全然懐いてくれない後輩の黒尾鉄朗をお持ち帰りしてしまう先輩夢主のお話「シちゃう?」
実をいうと、彼の薬指、その輪郭をなぞりながら戯れのように誘ったのは、ほんの出来心だった。
付き合っていた男に「お前ほんとに可愛くないよな」となじられ振られた一ヶ月後のことだった。高校時代、私にだけ刺々しくて生意気で、挙句の果てには「先輩って、可愛くないスよね」と吐き捨てた可愛くない後輩と再会したのは。
「黒尾さん、この度は大変助けていただきまして、有難う御座いました。契約締結から始まり何から何までお世話になって」
「いやいや。改まってやめてくださいよ。こちらこそ企画以外の相談にも乗ってくださって感謝しています」
いやぁ頭が上がりません。そう続ける男の口はぺらぺら忙しなく動き続けている。日本バレーボール協会との企画。ライセンス契約締結にこぎつけ、コラボ商品販売まで至ったのはついこの間のことだ。今日はその打ち上げである。
はじめまして。再会したとき、目を見開く彼にあえてそう言った。お互い何も知らない他人ということにしましょう。言葉にしなくても空気を読むのが得意な彼には容易に伝わったらしく、返ってきたのは同じ挨拶と胡散臭い笑顔だった。
「いいなぁ。黒尾くんみたいな人が先輩だとやりやすいでしょ?」
「ふふ、黒尾さんは私の憧れなんです」
「うわー! 俺も言われたい! いいなぁ、黒尾くん」
「えぇ、俺は白井さんみたいな上司になりたかったですけどねぇ。穏やかで落ち着くタイプって理想じゃないですか」
「ええ!? 黒尾くん! 好き!」
黒尾鉄朗くん。高校時代の部活の後輩。背が高くて、バレーが上手だった。誰にでも優しく気遣いが出来て、空気が読めて言語化が上手い。リーダーシップもあって、ちょっと胡散臭いけど誠実な子、というのが大多数の人の認識。それも正しいのだろうけど、こいつの態度は、私にだけは違った。とにかく可愛げがなくて、目も合わないし吐き出される言葉は所謂『ちくちく言葉』だったのだ。
───先輩って、可愛くないスよね。
あぁ、もう。思い出すだけで腹が立つ。
「あ、──さん、次何飲みます?」
「ありがとうございます。梅酒にしようかなぁ」
今の彼は、あの頃とは大違いだ。私が仕事相手だからか、彼は他の人にするのと同じように私を気遣ってくれるし、礼儀正しく穏やかな言葉をかけてくれる。まるで生まれ変わったみたいに。
「──さんが異動なんて寂しいですね。もっと一緒に仕事したかったなぁ」
「私もびっくりしちゃいました。もっとお話したかったです」
黒尾くんと、彼に特別懐いている後輩の女の子からの営業スマイルと社交辞令。私も同じように微笑んで、新しく届いたグラスを口元で傾けた。
お酒が回って来たのか、上司である白井の口が軽くなっていく。
「器用で口も上手くて男前でさぁ、黒尾くん絶対モテるでしょ」
「いやいや。まさか」
「モテてたじゃないですか。バレンタイン、いっぱい貰ってたの見ましたよ!」
「いや、あれ義理ばっかりだって」
後輩ちゃんが拗ねたように言うも、黒尾くんは素早くかわす。なんとなく気づいていたけれど、この子は黒尾くんに気がある。多分、上司の白井さんもそれを分かってて面白がっている部分があるんだろう。年の離れた二人。面倒見が良すぎる彼からすれば、どちらも取引先の社員とはいえ可愛い存在なのだ。
「まあ、今はカノジョもいない寂しい男なのでお手柔らかにお願いします」
「えっ、ほんと!? どうして!?」
「仕事が忙しくて、は言い訳ですかネ」
「勿体ない! 出会いなんていくらでもあるだろうに!」
