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    10/9-10 笹唯オンリー展示
    付き合ってないのにめちゃくちゃキスする笹唯の話

    【笹唯】始まらないファンファーレ 見守っていた背中から感じ取った気配に、すっと腰を上げて立ち上がる。トンっと軽く床を蹴り、馴染みのカーキーの上着を羽織った肩口から身を乗り出すように覗き込んだ。
    「いい感じの曲、できました?」
     期待と信頼を込めて。弾ませた声に、真剣にパソコンの画面を見つめていた瞳が浅く瞬いて。ゆっくりと緩慢に、視線だけでこちらを振り返った。
     感情の薄い山吹色の瞳。静かな秋の、山向こうから昇る朝日のようなその色は。満足げでありながら、ひどく疲れているようにも見えた。
    「このまま休みますか?それとも何か食べるものを――」
     元々口数が多い人じゃない。否定が返ってこないということは、肯定なのだと解釈して。一仕事終えた後の休息を提案するも、私がすべてを言い終わるより早く。おもむろに伸びてきた手が後頭部へと添えられて、そのまま強引に引き寄せられた。
    「んむぅ」
     こちらが身構える隙もなく。唇に押し付けられた温もりに目を見開く。半強制的に止められた息が肺へと押し戻されて、ちょっと変な声が漏れた。
     ……え、なに……いま、なにが起こって……。
     状況がまるで理解できない。見たこともないくらいすぐ近くにある彼の顔。フレーム越しの山吹色が私の反応を観察するように薄く開いて。淡く啄まれる唇の微かな動きに、間抜けな心臓が一拍も二拍も遅れて跳ね上がった。
    「…………いまの、どうして……?」
     突然のキスに放心状態になりながら。うわ言のように問えば、なおも静かな山吹色が緩慢に瞬きをし、事も無げに言い放つ。
    「あんたがそこにいたから」
     聞き間違いかと思うほどあっさりと。告げられた理由はキスの理由としておおよそ考えられるほの甘い気配など欠片もなく。……気づけば、手が出ていた。
    「バカっ!」
     両手で思い切り。両側からその頬を張ってやったつもりだったのに。結局響いたのは、ぺちん、と肌が軽くぶつかる程度の情けないそれで。行き場のない悔しさと戸惑いをぶつけるように叫び、その場から逃げるように駆け出した。

    「あ~……う~……やっぱり叩くのはやりすぎだったかなぁ……」
     翌日。丸一日彼から逃げ続け、一人きりになった夜更けのラウンジで。テーブルに突っ伏し、襲い来る後悔にひとり頭を抱えていた。
     いやでも!あれはさすがにあっちが悪くない!?キスしただけならまだしも、あの理由はないと思う!……だってあんなの、誰でもよかったってことじゃない。思い出したらまた胃のあたりが気持ち悪くなってきた。
     恨んだり、後悔したり。とにかく忙しい自分の感情が制御できない。おかげで今日は失敗続きで、みんなに迷惑をかけてしまった。激しい自己嫌悪と出口のない迷宮に迷い込んだかのような不安感に押し潰されてしまいそうな夜だった。
    「コンミス。今、ちょっといい?」
     そんな時、声をかけてくれたのは仁科さんだった。ラウンジの入り口の壁をノックするように軽く叩いて。私が返事を返すまで、それ以上踏み込んでこようとはしない。繊細かつ丁寧に、与えられた思案の間。彼と話をするかしないか。その選択を私に委ねてくれる気遣いに、沈みかけていた心が藁にも縋る思いで手を伸ばした。
    「……はい。大丈夫です」
    「ありがと」
     私が了承すると、仁科さんは柔らかく微笑んで。私の向かいの椅子へと静かに腰かけた。
    「単刀直入に聞くけど、笹塚となにかあった?」
     話の内容をなんとなく察した上で、私が了承したことも的確に読み取って。余計な回り道などせずに、投げかけられた問いかけ。純粋に私のことを心配してくれているであろう眼差しは、何かを悟っているようでもある。笹塚さんに誰より詳しい仁科さんだからこそ。勘づいている部分もきっとあるのだろう。

    「うん。それは笹塚が悪いね。コンミスはもっと怒っていいと思うよ」
    「で……すよねっ!?はぁ~……ちょっと気が楽になりました……」
     私が事情を話すと、仁科さんはきっぱりと笹塚さんが悪いと言い放ち、私の気持ちを全肯定してくれる。引きずっていた後ろめたさが軽くなり、ようやく深く息ができた気がした。
    「それにしてもあいつ、何を考えてるんだろうな。さすがにあり得ないだろうに」
    「まったくですよ!キスするのはいいとして、その後の理由がひどすぎません!?私はそこらへんのぬいぐるみじゃないんですから!」
    ―呆れた顔でため息をつく仁科さんに、私の愚痴もヒートアップする。今日一日誰にも言えなかったフラストレーションが一気に弾け、早口にまくし立てるも。
