そんな貴方を好きになった 随分前に離婚してから頭に恋愛の二文字はなかった。仕事でそんな余裕がなかったというのも事実だが、何より既に二度失敗を重ねている渡瀬には己の恋人が満足できるほど構ってやれる自信がなかった。
みたび自分を愛してくれた者を傷つけてしまうかもしれないという思いもあって、渡瀬は初めに告白を受けた時にかなり口酸っぱく忠告した。しかし暖簾の腕押しとでもいうように「でしょうね」とだけ返されて終わった。ついでに「ワタクシはそういう貴方に惚れたのでお気になさらなくても結構ですよ」と言われて言葉に詰まった。
結局変わったことといえば連絡先を交換したことぐらいだった。
「はい、お返ししますよ。ありがとうございました」
「……ああ」
携帯を手渡しながらそう言ってきた尾上は、ふと渡瀬の顔を覗き込む。
「どうかしましたか」
「…いや、何でもない」
動揺を誤魔化すように頭を振って尾上に視線を移す。
「…何をしてる?」
「はい?ああ、いえ、何でも」
尾上が携帯の画面を見ながら忍び笑いを漏らしていたので訊ねると、楽しそうにはぐらかされた。
この男は一体、何が欲しいのだろうか。
隣に座る男の横顔を眺めながら渡瀬は心の中で呟く。
今日は古手川とは別行動だったので、尾上と連絡を取って会うことになった。できるときでいいから二人の時間が欲しいと言ったのは尾上だった。それを了承しながら実現はあまりできず、会えたとしても何を話せばいいかわからない渡瀬の中には罪悪感が生まれはじめている。
「………」
今もまた何をしているのかといえば、ふたり無言でベンチに座って過ごしているだけだ。なるほど二人の時間といえばそうかもしれないが、これをデートとして楽しめるのは金婚式を迎えた夫婦ぐらいではないだろうか。
そんなことを思いながら尾上を見つめていた渡瀬は煩悶する。どういう訳か、この男はいつ見てもこのにやけ面を浮かべている。付き合う前だったら見ても不機嫌になるだけだったが、付き合ってからは逆にどうして笑っていられるのかが疑問になってきた。いつだったか、前にも同じような質問をして、そういう貴方を好きになったんですよと言われたことがある。それから幾度となく渡瀬は尾上に確認しようとしたが、自分が何もしていないくせに言うべきではないと思ってからは聞かなくなった。
そこまで考えた渡瀬は遅まきながら自分の失態に気づく。恋人と呼ばれる関係になって1ヶ月が過ぎたが、その間、渡瀬の方から何かアクションを起こしたことはなかった。尾上はそれについて何も言わなかった。
その理由は渡瀬には見当もつかない。しかしこの事実を受けた渡瀬は、ふたたびあの質問をしようとしていた。ただし、今回ははぐらかされないように、もっと踏み込んで聞かなければならない。
逸る心音を遮るように尾上の名前を呼ぶ。振り向いた尾上に渡瀬はぐいと顔を近づけた。
「俺に何をして欲しい」
「え」
気恥ずかしさを抑え込んで距離を無くす。一度こうと決めたら変えない一本気な性格は四半世紀経っても治らないらしい。それでもそんな渡瀬を好きになったという尾上ならば、受け入れてくれる可能性はある、かもしれない。
ベンチの上で面食らった顔の尾上と向かい合う。まるでこれから告白をするようだと渡瀬は思う。
「お前は…」
が、後の台詞が続かなかった。伝えたい事が、聞きたい事が、頭の中で渋滞しているのだ。
お前は俺に何をして欲しい。お前はどうして俺が好きなんだ。俺はお前に何ができる。あの日告白をしてきた日から、お前は俺といてどんな気持ちで過ごしていたんだろうか。
「………警部?」
目を合わせるだけでこんなに顔が熱くなると思わなかった。
本心をそのまま言わなければと思いながら、渡瀬はうまく言葉が紡げずにいた。紡げずにいながらも、何か行動は起こさなければという焦りに似た思いだけはあった。
不意に渡瀬はある方法を思いついた。かなり無謀に感じられるものだったが、このまま何も言えないでいつかのように終わってしまうのだけは避けたかった。
「……俺は」
呟いて、おもむろに尾上の後頭部に手を回した。その瞬間、手のひら越しに身体が緊張したのがわかった。その反応を見た途端に迷いが生じる。だが言わないということは嫌ではないということだ、と渡瀬は必死に念じて顔を寄せる。もうずっとしていなかったから、やりかたを忘れないうちにしてしまいたい。
(………嫌なら、逃げてくれ)
なぜか下唇のあたりに少し硬い感触を覚えたが、距離の近さにそれどころではなかった。
1秒にも満たない出来事だった。渡瀬はできるだけそっと唇を離す。結局尾上が抵抗するようなことはなかった。身体に触れた束の間は強張っていたが、特段突き飛ばされたり殴られるような事はなかったので安堵した。
すると距離を元に戻して見えた尾上の顔が真っ赤に染まっていて、思わず渡瀬は目を見開く。
「……何…どうしたんですか、急に」
衝撃が大きすぎたのか、いつもの敬語も崩れ気味だ。それはどういう意味なのかと渡瀬の顔もみるみるうちに紅潮するのがわかった。
「………俺は、お前とこういう事がしたい。お前は…どうなのかと、思った」
もう馬鹿正直に言うしかない。うなじのあたりに汗をかいている自分はそろそろ情けないだろうが、どうせこれから何度もするだろうと思って気に留めないことにした。
しばらく黙り込んでいた尾上は、やがて堪えきれないというようにいつものにやにや笑いをし始めて、そこでやっと渡瀬は尾上の笑みの真意を知る。
心底楽しそうな声で敵いませんね、と漏らしたのが聞こえた。その言葉の意味は、渡瀬には見当もつかない。
人は案外鈍感で、そして絶妙に楽観的だ。相手の行動や言動にいちいち反応してしまう癖に相手が伝えたいことは伝わらず、本心を晒すのが照れ臭いと「これなら伝わるだろう」と相手に期待を込めて言葉を投げてしまう。
ようやく顔の熱が引いてきたところで、尾上が渡瀬に問いかけた。
「失礼ですが、警部殿はキスが苦手なんでしょうかね?」
「あ?」
「あ、いえ。ただ先ほどのはどちらかというと、ワタクシの歯にされていたような気がしたものですから」