闇夜と唄 ルチアーノの心の最奥には、いつも熱風が吹いている。父と母を消し去った熱風が。
「何か」が焼け焦げていく臭いと、巨大な建物が積み木のように簡単に、しかし轟音を伴ってくず折れてゆく光景を、はっきりと覚えている。
いない、どこにもいない、手を握ってくれていた人たちはどこにも。
指と指が離れていく感覚は、意識の奥深く、あの風が吹いているのと同じところにこびりついていた。
あれは、ルチアーノ自身の記憶ではないのに。ルチアーノがルチアーノであるために、機械の身体に埋め込まれた最も重要なパーツ、それがアポリアの記憶だった。それなのに、風はたまにルチアーノの心を削るように吹くから、機械の胸は血を流すように痛むのだ。
熱い風の幻から逃れるように、ルチアーノは真夜中のベッドから抜け出した。脚部のユニットを装着するのも面倒で、生身を模した素足のままで、部屋の外へ出る。どこへ行くあても無かったけれど、呑まれそうな闇に誘われるまま、通路の奥へ奥へと歩いた。
こういう時、風が止むのを待つしかないことを、ルチアーノは理解していた。それ以外の方法は知らなかった。
一人分の足音が響くごとに胸が痛む気がして、立ち止まって、ルチアーノは自分の左手と右手を繋いでみた。小さな手が頼りなく握り返してくる。求めていた感触は、ここには無い。心さえ、夜闇の色に塗り込められてしまったような気分だった。
その時、ルチアーノの視界に突然光がさした。黒い画用紙にさっと白い絵の具が流し込まれたような、そんな光は、数メートル前方の扉から漏れていた。光の中から長髪の人影が現れ、そのままどこかへ歩み去っていく。ルチアーノは、咄嗟にその後を負っていた。通路に響く足音が二人分になって、夜闇は少し薄れたように思えた。
長髪の人影──パラドックスを追いかけて辿り着いた先は、小さな給湯室だった。こんな所にこんな設備があったなんて、ルチアーノは今まで知らなかった。そっと覗き込むと、金の瞳にすぐ気づかれた。周囲の静寂を気遣うように、低い声はひそやかに言う。
「消灯時間は、とうに過ぎているのではないかね」
しゅうしゅうと湯が沸く音がする。
「それを言うなら、アンタだって起きてる」
「問題は山積している、眠るには惜しいのだよ。何か飲むかね」
頷いてしばらく待つと、微かな甘い香りとともに、パラドックスが真っ白なマグカップを差し出してきた。受け取って覗き込めば、中身まで真っ白で、ルチアーノの神も好むというホットミルクが、表面から湯気を立てながらそこにあった。
唇と接した液体は温かく、つくりものの味がする。記憶の中にも同じ白があったけれど、それとは全く違う。牛という動物はもうずっと前に絶えてしまっていて、その乳の味と匂いと色を真似ただけの飲み物。本物をいれてくれたのは誰だっただろう、そうだ、母だ──この記憶もルチアーノのものではなく、アポリアのものだけれど。
「ニセモノじゃん」
ルチアーノが投げ捨てるように呟いた言葉は、パラドックスの耳にも届いたようだった。
「仕方あるまい、我らに他の動物を生かす余裕はないのだから。しかし、現に私達の腹を満たしているのは『ニセモノ』の方ではないかね。決して無為ではなかろう」
「お説教とか、聞きたくないんだけど。それに回りくどい」
ルチアーノが今度は投げつけるように言えば、パラドックスは少し呆れたように、けれど微かに笑って言った。
「夜に余計なことは考えるなということだ。それを飲んだら、キミも早く寝たまえ」
パラドックスはそう言い置いて、マグカップ片手に給湯室を出て行こうとする。気付けば、ルチアーノは彼の空いた片手を掴んでいた。通路の闇に溶けようとしていた後ろ姿が足を止める。
握った手は、やはり父のものでも母のものでもなかったけれど、ルチアーノには存外悪くないように思えた。
⭐︎
結局、握った手をどうしたかったのか。部屋に戻り、ベッドの中で睡魔を待つ今も、ルチアーノにはわからなかった。ただ、その手を解かれたくはないと思っていた。
引き留めた挙句、用件も言わずに黙っているルチアーノに、パラドックスは当初戸惑っていたようだったけれど、ルチアーノの手を引いて歩き始めた。そうしてルチアーノは、自身の部屋まで連れてこられ、ベッドに寝かされ、今は瞼が重くなるに任せている。
パラドックスは、ベッドのそばの椅子に腰掛けて、明るさを落とした端末を見ている。どうやらルチアーノを寝かしつけるつもりのようだ。それが、ルチアーノの答えなき要求に対して、パラドックスが出した回答らしかった。パラドックスのそういう態度が、自分の子供じみた部分をいっそう強調しているようで、ルチアーノは少し不服でもある。
そんな不服も、睡魔の中に少しずつ溶けていく。瞼を持ち上げるのが難しくなってきた頃、眠りに落ちる直前のルチアーノの耳が、微かな歌声を捉えた。
翼もつものたち
果てより来たりて
とわの歴史をながめる
人が去りしかの地には
竜がすまう
詩を紡いでいるのは、パラドックスの声だった。子守唄のつもりか、或いは手持ち無沙汰になって歌っているのだろうか。どちらにせよ、この歌は子守唄ではないと、ルチアーノは知っていた。
夢を見た。
熱い風の夢。或いはそれは、ルチアーノの中の記憶の再演であった。
また、握った手が離れていくのだろうか。背後に砲門が向けられるのを感じる、それでも抗う術はない。次の瞬間には、熱線が大地を焼いていくだろう。
しかし、その時は来なかった。熱線のかわりに、夜の空気を纏った涼やかな歌が聞こえてくる。空には竜が遊び、舞い降りた翼が機械の兵団を遮った。
風は、いつの間にか止んでいた。
翌朝、ルチアーノが目を覚ますと、パラドックスは床に転がっていた。それに気づかず、ベッドから降りがてら踏みつけそうになって、ルチアーノはぎょっとした。しばらくはそのまま寝かせておくことにして、ルチアーノは部屋を出た。
朝の光を模した電灯の下、ルチアーノは、昨晩パラドックスと出会った給湯室へ歩いていく。風が止んだと思ったのは、夢の中だけだったようで、心の奥底を覗き込めば、まだ熱く苦しい記憶はそこにあった。昨晩ほどに胸が騒ぐことはないけれど。
翼よ翼よ
時を忘れてどこまでも
竜よ竜よ
まことの祈りを運んでおくれ
眠る前に聞いた歌を反芻する。ルチアーノにも聞き覚えがあるのは、幼い日のアポリアが見た、映画の主題歌だったからだ。やはり、ほんとうの子守唄ではない。
給湯室につき、湯を沸かす。寝起きのコーヒーでも淹れてやるつもりだ。コーヒーと言っても、それもほんとうの豆ではないけれど。
でも、ニセモノでもいいのかもな、とルチアーノは思い直した。ルチアーノの心の最奥には、いつも熱風が吹いている。それが少し弱まった気がするのは、荒れた心の表面を、あの歌が撫でてくれているような気がするからだ。
終