    「……ん?ちょっと待ってコンミス。キスはいいって、それってどういう――」
    「仁科」
     ふと零れた困惑の間。仁科さんは首を傾げ、寄りかかっていた背もたれから背を放す。そうして話の先に一歩踏み込もうとした、その時。響いた声に心臓が口から飛び出しそうになった。
     それが誰の声なのか、確かめるまでもなく。理解した仁科さんは呆れ返ったように深いため息をついた。
    「……こういう牽制はするんだもんな。ったく、順序がめちゃくちゃだろ」
     仁科さんは独り言のようにぽそりと呟いて。腰かけていた椅子から立ち上がり、くるりと踵を返す。そしてラウンジの入り口に立つ笹塚さんとすれ違うその瞬間に。ぽん、と軽く肩を叩いて何か言っているように見えたけれど。その内容までは聞き取れなかった。
     彼の声が聞こえてから、まともに顔を上げられない。仁科さんと代わるように、ラウンジの中へと入ってきた彼の靴音が段々と大きくなるのを聞きながら。バクバクと跳ねる心臓に眩暈がして、膝の上でぎゅっと固く手を握った。
    「っ、なんで近づいてくるんですか!?」
     そのまま仁科さんと同じように向かいの椅子に腰かけるのかと思いきや。彼は椅子を通り過ぎ、私の座っていたそれの背もたれに手をついた。予想外の距離まで近づかれ、動揺が抑えきれず。慌てて肩を竦めて体を小さく縮めるも、あまり意味はない。悲鳴じみた声をあげる私に対し、笹塚さんはなおも冷静だった。
    「こうでもしないと、あんたまた逃げるだろ」
    「そ、れは……」
     まさしく!許されるなら、いますぐ駆け出したくらいですけど!でもそもそも原因を作ったのは笹塚さんで、どうして私がここまで追い詰められないといけないのか。
    「……私、怒ってるんですよ」
    「見れば分かる」
    「っ、分かってるなら……!」
     ――どうして、その手で私の顎を持ち上げるの?
     ――どうして、近づいてくるの?
     ……どうして私は、それを避けないの?
    「っ、ふ」
     二度目のキスは、昨日のそれより少しだけ優しく。ほんの小さな欠片ほどのリップ音を奏で、私の顎を掬った手の指先が愛でるように頬を撫でた。
     たくさんの『どうして』が頭の中でぐるぐると巡る。片っ端から問いただしてやりたいのに、身勝手なキスがいくつもいくつも降り注ぐものだから。結局は……昨日と同じ拙いそれしか零せない。
    「……どう、して……?」
     間近で瞬く既視感に飲み込まれそうになりながら。吐き出したそれに、揺るがない山吹色の瞳が浅く息を吐く。
    「あんた、怒るから」
     そうして紡ぎ出された答えは、またもや信じられないもので。唖然とするも、彼の言葉にはまだ続きがあった。
    「怒って、あと何回したら泣くだろうって。興味ある」
     悪びれもしない探求心を声に乗せながら。触れてくる唇に抗うように、きゅ、と唇を固く引き結ぶ。……怒らせたいとか、泣かせたいとか。いじめっ子ですか!と今度こそ怒鳴ってやろうと意気込むも。
    「あんたの色んな顔、全部見たい。キスすると、あんたは俺の知らない顔をする。それが癖になる」
     聞いたこともないほど、艶やかな声で。注がれた囁きは歴代の作曲家たちが作り出してきたどんな熱烈な恋の曲よりも甘く激しく。私の心を揺さぶると同時に、掴んで離さない。そのせいで、自分が何を言おうとしていたかも忘れてしまった。
    「……けど、泣きそうにはないな。むしろ――」
     私をじっと見つめる山吹色が少しだけ残念そうに。それでいて、至高の音を見つけた時のような高揚を宿して。ゆるりと楽しげに弧を描き、私の心の中に秘めた箱の蓋にすら指をかけた。
    「どんどん、女の顔になってる」
     キスを重ねれば重ねるほど。変化する私の表情を愛でるように。近づいてくる唇が吐き出す吐息の甘さにくらりとして。……初めて自分から、差し出すように目を閉じれば。今までで一番深いキスが、私の心の奥深いところまでしみ込んでくる。それがどうしようもなく……狂おしくて。
    「……ばか」
     あの時と同じ言葉を掠れた声に乗せれば。触れたままの唇が、薄く笑った。

     それからしばらく経つも。
    「出来栄え、どうですか?」
     私たちの関係性には、いまだ名前がない。いつだったかの時と同じように、彼の肩口から声をかければ。振り返った瞳と共に伸びてきた指が、催促するように私の頬を撫でつけた。
    「……また、キスしようとしてません?」
    「そうだけど」
     だから、なに?とでも言いたげに。迷いも躊躇いもない眼差しに射抜かれ、呼吸が止まる。あえてくり返すけれど、私たちの関係性には名前がない。それなのに、こうして当たり前のように重ねてしまう熱を。
