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    sshark_shrimpp

    @sshark_shrimpp

    フリートみたいな感じで、作業進捗ぽいぽい上げていきます。あとは基本的に突発的な落書き文です。
    反応されるとめっちゃ喜びます。
    作業進捗も落書きも基本的に読み直ししてなく、文章がひどいのでさらりと読んでくださいな。

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    sshark_shrimpp

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    了尊8月新刊書き出し!多分更に文章を直すような気がする。

    「……好きだ」
     街灯と月明りだけが辺りを照らす暗夜の公園に響いたその声は、まるで薄氷を踏んだ時に響く音のように微かだった。堪えていた物を吐き出すような声はいっそ痛々しいほど。
     彼はハッカー集団のトップであるというのに、その声音には尊大さなど微塵も感じさせない。
     鼓膜を震わせた声に、穂村尊は薄藤色の瞳を大きく見開き、静かに息を吸いこむ。極限まで開かれた当惑する瞳には数歩ほど距離を取った場所で対峙する男の姿が映っていた。
     その男こそ、先程尊に対して、突拍子もないことを告げてきた、男だった。
     アイリス色のブイネックTシャツの上に、ライトグレイのテーラードジャケットを羽織り、鈍色のストレートパンツをすらりと着こなす。シンプルな服は、パッと見ただけでも素材の高品質さをうかがわせた。合理さを突き詰める男にひどく似合いの装いは、却って男の顔立ちの良さを引き立てていた。
     到底、大学生のバイト代ごときで賄えるような額の服ではないだろう。尊が着ているファストファッションブランドのパーカーとジーンズパンツとはあまりにかけ離れている。
     そんな自分とは住む世界が異なるような男が、突拍子もなく、とんでもないことを言うものだから、尊は咄嗟に反応が出来なかったのだ。
     面食らって思考が止まるということはこういうことなのか。動かすことが出来たのは、せいぜい瞼くらいで、それ以外の身体の部位は凍り付いたみたいに動いてもくれそうにない。
     戸惑う尊とは対照的に、相対する男はと言えば、その端正な顔立ちを僅かにも動かさない。いつも通りの澄ました、大人びた冷静な表情のまま、尊を見つめているだけだ。
     声はあれほどにまで憂いを帯びていたのに、立ち姿は凛としている。
     そのちぐはぐさに、尊は先程の言葉が聞き間違いだったのではないかと、勘違いしてしまいそうだった。
    (ええっと……、僕、今、こいつに告白、された?)
     そんな疑念を抱きながら再度、男、鴻上了見を窺い見ても、やはり視線の先では顔色一つ変わることもない。
     尊は生まれてこのかた彼女が出来たことも告白されたこともなかったが、少なくともこの現状にはどことなく違和感があった。漫画で時々見るような、愛の告白というのは、どのシーンだってこうも冷静には行われなかったはずだ。
     だからと言って、男は冗談や嘘の類を口にしたわけではないようで、アイスブルーの瞳は揺らぐこともなく、ただ一直線に射抜くように尊を見つめてきている。睨むわけでもなければ、杳として見るわけでもない。ただ視線を向けて然るべきとでもいうかのように、彼の視線は尊に向いている。
     その真摯な視線に、いっそう尊の脳内は益々混乱を極めた。
     冗談だよね、とは言い難い張り詰めた緊張感が漂っている。ピリピリと肌が震えるほどの息苦しさが極限を迎えたのか何だか笑えてきて、尊の口元は引き攣ってしまう。
    (まさか、話がしたいって言うのがこんなことだったなんて)
