、居ても立っても居られなくなったのだ。
だって前世――アキとデンジは、恋人だったのだから。
方針さえ固まれば、早速行動に移すしかない。デンジは言わずもがな、即断即決タイプである。すぐに凄惨な殺戮現場をトンズラし、とりあえず民間のデビルハンターになった。
公安に入るコネなんて持っていなかったし、まずは情報を集めようと思ったのである。
デンジは『2回目』だった。もう、何も知らない子どもではない。アキだって、「お前、地頭は良いよな…」といつも言っていた。毎回とても意外そうに言うのが、少し悔しかったけれど。
デンジはそうしてしばらく日銭を稼ぎながら、情報を集めていった。しかしそこで、驚くべき事実が判明した。前回との違いが、思っていたよりも大きかったのだ。
一つ目。銃の悪魔がこちらにいないらしく、過去の襲撃の記録がなかったこと。その影響か、前世のような異常な強さの悪魔が存在せず、悪魔は全体的に弱体化していた。
二つ目。どうやら公安に、マキマがいない可能性が高いということ。もしかすると、支配の悪魔もあちら側にいるのかもしれないと、デンジは考えた。
それらの事実が判明してからは、ひとりで不安な夜を過ごすようになった。心臓に手を当てて、抱き込むようにして毎日眠るようになった。そこにいるはずの、ポチタの温度が遠かった。
だって。銃の悪魔がいなければ、アキは公安にいないかもしれない。会えないかもしれない。
マキマがいなければ、パワーだっていないかもしれない。
――もしそうだったら……俺、何を目的に生きていけば良いんだ……?
今回の人生にあった僅かな希望の光が、生きる方針を決めるそれがかき消えそうになって、絶望しかけた頃。デンジが1年半ほど民間として活動し、実績を残した頃のことだ。
デンジに接触してくる者がいた。
吉田ヒロフミである。
「久しぶりだね。デンジ君。ところで君さ、前回の記憶あるでしょ?」
真っ黒のサラリとした髪越しに、黒い瞳がこちらを探るように睨め付けていた。奴は、前回の記憶を完全に有していたのだ。しかしデンジは、一瞬の躊躇もせずに即答した。
「覚えてんよ!!だからなんだよ!?」
吉田はその気怠げな黒い目を、ぱちくりと見開いた。少しだけその黒檀の瞳が輝いたような気がしたが、デンジにはどうでも良かった。
「……いや。デンジ君、公安に行きたいのかなと思って。師匠が…岸辺さんが、口利いてくれるってさ。一応危険がないか、僕が確かめに来たってわけ」
「マジで!?」
完全に喧嘩腰だったデンジは掌を返し、吉田に縋りついた。吉田の口角がつり上がる。初め警戒していた彼の視線は、もうかなり楽しそうなものに変わりつつあった。
「デンジ君は面白いね。……あの人に会いたいんでしょ?彼、いるよ。公安に」
「…………!!」
デンジの目に、いっぺんに生気が戻った。吉田が「あの人」とデンジに言う時、それが指す人物はたった一人であったから。
自身の暁の瞳が突然輝き出したのを、吉田の目を介してデンジは目撃した。それを見て初めて、デンジは自分が相当追い詰められていたことを悟った。
――でも、もう大丈夫だ。アキがいるなら。
デンジはゆるむ頬を押さえながら、そわそわと手を彷徨かせ始めた。しかしその様子を見て、吉田の顔は翳った。
「……会いに行くの、あんまりオススメしないけどね」
「行くに決まってんだろ!!お前に勧められる必要ねー!!」
吉田が何かを言うのを躊躇していることに、デンジは全く気づきもしなかった。
だってこの時のデンジは既に――アキと同じ場所にピアスを開けて、アキと同じ銘柄のタバコを吸っていたほどだったのだ。
デンジは、今回会えない間もずっとアキが恋しかった。いや……正確には前回アキが死んでから、もうずっと、である。
彼が生きている。公安にいる。会える。
それだけで心は浮かれ、深く考える余裕なんて微塵もなくなっていたのだ。
多分、デンジは心のどこかで慢心していたんだろう。あんなに自分を好きだったアキは、絶対に自分を覚えていると信じ込んでいた。
とにかく一刻も早くその姿を見て、抱き付きたかった。
あの低くて落ち着く声で、静かに「デンジ」と呼ばれたかった。
頭を撫でられて、アキの香りをかいで、生きているアキの体温を感じたかった。
――でも。
全部全部、無理だった。
ようやく、会えたアキは。
『前回』のことを――何一つ、覚えていなかったのだから。