    「……いえ、なんでもない、です」
     手放せないのは、私も同じ。


     私と笹塚さんが謎にキスをする仲になってから、それなりに経つ。けれど相変わらず私たちの関係に特別な名前はなく、友人、と呼んでいいのかすら曖昧だ。彼は私の音は好きだというけれど、それはあくまでも音楽に関する興味であって、私自身のことには無関心に近い……気がする。
     ……しまったな。自分で言っていてちょっと傷ついた。
     イヤならイヤだとはっきり言えば、笹塚さんのことだからそこできっぱり止めてくれるだろう。でもそれができないのは……やっぱり私の弱さのせいだ。
     戸惑いつつも、彼と重ねる刹那の温もりを愛おしく思えてしまう。意味などないと知っていても、自ら手折ることすら難しい。随分と厄介なものを抱え込んでしまった。

    「あれ」
     そんなある日。夜、部屋で譜面の読み込みをしていたところ、不意に灯りがぷつりと消えた。どうやら蛍光灯が切れたらしい。すぐに予備を取りに物置へと向かったのだけど……。
    「ない!」
     まさかの在庫切れ。これは困った。とはいえもう夜だ。このまま寝てしまう手がないわけではないが、中途半端なところで中断させられたせいかどうにも落ち着かない。ここは覚悟を決めて、近くのコンビニまで買いに行くとしよう。
     一度真っ暗な部屋に戻り、手探りで上着を探し当ててから。玄関へと向かっていた私の背中に声がかけられる。
    「朝日奈?」
     少し怪訝な色をしたそれに振り返れば、そこには不思議そうに首を傾げる笹塚さんの姿があった。今日の夕食の席に顔を見せなかったことから予想するに、食料を漁りにきたのだろうか。キッチンから出てきたばかりの眼差しが真っ直ぐに私を捉えた。
    「こんな時間にどこか行くのか」
    「えっと、実は部屋の電気が切れちゃいまして。予備もないようなので、ちょっとコンビニまでひとっ走りしてこようかと」
    「ふぅん」
     正直に理由を告げれば、あまり興味なさそうな相槌で返される。決して後ろめたいことがあるわけではないけれど、夜に抜け出そうとしているところを見つかったことに少しだけバツの悪さを覚えた。
    「じゃ、じゃあそういうこと――」
    「俺も行く」
    「……へ?」
     逃げるように今度こそ玄関から飛び出そうとするも、まさかの言葉が放たれる。呆気に取られたように目を丸くする私に対し、笹塚さんは迷うことなくこちらへと近づき、これまた迷うことなく玄関のドアノブに手をかけた。
    「食うもん、なにもなかった。コンビニならさすがに食い物くらいあるだろ」
    「……あ、あぁ。なるほど」
     もしかして心配してくれたのかな?なんて。期待しかけた私がバカだった。ただ単に彼もコンビニに用があるだけ。それ以上でも以下でもない。
     寮を抜け出し、夜の街を二人で歩く。もし、私たちが特別な関係だったのなら。この束の間のお出かけもデートと呼んで、ちょっと浮かれながら楽しめただろうか。……なんて、考えても仕方がないことだ。
     そもそもキスをする以外で、私たちの間で変わったことは何もない。相変わらず笹塚さんは作曲第一だし、必要がなければ会話すらしない日もあった。だからこそ、考えれば考えるほど分からなくなる。
     彼はなぜ私に触れるのか。そのタイミングも法則性があるようでなく、しいて言えば作曲が上手くいった後にちょっと多いかな?くらい。おそらくは作曲で昂った高揚を無意識に発散しようとしているのだろう。
    「静かだな」
     そんなことをつらつらと考えていると。数歩前を歩いていた彼が突然口を開いた。その声に急速に現実へと引き戻され、慌てて話を合わせようと頭をフル回転させる。
    「そ、そうですね。もう夜も遅――」
    「違う。あんたのこと」
     夜の街は昼と比べると何倍も静かだ。けれどだからこそ、いつもとは違った音が聞こえる。風が揺らす葉音に、アスファルトの歩道を靴裏が叩く音。もしかしたら星の瞬きさえも、彼の耳には音楽の一部に聞こえているのかも知れない。そう、思ったのに。
     私の同調をやんわりと振り払い、振り返った山吹色の瞳が私を捉える。手を伸ばしてもギリギリ届かなそうな二人の間の隙間を風に煽られた落ち葉が通り過ぎていく。転がる葉音は小さく、彼の紡ぐ声にかき消されてしまった。
    「いつもはもっとしゃべるだろ。なんでもないことを、バカみたい楽しそうに。あんたのそういう話を聞くのは嫌いじゃない。むしろ、割と好き」
     ……意外だった。私の話なんて、耳半分でほとんど聞いてやしないと思っていたのに。だって、反応なんて滅多にしないじゃないですか。だからほとんど独り言のつもりだったのに、このタイミングで好きとか……ずるくないですか?
