番犬たちの夜 いつもは踊るほど騒がしい会議が行われているこの部屋も、時計の針がてっぺんを過ぎればすっかり静かなものだった。あるのは、冷房が吐き出す風の音と、モニターが時折鳴らす軽快な電子音。そして、すよすよ安らかに眠る寝息がひとつ。
そんな静かな空間に、ぱしゃり、とシャッター音が鳴った。
「烈風刀が起きちまうぞ」
「こんぐらいじゃ起きねーって」
普段の声量からは信じられない、かすれかけた密やかな声で雷刀はそう言う。
烈風刀は机に突っ伏して眠っていた。門――ヴァリアントゲートの調査が一段落したと思えば、今度は夏のアップデートの準備が始まっている。それなりに忙しいのだろう。低めに設定された冷房に「少し寒くないですか」と言ってブランケットを取り出し羽織るように肩にかけたら、そのままあっという間に眠ってしまった。もうすぐ四時になるのだから、仕方のないことだろう。
ネメシス運営の一環として、毎日深夜にサーバーを見守る仕事がある。一日一人ずつの当番制だ。しかし昼間と比べて圧倒的にアクセス数が少ないため、ほとんどやることはない。なので、日中にやりきれなかった話し合いをこの時間にやろうと提案したのはつまぶきだった。今日の当番は烈風刀だが、烈風刀が当番の日は概ね雷刀も着いてくるし、逆も然りだ。それを知ったうえで声をかけたところ、当たり前のように了承された。
机上にはいくつかの本と、たくさんの構想が書かれた紙、そして箱に入ったドーナツが置かれている。ドーナツはだいぶ食べ尽くされており、残りはあと一個だけだ。レイシスからの差し入れだった。
次回のアップデートは涼を求めて冥府をイメージしたものになるらしい。レイシスへ至る道の門番の役を任されたつまぶきは、それならば三人で担当するべきだろうと考えた。なぜなら自分よりも、自分によく似ている彼らの方がよっぽど番犬に相応しいからだ。
番犬のうちの一人――雷刀は撮った写真を丁寧にフォルダに入れて、何度も本物と写真を交互に見ていた。視線に釣られて、ふよふよと近づきその顔を見る。いつもなら主のために先を見据えようとしてきりりと釣り上がっている眉はへにゃりと下がり、透き通った水辺のような瞳はまぶたの下に隠されている。うるさい口は八重歯を丁寧にしまって、時折むにゅむにゅと蠢いている。
「……かわいい顔して寝てんなー」
だから、本当に思ったままのことを言っただけなのだ。あまりに安らかであどけない寝顔に、庇護欲とか慈愛とか、そういう類の柔らかな気持ちが少し湧き上がってきたから、口にしただけなのだ。
「……は?」
自分の身体に血液が通っていたら、ザッと音を立てて一瞬で真っ青になっていたに違いない。静かな、いつもより一オクターブ下がった声が、つまぶきの身体の冷たい金属をなぞる。キィと嫌な音が鳴りそうだ。それくらい、今、自分は言ってはいけないことを言った。間違いない。
「ちげーだろッ! そういうんじゃないからッ!」
抑えた声で、しかし勢いだけはつけて必死に弁明すると、そこでようやく雷刀は自分の歪んだ表情に気がついたらしい。「わりぃ」と言いながら、頭を抱える。
二人が恋人として付き合っていることが知れ渡ってそれなりに経つが、隠す必要がなくなったせいで感情の出力を間違えることが増え未だに直らない。そういうところがいつまで経っても子供っぽくて、思わず笑ってしまう。
自分自身に呆れているのか雷刀は一つため息をつき、頭を抱えたまま言った。
「……お前は、烈風刀のこと好きになんねぇの」
ピアスをいくつも飾った耳が、赤く色づいている。その額を小突いて、駄々をこねる子どもに言い聞かせるみたいに、つまぶきは答える。
「何があっても手放したくないっていう意味での”好き”には絶対ならねーぞ」
「だって、だってさぁ……」
額をさすりながらこちらを向いた雷刀は、さっきまでの気迫のある表情はどこへやら、しおらしく眉根を下げる。
