黄昏時のタイムラプス 7―07―
あの日以降、デンジが小さな家に帰ってくることはなかった。
絶望したアキは、毎日デンジの家に行っては、誰もいない空間で暗くなるまで体育座りをしていた。彼は来る日も来る日も、一人でデンジを待ち続けた。
そうして何ヶ月か経ったある日、アキは唐突に気がついた。
このままではもう、デンジに二度と会えないと。
アキは気付いていた。
デンジが自分を遠ざけたのは、本心からの行動ではないと。
あの時デンジは笑いながら、心から血を流していたと。
8年もの間、ずっと一緒にいたのだ。冷静になってみれば、アキにはすぐにわかった。
それならば、やるべきことは一つだけだ。
「デンジを、迎えに行く。」
アキは夢から覚めたような目で、一人呟いた。
彼は一度こうと決めたら、絶対に行動を曲げない男であった。そしてそのための手段は、選ばない男でもあった。
だからアキは、デンジに会うためだけに、公安に入ることを決めた。
デンジの心臓が悪魔に狙われ続けていることは、この8年でアキの知るところとなっていた。
それならば、強力な悪魔の動向を掴み続ければ、いつかデンジに辿り着くに違いない。アキはそう推測した。一番手っ取り早いのは公安に入り、第一線で悪魔を狩り続けることだ。『チェンソーマン』の情報は、自ずとそこに集まるだろう。
アキは一見まともなようでいて、やっぱり頭のネジが数本は外れていた。
彼は、デンジを見つけるためというただ一つの目的だけで迷いなく、命が簡単に吹き飛ぶ職業を志したのである。
――デンジを必ず、迎えに行く。
見つけ出したら、あの孤独な人を、もう絶対にひとりにはしない。
アキは決意の証として、その日両耳にピアスを開けた。デンジが見つかるまで、髪も伸ばすことに決めた。
それらは願掛けのようなものだった。
さて、その夜からである。
アキは夢で毎日、前世の『アキ』の記憶を見るようになったのだ。
初めは驚いたが、やっぱり自分は『アキ』の生まれ変わりなんだなと、妙に納得した。
『アキ』は思っていた通り、まるでもう一人の自分のようだった。辿った人生のルートは大きく異なれど、その心の動きや考え方は、やはりシンクロしていたのだ。
見たのは彼の記憶全てではないし、あくまで映像として見ただけで、彼の人生を追体験したわけではない。
それはただ、もう一人の自分の一生を垣間見たという感覚であった。
もちろんその記憶の中には、デンジとパワーもいた。復讐に生きた『アキ』の人生最期、その間際で輝きを放つ、明るい日差しのような記憶である。
夢で記憶を見ても、結局アキは、前世の『アキ』自身にはならなかった。でもアキは、それで良いと思った。
だって、自分はまだ生きられる。時間がある。手段も残っている。
『アキ』がどれだけ無念だったか、夢を通してよく知ることができた。彼がどれだけ、本気でデンジを好きだったのかも。
だから、俺はもう――デンジを諦めない。
パワーのことも、デンジと一緒に探し出してやる。
アキはその決意を新たなものとし、それは確固たる信念として彼に根付いた。
それからアキは、死に物狂いで自分を鍛えた。
夢で見た『アキ』くらい強くならなければ、公安で生き残れないからだ。
民間で強力な悪魔の討伐を何度も経験し、大怪我を負うこともあった。それでも、なりふり構ってなどいられなかった。
結局、アキは18歳で公安に入った。奇遇にも、やはり『アキ』と同じ年齢で、過酷な環境に身を投じたのである。――そこに入った目的は、まるで異なるものであったが。
アキの推測通り、公安には『チェンソーマン』の情報が何度も入ってきた。彼は神出鬼没であり、複数いる支持者たちの手を借りて悪魔を狩っているようだった。情報を得れば毎回すぐに駆けつけたが、ニアミスしてしまい、デンジを捕まえることはできなかった。