     数年ぶりに会った男の口から紡がれた言葉を静かに咀嚼するように、尊はただじっと彼を眺めていた。
     そう、この鴻上了見とまみえるのは数年ぶりのことだ。
     人間とAIの未来の存亡をかけたLinkVrainsでのあの諍いから早数年が経っている。尊は大学生になり、そして、再び一人でDenCityに移り住んでいた。
     元々、尊は進学を希望していたわけではない。寧ろ、今まで祖父母に迷惑をかけてきたこともあり、高校卒業後はすぐにでも地元で働くつもりだった。しかし、それを遠慮と受け取ったのか、祖父母は大学進学を勧めてきたのだ。
     学費のことや自分たちのことは気にしなくていい。大学に行けば将来の選択肢も広がるだろうから。
     そんな祖父母の言葉に背中を押され、それなら受験くらいはしておくかと、軽い気持ちで大学試験に臨んだところ、運よく合格。結果として、今では大学生活を謳歌するようになった。
     さすがに、今でも祖父母からの仕送りを頼りにするのは気が引けたため、近くの居酒屋でアルバイトをしているが、それ以外の生活は高校時代と大きく変わらない。
     気ままな一人暮らし。不霊夢がデュエルディスクにいたあの頃に比べ、少しばかり静かな日常ではあるが。
     高校時代に世話になった面子、特に藤木遊作や草薙翔一らとは定期的に顔を合わせている。Cafe Nagiに臨時店員として駆り出されることも時折あるほどだ。
     そんな充実した毎日を過ごす大学生の尊のスマートフォンに、突如として、メールが届いた。
     送り主は不明。見たことのないメールアドレスは尊の連絡先に登録されていないものだった。
     尊は自他ともに認めるくらいには、機械関係に明るくない。以前、見たこともないウェブサイトの名称が記載されており、法外な金銭を要求するメールが届いた時には、遊作にどうすれば良いのかと助けを求めたほどである。
     その時、遊作は少し呆れた様子で、あの手の類のメールは無視しても構わないものだということを教えてくれた。多分、今回も同じ系統の物だろう。
     とはいえ、内容が気にならないわけではない。
     遊作から「開いてはいけない」と注意を受けた添付ファイルがないことを確認し、尊は恐々とメールを開いた。
     現れたのは、思った以上に白い画面だった。ぱちりと瞬いた尊の目に、端的な文字だけが移り込む。
    【穂村尊。お前と会って話がしたい】
    「……へ?」
     表示されている文章を見て、あんぐりと開いた口の中からは狼狽の声が溢れた。文章の内容もさることながら、驚いたのは、メール本文の最後に書かれていた差出人と思しき相手の名前だ。
    ――鴻上了見。
     かつて、LinkVrains内にて尊と一戦を交えた相手、リボルバーの本名である。
     何度か瞬いてみるが、画面上に表示される名前は変化することがない。そこには間違いなく、あの男の名前が映し出されている。
    (何で、こいつからメール? しかも、会って話がしたいって……)
     率直に、疑問符が尊の頭の中を埋め尽くした。
     彼とは、仲が良い友人関係だった、というわけでもない。
     寧ろ、鴻上は元々敵対していた関係である。何よりも、彼の父親は尊にとって忘れ難い過去、ロスト事件の首謀者だ。
     関係性は良好とは言い難い。
     そんな彼がどういったわけで、連絡を入れてきたというのだろう。そもそも、どこで尊の連絡先を知ったと言うのか。尊から教えたことなど無論ない。
     頭を捻ってみるものの、あの男が会って話したいとする内容を含め、尊にはこれっぽっちも相手の意図が予想できなかった。いっそ、これもまた迷惑メールの一種だろうかとも考えたが、あの男の本名が明確に書かれている以上、そうとも判断し難い。
    (……何で、あいつが僕にメールなんて寄越すんだ……?)