「ちょっと白井さん、あんまり踏み込まないでください。ほんと恋バナ好きですね」
「えー、いくつになってもトキメキは大事にしたいじゃん」
おっさんからきゅるんとした目を向けられても。そうは思っても、口になんて出せるわけもなく。
「今は付き合う気がないってのも本音なんですけど、そもそもカノジョができても長続きしないんですよね。僕結構恋愛に関しては不器用なんで」
「嘘つきです」
「嘘だねぇ」
「いや、嘘じゃないんですって! なんで後輩の君までそんな目で見るの!」
彼が溜息を吐き、困ったなぁと呟く。
「僕、ほんとに好きな子には意地悪しちゃうタイプなんでね」
一瞬、後輩の女の子の表情が曇ったことに気づかないふりをして、私は視線を逸らした。
◇
後輩ちゃんをタクシーに突っ込んだとき、黒尾くんは確かに「白井さんと二人で飲みなおしたいから」と言っていた。じゃあ私も帰っていいんだ。少し肩の荷が下りたところで、白井さんからぽんと肩を叩かれる。はて。首を傾げると、彼は次に来たタクシーに乗り込み、笑顔で黒尾くんに手を振っていた。うちのを頼んだ、なんて言葉を付け足して。びゅーん、と遠ざかるタクシー。思考を埋め尽くす疑問符。どうしてこうなった。長い黒髪が夜風に揺れる。
「じゃあ、私もかえ」
「二人で飲みなおしましょ、先輩」
「……どういうおつもりで?」
「どうもこうも、今言った通りなんですけどねぇ」
困ったように眉を下げる。これが彼の演技なのか、本気の反応なのか分からなかった。少なくとも高校時代は、私の前でこんな顔はしなかった。初めてだ。
「敬語外していいですよ、ボク後輩ですし」
「……はぁ、帰る」
「待って待って待って」
「なんなの」
「久しぶりなんですからもうちょっと優しくしてくれませんかね。覚えてるでしょ、ちゃんと」
早口だ。彼らしくもなく焦っているみたいだった。口元に手を当てて溜息を吐いたかと思えば、首の後ろに手を当てる。多分、演技じゃない。
「なんで初めましてなんて言ったんスか、あのとき」
「私のこと覚えてないかなって」
「そんなワケないでしょーが!」
「だって、大して仲良くなかったし」
「刺々しい~」
「人は鏡なんだよ。黒尾くん」
「あの雰囲気じゃ、俺も初めましてって返すしかなかったじゃないスか」
「なによ。根に持ってるの?」
「……ッとにかく! 美味しいお店知ってるんで行きましょ!」
「もうお腹いっぱい」
「嘘デショ、全然食べてなかった」
「食事は何を食べるかより誰と食べるかだから」
「ボクかわいい後輩ですけど!?」
「全然かわいくないよ」
「美味しいお酒飲めますよ?」
「酔わせて何する気? 弱みでも掴んで次回の交渉の材料にしようって?」
「俺のこと反社だと思っていらっしゃる……?」
溜息を吐く。一向に引いてくれない。なんなんだこの男。
周囲からの視線が気になりはじめて気づいた。この人は、私が彼に口で勝てないことも、こうして周りの目を気にしてしまうことも分かった上で時間を引き伸ばしている。
「まだ粘ります?」
「……最低」
にこりと微笑まれる。僅かに、彼の瞳に安堵の色が見えた気がした。
◇
二軒目に連れていかれたお店は、優雅なジャズが流れているような洒落たバーだった。こんな店あったんだ。そう思いつつ、彼の計画通りに連れてこられたことに腹が立って、これ以上酔ってたまるかとノンアルを注文し続けたが、黒尾くんもマスターも全く気にした様子はなかった。
「まだ音駒の先輩たちと連絡とってるんですか?」
「うーん。もうほぼとってないかな。男女だし、結婚した子とは自然と会わなくなっちゃって」
