橄欖之苑 第四幕「水軍の増設、沿海及び諸島における防壁と城砦の建設、烽火の連絡網の整備―」
書類を読み上げる上官の声が、次第に唸るような調子に変わっていく。机を挟んで後ろ手に立ち、俺はもどかしい気持ちでそれを聞いていた。声の主は松葉のような髯に覆われた顎に手を当て、その太い眉の間には今や険しい溝が刻まれている。
「……袁侍郎」
ややあって、目の前の人物――兵部尚書・趙彦は顔を上げた。虎や豹に似て丸みを帯びた、しかし鋭い光を宿した双眸は難儀そうに細まっている。
「貴殿の実績と才覚は、よく存じているし評価もしている。だが私の意見としては、優先すべきはやはり関寧方面の防備強化と軍の環境改善であると思う」
言い終わると同時に、趙尚書は執務机の上に書類をぽんと投げ出した。
「豹子頭」とでも言うべきか、趙尚書は講談に出てくる豪傑のようないかにも武張った風貌の持ち主だ。骨太で堂々とした体躯にまとわれて、官服もどこか窮屈そうに見えるのがおかしい。しかし猛将然としたその容貌のうちに、深い知性と理性が宿っていることを俺は良く知っていた。
彼の前職は山東巡撫、すなわち登莱巡撫の「隣人」であり、白蓮教の掃討など共同作戦を取ったこともある旧知だ。……それゆえに、期待していた所もあったのかもしれない。彼の態度から予想してはいたが、はっきり言葉にされると気が滅入った。
「そもそも、遼東方面の脅威は貴殿が退けたのではなかったか?」
趙尚書はそう言いながら、卓上の地図を人差し指で軽く叩く。執務机の一角には、筆架や硯とともに北辺の情勢を描いた地図が置かれていた。そこには地形と地名だけでなく、軍勢と守将の配置と数、現在の前線の位置等、様々な情報が書き込まれている。
現在、後金国、すなわち満州族との戦線は二つある。
一つは西方、長城の関門たる山海関と、その前哨基地である寧遠城を中心とした関寧戦線。
二つは東方の遼東戦線。渤海に突き出る遼東半島と、その背後に広がる遼寧の地を中心とした戦線だ。遼東半島は最近まで後金の支配下にあり、その対岸にある登莱は、侵攻のための軍事基地としての役割を果たしていた。登莱巡撫として俺は遼東に進撃し、半島を占拠する後金軍の駆逐に成功した。それは確かだが、前線は後退しただけで消滅したわけではないのだ。
「それもあくまで、一時的なことです。むしろ俺がいなくなった今、奴らは虎視眈々と再進の機をうかがっているでしょう。後任の巡撫や将らが失策を犯せば、また遼東が奪われかねません。ですから引き続き、沿海の防衛線の構築が必要なのです。必要なのは『英雄』などではないということですよ」
「つまり、個人の力量に拘わらず防衛線が機能する仕組みが必要、ということかね」
「ご明察の通りです」
趙尚書の言葉に俺は頷く。幸いなことに、その声にはさらなる注釈を求めるような響きがあった。まだ彼の気を変える余地があるかもしれないと思い、説明を続ける。
「関寧方面の防備を重んじられるのなら、なおさら遼東方面の充実に力を注ぐべきです。前線が分散すればそれだけ敵兵も分散し、西部戦線の負担も軽減されるでしょう。必要なのはいつどこから攻められても対応できる体制、すなわち前線の諸勢力の連携を可能にすることです。さらに申し上げれば、今我が国に必要なのは防衛ではなく反攻であると俺は考えています。ただ攻め込んできた蛮族を追い返すだけでなく、失地を奪い返してこそ、真に防衛が成ったと言えるでしょう」
「ふむ」
趙尚書は拳を口元に運び、思案する様子を見せた。一方、俺は息を詰めて上官の反応を窺う。彼は軍略に明るい。内容に賛同するかはともかく理解はしてくれるだろう。しかし彼から返ってきたのは、思いがけない返答だった。
「君の主張は分かった。だが実のところ……満州族への対応方針は、朝廷でもいまだ定まってはいないのだよ。和議を望む声も根強くある」
「和議?」