「オレってほぼお前じゃん」
「原型は、な」
複雑な表情をする雷刀に、事実だけを返す。しかし雷刀は、罪を告白するように言った。
「……でもオレ、こんなに烈風刀のことが好きだ」
T式人型自律駆動武装。それがネメシスから雷刀と烈風刀に与えられた最初の名前だ。T式自律駆動オペレーター補助システム――つまぶきを原型とし、レイシスを守るために作り出された存在。小さなバグにわざわざレイシスが直接手を下さなくても良いように、自己の判断で索敵・殲滅を行う剣。雷刀は原型に近い性質をそのまま持たせ、烈風刀はより単独行動に特化した調整を行って生まれた。
だからつまぶきは、確かに二人のことを弟のようなものだと思っているが、自分と同じものだとは思ってない。そもそも設計思想が異なるし、最終的に人を形作るのは経験だ。どう生まれたって、それは変わらない。だから、今度は後ろから小突いてやることにした。
「なー、お前はいつから烈風刀のことが好きなんだ?」
「?!」
「こら、烈風刀が起きるだろ」
思っていたよりもいい反応に苦笑すると、雷刀は思い直して真剣な表情になる。珍しい考え事だ。
「改めて考えたことねぇかも……」
告白が烈風刀の方からだったというのは以前聞いたことがある。だから雷刀はきっと、何も分かってない。故に自分なんかにしょうもない嫉妬をするのだ。気づいてもらわないと困る。
「……烈風刀に好き、って言われた時、それにすごい納得したんだ。それまでずっともやもやしてて、だからもっと前で……」
「うん」
一つずつ頁をめくるように、雷刀は記憶を遡っていく。箱にしまった何かを探し回るように、目がきょろきょろする。
「いなくなっちまった時は悲しくて……頼りにしてくれた時は嬉しくて……」
「うん」
戦争の最中の記憶をさらに下っていく。静かに相槌だけをうって、先を促す。
「ギター、レイシスにも烈風刀にもかっこいいって思われたくて、いっぱい練習したな」
「うん」
もうすぐ積み上げた記憶の奥底だ。求める答えはきっとそこにある。
「……最初に目が覚めて烈風刀の顔見たときに、"オレ、一人じゃないんだ"って思ってすげー嬉しかったの、覚えてるなあ」
その眼差しが烈風刀に向けられる。降り注ぐやわらかな日差しのような、温かい視線。
「たぶんその時からずっと好きだ」
こぼれた言葉は砂糖菓子のように甘ったるい。それを落としたのは、目を細めて大事な宝物を眺める一人の男だった。
(これは、思った以上に……)
なんだかないはずの背骨がむずむずして、ないはずの内蔵全部が焼けてしまいそうだった。だからつまぶきは少し後ろに下がり、勢いをつけて雷刀の右肩に全身をぶつけて小突いた。「あだッ」と声が上がるが、気にしない。
「つまり最初っから俺とお前は別モンってことだッ」
耳打ちすると、雷刀が改めて首を傾げる。
「ああ、そういうこと、そういうこと……?」
疑問符の後を追いかけるように、彼の顔はみるみる赤くなっていく。そして「あー」だの「えー」だの意味のない言葉を発し、両手で顔を覆った。
しばらくそうしていたかと思うとやがてふらふらと立ち上がった。追いかけずにその様子を見守ると、おもむろにモニタの前に立つ。いつも通りまばらなアクセスの、午前四時半の画面。
「あー、……なんか、正門前の調子わるそうだなー。……ちょっと見てこようかなぁー」
あからさまな棒読みに、吹き出さなかった自分を褒めてやりたい。モニタの値はすべて正常だ。確かに正門前の負荷は他の場所よりも大きいが、誤差の範囲だ。なにかあったとしても、灯色なら寝たまま対処できるような微々たるもの。けれどつまぶきは、その全部を知らないふりをした。
「おー、頼んだゼ」
口元を手で抑えて、真っ赤な顔を隠しているつもりらしい。この場で一番の異常値を叩き出しているのは雷刀の頭の中だろう。明らかに挙動不審だ。おぼつかない足取りで自動ドアからでていく背中を眺める。自分が無意識のうちに微笑んでしまっていたことに、少し遅れて気がついた。