「へえ」
「あ、でも、連絡は取ってないけど、孤爪くんのチャンネルはたまに観てるよ。すごいね、あの子」
「へえ~」
「黒尾くんは?」
「俺が三年の年のチームメイトとは、定期的に会いますよ。研磨にも勿論。あと、やっくんも」
「あ~、夜久くんね。ネットでたまに観てるけど、相変わらずかっこいいね」
「へえ~~~。この話やめません?」
「は、黒尾くんが始めたんでしょ」
「そうなんですケド、なんか嫌なんで」
「はぁ? 意味わかんない」
たまに様子がおかしい気がしたものの、昔と違って友好的に話しかけてくる黒尾くんのギャップにも慣れてきた頃のことだ。彼が真剣な表情で数秒黙り込んだかと思えば、じっと私の目を見つめてきた。刺々しかったあの頃とはちがう眼差し。こんなにも近くで、改まったようにちゃんと目が合って、悔しいけれど心臓が跳ねた。
こんなにかっこよかったっけ。きっと今でも鍛えているのだろう。高い身長に逞しい身体。顔だって整ってるし、お話だって上手で、何より気遣いのできるひとだ。女の人は放って置かないだろう。事実、あの後輩の女の子だって、ときおり熱に浮かされたような目で彼を見つめていた。鈍い男ではない。あの子の気持ちに、気づいていないわけではないだろう。
「ほんとはもっと話したかったんですよね」
時間が止まったような感覚の中で、彼が告げる。もっと話したかったって、いつ。高校時代? それとも再会してから? 何を言えば良いか分からないまま、数秒が過ぎた。何か言わなければ。互いが焦ったように口を開いたそのときだった。タイミングを図ったかのように、外でとんでもない雨音が響く。店内にどよめきが起こった。明らかに普通ではない雨だった。
「今日、雨予報ありましたっけ」
「いやぁ、誤算」
「すぐ止めばいいんですけど。どうされますか?」
「タクシー呼んで帰ります。先輩、家は」
「実はこの近くなんだよね」
「マジ?」
黒尾くんがタクシーを呼ぼうとアプリを起動する。が、すぐさま眉間に皺が寄り、表情は曇ってしまった。どうやら数時間前に付近の電車が車両点検のために止まってしまい、ダイヤが乱れてしまったのだとか。終電だって迫っているのに、とんでもない。
詰まるところ、みんなタクシーを使いたがっているらしい。
「あらら。こりゃ暫く捕まんないわ」
「私は走って帰った方が早いかもなぁ。帰ってお風呂入ればいいだけだし」
「エ、後輩置いていこうとしてます……? つか一人で帰せるわけないでしょ。危ない」
此処で一緒に雨宿りしてくださいよ。そう言いかねない雰囲気でこちらをじとりと睨み付ける彼を見つめて、肩を竦めた。もう時間も遅い。店は深夜まで営業しているようだったが、あまり遅くまで居座るのは気が引けた。そういう店だというのは、理解しているが。
「折り畳み傘、二人で入れるかな」
「え」
「まあ防御力は低いけど、ないよりマシ……?」
「なんの話してます?」
冷静な振りをして、戸惑った彼に向けて静かに微笑む。まるで慣れているかのように。
「おうちくる?」
「え」
「黒尾くん結構酔ってるし、このままお店に遅くまで残すわけにはいかないよ」
「ン?」
「それもひとりで。悪い大人に連れて帰られちゃうかも。危ない」
「わるい、おとな」
「タクシーも来ないのにこのまま残しちゃうのは普通に心配だな」
ぺらぺらと動く口。雰囲気に酔っていたのかもしれない。突然こんなことを言い出すなんて、自分でも信じられなかった。
一か月前、付き合っていた彼に「可愛くない」と言われた挙句、振られてしまったことも原因のひとつだろうか。今思い出しても腹が立つ。倦怠期だったとはいえ、散々な言われようだった。
