ボンボンサンド「梶さんが先に着いてるそうなので」
「おー」
「あんたそこ違う出口ですよ」
「おー……」
慣れない改札とありえないほど陰鬱な公務員・サラリーマン・フリーター・プータローたちの群れを通り過ぎたので俺は若干疲れていた。俺の目にはA1もB1も同じ出口に見えるのだが先導する弥鱈にはそうでないらしい。俺は気持ち小さい歩幅で歩いていた。目の前の黴色に変色した点字ブロックについていこうと思ったが、ほんの数メートルで行き止まりになった。
「もう駄目だ、箱入りすぎて点字ブロックにすら嫌われてるじゃないですか。俺はJR新宿駅にあなたを捨てます。バイバイ」
「責任持って連れてけや。テメーが提案したトリプルデートクソ新宿プランだろ」
「クソ言うなよ。あんたのカラオケ観覧車より千倍マシ」
二人の脚は高層ビルを縫うような人混みの中に紛れ、微かに聞こえているピアノの音を辿りながら近づいていった。十数人が金欠のコンサートをしていた。
「ほらいましたよ」
「ガチで?」
ガチで。そう頷いた弥鱈の視線の先には人垣────の中でスマホを両手で持っている────梶がいた。俺が一歩立ち止まると何かに反応したようにこちらを向いた。すぐに通話ボタンが表示された。俺は何か言おうとしたが、既に弥鱈が通話ボタンを押した後だった。
『悠助さん!巳虎さん!こんばんはーー!』
「はいこんばんは、寒い中待たせてすみませんね」
『僕もさっき来たからいいんですよ、急に人が増えて……』
なんとなくこれから起こる事を察知した。ピアニッシモの五和音が弾かれた。俺が不服の意を顔で示すと弥鱈に額を弾かれ、少しだけの痛みが響いた。数秒間梶と話した後、通話は終わったらしく弥鱈はこちらを見た。俺はわざと目を逸らして、イルミネーション越しのくすんだ夜空を見上げた。
「予約してたディナーショーまであと一時間あるんですよ。で、梶さんが暇つぶしを考えてくれました。『二人ともピアノ弾けるんですか!?なら連弾できますね!』」
俺は星の数を数えていた。一等星が三つしか見えなかった。新宿の星は少ない。
「ドッキリ大成功────とりあえず謝罪してあげます。すみません。でもできますよね?我々優秀なので」
「……練習なしでできるもんじゃねえだろ……」
「おお!俺に合わせられないと」
俺が弥鱈を睨みつけると、怠慢な冷笑で返された。冷たい風が頬をかすり弥鱈が巻いたマフラーが揺れる。
「じゃ、いいですよ。結構結構。梶さんと一緒に猫ふんじゃったでも弾いてきます」
「待てよ」
「待たない。観客はどれだけいても良いので」
「弾かせてイタダキますよ。平仮名より先に音符を覚えましたからね」
俺が梶の方を見やると、梶はこちらを見ていた。優しい微笑みにむず痒くなった。深くなり続ける夜はドームのように広がっていて、多分中心は梶だった。俺は頬をこすって緩んだ目尻を誤魔化した。弥鱈が急にピアノを弾こうとしているのもきっと梶のせいだろうと思った。(どうせ言わないだろうが)何かしら梶の感性に心動かされてわざわざ俺を連れて行く算段になったのだろう。
「何なら弾けンだよ」
「威風堂々」
「それ以外は?」
人混みは無秩序に中心のピアノへカメラを向けている。唇を数ミリだけ開けて静止した弥鱈の表情を見て、ふいにいじめっ子の気持ちになった。……否定も非難も出ず少しの沈黙が降りかかった。誰かが高層ビルへシャッターを押した。弥鱈が口を閉じて、荒れた唇の端を触って、流れる稚拙な転調だらけの曲の中で立っている男の顔を見つめた。
「────さあ。あんた弾けないんですか」
弥鱈は白い息を吐いて、人垣を見つめた。ピアノの周りに立っている人々は安っぽくて無知で傲岸でバカみたいだったが、そのバカの前に進んで晒されるための列に並んでいる俺たちが一番バカだった。俺は危うく自分を殺すところだったが、弥鱈のあってないような優しさによって難を逃れた。俺は街路樹に這うイルミネーションを遠目に見ながら言い訳のように呟いた。
「弾けるよ。ソロならガキの頃に弾いたっきりだけどな」
「なら差し上げますよ主旋律。『主』ってついてる言葉好きでしょ」
「当然」
「でしょうね」
楽譜、ソロと連弾だと違うんだけど。どうすんの。
さあ。
知りませんよ。
適当にやります、弥鱈はあつく白く息を吐いた。さっきよりも深かった。