     散々思い悩んでみるが、幾ら考えても答えは出ない。結局、導き出されたのは深い溜息だけで、ならばいっそのこと、彼に会ってみようと尊は決意したのだった。
     了承を告げる旨と、どこに行けばいいかと返信を打てば、暫くして彼から日時と場所を指定するメールが届いた。
    ――⚫︎⚫︎公園に、夜十二時に。
     そこは尊が現在住んでいるアパートから少し歩いたところにある、遊具が少しあるだけの小さな公園だ。
     非常識な時間の指定ではあったが、アルバイトに勤しんでいる身としては逆にありがたい。ちょうどその日は十一時半過ぎまでシフトが入っている。アルバイトを終え、そのまま帰宅途中にその公園に向かえばいいかと考え、尊は承諾を返した。
     そうして訪れた当日である、今日。
     指定された公園は大通りから一本外れた場所にある。近くを通ることはあっても、実際にその場所に尊が立ち寄ったことは一度もない。時間帯も相俟って、尊が辿り着いた時には閑寂とした闇が広がっていた。学校の校庭の半分ほどもない敷地を取り囲むように設置された街灯の明かりがひっそりと辺りを照らしている。目に付くのは、錆び付いたブランコと小さめの滑り台一台だけ。
     そんな滑り台近くにあるベンチに、浅く腰かけている人の姿が見えた。宵闇にひどく映える、銀色の髪。尊を呼び出した鴻上了見、その人であった。
     降り注ぐ街灯のぼんやりとした明かりに照らされるその姿はまるでスポットライトに当てられているかのようだ。光に晒されていることもあり、彼の横顔は鮮明に捉えることが出来た。ひどく真剣に正面を向くその顔はいっそ思い詰めているかのようにさえ思える。
     彼の周りに人の姿はないことから、どうやら一人きりでこの公園にやってきたらしいことは窺えた。辺りには寂然さが漂っていた。
     鴻上、と尊が声をかけるのと、彼が振り向いたのは、どちらが早かっただろう。ガラス玉のように透き通った、無機質な白銅色が尊を静かに捉えた。数年ぶりに見る、男の顔は以前に見た時と大差ない。ほっそりとした輪郭におさまる、切れ長の大きな瞳と、すっと伸びた鼻筋、薄い唇。男はすれ違う人の目を縫い付けてしまうような、彫刻にも劣らぬ整った目鼻立ちをしている。そして、纏うどこか憂いを帯びたような雰囲気がいっそうその男の顔立ちの良さを増長させていた。
     文句の付け所があるとすれば、表情の変化が乏しいところだろうか。それも、落ち着き払っていると言い換えることが出来、長所にさえなるのだからいっそたちが悪い。相変わらず、嫌味なほどに顔が良い男だ。
     すっとベンチから腰を上げて立ちあがった鴻上は眉間に皺を刻んだ難しい表情をしたまま、尊へと近付いてくる。その沈痛そうな面持ちに尊は久しぶりの挨拶さえ口にすることが憚られていた。
    ――久しぶりだな。足を運んでもらい、感謝する。
     抑揚のない淡々とした声が、夜の公園に低く響く。会って話がしたいと言った割に、明るい表情一つ男は見せない。何と返せばよいか凡そ判断もつかず、答えあぐねるように曖昧に頷いた尊の耳に届いたのが、先程の告白の言葉だった。
    ――好きだ。
     鴻上は、確実にそう言った。
     数日前の尊自身、夢にも思うまい。
     目の前の男が言った言葉を脳内で反芻する。しかし、幾度反芻したところで、その意図を読み解くことが出来ない。
     ちかちかと時折点灯する電灯の頼りない明かりに照らされる男の姿は平然としている。だからこそ、尊は対応に困った様子で他人行儀な微苦笑と共に目を細めながら小首を傾げて見せたのだ。
    「ええと、ごめん。その、好きって、一体どういう意味?」
    「……お前に好意を向けている」
     説明を求められたことが居心地悪いとでも言うように、鴻上は唇を歪めながらそう言った。声量は先程同様に微かなものであるが、その声は確実に尊の鼓膜を揺らす。
     自分が思い描いていた内容と一致した事実に尊は内心信じがたい気持ちでいっぱいだった。心臓が変なリズムで跳ねた。
     どうやら、勘違いでもなければ、聞き間違いでもなく、確かに目の前の男に告白されたらしい。愛の言葉をぶつけられたのは、聞き間違いでもなければ、夢幻でもないようだ。