声に険が増したのが自分でもわかった。
「……だから、現状維持に留めておきたいということですか」
つまり遼東戦線の重要性を説いたところで、意味はなかったわけか。俺からすれば、和平なんて言語道断だ。物資や土地、奴らの狙いはそんな些細なものではないはずだ。思わず机に両腕を突き立て、身を乗り出した。
「お忘れですか。宋朝の御代、金国は開封を落としました。その後釜を名乗っているからには、奴らは順天府(みやこ)の征服まで視野に入れているでしょう。和平など意味はありません。二度と足を踏み入れる気も無くすくらいに、叩きのめすしかない」
俺は机上に置いた手のひらを握り締めて拳を作った。趙尚書は何も言わない。いくら彼が兵部尚書、または優れた将であるとはいえ、この宮中では彼も官僚機構の一部でしかなく、その一存で何かが変えられるわけでもない。それは俺もまた同様だ。しかしそれでも、抵抗の意思表示だけはしたかった。
「それに……貴方の前だから申し上げますが、正直俺は、この昇任に納得しておりません。いや、昇任とすら思っておりません。本来なら、登莱巡撫の地位に戻していただきたいくらいです」
「残念ながら、それは厳しいな。貴殿が呼び戻された理由は、遼東の危機が落ち着いたというだけではないのだよ」
趙尚書は机上で組み合わせた両手の親指をすり合わせ、再び唸るような声を上げた。いかにも気まずそうな様子に、嫌な予感しかしない。
「言いにくいことだが、朝廷には、貴殿に疑惑の眼を向ける者もいるのだ」
「…疑惑?」
俺は思わず眉を寄せる。全く身に覚えのない話だった。
「東江の、毛文龍という男がいるだろう」
趙尚書は、再び地図上に視線を据えてそう言った。東江とは、登莱にいた時に設置した軍鎮で、朝鮮国との国境に近い皮島に位置している。現在島の主として振る舞っている毛文龍はかつて後金軍により陥落した地域の官僚を務めていたが、任地を失って流浪の果てにこの島に独立勢力を築いていた。気性が荒く傲慢で御しがたい男ではあるが武勇に優れ、遼東では彼の連携にはずいぶん助けられたものだ。
「こちらには、奴に不信を抱く者が多くてな。兵糧や軍費を膳立てしてやったりと、君は随分あの男を買っていただろう?それが曲解されたようだ。奴のような者どもを私兵のように囲って、叛をなすのではないかとな」
「馬鹿馬鹿しい!」
さすがに腹が立ち、机に拳を打ち付けてしまった。趙尚書はその無礼を咎めることはなかったが、さすがに激昂しすぎたらしく、鎮静を促すように口元に指を当てた。
「俺はただ、適切な人材を適切に用いただけです。彼の軍は強力ですし、東江軍の存在は後金軍の西進を牽制するのに大いに役立ちます。確かに扱いづらい男ではありますが……」
「残念ながら、順天府に籠る官僚たちにそんな想像力はないのだよ」
趙尚書の返答は無慈悲だ。しかしそれは紛れもない現実だった。俺はせり上がってくる感情を封じ込めるように拳を握りしめる。門外漢の勝手な妄想で、三年かけて築いた防衛線は破壊されるわけか。考えるだけでうんざりする。
「なるほど、昇任とは体のいい口実、危険分子を都に呼び寄せて飼殺そうということですか。おまけに、見世物にして民の支持まで取り付けられると。実に賢いことですね」
怒る気力もなくなって、俺は額に手を当てる。登莱でいったい何のために戦ったのか。名声のためでは決してないが、守ろうとした国の現状を思うとただ虚しく思えてくる。
「誤解しないでくれ。貴殿が京師に呼び戻されたのは純粋に昇任のため、侍郎の職は帝が望んでお授けになったものだ。師を慕う気持ちを、今でもお持ちということだ」
趙尚書は幾分声音をやわらげ、不貞腐れている俺をなだめにかかった。だとしても、疑惑を封殺する意図もあったのだろう。腕を組み、俺は苦い顔で固く口をつぐむ。そうすることで、俺の立場は守られたかもしれないが、国はどうなる?
