橄欖之苑 第十二幕瞼を上げると、部屋はすでに薄暗くなっていた。視線だけ動かして、開け放った窓を伺う。まだ天は青みがかっており、そう遅い時間ではなさそうだ。机の上にある灯篭には、ほのかな明かりが揺れている。僕が寝てしまっている間、家人が火を入れておいてくれたのだろう。
少し疲れていたらしい。身体が重く、起き上がるのが億劫だ。腕を支えに体を起こす。寝台から降りて立ち上がろうとしたが、強いめまいに襲われて座り込んでしまう。
もう一度横たわると、目元を抑え、意識が定まるのを待つ。
…まただ。
ここの所、体が思い通りにならないことが増えてきた。こんなことに時間を使っている場合ではないというのに。机の上には、書きかけの上奏文が放置してある。
命には限りがあるというのに、為さねばならないことは限りなくある。だから、生き残らないといけなかった。歩む道の傍らに、どんなに血が流れようとも。どんなに骸が積み上げられようとも。
「……これでよかったんだ」
自分に言い聞かせるように、僕はそうつぶやいた。
ようやく調子を取り戻すと、慎重に立ち上がり、机の方に足を向けた。いつの間にか、天はもう真っ黒だ。机の前を通り過ぎ、その奥の壁沿いに作られた祭壇に向かう。そこには赤い布をかけた長机があり、中央には木の十字架と長方形の木箱、そしてその左右に燭台が二つ置いてある。僕は椅子を引き寄せると、手を伸ばし、箱を取りあげて膝に乗せた。
それに触れるのも久しぶりだった。思い出を懐かしむように蓋をなでる。
その中には、友の形見が入っていた。
それは葬儀に使った縄だった。
地図や共に訳した書物のように、輝かしい過去を象徴するようなものではないが、最後に自分と彼を繋いでいたものだ。だから今でも、これを手繰れば彼に通じている気がしていた。
……君がいてくれたら、何か違っていただろうか。
少なくとも、中華の風習に理解ある彼のやり方なら、今のように天主教や西洋人が敵視されることはなかったはずだった。彼の死後、耶蘇(イエズス)會は中華の風習と天主教の融和を否定するようになった。その結果社会と教会は溝を深めていき、応天府の大迫害のような事態すら招くことなった。それがなければ、改暦や洋式砲の導入だって…今より順調だったかもしれない。
しかし考えても仕方がない。彼はもうどこにもおらず、問うても答えは返ってこない。だから、僕がやるしかないんだ。
「大丈夫、心配いらないよ」
安心させるようにそう言って、箱の側面をぽんと叩いた。
「君から受け継いだものは、必ず実現させてみせる」
しかし実のところ、それは再び戦うための自己暗示のようなものだった。
何故こんなに心が騒ぐんだろう。覚悟はとうに決めたはずなのに。
「……君のせいだ」
その時僕の頭に浮かんでいたのは、懐かしい異国の友の顔ではない。
「君なんかと、出会ったから」
俯いて、箱を握る手に力を込める。それは、自分の居場所はここなのだと確認するのにも似た行為だった。
何故彼の手を取れなかったんだろう。
ひどい別れ方をしてしまったが、あの時の彼の発言は、自分を案じてと言うことは分かっていたし、それは契機で原因ではない。
ただ、怖かったのだ。
一つは、戦いに身を投じることがだ。
恐れているのは死そのものではなく、それによってあの人から受け継いだものが、失われてしまうことだった。互いの世界をつなげること。今の中華で、それを為せるのは自分しかいないのだ。
もう一つは、彼の手を取ること自体が怖かった。
焦竑先生や伝教士たちとはまた違って、彼は対等に信頼できる存在だった。口に出して確認することはなかったが、あの人と別れてから長らく忘れていた、友と呼べる存在だった。だから感謝はしているし、共にいると安心できたのも事実だった。
しかしその感情は、自分の中にかすかな隙間を生みだした。
時が経つうちに、その隙間を押し広げて、何かが顔を出してきそうで怖かった。
それは遠い昔に封じ込めたはずのものだった。
それが抜け出てきてしまえば、自分はきっと、前に進むことが出来なくなる。
彼の方は、多分それを望んでいるように思えた。
……だけどそれは、僕自身の望みではなかった。
「僕は僕だ。自分が正しいと決めた道を、進み続けるしかない」
迷いを断ち切るように、決意を口に出す。自分に残された時間が、あとどれくらいあるか分からない。だから一刻も無駄に出来ない。今出来ることをしなければ。
……でないと、あの日々の意味すら失われてしまうから。
君の望みを、受け入れることは出来ない。だからせめて。
「主よ」
僕は祭壇に向き直ると、指を組み、壁の先にある天を仰いだ。
「大明は、貴方に帰依する国ではありません。ですが、貴方のしもべがここにおります。どうか願いをお聞き届けください」
簡素な木の十字架は、灯籠の薄明かりを受けて壁に淡い影を落としている。今や遥かに昏(くら)い影に覆いつくされようとしている祖国のゆくえを、その影と戦うと言った友を思う。
「この国を、民を、侵略者や奸臣の魔の手からお守りください。正義のために戦う者たちに、ご加護をお与えください」