元彼への気持ちは欠片も残っていない。それでも人肌恋しいと思う気持ちはあったのかもしれない。あるいは、同じように私を否定したことがあるこの人に、少しでも求めてほしいと思ったのかもしれない。どちらにしても、この時の私は何かネジが外れていた。
「……意味わかってます?」
「雨宿りだよ」
「先輩の家で? 道中濡れますけど」
「うん。お風呂入ってね」
「試されてんなァ」
黒尾くんが唇を尖らせる。高い位置から見下ろされているはずなのに、まるで仔犬に見上げられているような感覚がした。少し可愛らしい。
「で、どうするの?」
「……悪い大人」
私がイカれていたのか、黒尾くんを舐めていたのか。一軒目で飲んだ酒に背中を押され、大胆になっていた。可愛くないはずの後輩に心臓を掴まれ、そして生まれた感情の意味も分からないまま、付き合ってもいない彼を連れて土砂降りの帰路についたのだ。
◇
コンビニに寄りたげな気配を見せた黒尾くんの手を引っ張り、マンションのエントランスを通り抜けエレベーターへ乗り込む。濡れちゃったね。沈黙の雨に耐えきれなかったのか、ふとそう溢した頃には自室のある階へと到着していた。部屋の鍵を開け、中に入る。何か思う部分があったのか、黒尾くんが躊躇したのを見逃さずに鍵を掛けた。
「お邪魔します」
「どうぞ。あ、タオル持ってくるね。シャワー浴びちゃって」
「家主が先でしょ。先輩を濡らしたまま先に浴びるとか出来ませんって」
「……分かった。じゃあこれで濡れたとこ拭いて。お茶だけ淹れるから、リビングで待っててね」
そのさりげない深呼吸はなんなのか。黒尾くんはハイ、と短く返事をして、変な顔をしながら私の後ろをついてくる。タオルを渡し、温かいほうじ茶を淹れた。私は彼がちびちびとほうじ茶を舌でつつくのを見届け、浴室に入った。
「もしかしてやらかしたかな」
今頃ひとりリビングでお茶を飲んでいる黒尾くんを想像する。美容にお金を掛けておいてよかったなぁ、と静かに過去の自分へ感謝しつつ、トリートメントを洗い流していった。浴室から出て、タオルで身体を拭き、ラフなルームウェアに着替える。タオルで頭を乾かしつつ、リビングで変に姿勢を正した可愛くない後輩へ声を掛けると、彼は「ドーモ」と随分余裕な様子で浴室へ向かった。
「あ、着替えの服置いておくね」
「え……」
「多分入ると思うんだけど」
「あー、ハイ。そういうことね。アリガトウゴザイマス」
若干冷たい反応の彼に疑問を抱きつつ、リビングで髪を乾かす。ロングだと乾くまでに時間が掛かる。やっぱり効率重視でさっさと髪を切ってしまおうか。そんな考えが頭を過ったとき、隣に人が座る気配を感じた。
「シャワー貸してくれてありがと」
「……どなた?」
「黒尾鉄朗くんですけど」
同じシャンプーの香り。肩が触れるほど近い距離にいる黒尾くんへドライヤーを渡した。大人しい髪型の彼を見るのは初めてだ。お風呂上がりの彼はこんな感じなのか。
「ギャップだねぇ」
「おじさんっぽいこと言わないの」
「うるさいなぁ。はい、これトリートメント。使う?」
「え、さらっさらになる? 既に俺の髪、普段よりさらさらなんスけど」
「うん。さらっさらのつやっつやになるよ。ローズベリーの香り」
「つけて」
「自分でつけてくれる? ハイ」
「ちぇっ」
拗ねた様子の黒尾くんを横目にふっと悪戯心が湧いた。自分の口元が緩んでいくのに気づく。
彼は唇をつんと尖らせ、手の平の上でトリートメントを広げ、ぺたんとしおれた髪へと馴染ませていく。私はテーブルの上に置かれたドライヤーを掴み、彼に向けた。