     じわじわと脳裏で意図を噛み砕くにつれ、驚きは徐々に形を変えていく。
    (……困ったなあ)
     尊が率直に抱いた感想は喜悦からは程遠い位置にあるものだった。好意を向けられている事実に対し、素直に喜べないのは戸惑いの方が大きいためだ。
     何故、自分を好きだと言うのだろう。その疑念が頭を埋め尽くす。
     何せ、直情的な尊とは対照的に、目の前にいるこの男は冷静沈着で感情に振り回されることもない。まさしく、氷炭相容れずの存在だ。
     厭われているかもしれないとさえ思っていた、そんな相手ですらある。
     それが一体どうして、告白などされているのだろう。
     まさに寝耳に水の状態という他ない。
     そして、当惑したのは、驚愕に心が塗り潰されたこと以外にも理由はあった。
     正直なところを言えば、尊は何を考えているのか理解出来ないこの男があまり得意ではなかった。
     元々、敵対していた立場にあるこの男について、尊は深く知らない。尊が持ち得ている鴻上了見という男の情報と言えば、名前、性別、父親、アバター名……、その程度だろうか。好物は何か、趣味は何か、嫌いなものは何か。友人であれば一通り答えることが出来るであろう内容も、尊には難しい。
     逆に言えば、この男も同様であるはず。ろくに尊のことを知る機会などなかったはずだ。
     だからこそ、一体、自分のどこに惹かれたというのか、尊には皆目見当もつかなかった。
     とはいえ、この男が軽薄な輩ではないことくらい、尊は知っている。鴻上はまるで鋼のような存在だ。柔軟に己を変えることが出来ればもっと生きやすいだろうに、それでもこの男の芯が曲がることはない。生きづらいほどに不器用な愚直さを持ったこの男が、詰まらない冗談で告白してきたとは到底思いがたい。
     尊自身、理解出来ないものの、尊の何かしらがこの男の琴線に触れ、その心を揺らしたのだろう。『好きだ』と、思うことが出来るほどには。
     一方で、尊の心は彼からのそんな好意に追いついてはいなかった。同じ気持ちを返すことは疎か、寧ろ受け止めることすら難しい。
     その言葉を拒絶する算段を立てる方向へと心は動き出していた。
     どんな言葉を選べば、傷付けずに済むだろう。
     目の前の男ほどさほどよくもない頭をフル回転して言葉の辞書を探る。
     この男が多少苦手ではあるものの、嫌いというわけではなく、手酷く振って傷付けて、貶めたい気持ちもない。この男の好意を弄ぶ気持ちなど露ほどもなかった。
     だからこそ、波風を立てることなく穏便に終わらせようと、そう思って口を開きかけた矢先、ふと、尊は男の頼りない視線に気づいた。揺らぐことのない鋼のようだと思っていた瞳が僅かに揺れている。まるで、その瞳は迷子になった子どものように心許ない。
    (……こいつも、緊張してるんだ)
     人間味のない、どこか機械じみたような男だと思っていた。しかし、なんてことはない。この男も、ただの人。自分と変わりなどない。
     何より、まるでピアノ線がぴんと張り詰めているような緊張感を漂わせるその姿に、何だか酷く可哀想だと思えた。この男に強い芯があることは、知っている。
     それこそ、尊自身が揺らぎそうになる時でさえ、しっかりと自らの足で立つことが出来る強さがある。そんな男に対し、憐れむなどおかしな話だ。
     しかし、その全身から絶え間なく滲む緊張感のせいもあってか、鴻上が薄い硝子のように脆く崩れてしまいそうに思えた。
     そんな姿を見て、尊の中で少しだけ興味が湧いた。
     きっと、想いを返す、とは違うのだろう。受け入れることが出来ているかすらも怪しいのだ。
     ただ、このまま、にべもなく断ってしまえば、それで、全て終わりになるのは、ひどく勿体ないような気がした。
     鴻上のことを、尊は何も知らない。
     彼がどういう気持ちを抱いたのかも、どういう思考で告白してきたのかも。
     一欠片とて、理解していないのだ。
     だからこそ、知りたいと、そんな興味がじわりと腹の奥に湧いた。
     何も知らない、この男のことを。