冷房が吐き出す風の音と、モニターが時折鳴らす軽快な電子音だけが残る。そして、つまぶきは後ろを向き直って言った。
「で、どこから起きてたんだ?」
「……雷刀がシャッターを押した音で」
「全部じゃねーか」
笑うと、眠っていたはずの烈風刀がブランケットが飛び上がるほどの勢いで起き上がった。こちらも顔が真っ赤だ。
「ええそうですよ全部聞いてましたよ!! 寝てしまった僕が全面的に悪いので何にも言えませんが、それにしたって貴方はなんて事を聞くんですかまったく……」
まくし立てて頭を抱える姿が、先程の雷刀と一緒で、それを見て笑ってしまった。「あーもう」とか「どうして」とか、意味のない呻きを繰り返すところまで一緒だ。そのまま再び机に突っ伏してしまった。俯いた後頭部から今度は「うう……」と声が漏れている。
周りを飛び回りどうやって機嫌を直そうか考えていると、うめき声が小さな言葉に変わった。
「……僕は」
まるで懺悔をはじめるかのような声だ。つまぶきはそれを、静かに聞くことにした。
「目が覚めた時、自分がもう一人いることに安心しました。だからいつ死んだって大丈夫だと思ったんです。とんでもない勘違いです。やがて雷刀にも、貴方にもなれないと知って絶望しました。学園ができたころです。特に、おんなじ型番のはずなのに、僕にないものを全部持っている雷刀が羨ましくて仕方なかった」
耳を傾けながら思い出す。まだ冷たく鋭利な刃物のようだった頃の烈風刀のことだ。今よりもずっと雷刀に厳しかったのはきっと、自分と似ても似つかない性格が恐ろしかったのだろうと今さらながら思った。
懺悔は続く。
「好きだと自分の中で言葉にしたのは、もっと後です。雷刀に連れ戻してもらって、やっと諦めがついて、僕が僕になったとき、それでも隣に居たいと思ってしまった」
それからのことは知っているでしょう、そう言って烈風刀は話を終えた。罪の告白ではあったが、少しだけ温かなものが滲んでいた。悲しかったことも、悔しかったことも全部含めて、烈風刀なりの愛なのだろう。
「貴方はいつから気づいていたんですか」
観念したように身体を起こして、烈風刀が問う。
「う〜ん」
二人と同じように記憶を順番に辿っていってみる。思い返せばいつだって彼らは隣同士にいた。決して離れることなく、ずっとだ。確かにネメシスの運営業務はあるけれど、それにしたってべったりだ。だから。
「最初っから、かなァ」
そう結論付けて、しっくりくるなと思った。雷刀が言った通り、きっと互いに一目惚れだ。完全な生命ではない二人にとって、欠けている部分を補える存在が隣にいたらきっと、好きになってしまうに違いない。なんて、ラブコメの筋書きにしては適当すぎるけれど。
「ど、どこらへんが」
当惑した顔で身を乗り出す烈風刀に、全身を傾げた。
「なんかもう、全部?」
「答えになってないですが!?」
そうこうしていると、廊下の方からこつこつ足音が聞こえてきた。見回りの真似事を終えた番犬が帰ってくる。喚いていた烈風刀の動きがぴたりと止まって、そして立ち上がると先程勢いよくふっ飛ばしたブランケットを拾った。
「……すいません、もう少しだけ寝ます」
ああもうどこまでも似たもの同士でおかしいことこの上ない。
「おう、おやすみ」
いい子を寝かしつけるような声でそう返すと、烈風刀はまた机に突っ伏して、目を閉じた。髪の隙間から覗く耳はまだ赤いままだ。
烈風刀の腕の下敷きになったメモ書きを改めて確認する。自分と、弟のことが大好きな兄と、兄のことが大好きな弟の三人でケルベロスをやるらしい。こんなバカップルに挟まれるなんて、甘ったるくてたまったものではないと思う。
けれど、少しくらいなら悪くないかもしれない。なんてったって、甘いものは美味しいのだから。
つまぶきは最後の一つのドーナツを取り、齧りついた。