「え」
「動かないで」
「撃たれる? うおっ」
温風を彼の髪に当てる。乾かしてあげるよ。そう言って、彼の髪へ手を伸ばした。ここで少しでも拒否されたらやめよう。そう思っていたのに、彼は目を見開いて驚いたまま大人しくしていた。
もう少し暴れてくれてよかったのに。
そう思いながら、私よりも硬くて短い髪に触れた。これならかなり早く乾きそうだ。
「やっぱり私も髪切ろうかな」
「えっ、短くすんの!? ダメですけど!」
「ちょっと動かないで」
髪をはらうようにして乾かしていく。調子に乗った後輩への意趣返しのつもりが、大人しく受け入れられて気を抜けば照れそうだ。良い歳をした大人のくせに。
髪を乾かし終わると、彼はいつもより柔らかい声で「アリガト」と呟いた。素直でかわいい。彼に抱いたことのない感情が溢れそうになって、思わず逃げるように話題を探した。
「あ、そういえば服ぴったりだね。良かった」
「コレ、誰の服?」
「え」
「誰の服って聞いてるんですけど」
「笑顔こっわ。元彼の服だよ」
「……へぇ。元彼の服をとっておくタイプには見えないんですけどね」
「あげるよ。いらないし」
「俺もいらないですけど、代わりに捨ててあげますネ」
随分刺々しい様子に懐かしさすら感じる。そうだ。これだ。このひとはいつも私にこんな感じなんだった。ドライヤーを片付けて、再びソファーに腰を下ろす。黒尾くんは静かにこちらを見つめていた。
「なに」
「一応訊くんですけど」
「はい」
「彼氏、いませんよね?」
「はぁ? いないよ! いたら黒尾くんを家にあげたりしません!」
「ですよね……俺もいません」
「飲み会の時も言ってたね。作らないの? 後輩の子とか、明らかに黒尾くんに気がありそうだったのに」
「社内恋愛はしない主義なんで」
「へえ、可愛い子だったのに勿体ないね」
「……あのねぇ」
「黒尾くんって年下好きそうなイメージあるしさ、お似合いだと思ってたのに」
「はぁ?」
「ん?」
「さっきから何? 牽制?」
「え、そんなつもりないけど」
「悪いけど、牽制しても無駄なんで」
距離が近い。少し空間をあけて座ったはずなのに、肩が触れている。牽制。牽制ってなんだ。普通に会話を続けただけなのに。じりじりと距離を空けようとするも、彼は許してくれないらしい。吐息が掛かるほど顔を近づけられて、頬が熱を帯びる。やばい。
「誘ったのはそっちだろ」
「なっ」
「今更牽制されても抱くんで」
「っ、ちょっとそんなあけすけに言わないでよ」
「言うだろ。意識してもらうためならなんでもする覚悟なんですよ、こっちは」
額が触れる。同じ匂いを纏いながら、唇が重なった。薄くて、少しだけ乾燥した唇。意外と睫毛が長いんだな、という感想と共に瞼を閉じた。角度を変えて何度も唇を重ねているうちに、ゆっくりとソファーに押し倒される。彼は器用にも私の脚の間に長い脚を割り込ませ、まるであやすように頭を撫でてきた。
こいつ、手慣れてる。
ときめきよりも早く、そんな感想が頭に浮かんだ。恋人はいない。けれど多分、遊び相手はそれなりにいるんだろう。正統派イケメンではないけれど、黒尾くんは格好良い。モテる条件が揃っているのだ。悔しいけれど、事実は事実として認めなければならない。このひとは私が付き合ってきた人よりずっとモテるひとだ。
「んっ、ぁ」
「……かわい」
