アシンメトリー・メモリーズ(8)デンジは夢の中を、揺蕩っていた。
気持ち良い。
手が、懐かしい感触に包まれている。
この指と掌の感触を、知っている。
多分、ずっとずっと、恋しかった。
「…………アキ…………?」
「……っ!デンジ!!」
こわばった唇を動かしてどうにか二文字だけ紡ぐ。時間をかけて、ようやく重たい瞼が開いた。すると意識が朧げなデンジの目の前に、濡れたタンザナイトの瞳が飛び込んできた。
涙を拭ってあげたいと思ったけれど、手がうまく動かない。
「今医者を呼ぶから!待ってろ!!」
アキは包み込んでいたデンジの手を離し、枕元でボタンのようなものを操作した後、ドタバタと動き出した。
――寂しい、離れないで。
どこにもいかないで、アキ。
デンジはぼんやりとそう思ったが、うまく言葉にならない。
入れ違いで看護師らしき人物が数人やってきた。知らない場所で白いベッドに寝かされていたことに、ようやく気付く。どうやらここは病院らしい。
デンジは医師の診察を受けたり、看護師に身体を起こされたりしているうちに少しずつ動けるようになってきた。アキは後ろの方で、ずっと心配そうに見守っている。知らない場所で知らない人に囲まれているけれど、アキの姿が見えるからデンジは安心していた。
容体が落ち着いたことが確認されると、アキと二人で病室に残された。どうやらデンジはトラックに撥ねられた後、二週間も目を覚まさなかったらしい。腹部に大きな裂傷があったと同時に、頭も強く打っていたようだ。しかしMRI検査や問診の結果では、脳に障害は見られない様子だと言われた。後遺症が残らなかったのは奇跡的なことだと。
デンジは説明の半分以上がよくわからなかったが、アキが医師の説明をしっかりと聞いていた。彼はデンジの「夫」なので、あらゆる対応を代理でしてくれていたのだ。
二人になった後しばらくして、アキが静かな声で切り出した。すぐに泣き出しそうな、弱りきった声だった。
「デンジ。……お前が死にかけて、俺がどんな気持ちだったかわかるか……」
こちらを見るアキの目があまりにも悲痛な色を宿していたため、デンジは顔をくしゃりと歪ませて俯いた。
「アキ……ごめん」
「……違う。悪い。こんなことが言いたかったんじゃない……。……俺は。俺はな、デンジ、」
言い募りながらアキは再び、デンジの手を包み込んだ。
「好きだ。愛してるんだ。ずっと お前を。お前だけを……」
アキの瞳は光を反射して、キラキラと輝いている。今にもこぼれ落ちそうなほど涙の膜が張っているのだ。
デンジはその信じられない言葉に驚愕して、なんとか言葉を絞り出した。
「…………そ、それって。家族として……?」
「違う、一人の女性としてだ」
デンジは一瞬にして、頬が熱を持つのを感じた。心臓が壊れたみたいにばくばくと煩い音を立てる。身体全体が脈打っているのかと思うくらい、大きな音だった。
しかし、デンジには気になっていることがあるのだ。だから喜び勇む心を抑えて、おずおずと問うた。
「で……でもさあ……。俺、指輪を見たんだ……。渡したい奴が、他にいるんじゃねえの……?」
「……!?お前、もしかして。これを、見たのか……?」
アキはポケットから、紺のベロアの小箱を取り出した。蓋を開けると、大粒のダイヤモンドがついた婚約指輪が顔を出す。それは間違いなく、事故の前にデンジが見つけたものだった。
「そ、それだよ。ごめん、俺片付けようと思ってさぁ……それ、勝手に見ちまったんだ。だから……もう、家に帰れねえと思って……っ」
デンジは次第に、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「アキ……結婚してえ人が、いるんだろ……?お、おれが……っ、籍を、入れてもらったから、おれ……っおれが、アキの人生の、邪魔になってると、思って…………!」
「違う!!」
アキはデンジを引き寄せ、抱き締めた。
あまりの急な出来事に息を呑む。ずっと一緒に暮らしていたけれど、こんなに密着するのは初めてだ。
「違う。誤解だ。これは……お前の。デンジのためのものだ」
「……へぁ?お、俺ぇ……?」
「嘘じゃない。ちゃんとイニシャルも彫ってある」
アキは指輪を取り出して、その裏側を見せた。覗き込むと、小さく刻印が彫ってあった。
"Dear D"
指輪には、確かにそう記してあった。デンジの頭文字のDだ。あまりの予想外に、デンジの涙腺はいよいよ決壊した。
「じゃ、じゃあ、アキは…………ほんとに、俺のこと、好きなのかよ………………!?」
「そうだ。好きなんだ。デンジのことが……お前のことだけが、好きだよ」
アキは笑いかけた。見たことがないくらい、はっきりとした優しい笑顔だった。いよいよデンジの涙は止まらない。
「じゃあ!じゃあなんで、俺のこと、振ったんだよ!俺、本当に辛かった……!ア、アキは、ひどい奴だ……!!」
「……ごめん。俺は、お前の幸せを考えた。お前に、俺は相応しくねえと思った。お前は未成年だし、俺よりも……もっと、似合いの奴がいると思ったんだ……」
「アキ以上の奴なんか、いるわけねえだろ!!」
デンジはアキを思い切り睨みつけた。その反動で、濡れた赤い瞳からぼろりと涙が落ちる。
相応しくないなんて、アキが酷いことを言うからだ。アキのことを悪く言うのは、それが彼自身でも嫌だった。
「ずっと好きだった。俺……アキが毎週手紙をくれてた時から、ひとめでアキを好きになる自信があったんだ。実際、すぐに大好きになった。俺には、アキしかいねえんだよ!」
「……そうか。……ごめん。お前の気持ちをちゃんと受け入れなくて、ごめんな……」
アキはもう一度、デンジを抱き締めた。デンジはずずっと鼻を啜る。両手で縋り付くとアキの匂いでいっぱいになって、ふわふわクラクラした。タバコとコーヒーと、それからかすかに香る、シダーウッドの香水の匂い。ずっと、いつまでも嗅いでいたい匂いだと思った。
「お前が倒れて手遅れになってから、すげえ後悔した。だから、もう俺は、お前のことを諦めない。何度だって言う。好きだ。愛してるよ……デンジ」
「……うん。うん……俺も。俺も、アキが大好き」
デンジはアキの背中に回した手に力を込めた。目覚めたばかりでまだ力が沸かないけれど、出来る限り。
大きなアキの身体に包まれる。ここが世界で一番安心する場所だと確信する。幸せで胸がはち切れそうになって、眉間に皺がぎゅっと寄ってしまった。
「この指輪は、お前が目を覚ましたら、今度こそ渡そうと思ってた。だから、ずっと持ってたんだ」
アキは抱き締めていた腕を緩めて離し、デンジの頭をさらりと撫でた。それから改めてその場に跪き、デンジの左手を掬い取って、一度ゆっくりと口付けた。
そのまま、指輪を差し出して請う。ダイヤモンドと同じくらい美しい青い瞳が、デンジをまっすぐに見ている。
「デンジ、改めて。どうか、俺と結婚してください。一生、一緒にいてください。」
デンジは涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、ふにゃりと笑って返した。
「うん、ずっと一緒にいる!……俺を、アキのお嫁さんにして!!」
デンジはそのままアキにもう一度抱き付いて、顔を埋めて擦り付けた。
アキは心底幸せそうに笑いながら、そのふわふわした髪をいつまでも撫でていた。
柔らかな日差しがが差し込んで、二人を照らす。
もう、春はすぐそこまで近づいていた。