その後列に並んでいた梶と合流して────したはいいものの────ねえあんたちょっと横入りやめてくんない、だなんだといざこざが起きかけた。立会人の社会や金持ちのハビタブルゾーンにいるせいだった。この中では僅差で梶が一番そいつのハビタブルゾーンに近かったので、進んで説得を行おうとした。至近距離にして約数十センチ俺の掌一つと少し、今日の梶は左分けの前髪になっていて俺の方からは少し見にくい表情だった。イルミネーションと高層ビルの境目が曖昧になっているのを見ていると、梶は話を止めて不意にこちらを振り返ってきた。
「僕もう外出てますね。すみません、ご迷惑おかけして」
最後の一文は確実にいざこざ相手へ向けられたものだった。過剰な謝罪は梶の花だ。俺がそいつの顔をちらと見ると静かに値踏みの目線が上から下で向けられた、一応相手が折れたらしかった。梶は列から外れてピアノを取り囲む有象無象の中へ潜っていった。俺は人垣の中の梶を探そうとした。何人もの対の目が俺たちそのものを見ていた。何も感じず何も躊躇わない目つきには何か共感できるものがあったが、俺は、それらを見て、掌が湿るのを感じた。真冬の底であるのに眼前で火花が照っているように熱かった。
ただ場所が違うだけだった。
でも訳知り顔のタキシードと裂けたようなドレスの紳士淑女に審査されるのと、数千円のダウンと仕事帰りの鬱屈を封じ込めている人々に審査されるのとでは何もかも違った。能輪でも天才でもないゼロの視点で見られるのは心底認めがたいものだった。俺は掌の汗を拭って、何も気にしていないかのようにスマホを開いた。威風堂々と打ち込むタイプはいつもより遅かった。
(皮肉だ)
心のなかで思うことすらも不義理だと思った。それはかっこつけたかった両方の相手への────虚栄心だ、と思っていたのかもしれない。俺は産まれた家のせいで高潔すぎた、罪悪感の言い訳問答をしようとしている間にも順番は近づいてきた。薄いラズベリー色の手袋をした少女が指だけむき出しにしてラとミとドの音を弾いた。ピンク髪に憧れる子供向けの、アニメのテーマソング。鼓膜の縁を滑って流れていくだけの曲が冷たかった。梶の視線の向きを見ないようにしながら向こうの弥鱈を覗いた。こっちを見るなよと思ったが、なんと向こうは喋りかけてきた。ピアノの動画はとっくに終わっていた。
「あんた緊張してます」
「してねえわ、バカ」
「バカ言わない。バカポイントが溜まったらお義父さんに言いつけますからね」
「バカバカ」
「はい今ので30点。残り20点ですよ」
「バカ」
19、苦笑いしながらつぶやかれた数字は少し爽やかに聞こえた。有象無象の向こうで梶が手を振っていて、なんでこんな距離で振るのかなぁと思ったけれども、思うより先にぎこちなく手首が上がってしまっていて、バツが悪くて、俺は仕方なく手を振った。梶が笑った。振り返されて当たり前という笑顔だった。ダウンから見える指先も頬も、咲き始めた桃の花みたいな柔らかさだった。俺はその顔のあどけなさが面白くて、少し笑った。
「俺抜きでいちゃつかないでくれます?その手を折りますよ」
「手首の運動してるだけだよ」
「目立ちたがりめ。俺だって手を振れますよ」
弥鱈も手首から上を使って手を振った。振る、より振り回す、のほうが正しそうだった。梶はもっと笑った。楽しそうに笑うから、俺の心臓にに流れていた素早い血流もだんだん弛緩していくようだった。ふいに梶がカメラを向けた。
「ほらポーズとって」
「は?」
「いやいやいやアドリブ無理」
「そういうとこありますよねバカ」
「バカって言った!」
「バカはバカ」
梶がさん、に、いち、と指を作って、俺たちは間に合わなかったようなポーズで写真を撮った。弥鱈は突き上げるようなピースサインを顔の横に作っていた。笑顔はなかったが普段より柔らかい瞳をしていた。俺はただ惨めだった。修学旅行の中学生でももっと気の利いた顔ができるのに。今は恥ずかしい気持ちが浮いていた。曲がりかけのピースを引っ込めるほど感じの悪いことは俺の中でない。弥鱈が俺のふくらはぎを、小さく蹴る仕草をした。
「左手君頑張ってください」