    「……バカ、は言い過ぎじゃないですかね」
    「気に障った?悪い意味では言ってない。あと、後ろ歩かないでくれない?隣か、せめて前にして。気になる」
     照れ隠し半分で軽く口を尖らせるも、笹塚さんに悪びれた様子はない。それどころか私の歩き方に注文までつけてくる。後ろを歩かれると気になるってなんですか?武士かなにかですか?そう言ってやりたい気持ちをぐっと堪え、大股で一歩踏み出し、彼との間に空いていた距離を埋めた。
    「……いい曲、仕上がったんですか?」
    「あぁ。あんたにも後で聞かせる」
     悔しさはあるけれど、こうして隣を歩けるのが嬉しい私もいる。別に手を繋いだりはしないけど。出来立ての自信作を当たり前のように私にも聞かせてくれると言う彼の満足げな横顔を眺められるだけで。……十分な満たされてしまう私はとても単純なのかも知れない。

    「あれ。二人とも、こんな時間にデート?」
    「いえそんなっ!偶然!本当にたまたま電気が切れちゃいまして!予備もなくて!笹塚さんもお腹を空かせてて、それでちょっとコンビニに!ホントそれだけなんで!」
     寮に戻ると、ばったり仁科さんに出くわした。外から帰ってきた私たちを見つけ、軽く茶化すような笑みを浮かべる。その口から放たれたデートの一言に過敏に反応しすぎて、我ながら支離滅裂な言い訳を並べ立てた。
    「そうなんだ。それは災難だったね。でも、偶然とはいえ笹塚が一緒でよかったよ。こんな時間に女の子の一人歩きは危ないからね」
     仁科さんは私の挙動不審さを指摘することなく、すぐに労りの目を向けてくれる。どこかホッとしたようでもあるその顔には私の身を案じてくれる優しさが滲んだ。
    「はい!偶然ってすごいですよね!おかげで助かっちゃいました!笹塚さんがお腹を空かせててくれてよかったです!いやぁ~偶然様様ですよ~!」
    「……だってさ。偶然の護衛役、ご苦労様」
     なおも力いっぱい偶然を強調する私に。仁科さんはなにかを飲み込むように一瞬だけ目を伏せ、その視線を私の隣にいた笹塚さんへと向けた。労いの形をしたちょっと含みのあるその言葉に。感情の読み取れない山吹色の瞳が緩慢に瞬きをし、そして。
    「普通に、危なっかしいなって思ったけど」
     たった一言そう言うと、笹塚さんは何事もなかったように廊下の奥へと進む。その場に取り残された私は数秒呆けた後。
    「…………ほぇ?」
     それはそれは間抜けた声を漏らした。
     ……え、ちょっと待って。今の、どういう意味?
     もしかして、もしかすると。最初から、私の為についてきてくれたの?いやでもしっかり糖分も買い込んでたし、お腹が空いていたのも嘘ではない……と思うけど。
     ふと、後ろを歩くなと言った彼の言葉が蘇る。あの時はちょっと穿った受け取りかたをしてしまったけれど。……もしかしたら、あれも――。
    「さ、笹塚さん……!ちょっと待ってください……!」
     居てもたってもいられず、慌てて彼の後を追いかける。せめてお礼を言わなければ。その一心で各々の部屋がある棟へと繋がる廊下を曲がった、その瞬間。飛び込んできた光景に驚愕の声をあげた。
    「笹塚さん!そっち女子棟ですよ!?入ったら怒られちゃいますって!」
     てっきり自室に向かうのかと思いきや。彼はなぜか迷わず女子棟へと入っていく。それぞれの棟への異性の立ち入りは厳禁。見つかったら大目玉を食らうことになる。
    「だってあんた、それ、自分で替えられる?」
    「うっ……それは……イスとか机とか、とにかくなにかしらを駆使して、こう……!」
     私の決死の呼び止めに、一旦足は止めてくれたものの。彼の言う通り、私の背丈では蛍光灯には届かない。的確な指摘をされ、頼りない返事しかできない私に。
    「見張りなら仁科がしてる。ここでごちゃごちゃ言い合ってるほうが見つかるリスクが高くなると思うけど」
     笹塚さんはごもっともな正論を次々と放ち、再び女子棟の奥へと歩き出す。さらりと仁科さんの名前が出るも、そんなやり取りをしているようには見えなかった。けど、多分これは本当だ。その証拠に騒がしい私たちの後を仁科さんが追ってくる気配はない。
    「あぁぁぁ……もうっ」
     結局私が折れる他なく、戸惑いと葛藤に苛まれながら彼の後を追った。
    「……お手数おかけしました」
    「ん」
     結局彼に蛍光灯を替えてもらい、私の部屋には無事灯りが灯る。ありがたいよりも申し訳なさが勝り、恐縮しきる私に。笹塚さんは短い相槌だけを返し、何事もなかったように私の部屋のドアノブに手をかけた。