「袁侍郎」
沈黙を破ったのは、ふたたび趙尚書の声だった。彼は机上で指を組み、その上に顎を載せた。彼の様子からなにか風向きが変わった気がして、俺は姿勢を正す。
「君が登莱に赴任する前後で、朝廷の様子は大きく変わった。どういう意味か分かるな?」
「……『奴』の台頭ですか」
「その通り。奴が政権の中枢についてから、まともな人材は日の目を見られなくなった。運が悪ければ粛清され、運よく任にとどまっていても、人目を恐れ委縮するばかりだ。何せ奴は東廠を掌握して、朝廷どころか順天府の隅々まで監視の目を行き渡らせている。いつどこで難癖をつけられ、始末されるかわからん」
趙尚書は一呼吸置いて目を閉じる。再び瞼が上がった時、虎を思わせるその瞳の奥には、どこか剣呑な光が宿っていた。
「だが我々は、必ずや奴を排除する」
「我々?」
人目を気にしたものか、趙尚書はちらと部屋の入口の方を一瞥してから声を低めた。
「……今は良い頃合いだ。昨年、東林党が魏忠賢を弾劾する上奏を提出した。それが呼び水となって、同様の動きが相次いで起こっている。表立って指弾されて、奴も今は動きづらくなっているはずだ。奴に引導を渡すなら今が好機なのだ」
東林党の上奏が追い風となって、これまで抑圧されていた不満が一気に噴出したと言うことだろう。しかし、そんな簡単なことなのか?数の力があるとはいえ、帝にその乳母、そして東廠。奴の掌握しているものはあまりに多い。今の朝廷の事情には明るくないが、どうしても頭の隅に不安がこびりついていた。
「……しかし、危険ではありませんか?下手を打てば、御身が危ない」
「だが、行動を起こさねば何も変わらん。賛同者の数は多いし、私は命など惜しくない」
そういう問題ではない、と思った。魏忠賢は宦官を武装させ私兵のように使っていると聞く。敵視されたら最後、下手したら免職どころか命も危うい。そうすれば二度と改革など実らなくなる。今この朝廷に必要なのは彼のような人材であり、殉国の悲壮に酔いしれる事ではない。
「では、君はどうするつもりだ?」
「……俺は」
問い返され、一瞬言葉に詰まる。視線を落とし、その場しのぎの返答を返す。
「順天府に帰ってきたばかりで、まだ情勢が読めていません。少し考えようと思います」
我ながら幼稚な言い訳だ。だが今はそうして質問をかわすしかなかった。趙尚書はそれ以上何も追及せず、協力する気があるならいつでも声をかけてくれ、と言っただけで会話を打ち切った。それを最後に、俺は趙尚書のもとを後にした。
「くそっ!」
誰もいないのとをいいことに、俺は廊下の床を踏みつけながら吐き捨てた。
「何が侍郎だ、こんなもの」
官服の胸に施された孔雀の刺繍を握りしめる。三品官の栄誉どころか、まるで忌まわしい烙印だ。これなら、前線で戦に身を投じていた方が遥かにましだった。
……しかし嘆いても詮方ない。今やここが俺の戦場だ。
宦官党、東林党。前者につくのは論外だが、不用意に後者に加わるのもまた危険だと感じていた。危急存亡の秋だというのに、自らの身を守るので手一杯だ。薄氷の張った河上を行くようなこの場所で、なんとしても生き残らなければならない。
顎を持ち上げて、俺は立ちはだかる天命を睨み据えた。