その後はただ並ぶだけの時間だった。老婆の押し車や中年の油っぽい肌に俺の心臓はうるさかったが唇を噛むたびに弥鱈がバカポイント(奇妙だ)を数えだしたので、そのじゃれ合いに参加するのに忙しくて気にする暇もなかった。弥鱈とはずっとこうしていられた。梶がいたらどんなにいいかと思った。
「ほら次ですよ」
少女が満足気に最後の和音を弾いた。叩きつけるような打鍵が終わらない内に椅子から飛び降りて、満面の笑みを浮かべる親に抱きついて去っていった。あと一組。俺たちはその次だった。前にいた男────さっき割り込みだなんだといちゃもんを付けてきた男────が低めの椅子に座り、寸刻前までいちゃついていた白ファーコートの少女にスマホを渡した。弥鱈は静かに眉を潜めた。
「あいつ、絶対にハンガリー舞曲とか弾きますよ。それかヴィヴァルディ」
掌を曲げ伸ばししてメインパートの動きを確認する。そうしながら弥鱈の囁き声に返事を返す。
「偏見が過ぎるよ」
「当たりますよ。俺はいじめっ子が考えることみんな分かるんです」
「お前がいじめっ子だから?」
「ええ。あなたはただのナード」
「ハンカチを持ってないことに感謝しろよ」
あんた馬鹿ですね、梶さんの前で恥かきたいんですか?囁き声に重なるように曲が始まった、弥鱈の予想通りヴィヴァルディだった。あまりに、……なので一瞬何の曲か分からなかったがどうやら四季を弾こうとしているらしかった。
「ほーら」
「梶に聞かせるべきじゃない」
俺がメインパートの最終確認をしている間、弥鱈はぼんやりと人垣を眺めていた。スマホはもうポケットへ戻したようで、白くて高い頬骨にイルミネーションが白く光っていた。俺は両手首を一周させたあとスマホの電源を落とした。同時に男は半音外した。俺の隈が意図せず微かに痙攣した。掌と指の付け根が湿るのを感じた。弥鱈が骨のある手で俺の背中を叩いた。
「あれより酷い演奏したら、あとの10バカポイントすっ飛ばしてお義父さんに言いますから」
「うるせっ」
しばらく俺たちの間には沈黙が漂っていたが、前の演奏が終わりに近づくにつれてお互い目配せをしあったり、こちらを見ていない梶を見て無言の善性を期待したりした。結局梶は演奏中一回もこちらを見なかった。あの演奏を直視しないことを喜ぶべきだと弥鱈は囁いた。俺は返事をしなかった。
「ペダル」
「ご自由に」
「俺のアドリブ任せか?」
「『主』旋律なんだからあなたが頑張ってください。そうだ、一緒の椅子に座りたくないので立って弾きましょう。二人のケツ幅に合わせたら特注サイズが必要ですから」
「バカ」
「9」
弥鱈は人差し指で太ももをつついていた。瞼の裏に浮かぶ鍵盤を弾いているようだった。
最後の音が弾かれ、弥鱈が大きく息を吐いた。
……………………
…………
……
「いやっもうすごくて!!もうほんとあんなに綺麗な音低くても出せるんだーって!僕びっくりしました!!」
目の前のポワソンが冷めることよりかは梶の褒め言葉活用一覧のほうが重要だったので、俺は肘をつきながら満足そうに頷いていた。意地に忠実な弥鱈は食べる手を休めながら俺への賛辞を聞き流し、自分の順番が来るのを待っていた。
「そうだろうそうだろう、俺はピアノ弾けるからな…!」
俺が微笑むと弥鱈が口角を下げた。自分の手柄のように言いよって……という顔だったので当然ですがという顔で流した。当然ぶる仕草は立会人の十八番だ。タラのステーキを切り取りながら……ま、俺天才なんでね……緊張とかしたことないかも……という顔をしていたら弥鱈がナイフを斜めに突き出した。硬い照明の下で銀食器はよく光った。
「ですよねえ。巳虎さんはメインパートでしたし、途中で盛大なアレンジも加えてきましたしさぞご緊張されたかと思いますがその当たりいかがでしたかねえ」
「あはははいやあ弥鱈君の演奏も素晴らしかったですよホントにねもう見物人たちみんな割れんばかりの拍手と言うか歓声というか」
双方の脚を嫌味に蹴り合う、いつものピリついた会話に戻ったところで梶が俺たちを交互に見た。成人男性にしてはちょっと愛嬌が有り余る姿だった。梶は蓮の花のような微笑みを浮かべたあと、この空間をぼんやりと見た。
「すっごくよかったです」
俺たちの嫌味合戦が止まって、むず痒い空気が三人の間に流れた。……それを解消するように梶の唇が開くのを、二人ともなんとなく予感していた。
「────やっぱ仲いいですよ二人!!」
「「よくないっ」」
おわり