    「あっ!待ってください!せめてお礼を!」
     さすがにここまでしてもらったからには、なにかお返しをしなくては。そう思い、慌てて呼び止め、手に提げていた袋をがさがさと漁る。中には笹塚さんに釣られて買い込んだ糖分、もといお菓子がたっぷり入っていた。そのうちのひとつを引っ掴み、お礼代わりに受け取ってもらおうと思ったのだけど。
    「いい。間に合ってる。代わりに、こっち」
     するりと伸びてきた手が私の手を押しとどめ、反対の手が当然のように私の顎を持ち上げた。
     ……あ、くる。それだけの動作で、この後何が起こるのか即座に察して。気の早い鼓動が走り出し、くらりとした波に飲み込まれるように。もう何度目かも分からないキスを受け入れ、ぎゅ、と目を閉じた。
    「……せめて、灯りを消してからにして欲しかったです」
     わざわざ替えてもらっておいてなんだけど。何度唇を重ねても、慣れない余韻。まとわりつくような甘ったるいそれに抗うように、蚊の鳴くような声で呟くも。
    「なんで?それだと、あんたの顔がよく見えない」
     何も気にしていない堂々とした眼差しで突き返されて、再び近づいてくる吐息の気配に眩暈がしそう。
     ――早く戻らないと、仁科さんが困りますよ。
     そう、言いたいのは山々だけど。理性とは別の、本能が彼を求めてしまう。いけないことだと知りつつも振り払えない私は。自分が思っていたよりも、はしたない子なのかも知れない。

     それからまた少し経った頃。私が塔の練習室で演奏していると、ふらりと笹塚さんが現れた。
    「いい。続けて」
     何か用でもあるのかと手を止めかけるも、それを制止する声がバイオリンの音の隙間を縫うように響く。そしてそのまま椅子に腰かけ、ゆったりと目を閉じてしまった。
     続けろと言われたから、お言葉に甘えて練習に励むけど。……彼は一体何をしにここにきたのか。黒縁眼鏡のフレームの奥。閉じられた瞼は穏やかだけど、なんだかちょっと疲れているようにも見えた。そのせいだろうか。普段のちょっと近寄りがたい天才肌の雰囲気が窓の外の静かな夜に馴染むように薄れ、その寝顔は意外なほど無防備だった。
     一曲弾き終え、弦を下ろす。けれど彼が目を開ける気配はなく、そろりそろりとそばへと近寄る。声をかけてみるべきか、はたまた肩を揺すってみようか。でももし疲れているのだとしたら、このまま寝かせてあげた方がいい気もする。そんなことを考えながら、つい彼の顔を凝視してしまった。
     ほとんど無意識で、下心など微塵もなかったはずなのに。視線が吸い寄せられるように彼の口元を見てしまう。鼓動がクレッシェンドして、耳の奥でジンジンと響く。よくない衝動が疼き始めている気配を感じつつ、そっと彼の隣に腰かけた。
     真正面からではなく、真隣から。こうして彼の顔を眺める機会はそれなりにある。例えば出来立ての曲を試聴させてもらう時。彼は決まって私を隣に呼び寄せ、手づからヘッドフォンを被せてくれた。
     そうして彼の曲を聞いた後に、よく起こる出来事。といっても、ここ数ヶ月程度の話ではあるけれど。その記憶がただでさえドキドキしている鼓動を早めるように蘇り、無意識に体が傾く。起こしてしまわないように、そっと。彼のほうへと身を乗り出し、堂々と開かれた腿の間に手をついた。
     ……そういえば、いつも彼からしてくるばかりで。私からしたことはなかったな、なんて、頭の隅で考えた、その刹那。
    「っ、」
     急に。それこそ雷鳴に撃たれたかのように唐突に。衝動が覚め、ばっと勢いよく彼から距離を取るように立ち上がった。今、自分がなにをしようとしたのか。イヤと言うほど分かっているから、ひどくバツが悪い。
     触れてもいない唇が気恥ずかしい熱を持ち、心臓が口から飛び出そう。あれほど彼からのキスを不審がっておきながら、自分からしようとするなんて。身勝手にもほどがあり、穴があったら入りたい気分だ。彼が眠っていてくれてよかった。もし私のしようとしたことがバレてしまったら、なんて言い訳をしたらいいのか分からない。
     けれどそんな私の安堵は露と消える。完全に閉ざされているとばかり思っていた瞼が、おもむろに持ち上がったから。
    「なんだ、しないのか」
     微睡の気配を感じさせない、しっかりとした口調で。放たれたそれにギクリと心臓が跳ねた。山吹色の瞳が緩慢に私を射抜き、まるでなにもかも知っているかのように呟く。がっかり、とまではいかないけれど。拍子抜けしたかのような声色が、意地悪をするように私の鼓膜を撫でるものだから。
    「い、い、い、い、いつから起きてたんですか!?」