     尊は口蓋へと上り詰めていた否定の言葉を飲み込んで、一呼吸置くと、微かに顎を縦に揺らしたのだった。
    「……いいよ」
     僕も好きだ、と嘯くことは出来なかったが、承諾を謳う声は、自分でも驚くほどにあっさりと姿を現した。
     恋人になるという選択肢に、躊躇いはなかった。寧ろ、この男を知りたいと、そう思う気持ちの方が強い。
     そんな風に、躓くこともなくさらりと承諾を口にした尊とは対照的に、鴻上のくすんだ空色の瞳が僅かに揺れる。
    「……は?」
     転がり落ちた、戸惑うような声。長い睫が数度上下に震えている。幾度かの瞬きの後、息を呑んだように鴻上の動きは固まっていた。まるで予期していなかったとでもいう態度がどことなく他人事みたいで尊は目を峙てた。
    「恋人になっても良いよって、言ってるんだよ。好きだって、そういう意味で言ってきたんだろうし……。聞き返すなよ」
     ツンと唇を尖らせて早口で吐き捨てるように尊は口にする。可愛げのない態度だったかもしれないが、それでも彼を受け入れた事実がじわじわと羞恥心となって燻り出すのだ。仕方ないだろう。
     そわそわと落ち着きがなくなる尊とは対照的に、鴻上は「そう、か」と一言だけぎこちなく頷くだけだった。これではどちらが告白してきたかわかったものではない。
     やはり、尊にはこの目の前の男が何を考えているのか、意図を掴むことが出来ないようだ。
    「じゃあ、今日から僕とお前は恋人ってことで」
    「……ああ
     まるで他人事のような鴻上の返事の後、互いに無言になる。
     既に、時間は夜中の1時近くになっていた。
     それ以上会話が続くような素振りもなかったため、尊はその場に立つ鴻上に別れの言葉を告げ、帰路へと着いたのだった。
     アパートの入口の扉の鍵を開けた後、蝶番が錆び付いて硬くなった扉を押し開けた。家の中に入ったところで、一度は落ち着いたはずの感情がじくじくと再燃しだす。
     その場で落ち着いて立っていることも出来ず、尊は急かされるように靴を脱ぎ捨てた。足早に部屋へと続く廊下を走る。
     ここは築三十年の安アパート。普段であれば薄い壁から足音が隣に響くことを気にするのに、焦燥心に包まれる今、配慮する余裕などはなかった。
     少しばかり雑然とした1K。
     持っていたカバンとパーカーを、近くの座卓に添えられた椅子の上に放り投げる。その後、尊は壁際に設置されたベッドの上へと吸い寄せられるように仰向けになって倒れ込んだ。
     目に入ってくる代わり映えのない白い天井。その光景を瞼に焼き付けながら尊は呆然と何度か瞬きを繰り返していた。
    ――鴻上了見から、告白された。
     怒涛の展開に直面した脳みそがまだうまく働いていない気がする。未だに信じがたい現状に、徐に手を自らの頬へと伸ばすと、尊はその柔らかな表面を静かに抓った。
    「っ……」
     加減など考えずに力を込めたせいか、抓り上げた頬に鋭利な痛みが走って思わず小さく悲鳴を漏らす。慌てて手を離した後でも、鈍い痛みは確かに存在していた。
     やはり、これは現実らしい。バーチャルでも、嘘でも、夢でもなく、れっきとした現実だ。
     初めて、恋人が出来た。しかも、相手は、鴻上了見。あの、男。
     脳内で繰り返す言葉によって、漸く事態をしっかりと把握し始める。
     先程は勢いで切り出してしまったが、よくよく考えてみればとんでもないことなのかもしれない。
     何せ、あの、鴻上了見だ。
     気取って澄ましていて、恋愛なんて爪先ほども興味がないと思っていそうな、そんないけ好かない男。
     そんな男から好かれている。好きだと、言われた。そして、恋人に、なった。
    「わ、わぁ……」
     燃料剤に着火したかのように、尊の頬は一瞬で熱を孕んだ。皮膚の奥でじくじくと熱くなっている。
     身悶えるように寝返りを打って、尊は枕へと顔を埋めながらシーツを引っ掻くように強く握りしめた。
     じわじわとこそばゆいような、擽ったいような思いが心臓を引っ掻く。
