梅の木 光源を背に立つ男は真っ黒で、ろくに顔貌が見えないのに、その目の鋭さだけは良くわかった。
「で、返事は?」
関西訛りの低い声。どう答えようか、返答に詰まったその一瞬に破裂音。頬が硬直する。首筋が引き攣った。バランスを失いそうになり足の裏に力を込める。よろめけば逆を打たれるだろう。
「どっちがええねねん」
打たれた左側の耳がキンとして、それから熱湯を浴びたような熱さが頬全体を覆った。痛みは遅れてやってくる。
暴力に慣れているわけではない。ガキの頃に小競り合いはしたが、この齢でそうそう殴り合いなどする機会はないからだ。
子供の頃、祖父にはぶたれたことがあった。庭の木に登って枝を折ったとき。普段温厚な祖父の言いつけをやぶった。なんてことない梅の木。地味ですぐ散る花の。死んだ祖母が植えた庭の木。
「来週引っ越すから。転校するけど、いいね」
母からそう告げられたのは小学四年のときだった。社交的な方ではないから新しい環境でイチから人間関係を築くのはいやだったが、反抗はしなかった。反抗できない理由は十分すぎるほどあった。日の高いうちからカーテンを閉め切ったリビングの重苦しい空気をなんとかしたくても、窓を開けるという選択肢はこの家にはない。
「お友達にさよならちゃんと言ってね」
疲れ切った母の顔を覚えている。窓の外から大声で騒いでいる男たちの馬鹿みたいな声がする。爆音で流される音楽、それから花火、怒声。罵声。それらは止むことがなかった。
「もう、無理。おじいちゃんももう帰ってこられないし、これ以上もう無理」
誰に言うでもなく口をほとんど開かず母は言った。
毎日毎日腐った肉や魚の匂いが家の周囲を包んでいた。カーテンを開けば見えるところに猫の死体が置かれていて、そんなことは日常茶飯事だった。
隣で騒ぐ男達は、自分の敷地で何をしようが勝手や、と言い張った。警察も民事不介入で話にならない。
有り体に言えばあの頃、実家は地上げにあっていたのだ。
母とその土地を離れ、それから何年かして、あの一帯はきれいな街になった。
大規模な商業施設と高層マンション。
若い世帯が増えて子供も増えた。
整備された緑が並ぶ、きれいな街になった。
「暴力は、嫌いだなぁ」
へらへら笑いながら言う。
「芸能人とかだと有名税ってやつあるじゃないですか、あれね、当然だと俺は思うんですよ。そもそもプライベート、そこを売るっていう奴も多いでしょう。嘘でも本当でも」
あのときの母みたいだ。強張った頬のせいで口がよく開かない。
「真偽なんかどうだっていいんだ。でもね、俺にだって踏み越えたくないラインはある」
言い淀んでいる暇はない。
「あのまっさらな大学生のことは、端から出すつもりなかったですよ」
男は微動だにしない。真っ黒の影のまま黙って見下ろしてくる。
「ただいつでも記事は表に出せる状態になってることだけは言っておかないと」
「例えば、俺になにかあったとき、とか」
あ
暗転
「それもええなぁ」
後頭部に走る痛みで目が覚めた。
地球の重力が逆さになったかのように全身の血が頭に集まっている。
「聡実くんが居場所のうなって、俺んとこ以外行けんようになったら」
「それはそれでええなぁ…」
いや、違う。自分は足を括られ、何かにぶら下がっているのだ。逆さに。
「やから俺は別にどっちでもええねん。勘違いせんといてや」
成田狂児の声は水中で聞いているかのように遠い。
目がよく開かない。
括られた足を軸にブランコみたいに揺らされる。髪が地面を擦る。
「お前がどうするんや」
揮発性燃料の匂いが鼻を掠める。
俺が今括られているのは、何だろう。