     動揺のあまり狭まった喉を無理やりこじ開ける。一体いつから。そればかりが頭の中をぐるぐると巡り、冷静な判断を削ぎ落していく。こんなもの、自らの行いを自白しているのも同じだ。それでも聞かずにはいられなかったそれに、笹塚さんはなおも悠々と答えた。
    「曲が止んだくらいから」
     つまり、ガッツリ起きてたってことですね!?……ああもう、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。いっそ今すぐ穴に埋めて欲しい。
     ……でも、待って。これっていい機会なんじゃない?私たちのこの不思議な関係を、彼が私にキスをする真意を。……聞き出せるとしたら、今かも知れない。
    「どうして……キスするんですか。普通順序が逆だと思うんです!まずはお付き合いを始めて、手を繋いだりとか、こう……!」
     前にも一度聞いたけど。あの時は私の意見をちゃんと伝えなかった。だから今度こそはと意気込んで、下手くそながらも言葉にしたのだけれど。
    「じゃあ、付き合う?俺は別に構わないけど」
     返ってきたのは、あまりにもあっさりとしたそれで。
     ――その瞬間、私の中でぷつりと何かが切れた。
    「笹塚さんのバカ!私の泣き顔が見られて満足ですか!?もう二度とキスなんかしません!」
     そして、気づけばそう叫んでいた。両目からはらはらと涙が零れ落ち、うっすらと靄がかかったように視界が霞む。笹塚さんの顔もよく見えず、彼が今、泣いている私を前に何を思うのか。それすら確かめず、バイオリンを抱えて練習室から飛び出した。
     一目散に階段を駆け下り、女子棟へと飛び込む寸前。
    「おっと。ごめん、コンミス。大丈夫だった?」
     偶然ぶつかったその人の服を藁にも縋る思いで掴んだ。
    「に~し~な~さぁ~~~ん!」
     比較的大人しかった涙腺が大暴れをし、今までの比じゃないくらいみっともなく泣きじゃくる。拭っても拭ってもキリがない涙を垂れ流す私に、仁科さんは驚いた顔をしつつも。こっそりと寮から抜け出し、散歩へと連れ出してくれた。この時間、まだラウンジには他の人もいるはずだから、気を使ってくれたのだろう。
    「それでですね、笹塚さんってばなんて言ったと思います!?」
     穏やかな夜にはおおよそ似つかわしくない、私の愚痴を。仁科さんは下手に慰めたり、遮ったりせずに。細やかな相槌を打ちながら聞いてくれる。今まで誰かに相談したくても、内容が内容だけに誰にも言えずにいたごちゃごちゃとしたものをいっぺんにぶちまけて、大分胸がスッとした。
    「そっか。……コンミスは笹塚が好きなんだね」
     そうしてすべてを吐き出しきった後。静かな夜風に紛れるように、大人びた横顔が呟いた。眩しいものを見つめるように柔らかく、それでいてちょっとだけ残念そうでもあるそれが意外なほど胸にすとん、と落ちて。
    「……そう、だと思います」
     ようやく、自分の気持ちの輪郭が見えた気がした。無意識に零れ落ちた本当の心が風に乗って耳に舞い戻ってくる。どうして今まで気が付かなかったのか不思議なくらい。それは私の中で密かに大きくなっていて、この夜空に輝く星々よりもキラキラしていた。
     ……好き、だから。理由のないキスが、感情の伴わないそれのためだけに付き合うと言われたことが。……寂しくて堪らなかった。だってそんなの、体目的と変わらないじゃないですか。そんな虚しいキスはもうたくさん。心が一緒でないのなら、唇を重ねることになんの意味もない。
     と言っても、彼が私に触れることはもう二度とないはずだ。だって、きっぱり拒否しちゃったし。あそこで未練がましく追いすがってくるような人じゃない。もっと言うと、彼にそんな真似をする理由もない。都合よく触れ合える相手がいなくなった程度の損失しかないのだろうから。

    ◆◆◆

     コンミスが部屋に戻っていくのを見送った後、俺は笹塚の部屋を訪ねた。ノックをするも応答がない。でもそんなのはいつものことで、遠慮なく扉を開け放てば探し主の部屋の中にいた。
    「コンミス、部屋に戻ったよ」
    「…………」
     手始めにコンミスの名前を口にするも……返事すら返ってきやしない。自分で泣かせておいて、心配すらしていなかったのか。笹塚は真剣な顔でタブレットと向き合い、こちらを振り返りもしなかった。
     ……作曲中か?あれ。でも今は特に仕事は入ってなかったはずなんだけど。……ま、作曲はあいつの一部みたいなもんだし、依頼のあるなしに関わらず、没頭しているのは珍しくない。
    「おまえさ、いくらなんでも言葉が足りな過ぎるだろ」