しかし、情報を得るたびにデンジが無事で生きていることを知り、アキの心は大きく励まされた。
アキは公安の中でも、『チェンソーマン』に異常な執着を持つ男として有名になっていった。
そうして時が経って、21歳になった時。
アキは、とうとうデンジに辿り着いたのだ。
『チェンソーマン』が向かったという現場に急行すると、鏡の悪魔の向こうで、全ての表情がごっそり抜け落ちたデンジが立ち尽くしていた。
探し続けた、デンジだ。アキが間違えるはずがない。
アキは大きく息を呑んだ。その瞬間まさに、伸びた悪魔の触手がデンジを捉え、その身体を切り裂かんとしていたからだ。
「コン」
アキはすぐさま、狐に悪魔を喰らわせた。狐は生まれ変わったアキを許し、再び契約してくれたのである。
「迎えに来た。デンジ」
粉々に砕け散った鏡が煌めく中でアキが静かに告げると、デンジの表情が戻った。
デンジは黄昏色の目を見開いて、まるで幻でも見るようにこちらを凝視している。
アキの心に、表現しきれないほどの様々な激情が、どっと溢れ出した。デンジの元に無我夢中で走り寄る。その名を叫ぶ。
「デンジ!!探した。デンジ、デンジ……!!」
「ア………………アキ……………………?」
デンジは呆然としていた。その身体は、記憶と想像よりも小さかった。以前よりもずっと痩せこけて、アキよりもずっとずっと薄くて、小さかった。
あんなに大きくて、アキよりずっと年上で、永遠に追いつけないと思っていたデンジ。
大切で、愛しいデンジ。
「デンジ……!俺だ。アキだ!」
「あっ……あ……!アキ、アキ………………!!」
デンジの顔は突然、下手くそにぐしゃりと歪んだ。その目から大粒の涙が、ぼろぼろっと溢れ出す。
「アキ!!アキ……!!会いたかった!!会いたがっだあ…………!!」
デンジはアキの胸に縋りつき、激しくしゃくり上げた。それだけで、デンジがどれだけ辛い思いをしていたのか、アキにはよくわかった。
必死に探して、良かった。
諦めなくて、良かった。
アキの心はもう、喜びと安堵と、彼への愛おしさでいっぱいだった。
デンジが今のアキと、前の『アキ』のどちらを見ているのかなんて、もうわからない。
それでも構わない。どっちも俺だ、とアキは思った。
デンジは肉体的にも精神的にも随分衰弱していたようで、アキの胸に寄りかかったまま、間も無く気絶してしまった。アキはその身体を抱える。悲痛なほど、とても軽かった。
たくさん栄養のあるものを、食べさせなければならない。アキはそのことで頭をいっぱいにしながら、悪魔討伐の事後処理を同僚に任せ、デンジを病院に運んだ。
♦︎♢♦︎
病室でアキがリンゴを剥いていると、気絶していたデンジがゆっくりと瞼を開けた。
「……うさぎの、リンゴ…………」
デンジは横になったままアキに目を向けて、ぽつりと言った。
「懐かしいだろ?前世の『アキ』の記憶で見たんだ」
アキは静かに、ウサギの林檎を載せた皿を差し出した。
「アキの、きおく……?」
「そう。夢で、前世の記憶を見たんだ。残念ながら、人格は『俺』のままだったけどな。デンジとパワーと、三人で一緒に住んでいたのも見た」
「……へぁ。そ、そーなんだア……」
デンジは呆けたような声を出しながら、ゆっくり身体を起こす。アキはそれを支えた。
「えと。えっと。あのさぁ……。ア、アキ……お前さ、いま、公安にいんのか……?」
「そうだ。デンジを探すために入った」
「はぁ!?ウッソだろ……!?」
「嘘じゃねえ」
アキはデンジの瞳を覗き込む。デンジはそれに動揺して、たじろいで身体を仰け反らせた。
衰弱している彼を休ませてやりたいが、また逃げられては困る。アキはすぐに本題を切り出した。
「わかったか?俺はお前を探すためなら、命だってかけられるんだ」
「……っ!」
「デンジ。好きだ」