柔らかい声がくすぐったい。そんな声出さないでよ。そう思いながら身を捩ると、彼は私の髪を愛でながら唇を重ねてきた。微かに開いた隙間から彼の舌が入ってきて、思わず声を溢す。一瞬の嬌声。それに興奮したように、彼は一層深く口付けてきた。甘い。苦しい。呼吸ができない。執拗に、まるで上書きするようなキスだった。
「くろ……おっ」
「せんぱい、かわいい」
一瞬身体を離した彼が私の両脚を抱えようとしたそのとき、私の中で火花が散った。一瞬のことだった。あまりにも慣れている後輩に、色んな女を抱いてきたこの人に、私は今から抱かれるのだ。大勢の中のひとりになる。そのことに、理不尽にも腹が立った。
先輩って、可愛くないスよね。かつて彼に吐き捨てられた言葉が脳裏を過る。昔の話だ。だがやはり、どの口がと思わずにはいられない。
「どいて」
「え。ちょっ、なにこの足」
「お願いだからさ、大人しくしてよ……っ」
彼の鎖骨の辺りに足を置いて、そのまま力いっぱい押した。彼が身体を反らした瞬間、私は起き上がる。だいきらい。きらいなままがいい。このひとを、きらいでいたい。ぽかんとした表情で固まる彼の、先ほど自分が蹴った場所へ手をついてそのまま押し倒した。意外にも抵抗せず、仰向けに倒れた彼の上に圧し掛かって、今度はこちらから唇を重ねる。
あぁ、むかつく。慣れているこのひとも、そのことに苛立つ自分にも。
「いいよ。このまま、シちゃう?」
唇を離して、至近距離のまま見つめ合って言った。彼の薬指、その輪郭をなぞる。ゆっくりと恋人のように手を繋ぎ、大きい手だなと思った。
そういえば私は、彼のバレーボールが好きだった。しなやかなレシーブ。相手にとってはきっと執拗で、味方にとってはとても心強いブロック。気づけば、見ていたような気がする。目が合えば睨まれるものだから、こっそりと覗き見ていた。
「ベッドはあっち」
あんなに仲が悪かったのに今からセックスをするなんて、人生何が起こるか分からないものだ。
「……あ~、むかつく」
「こっちの台詞だよ。ほんっと、かわいくないよね」
「別に可愛いって言われても嬉しくないんで」
「あっそ。ねえ、向こうまで運んでくれる? 力持ちでしょ?」
「マ、鍛えてますからねっ」
身体が持ち上げられる。おひめさまだっこだ~、と棒読みで呟くと、彼は溜息を吐いた。セミダブルのベッド。その上にゆっくりと下ろされて、そのまま口づけられる。くちゅりと厭らしい音がして、彼の身体が私に覆いかぶさった。
「ちょっと待ってて」
「ん?」
「……ゴム、鞄の中だから」
「そこの引き出しに入ってるよ」
「は」
黒尾くんの眉間に、一気に皺が寄る。とても不機嫌なご様子である。聞きたくなかった。一言溢して、彼は私の上で項垂れた。
「いやすぎる」
私の胸の上で呼吸する彼の頭をよしよしとあやすように撫でていると、彼はむすりとした表情で私を見つめ、甘えるように抱きついた。胸からは離れたくないらしい。顔をぴたりと胸にくっつけたまま、上目遣いで遺憾の意を示す。なんでだよ。そう思いつつ、つい撫でてしまう。
「聞きたくなかった」
「なんで二回言ったの」
「大事なことなんですぅ~」
「自分だってゴム持ってるじゃん。持ち歩いてるなんて、やっぱり結構遊んでる?」
「遊んでねーよ!」
力強い否定に怯む。だって、遊んでないにしては慣れ過ぎてるだろ。疑うなという方が、いや、そう結論付けるなという方が無理がある。
「ほんとに、そんなんじゃないから」
唇が触れそうな距離で見つめ合う。彼がまだ何か言いたげな気配を察して、怖くなって彼の唇を塞いだ。
何も言わないで欲しい。どうせ今だけなのだから。
たった今、自分の脳裏に浮かんだ可能性のひとつから逃げるように、ゆっくりと瞼を閉じた。