    「……あぁ」
    「せめて、思ってることくらい伝えてあげないと」
    「……ん」
     こいつが俺の言うことなんか聞くわけないと知った上で。それでも泣いていた彼女のために、一言言ってやろうと思ったんだけど……なしのつぶてだ。かろうじて相槌は返ってくるものの、まるで響いていない。これは聞いてないなって、すぐに分かった。
    「はぁ……ちゃんとコンミスに謝れよ。おやすみ」
     もう嫌というほど慣れきっている脱力感を引きずりながら、最後に一言だけ残して部屋を出る。……あの子もとんでもないやつを好きになったものだ。
    これはさすがに、ちょっと同情しちゃうよ、コンミス。

    ◆◆◆

     それからしばらく、笹塚さんとは口すらきかなかった。彼らの拠点は元々札幌だし、週末のスタオケの練習くらいでしか顔を合わせる機会はない。その時あえて話をしようとしなければ、こうも簡単に他人のような距離になれてしまうのだ。……悲しいことに。
    「ふぅ……今日はこのくらいにしておこうかな」
     誰でも入れる塔の練習室を避け、自室にこもってバイオリンを弾く。今の課題曲での問題点を自分なりに洗い、理想の形へと近づけていく。大分方向性が掴めてきたし、満足してバイオリンをケースへと閉まった。
     ……さて、熱中していたら小腹が空いてしまった。でも今の私にとって、この部屋を出てラウンジに行くのはある種の賭けでもある。……もしそこで、彼と鉢合わせでもしたら。脱兎のごとく逃げ出しかねないほど、今の私は臆病だった。
     ……けど、それでもいっか。どうせ追いかけてなんか来ないし、彼にとってはなんともないことだろうから。
     軽い自暴自棄になりながら部屋を出る。幸いキッチンにもラウンジにも誰もおらず、シンっと静まり返っていた。この隙にお腹を満たし、早いところ部屋に戻ろうとしていた、その時。
    「ひぃぁぁ!」
     突如後ろから、ずぼっとヘッドフォンを被せられる。驚きのあまりみっともない悲鳴を上げながら、弾かれたように振り返った。こんな真似をする人は一人しかいない。散々避けていたことも忘れ、なにするんですか!と声を荒げそうになるも。
     ――いいから。聞いて。
     ヘッドフォンをしているせいで声こそ聞こえなかったけど。形のいい唇がそう形どるのを目の当たりにし、ぶつけかけた言葉が喉の奥へと戻ってくる。間髪入れずに流れ始めた音楽は聞き覚えのないもので。不思議に思いつつも、その柔らかく繊細なメロディーに耳を澄ませた。
     泣いている子どもを慰めるように優しいのに、少しだけ臆病で。目を合わせないままそっと手を握られるような心地にさせられる。……『ごめん』と謝っているようにも聞こえるそれに、つい絆されてしまうそう。悔しいのに、無視できない。彼が何を思い、この曲を作ったのか。想像するだけで胸が甘苦しくなって、悲しいわけでもない泣きたくなった。
    「……すき」
     ゆっくりとヘッドフォンを外し、肺に息を送り込む。そうして紡ぎ出した音に、山吹色の瞳が微かな安堵を宿したのが見て取れた。
    「ん、そういう風に作った」
    「そうじゃなくて。……笹塚さんが、です」
     私の言葉が曲への感想だと思ったのか。満足げな瞳が薄く弧を描く。でも、そうじゃない。今の私の言葉は彼の曲ではなく、彼自身へと向けたものだ。
    「だから、もうキスはできません。ごめんなさい」
     失恋は覚悟の上。あの時は一方的に感情をぶつけて逃げ出してしまったけれど。今度は真っ直ぐに彼の目を見て、できるだけ誠実に向き合おうとした。
     好きだから、キスできない。
     これが私が導き出した答え。幾度となく味わってしまった温もりを忘れるのは難しいかも知れないけど。これ以上傷を増やさないために、線引きは必要だ。
    「なんで?」
    「なんでって……そりゃ……」
    「あんたの話じゃ、キスしない理由にはならないだろ」
     私なりに誠意をもって告げたのに、笹塚さんは不可解だと言わんばかりの表情で私の精一杯の告白を追求してくる。私の言った理由がまるで理解できていないその様子に、折角抑え込んでいた弱い心が顔を出しかけた。
    「好きっ、だから……笹塚さんが私のことを好きじゃないのなら、したく……ありません。……もう!こんなこと言わせないでくださいよ……!」
     結局、情けなく目に涙を浮かべて、切なさをぶつけるように声を絞り出す羽目になる。笹塚さんの感性が普通じゃないのは今に始まったことではないけれど。あんなに優しい曲が作れるのなら、私の気持ちくらい汲んでくれてもいいじゃないですか!