アキの目には、熱が込められていた。青い海の瞳が揺らめく。デンジをひと時も見逃すまいと熱心に見つめながら、アキはその手を両手で包んだ。
「俺は、前世の『アキ』とは違うかもしれないけどな。デンジが、こんなに好きなんだ。だから頼む。今度こそ、俺に答えてくれ……」
アキは、懇願するように言った。
デンジの瞳は激しく揺れている。涙を堪えるように、何度も素早く瞬きを繰り返していた。彼の骨ばった手は、驚くほど冷たかった。少しでも温めてやりたくて、ぎゅっと握り込む。
「お、俺はさぁ……」
デンジは、唇を戦慄かせながら呟いた。
「俺は……お前と一緒に生きられねーよ……俺は、死ねねぇから。だから。お前に、相応しくねえ……」
ふるふると揺れながら、麦穂色の睫毛が伏せられた。
アキはここで初めて微笑みながら、デンジの頭を撫でた。
「何だよ。身を引こうとしたのか?俺のことが、嫌いなわけじゃねえんだな?」
「嫌いなわけねえだろ!!」
デンジは即答した。その瞳と目線が合う。涙の膜が張っている。また今日も、窓から黄昏の光が差し込んで、それを一層赤く染め、キラキラ輝かせていた。
――やっぱり、綺麗だ。
アキはその一瞬一瞬を、目に焼き付けた。
「じゃあ、何も問題ないな」
アキは、その秀麗な美貌をこの世で一番美しい微笑みにして、はっきりと言った。
「約束する。俺が死ぬ時、俺がお前を殺してやる」
その言葉に、デンジは驚愕で目を見開き、背骨をぐっと伸ばした。
「は……!?」
「俺がお前を殺して、誰にもスターターロープを引かせられない場所にお前を閉じ込める。当てなら、もういくつか探してある。必ずお前を、ちゃんと殺す 。もう誰も、お前を目覚めさせられないように。もう二度と、ひとりにならないように」
アキは優しく言った。
デンジを殺すと。愛しているから、殺すのだと。
それはアキの、生涯の愛の証だった。
「だから……それまで一緒に生きてくれ。デンジ」
デンジは全身をぶるりと震わせたあと、アキに勢いよく抱きついた。
「アキ……アキ!!」
「うん」
「すっ、好きだ!俺、アキが好きだ……!!アキが……お、俺のこと、殺してくれんの……?」
「ああ。俺が死ぬ時に」
「そ…それまで……一緒にいてくれんの?」
「もちろん。これから、ずっと」
「死ぬまで……?」
「そう。死ぬまで」
デンジはガタガタと震えながら、ぼろぼろっと涙を零した。アキはデンジの背に手を回し、薄い身体を強く抱きしめた。
「いいのかよ…!俺っ!面のいい女じゃねーけどぉ!?」
「それを言うなら、俺もだろ」
「胸もねえし!柔らかくもねーしよぉ…!」
「そんなの求めてねえ。デンジのせいでこうなったんだから、責任取れ」
「うゔっ……ひっぐ!」
子どものようにしゃくり上げるデンジは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。それすら可愛いと思うのだから、アキはもう重症だった。アキにとってはこの世のどんな美女よりも、デンジの方がずっと魅力的だった。
むしろアキは、顔をぐちゃぐちゃにして泣くデンジを、ずっと抱きしめてやりたかったと――そんな気がしていた。下手くそな泣き方しかできないデンジの、涙と鼻水を自分が拭ってやりたいと、ずっと前から思っていたような気がするのだ。
デンジは涙で濡れた黄昏色を真っ直ぐアキに向けて、大声で叫んだ。
「じゃあ……じゃあっ!俺ぇ!アキに殺されてえ!!」
「ふっ!……すげえ殺し文句だな」
アキは、ふはっと吹き出した。
やっぱり、デンジは規格外だ。
いつも、アキの心臓を鷲掴みにする。前世からずっとそうだった。
「それは任せろ。……その代わり、死ぬまで一緒にいてくれよ」
デンジは大きく、何度も首を縦に振って縋りついてきた。
こうして、二人はもう一度 一緒に生きることになった。
――――死が、二人を分つまで。そう約束したのである。