     しかし、現状を理解するにつれ、どこか塞ぎ込むような想いが僅かに生まれた。それは、水面に墨を落としたようにじわりと尊の心の中でじわじわと広がっていく。苦味にも似たその感情は、きっと後ろめたさに近い薄暗さだろう。
     同じ思いを鴻上に返すことは出来ていないのにも関わらず、交際を受け入れたことに対し、今更ながらに自責の念が積もり出す。
     鴻上と同じだけの「好き」を返すことなど、到底出来ないだろう。何せ、現状では、鴻上の存在は尊にとって知り合い程度でしかない。
     本当に交際をしてよかったのだろうか。やはり断るべきだったのではないだろうか。
     今更になって、様々な考えが浮かんでは消えてを繰り返す。
     ぐるぐると洗濯機のようにこんがらがる思考の渦中へと飲まれていくところで、突如として、中央に置かれた座卓の方からカタカタと何かが震える音がした。
     音は一定のリズムで何度か響く。その音に導かれるように、尊は徐に枕から顔を上げた。
     視線の先、椅子の上にかかっているパーカーのポケットの中で、小さな光が点滅しているのが見えた。
     そこにはスマートフォンを入れていたはずだ。すぐに明滅は止んだため、メールか何かのメッセージが届いたのだろう。
     既にそこそこに遅い時間帯だというのに、一体、こんな時間に誰からの着信だろうか。機械音痴かつ連絡不精の尊に高頻度で連絡を取り合うような関係の相手はいない。もしや、急を要するバイト先や大学からの休講の連絡だろうか。
     のそのそとベッドの上から起き上がった尊はポケットの中に入ったままのスマートフォンへと手を伸ばした。
     画面を立ち上げれば、メールが一通届いている。差出人の名前はない。しかし、一見、スパムメールとすら思えるほどの不規則な文字列のメールアドレスには既視感があった。
     そうだ、このアドレスの主は先程まで会っていた相手、鴻上了見だ。
    「何で、あいつ……」
     一体、どうしたというのだろう。今し方会っていたばかりだというのに、何か連絡をする必要などあるのか。
     忘れ物はしていない。対峙するなり、告白されたのだ。何かを取り出す暇もあの時はなかった。
     では、尊と別れた後に何かに気付いたとでも言うのだろうか。
     幾ら考えてもピンとくる理由が思い浮かばなかった。
     暗澹たる闇のような果てない困惑に包まれたまま、尊はメールを開く。
    【無事帰宅できただろうか】
     メール本文に並んでいた言葉は、ただ、その一文だけだった。たった、それだけ。
     何気ない言葉なのに、心臓が掴まれたような心地になった。
     心配されている。それだけは、嫌でも思い知らされた。
     きっと、知り合いとしての配慮もあったのかもしれない。しかし、きっとそれだけではないはずだ。
     何せ、尊と鴻上は、今、恋人同士なのだから。
     酸素に触れた使い捨てカイロのように胸の奥がじわじわと暖かくなって、むずかゆい気持ちになってくる。心を蝕んでいた暗い気持ちが淡雪のように僅かに溶けていくような気がした。
    「……っ」
     同情と言われれば、そうでしかない。その感情に否定は出来ない。やはり冷静になったところで、恋愛感情が鴻上に対してあるとはお世辞にも言い難いのだ。
     だが、嫌悪感や不快感は思ったよりもなかった。生理的に無理だとか、微塵も考えられないだとか、そんな厭わしさはまるでない。
     だからこそ、もう少しこのまま様子を見てみようと、そう思った。今はまだ無理でも、もしかしたら、いずれ鴻上と同じ思いを返せるようになる日が来るかもしれない。
     仮にも、やはり付き合っていて、もう駄目だと感じたならば、その時にしっかり鴻上に告げて終わらせればいい。それが、きっと、真剣に向き合ってくれた鴻上へ対する誠意だ。
    「……うん、そうしよう」
     次々と波のように押し寄せてくる悔恨の念や後ろめたさを振り払うように尊は自分に言い聞かせた。返信画面に【大丈夫。ありがと】と、ひどく素っ気無い文字を打ちこむ。なんだか、本当に恋人みたいなことをしていると思って、胸の辺りが少しだけ擽ったくなったような気がした。
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