    「好きだけど」
     気を抜くと次から次へと文句を口にしかねない。必死に堪えて、涙をも押し殺す私に向かって。彼がさらりと言い放った一言に、……へ、と間抜けな声が漏れた。
    「誰……が、誰……を」
    「俺が、あんたを」
     ……今、なんて言いました?そう聞き返す代わりに唇から零れ落ちた掠れた問いに、彼は表情を変えずに答えてくる。……待って、これ、夢じゃない?誰でもいいから頬をつねって見て欲しい。
    「……好き、だから。……私にキスしたんですか?」
    「それ以外ある?それともあんたは誰とでもキスするわけ?」
    「そんなのっ!するわけないじゃないですか……!」
     脳を経由せず、心の中から直接言葉があふれ出たかのように。紡ぎ出す問いかけに涼やかな瞳が首を傾げた。夕焼けにも似た山吹色が、何かを確信したように距離を詰めてくる。私が背にしたキッチンのカウンターに手をついて、今となっては懐かしくすらある吐息が唇を掠めた。
    「それならそうと……最初から言ってくださいよっ」
    「あぁ、言ってなかったっけ。付き合うとか、正直どうでもいい。意味ある?いちいち関係に名前なんか付けて」
    「あります!ものすごーく!あります!少なくとも私はそういうの、ちゃんとしたい派です!」
    「そ。なら、その辺はあんたに合わせる」
     心臓がものすごくドキドキしてる。もう二度としないと豪語しておきながら、彼を求める鼓動が鳴りやまない。キスをする寸前にしては色気のないやり取りだけど、心は完全に彼に捕らわれかけている。
    「あ、あのっ!ちょっとまだ……心の準備が……」
     今までだって散々してきたけれど。両思いだと分かった瞬間、とてつもなく恥ずかしくなる。せめてもう少し猶予が欲しいと、迫る彼の体を押し返そうとするも。笹塚さんはそんな私の手を捕らえるように掴み、抵抗を奪った上で。
    「無理。待たない」
     そう言葉数少なく告げ、残り僅かな隙間を埋めた。
    「……は、……んっ」
     今まで交わしたキスの中で、最も切実な熱を孕んだそれに。あっという間に酸欠に追いやられ、重ねた唇の隙間からくぐもった声が漏れる。彼のコートをぎゅっと握りしめ、なんとか耐えようとするものの、そんな余裕すら根こそぎ奪い取られていく。
     ここがキッチンで、いつ誰かくるかも分からない場所だということも忘れるくらい。久しぶりのキスに溺れて、ぼんやりととろけていく意識の隅で。聞くことはないと思っていたファンファーレが高らかに鳴り響いた。

     色々あったけどなんとか丸く収まり、晴れて彼氏彼女と呼べる間柄になったわけだけど。それで何かが変わったかと聞かれると……正直何も。だって前々からキスはしていたし、それ以上の何かは早々起こらない。
     ちょっと物足りない気がしなくもないけれど、私の心臓のためを思えばこれくらいでいいのかも知れない。そう思い始めていた矢先。
    「唯。こっち来て」
     本当に何の前触れもなく。呼ばれた名前に目を丸くする。今まで名前で呼んだことなんてなかったのに。付き合い始めた途端に変えてくるものだから、心臓に悪い。うっかりときめいてしまったのがちょっとだけ悔しくて、少しだけ頬を膨らませながら私を呼んだその背に近づいた。
    「そーいう彼氏面の仕方するんですね」
     いつものようにPCに向かっていた視線が緩慢に振り返る。笹塚さんは私の素直じゃない嫌味にも眉ひとつ動かさず、さも当然のように口を開いた。
    「面、のつもりないけど。違った?」
     ついこの間、関係性の名前になんか興味がないと言ったその口で。予想よりもずっと堂々と言いきる様子に迷いはなく、真っ直ぐに私を射抜いてくる眼差しにぐうの音も出なくなった。
     ……こういうとこ、ずるいと思う。私ばかりがドキドキさせられている気がする。そういえば、彼は私のことを好きだとは言ってくれたけど。どこが、とかは聞くの忘れちゃったな。
    「そんなことより、これ」
    「あ、はい」
     笹塚さんはあっさりと視線を前へと戻し、イヤホンの片方を私に手渡す。いつもはヘッドフォンをひとつ丸ごと貸してくれるのだけど、今日は違うらしい。ちょっとだけ不思議に思いつつも、それほど深く気に留めず。促されるままにイヤホンを右耳へと装着した。
     流れるメロディは華やかな春の訪れを喜ぶように軽快で、真新しい蕾たちを祝福するような輝きで満ちている。こんなにも心揺さぶられる音が作れる彼はやっぱりすごい。
     心から尊敬し、その音に聞き惚れていると。ふと、視線だけでこちらを振り返った彼と目が合った。一組のイヤホンを半分こしているせいで、いつもより距離が近い。でもこの距離には既視感がある。それは彼と初めてキスをしたあの時。あの日も確か、こんな距離だった。
     そこからはもう、まるでそれが当然のことかのように。近づいてくる吐息を受け入れるように目を閉じる。恋人として交わすキスは、理由が不明瞭だった時のそれとは比べ物にならないくらい甘く感じられた。
    「……ん、やっぱいいな、あんた」
     キスの終わり際。互いの瞳に互いだけを映す距離で、満足げに弧を描く山吹色の瞳。ほのかに艶っぽい囁きが華やかな音楽の隙間を縫うように私の胸にまで届く。余韻を楽しむような指先がつっと伸びてきて、温もりを分け合ったばかりのそこをゆるりと撫でた。
     こんな表情も今まで見たことがなかった。これも恋人だからこそ許されたものかと思うと、喜びで胸が震える。終わったばかりのキスが恋しくなって、ついおねだりをしそうになった、その時。
    「この前の泣き顔もキレイだった」
     さらりと続いたその一言に、折角水に流した記憶が掘り起こされる。そういえばこの人、私の泣き顔を見たがっていたんだった。
    「最低!」
     人でなしのそれを思い出し、拗ねた顔で頬を膨らませてみたものの。何気なく混ぜ込まれた『キレイ』の一言のせいで、本気で怒るに怒れない。つくづく私は彼に甘いのだと、思い知らされただけだった。
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